7.スポーツ・武道の最近のブログ記事

日本対メキシコのボクシング対抗戦をテレビで観た。

中々内容の濃いものであったし、何よりゴールデンでこれだけの試合数を観られるというのが嬉しい。
メインイベントの川嶋ミハレス戦は少し哀しいものもあったが。

一番印象に残ったのは、エドウィン・バレロの試合。
スーパーフェザーのチャンピオンの初防衛は鮮やか過ぎるKO劇だった。
あんなパンチを見せられれば、もう、溜息しか出ないね。
それにしても、真鍋圭太の階級の世界チャンピオンがこれか。バレロは次に日本人と試合すると言っているそうだが、本望信人に勝っていれば、全く可能性もなかったとは言えないと考えてしまうのも、ファンの贔屓目だろうか。
しかし、全く相手になっていないというのが凄かった。
世界タイトルマッチなのに。

剥き出しの才能の美しさと残酷さなのかね。

関係ないけど、ベネズエラと聞けば反射的にカーロス・リベラと想像してしまう。
ジョー脳。

心臓に悪い

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後楽園ホールで真鍋圭太の試合を見てきた。

復帰第二戦にも関わらず、対戦相手が見つかりにくいようだ。
格下が相手なのかと思って安心していたら、それはそれは心臓に悪い試合だった。
第1(2だっけ?)ラウンドでいいパンチをもらってふらつく真鍋。タイトルマッチのダウンが目に浮び、肝を冷やすも、真鍋は強打で相手をねじ伏せてダウンを奪った。心臓に悪い。
中盤、激しい打ち合いになり、優勢に攻めているように見えたが、今度は逆に相手のいいパンチを貰い、ダウン。立ち上がったものの、心臓に悪い。
最終ラウンド、またしても打ち合いになり、圧倒的に相手が優勢。いいパンチを何度も貰い、ふらつく真鍋。勿論相手も効いているが、どうみても相手の方が優勢だった。なぜクリンチに逃げて判定を待たない!という悲鳴にも似た叫びが出るが、ダウン寸前になりながらも、”KOセンセーション”はクリンチに行かなかった。そして、そこからまさかのダウンを奪い、残り14秒でのKOで幕となった。そのKOは確かに後楽園ホールを揺らしたが、ギリギリのところで勝ちを拾ったという印象も拭えない。
優勢に攻めていながら、ふとした拍子にいいパンチを貰うという詰めの甘さは以前からあったようにも思うが、今回はそれが余りにも頻繁に出て、非常に心臓に悪い試合だった。
この詰めの甘さを治しさえすれば、日本チャンプどころか、世界の器だと思うのだけれど。

他の試合について。
アテネ五輪の日本代表がプロデビューということで、注目されているらしかった。メインでもセミファイナルでもなかったテレビインタビュー付き。確かに、巧いとは思ったが、あまりにマッチメイクが露骨過ぎた。対戦者は本来ミニマム級の韓国人ボクサー。二階級、3キロ以上増量と云う余りにも無茶な増量に失敗したことが明らかな「ふくよかな」肉体をしていた。実際動きは鈍いし、本来ミニマム級での体格では、リーチの差も明らか。大手ジムからの期待されてのデビューということは解るが、これだけ露骨な試合は、観ていて気分のいいものではない。酷かった。
メインのミニマム級日本タイトルマッチは、判定にもつれ込み、ドロー。チャンピオン空位の王座決定戦なので、ドローということは、必然的に次の試合に持ち越し。こういうことって実際にあるんだな。
WBAミニマム級四位の人が、柳屋花緑に似てた。

何度行っても、眩いリングの中に立つボクサーたちは、想像よりも1.5倍ほど大きい。強い光線に照らされた彼らが交わす拳、肉のはぜる乾いた音、それらは本当に美しい。
テレビで見る滅菌済みの映像には無い、匂い立つような美しさが、そこには在る。

