映画に誘われたので、珍しく複数人で映画を観に行った。
観る作品は『それでもボクはやってない』だったのだが、監督にインタビューしたことの有る方や司法修習生の方と共に観て、話を聞くことができたという点では、理想的な環境での観賞ということになるだろう。
そして私はこれから『それでもボクはやってない』の感想を書こうとしているわけだが、私は法律よりも映画についての方が詳しいので、映画として観た感想を書こうと思う。
『それでもボクはやってない』
「これは裁判官ですね」とKはすぐ言おうとした。しかしさしあたってはまだ言葉を控えて、細部をよく見ようとでもしているかのように、その絵に歩みよった。椅子の背の中程にある大きな像が、何をあらわしたものかわからなかったので、画家に聞いてみた。もう少し手を加えなくちゃあならないんです、と画家は答えて小机からパステルを一本取り出し、その像のふちを少しなすったが、さりとてKにとっては別にその像がはっきりしてくるわけでもなかった。
「これは正義の女神です」と画家が最後に言った。
「それでわかりましたよ」とKは言い、「ここに目かくしの布があるし、これが秤だ。でもかかとに翼がはえていて、飛んでいるところじゃないんですか?」
「ええ」と画家は言い、「たのまれたんでこうかかなくちゃならなかったのです。これは正義の女神と勝利の女神とをいっしょにしたものです」
「あまりうまい取り合わせじゃありませんね」とKはほほえみながら言い、「正義の女神はじっとしていなくちゃなりません。さもないと秤がゆれて、正しい判決ができなくなってしまいますよ」
「その点は依頼主の注文に従ったものなんです」と画家は言った。
(カフカ 『審判』)
私がこの映画を観たときに思ったのは、カフカの『審判』のようだ、ということである。ある日裁判に巻き込まれるヨーゼフ・K。彼には何の裁判なのかさっぱり解らず、日常生活の平穏は乱されてゆく。「不条理」と形容されることの多いカフカのこの長篇と似たような「不条理」さがこの映画にはあって、そして何より恐ろしいのは、これがディテールまで含めて現実に極めて近いように再現したということにある。
現実感の過剰と欠如という両極は一致するのであって、われわれが「夢のようだ」とよぶのはそのような状態にほかならない。
われわれは夢を見るという。こういう表現は正しくないので、われわれは夢のなかでは何も見ていない。見るとは「距離」をおくことだが、距離がないということが「夢の世界」の特徴なのである。しかし、われわれは目ざめたとたん距離をおいて「夢の世界」を見る、つまり外側からそれを見る。重要なことは、この見るというあり方が生きるというあり方とはまったく異なっているということである。
(柄谷行人 『夢の世界』)
われわれは漠然と夢の雰囲気をおぼえている。夢の世界は過酷なほど明瞭だということができるのはそのためである。カフカの小説を読んで「夢のようだ」と感じるのはそのためである。小説において曖昧朦朧とぼかされた場面や奇怪な幻想的な場面が少しも夢の雰囲気を与えないのは、われわれが「夢の世界」がどんなものかを知っており、すなわちそれがいわゆる夢や幻想とは異質の何かであることを経験的に知っているからだ。
(柄谷行人 『夢の世界』)
ロブ=グリエがいうように、カフカの小説に夢の雰囲気を与えているのは、事物の精細な描写と明瞭な現前性である。カフカは夢を書いたのではない。ただ「距離」を奪いとられた現実を書いたのである。
(柄谷行人 『夢の世界』)
机や椅子の大きさを測ってまで作られたというセットの細部は圧倒的なリアリティを持って迫ってくる。それは、例えば司法関係の人々がその再現度に驚く、といった次元を超えて、地裁を実際に見たことが無い人々に対しても、異様な説得力を持っている。これは例えば、テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』やティム・バートンの諸作品がディテールまで貫徹した世界観で作られており、その細部に異様な説得力をやどしているようなものなのかもしれない。
そしてまた、監督にインタビューした方から伺ったのだが、このセットではあえて天井を作っているのだそうだ。その目的は、観客に圧迫感を感じて欲しいからだそうで、無機質で何の装飾も施されていない殺風景な部屋は確かに強烈な圧迫感を持って観客に迫ってくる。
加えて、カメラワークが畳み掛けるように不安感と居心地の悪さを煽っている。この作品の中ではカメラは非常によく動く。よく動くと言っても、ハンディで目まぐるしく動くのでもなければ、カット数が多いわけでもない。裁判室の中をカメラがまるで浮遊するかのように、円を描いてゆっくりと動くのである。
時には加瀬亮を中心に、時には証人を中心に、カメラはゆっくりと円を描く。この無機質な室内にある全ての細部を見逃すまいとして動いているかのようであり、そこには何か執拗なものを感じる。
記憶が確かなら、この作品で主観としての一人称の映像は全く出てこなかったのではないだろうか。まるで登場人物と同一化することを拒むかのように、カメラは誰かの視点に重なることは決して無い。裁判官を眺める加瀬亮の視線とも重なり合わず、ラストで判決を読み上げる裁判官に近い場所から加瀬亮を捕らえたカットも、裁判官の後頭部が映りこんでいる。
それどころか、登場人物同士の視線が交わることも、まるで避けられているかのように少ない。証言台に立った人々は、度々弁護人や検察席に向かって話そうとするが、その度に裁判官の方へ顔を向けて証言する事を強いられる。被害者の少女は間仕切りによって視線から遮断される。加瀬亮と検察や裁判官とのやりとりにおいても、かれらはスクリーンの中心にいることは少なく、まるで映りこんでしまったかのように端のほうに位置していることも多い。
観客はこの執拗にゆっくりとフェティッシュに動き回る、居心地の悪いカメラの位置に置かれながら、迫りくる天井と壁に圧迫感を煽られる。感情移入を拒むかのように、同一化されない視点。そしてまた、遮られ続ける視線。
これらによってわれわれは距離を奪い取られる。そしてまた、異様な迫力を持ったディテールによっても。
『華氏911』や『ボーリング・フォー・コロンバイン』などでも言われたことだが、この映画に対しても、「劇映画というよりは啓蒙映画のようだ」「映画として成立しているのか」と云った評があるらしい。
現実を変えることが芸術の本質であり、そうでないものは芸術に値しない、と言う意見には私は異を唱えたい。
しかしまた一方で、現実を変えようとしている映画に対して無下に「映画でない」と言うこともしたくない。
芸術は幅広いものであって、こうでなくてはならない、と定義した瞬間に失われるものが確実にあるのではないだろうか。
私はこの映画は距離を奪い去っている効果をうまく用いているという点で、紛れもなく映画、それも劇映画であると思う。
そしてまた、恐ろしいことに、この映画は綿密な取材に基づいて作られている。
われわれはこの映画を観終わり、劇場の外に出た後も、いったん距離をおいて「外側から」見ることなどできはしないのである。その点で、この劇映画は同時に、現実世界を侵食しているものでもある。
「現実」そのものと地続きになっているこの映画を、外側から「見る」ことが不可能だとしたら、われわれはこの映画を、地続きになっている「現実」を、いかに「生きる」べきだろうか。
投稿者 huggy : 23:59 | archives
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