何しろもうずいぶんと前のことで あらためて考え直すのも今さら
いまだ残るその違和感は川で掬い上げた一粒の砂金に似ている
放っておけばきっとひそやかに何事もなく忘れてしまう
ただそのまま川に流してしまうにはあまりにも
(小林大吾『砂金』)
という具合で久々に更新だけれど、少し書き漏らしていた映画のことを書いておかなければ、何事も無く忘れてしまいそうだ。
まずは12/3の新文芸坐でのペドロ・アルモドバルオールナイト。
客の入りは半分以下といったところ。
どの監督のオールナイトの客の入りが良いのかが全く解らない。
リンチはガラガラに違いないと思っていたら立見も出ていて、今回は結構多いだろうと思っていたらガラガラだったり。
『ライブ・フレッシュ』
たしかこの作品でアルモドバルは長篇映画作家として有名になったように記憶していたけれど、今までこの作品を観たことがなかった。
原作つきということだけれど、どこを切ってもアルモドバル色があふれ出していて、よかった。
それでいて、原作つきということでいいこともあって、それはつまり、まとまっているということ。
交叉する男女の人間模様は巧みに描かれていて、それでいてねっとりとしている。
とてもよかった。
そういえば、エレナがテレビで映画を観ているシーンがあって、その作品がルイス・ブニュエルの『アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生』だったので「おお!」と思った。
この作品は最近観たのだけれど、男に引きずられたマネキンから足だけずり落ちるシーンがとても衝撃的で、それでいてどこかフェティッシュな、印象的な場面だった。そして、その場面がまさに引用されていて、ああ、そういえば、この人形を焼き捨てるようなフェティッシュさは、少し『トーク・トゥ・ハー』の寝たきりのアリシアの美しさに通じるところがあるのかもしれない、と思った。
そういえば、『トーク・トゥ・ハー』でもベニグノが観るサイレント映画は劇中劇として出てくるし、この『ライブ・フレッシュ』でも明らかに主人公が奔放な女性に振り回されるという構図は劇中劇として非常に重要さを持っている。ルイス・ブニュエルのこの作品を知っていなければ気が付かない伏線なのだけれど。
ひょっとしたら、アルモドバル作品にとって、劇中劇はとても重要な意味をもっているのでは、と今さらながらに気が付いて、好きな監督のつもりだったけれど、何も見ていなかったのだな、と反省もした。
『オール・アバウト・マイ・マザー』でも劇中劇として『欲望という名の列車』は重要な意味をもつわけだし。
アルモドバル色が鮮やかに出ていながらも、話はきっちりとまとまっている(ほかの作品がまとまっていないというのではなくて、なんというのだろう、きちんと収束していくというような意味ぐらいで)ので、初めてアルモドバルを観るという人にも薦められそうな気がした。
今となっては、『ボルベール』という傑作があるので、そちらを観れば十分なのだが、これと二本合わせて見ると、ペネロペ・クルスの変貌に驚く。
最近映画館でコーエン兄弟の新作『ノーカントリー』(なにやら傑作の予感がしていた)の予告篇を観ていたら、どこかで見たことある男が殺し屋を演じていた。
どこで見たのだろうと思い出していたら、この作品のデイヴィッドを演じていたハビエル・バルデムだった。
いつものようにロビーには映画雑誌の切り抜きがあったのだけれど、その中の淀川長治の評が非常に興味深かった。
同じゲイということで、わかるところがあったのか、生き生きとしたその文体は思わず笑ってしまうほど楽しげだった。
それでいて、鋭いと思わせられたのは、アルモドバルは男を愛する女を男として撮っているというものだった。
つまり、アルモドバルは男としての目線でありながら、それでいて同調しているのは男を愛する女としての立場だろうということだろう。
これは確かに面白い指摘のような気がした。
その後のアルモドバル作品では、女性(元男性)だったりとか、ゲイだとかが出てきて、さらにその視点と対象は多様になっていき、鮮やかさも増すのだけれど、この作品の時点でしっかりと指摘している淀川長治というのは、凄いなあと思った。
