いささか食傷気味ではあるが、亀田騒動について、自分の考えを整理する意味でも、もう少し書いてみたい。考えがきちんとまとまっていないので、スケッチのような形で、書いていくことになってしまうだろう。
読みにくいだろうけれど、もし読んで反論や感想をいただけると嬉しいと思う。
亀田興毅の礼儀や態度を批難している人々は多いが、その態度はTBSを始めとする「親子感動物語」というストーリー込みで売り出そうとしている姿勢と共通している点があるのではないだろうか。
その点とは、ボクサーにある種の規範を求めていると云う点である。現代に珍しい親子愛を強調するストーリーは、ボクサーに、本来我々が「そうあるべき」親子像を見ている。もっと礼儀正しくあれ、と云う人々は、ボクサーに、本来我々が「そうあるべき」礼節を求めているのである。彼らは、ボクサーに対して、我々が「そうあるべき」姿を期待し、そのことによって感情移入したり、感動したりする。
しかし、そもそも、我々が「そうあるべき」と云う、我々とは一体何なのか。テレビを観ている42.4%の人々、それを些か安易ではあるが、「大衆」と呼んでみよう。「そうあるべき」姿を期待している「我々」の中には、大衆が含まれているだろう。しかし、ボクサーは、その「そうあるべき」姿という規範が適用される大衆の中に含まれているだろうか。
私は、否、と答えたい。ボクサーは大衆とは「違う」のである。ボクシングは大衆の側には無い。ボクシングとは、研ぎ澄まされた肉体と技術、そして何より才能、それらのみをもって四角いリングの中で戦うものだ。そこでは、自らの肉体のみが全てであり、そこからもたらされる勝敗は絶対的なものだ。このことはボクシングだけに関わらず、スポーツ全般についてそうだろう。結果は絶対であり、結果で判断される世界、そのような世界において、一握りの最高の才能を持つものは、絶対的な地位を占めることになる。その王者が許されていること、そのような絶対的な不平等さが存在しているのが、スポーツの世界だろう。「勝負の世界は非情だ」などと言われたりするが、そういう絶対的にシビアな世界と言えるだろう。
しかし、大衆の世界はどうだろうか。勿論、現実もスポーツの世界に劣らずシビアで不平等かもしれない。しかし、其処にはスポーツにおける才能のような、絶対的な基準は存在しない。経済力であったり、知性であったり、発言力であったり、様々な基準が入り組んだ複雑な世界が、大衆の世界だと大雑把ではあるが言ってもいいだろう。スポーツの世界と大衆の世界は全く異なったものなのだ。勿論、アスリートたちも、社会の一員である以上、経済力を始めとした社会性と無縁ではないだろう。しかし、アスリートは大衆である以前にアスリートなのだ。その逆ではない。スポーツは「我々」の世界とは全く異なったものだ。そこに、安易に我々の世界の道理を延長させてはいけない。スポーツはスポーツとして観賞すべきだ。スポーツはスポーツで、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
また、スポーツが「我々」の側に無いからといっても、それはいささかもスポーツの重要性が低いことにはならない。「我々」とは異なる、才能と努力を軸にした世界は、「我々」の世界からは見えてこないものを見せてくれるからだ。それは、高度に磨かれた技術の応酬の美しさであったり、また、運命のいたずらであったり、皮肉な結末であったりする。それらは、「我々」の世界とは全く異なった位相にあるからこそ見えてくるものではないだろうか。
私はこのことは、スポーツだけではなく、芸術においても同じことだと思っている。芸術は、異なった位相から見える異なった価値観を提示してくれるものではないだろうか。異なった位相とは、「偉大なる落伍者」として社会性を欠いたものからの視点であるかもしれないし、パトロンからの援助を得た余裕から生まれるものであるかもしれない。また、そのような大衆と反大衆というくくりだけではなく、大衆自身の中から生まれる、ポップアートのような形での価値転倒という異なった位相もあろう。そこに共通しているのは、「我々」が生きている上で気がつかないもの、見えてこないものを「我々」とは異なったパラダイムから提示するということである。これらの異なった位相がもたらしてくれるものが、如何に有益なのか、と云う点については、芸術に限って言っても大きな論点であると思われるので、深くは述べられない。しかし、芸術もスポーツも、「我々」を豊かにしてくれる、と云う点のみにおいても、我々にとって不可欠と言ってもいいほどの大きな存在理由があると言っていいだろう。「我々」は「我々」を豊かにするために、「我々」とは異なった位相の存在を欠いてはいけないのだ。「我々」は「我々」と異なった位相に対して寛容であるべきなのだ。王宮で唯一道化が王への風刺を許されていたように、火宅の作家が存在を許されていたように。