と始めたところで、実は何を書こうか忘れてしまった。

前エントリーで何が言いたかったかと言えば、スポーツというある種異相の世界に、「我々」の「健全」を押し付けてしまうのは如何なものだろうか、ということだ。
ボクシング界といういわば内側から、礼節を求める声が上がるのは然るべきだとは思う。今回の騒動でも明らかなように、世間の人々は、ボクシングをレスリングや柔道などのアマチュア競技と同じようなフェアネスを持った競技だと考えているようだし、世界チャンピオンというステータスへの信頼も厚いように思う。K−1やPRIDEなどの捉え方と比較してみても明らかなように思う。それは、戦後のボクシング界の努力によるところなのだろうと思うし、歴代チャンプの紳士的な行動に依るところも大きいのだろう。
社会的認知を得るためのこの姿勢が、安易なsentimentalismに傾倒して、硬直をもたらすという危険は無いとは言えないだろうが、「我々」の「健全」の延長よりも危険性は低いと言えるのではないだろうか。頭部のみを集中的に打つ、格闘技の中でも死亡率の高い危険なスポーツ、そこに携わる人々は、それをいやと云うほど知っているだろうからだ。そしてまた、そういう人がジム運営やコミッショナーとして関わっていくことで、硬直化する危険はある程度は回避できるのではないかとも思う。彼らは、リングの中では、拳が全て、そして、それを保証するフェアネスの重要性について、きっとよく知っているだろうから。しかし、その期待を根本から覆すような行為が、今回の騒動だ。
そもそも、ボクシングの内側にも、様々な問題がある。今回問題とされているような、アジアや中南米からの「噛ませ犬」ボクサーを雇う行為、露骨なホームタウン・ディシジョン、ジムの規模による発言力の差、などなど。これらはボクシングが克服すべき課題として存在しているが、今回のボクシング関係者は、これらの問題を外部の人々と共に、試合の商品としての価値を高めるために、積極的に利用した。
これは本当に恥ずべき行為だ。
ボクシングがその地位の向上に努めてきたのは、より高く売り抜けるためだったのか。今までのチャンプは一体何だったのか、と感じてしまう。
今回のボクシング関係者は、責められるべきだ。そして、そのような、「ベルトを質に入れた」行為だけではなく、前編で述べた礼節という点からも、彼らには責任がある。
ボクサーはアスリートだ。スポーツという異相に生きている。しかし、トレイナー、ジムの会長、今回で言えばさらに父親、彼らは、純粋な意味でのアスリートではない。ボクサーを支える存在だ。本来、彼らは、ある種の社会性を欠くことすら許されるアスリートと、社会との架け橋となるべき存在ではないだろうか。そのような彼ら自身が、「我々」の側からの追求を受けるべきなのは当然だろう。それを、彼らは、ボクサーと一緒になって、対戦者サイドへ暴言を吐くなど、敬意の欠片も示さない。本来架け橋になるべき存在がこの有様では、ボクサーを孤立させることになってしまう。幾ら「我々」が異相への寛容さを示すべきだとは言っても、アスリートに群がる人々の一団全てにまで、その特権を与えるべきではないだろう。そうなってしまえば、そこは異相ではなく、単なる隔絶された異世界に過ぎなくなってしまう。
今回礼節を欠くと批難されるべきは、ボクサーではなく、その周りの人々なのだ。
ベルトを質に入れようとして行為についても、ボクサー個人にどれほどのことが出来たかは疑問だ。
本来責められるべきは、ベルトを質に入れようとした連中、そして、それを買おうとした連中、ボクサーへの架け橋を外した連中なのだ。
しかし、今回は余りにもボクサー個人の印象が強い。無礼なボクサー、疑惑のチャンプ。どうしたって、彼個人の人格への嫌悪感が表に出る形で、ボクサー個人への批難が集中する。悪いのはボクサー、礼節を欠くボクサー、ベルトに値しないボクサー。しかし、本当にそうだろうか。我々は、目の前にぶら下げられた燻製によって、そちらばかりを嗅いでいないだろうか。もっと匂う連中が居るはずだ。
私は、そのように思った。

前編を書いてから随分と時間が経ってしまったこともあって、論理的に書けていないし、つながりも酷い。感情的に書いた。
読むに耐えない文章だけれど、敢えて残しておくとしよう。読んでくださった方には目汚しになって申し訳ないと思っている。

おまけ
美しSUGUILLボクシング
"PRINCE" Naseem Hamed
http://video.google.com/videoplay?docid=-4895528102049973661

いささか食傷気味ではあるが、亀田騒動について、自分の考えを整理する意味でも、もう少し書いてみたい。考えがきちんとまとまっていないので、スケッチのような形で、書いていくことになってしまうだろう。
読みにくいだろうけれど、もし読んで反論や感想をいただけると嬉しいと思う。