これはきっと、彼自身もゲイだから、というだけの読みの深さではないのだろう。
―お前は僕の青春を奪った
―お前はクララを奪った
―彼女は誰にも奪えない
―青春も誰にも奪えない
(『ライブ・フレッシュ』)
『オール・アバウト・マイ・マザー』
やっぱり良い。結局私が一番好きなアルモドバル作品はこれかもしれない。
しみじみと、何度も見返したくなる作品だ。
どの女性も魅力的に描かれているけれど、アグラードが一番好きだ。
『トーク・トゥ・ハー』
以前観たときとまるで違った印象を受けた。
以前よりもベニグノが人間臭く思えたし、マルコが優しく見えた。
不思議なものだ。
最近この作品についてある女性と話したのだけれど、彼女は女性がこの作品の中で感情移入する対象はベニグノなのではないか、と言っていたのが興味深かった。
『バッド・エデュケーション』
これは公開時に観てがっかりしたから、観ないで帰ってもよかったのだけれど、何か違って観えるかと思ったが、やはり詰まらなかった。
どうにもこの作品のよさが解らない。
続いて、最近12/22に観たオゾンの新作『エンジェル』について
観たのはシャンテ・シネ。
最初はなんだこれ、と思ったけれど、オゾン作品を観るのが久しぶりだったものだから、これがオゾン作品だってことを思い出したら、腑に落ちた。
『ぼくを葬る』とか撮ってるものだから、オゾン作品がどういうものかって少し忘れていたのかもしれない。
そう、これは結局オゾンが得意な「悪趣味」と「意地悪」に充ちた、オゾンらしい作品だったのだ。
オゾン初の英語劇だとか、時代が現代じゃないとか、そういう設定に知らず知らずのうちに、どこか「大作」めいたものという先入観を持ってしまっていたのだろう。
なんのことはない、基本的な構造は『ホームドラマ』と同じなのだ。
『ホームドラマ』がシットコムのパロディであるのに大して、この作品が昔のハリウッド映画みたいな恋愛映画的なものを対象としているという点が違うにすぎない。
それがちょっと解りにくいのは、『ホームドラマ』は解りやすくパロディにしていたのに対して、この作品は茶化しているのか本気なのか、ちょっとわかりにくいところで、寧ろそれが両立しているような意地悪さがあって、これはこれで非常にオゾンらしい気がしてきた。
それにしても、シャーロット・ランプリングの迫力はとてもよいし、過剰な演技をきちんと過剰に演技している新人のロモーラ・ガロイもオゾンの期待にきっちりと応えているように思った。
あんな役を本気で演じられるなんて、いいね。
どんな役柄であろうと全力で演じている豊川悦司に対して感じるのと同じような好感を持つ。
ただ、この作品をはじめて観て、楽しめるかというと、少し難しい気がしないでもない。
過剰な点は過剰なのだから、それ自体面白いと思うし笑ってもよいと私は思うのだけれど、残念なことに、この描写が現在の日本という文脈では、過剰じゃなくなってしまっているのだから、ともすれば平板なものにしか見得なくなってしまう恐れもあると思うからだ。
田舎の女性が、有名作家になって、社交界デビューして、貴族の息子と結婚して、なんてあまりに典型的なサクセスストーリーをかなり意地悪く描いているのだけれど、この典型的な、ある種の陳腐さが陳腐さとして受け取られないような文脈が今の日本にはある気もするからだ。
しばらくこの作品が本気なのか、と思ってしまった私もやはり、この文脈からは自由ではないのだな、と思って少し反省した。
オゾンファンにとっては、くっくっと意地悪く笑える久々のオゾン悪趣味満載の作品だったように思う。
ただ、一般受けするかといえば、それは怪しいといわざるを得ず、公開してまだ一ヶ月もたっていない週末の夜というのに、客の入りはガラガラだった。
次回作が観られるかどうか、少し不安でもある。
投稿者 huggy : 23:26 | archives
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.mensura-zoili.com/mt5/mt-tb.cgi/706