その点からすると、スポーツという「我々」と異なった位相の世界へ、「我々」の「そうあるべき」姿を持ち込もうという姿勢は妥当ではない。その姿勢は、異なった位相を、「我々」の世界へと強引に引き寄せようとするものである。それがたとえ「感動」「礼節」の美名のもとであっても、それらは、異なった位相への不寛容の姿勢であると言えないだろうか。異なった位相を、強引に「我々」の世界へと引き寄せようとする姿勢、それによって、実現されるものは何だろうか。果たして、その姿勢によって、「我々」は豊かになれるだろうか、と問うことは必要なのではないだろうか。「我々」の規範を適用させて、全ての位相を「健全
」にしようとする、その行為は不寛容以外の何ものでもないだろう。全てが「健全」に統一された世界、果たしてそこで「我々」は本当に豊かになれるだろうか。「健全」がしばしば「退屈」の同義で用いられることを考えれば、その答えは自ずと明らかなように思われる。
しかし、「我々」の規範を適用させないと、「我々」の世界に悪影響が出るという人々もいる。今回の例では、「強ければ何をしてもいいのかと青少年に思わせる」「礼節を欠いた態度が青少年に悪影響を与える」などの言説などだ。しかし、これらの言説はおかしい。スポーツという異なった位相のものを強引に「我々」の世界に引き寄せて考えようとするからこそ、「我々」の延長でスポーツを捉えようとするからこそ、そのような考え方が生まれてくるのだ。スポーツはスポーツなのだから、「我々」の規範からの批判は適当ではない。スポーツという異なった位相の世界では、極論すれば、「強ければ何をしても良い」と云うのはある程度は妥当するのではないかと思う。勿論、アスリートが大衆である以前にアスリートであるとは言っても、社会の一員であることは確かなのだから、制約は受けるだろう。しかし、何よりもまず、彼らはアスリートとして見られるべきであり、その発言にもある程度の寛容さをもって臨むべきではないか。スポーツは、「我々」とは位相が異なる世界なのだ。スポーツという極めて特殊な世界の人々を、まるで大衆の規範のように捉えることが間違っているのだ。素行が悪い一流のアスリート、彼が経済的に大きな成功を得ているのを見た青少年が、彼のようになりたいとその分野を目指すことは悪いことなのだろうか。悪影響なのだろうか。彼が成功しているのが、その悪い素行が理由であるとでも考えるならまだしも、その才能と努力が理由であると捉えていれば、彼の動機はスポーツを目指す青少年の動機として、悪影響と言い切れるものなのだろうか。それはしばしば、「青少年の行く末」を語る人々が肯定的に使う「ハングリーさ」そのものなのではないか。素行が悪い一流のアスリート、彼を「我々」の世界の規範と捉えるから、おかしなことになってくるのだ。アスリートはアスリートだ。スポーツはスポーツだ。それ以上でもそれ以下でもない。
スポーツはスポーツとして見ようではないか。「我々」を少しでも豊かにさせてくれる、それだけで十分ではないか。そこに、過剰に感動や物語といった「あるべき姿」を求める姿勢は、ある種の危うさを持っている。4年毎にしかサッカーを見ない人が、感動を求めてワールドカップを観る。ボクシングをろくに知らない人が、親子の美談を求めて世界タイトルマッチを観る。彼らが見ているものは、サッカーやボクシングという技術の応酬ではなく、フィクショナルな美談そのものである。
大江健三郎は、『人生の親戚』で、英米文学の専門家の女性の登場人物に次の様に語らせている。
無垢(イノセンス)は強調されすぎると、その反対の極のものになる、とオコナーはいってるわ。もともと、私たちは無垢(イノセンス)を失っているのに。キリストの罪の贖い(リダンプション)をつうじて、一挙にじゃなく、ゆるゆると時間をかけて、私たちは無垢(イノセンス)に戻るのだとも、彼女はいっているわ。現実までの過程をとばして、安易にニセの無垢(イノセンス)に戻ることが、つまりsentimentalityだというわけね。……私はなによりそれがいやなんだわ。
安易にニセの無垢に戻るsentimentality、これを求める姿勢が、現在のスポーツや芸術といった異なった位相を取り巻く状況に無いだろうか。現実の競技や芸術を観賞する過程をとばして、安易にニセの無垢の感動に戻ろうとするsentimentality、その姿勢は、一面で、全てを「我々」の延長として捉える、極めて不寛容な姿勢ではないだろうか。異なった位相を「我々」の延長として捉える、その行く先は、豊かさとは程遠い、画一化された「健全」と云う名の退屈と停滞ではないだろうか。
ボクサーに親子の美談を見る姿勢、
4年に一度のサッカーに感動を見る姿勢、
解りやすい悲劇や悲恋ばかり求める姿勢、
「不健全」とレッテルを貼った雑誌をビニールでくるむ姿勢、
全てのコンテンツは健全であるべきだとする姿勢、
それらから私が感じるのは、豊かさとは程遠い、貧困な感性でしかない。
冗長に語りすぎただろうか。
続きはまた次のエントリーに書きたい。
読む人が居るか居ないかは別として。