亀田興毅の礼儀や態度を批難している人々は多いが、その態度はTBSを始めとする「親子感動物語」というストーリー込みで売り出そうとしている姿勢と共通している点があるのではないだろうか。
その点とは、ボクサーにある種の規範を求めていると云う点である。現代に珍しい親子愛を強調するストーリーは、ボクサーに、本来我々が「そうあるべき」親子像を見ている。もっと礼儀正しくあれ、と云う人々は、ボクサーに、本来我々が「そうあるべき」礼節を求めているのである。彼らは、ボクサーに対して、我々が「そうあるべき」姿を期待し、そのことによって感情移入したり、感動したりする。
しかし、そもそも、我々が「そうあるべき」と云う、我々とは一体何なのか。テレビを観ている42.4%の人々、それを些か安易ではあるが、「大衆」と呼んでみよう。「そうあるべき」姿を期待している「我々」の中には、大衆が含まれているだろう。しかし、ボクサーは、その「そうあるべき」姿という規範が適用される大衆の中に含まれているだろうか。
私は、否、と答えたい。ボクサーは大衆とは「違う」のである。ボクシングは大衆の側には無い。ボクシングとは、研ぎ澄まされた肉体と技術、そして何より才能、それらのみをもって四角いリングの中で戦うものだ。そこでは、自らの肉体のみが全てであり、そこからもたらされる勝敗は絶対的なものだ。このことはボクシングだけに関わらず、スポーツ全般についてそうだろう。結果は絶対であり、結果で判断される世界、そのような世界において、一握りの最高の才能を持つものは、絶対的な地位を占めることになる。その王者が許されていること、そのような絶対的な不平等さが存在しているのが、スポーツの世界だろう。「勝負の世界は非情だ」などと言われたりするが、そういう絶対的にシビアな世界と言えるだろう。
しかし、大衆の世界はどうだろうか。勿論、現実もスポーツの世界に劣らずシビアで不平等かもしれない。しかし、其処にはスポーツにおける才能のような、絶対的な基準は存在しない。経済力であったり、知性であったり、発言力であったり、様々な基準が入り組んだ複雑な世界が、大衆の世界だと大雑把ではあるが言ってもいいだろう。スポーツの世界と大衆の世界は全く異なったものなのだ。勿論、アスリートたちも、社会の一員である以上、経済力を始めとした社会性と無縁ではないだろう。しかし、アスリートは大衆である以前にアスリートなのだ。その逆ではない。スポーツは「我々」の世界とは全く異なったものだ。そこに、安易に我々の世界の道理を延長させてはいけない。スポーツはスポーツとして観賞すべきだ。スポーツはスポーツで、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
また、スポーツが「我々」の側に無いからといっても、それはいささかもスポーツの重要性が低いことにはならない。「我々」とは異なる、才能と努力を軸にした世界は、「我々」の世界からは見えてこないものを見せてくれるからだ。それは、高度に磨かれた技術の応酬の美しさであったり、また、運命のいたずらであったり、皮肉な結末であったりする。それらは、「我々」の世界とは全く異なった位相にあるからこそ見えてくるものではないだろうか。
私はこのことは、スポーツだけではなく、芸術においても同じことだと思っている。芸術は、異なった位相から見える異なった価値観を提示してくれるものではないだろうか。異なった位相とは、「偉大なる落伍者」として社会性を欠いたものからの視点であるかもしれないし、パトロンからの援助を得た余裕から生まれるものであるかもしれない。また、そのような大衆と反大衆というくくりだけではなく、大衆自身の中から生まれる、ポップアートのような形での価値転倒という異なった位相もあろう。そこに共通しているのは、「我々」が生きている上で気がつかないもの、見えてこないものを「我々」とは異なったパラダイムから提示するということである。これらの異なった位相がもたらしてくれるものが、如何に有益なのか、と云う点については、芸術に限って言っても大きな論点であると思われるので、深くは述べられない。しかし、芸術もスポーツも、「我々」を豊かにしてくれる、と云う点のみにおいても、我々にとって不可欠と言ってもいいほどの大きな存在理由があると言っていいだろう。「我々」は「我々」を豊かにするために、「我々」とは異なった位相の存在を欠いてはいけないのだ。「我々」は「我々」と異なった位相に対して寛容であるべきなのだ。王宮で唯一道化が王への風刺を許されていたように、火宅の作家が存在を許されていたように。
その点からすると、スポーツという「我々」と異なった位相の世界へ、「我々」の「そうあるべき」姿を持ち込もうという姿勢は妥当ではない。その姿勢は、異なった位相を、「我々」の世界へと強引に引き寄せようとするものである。それがたとえ「感動」「礼節」の美名のもとであっても、それらは、異なった位相への不寛容の姿勢であると言えないだろうか。異なった位相を、強引に「我々」の世界へと引き寄せようとする姿勢、それによって、実現されるものは何だろうか。果たして、その姿勢によって、「我々」は豊かになれるだろうか、と問うことは必要なのではないだろうか。「我々」の規範を適用させて、全ての位相を「健全
」にしようとする、その行為は不寛容以外の何ものでもないだろう。全てが「健全」に統一された世界、果たしてそこで「我々」は本当に豊かになれるだろうか。「健全」がしばしば「退屈」の同義で用いられることを考えれば、その答えは自ずと明らかなように思われる。
しかし、「我々」の規範を適用させないと、「我々」の世界に悪影響が出るという人々もいる。今回の例では、「強ければ何をしてもいいのかと青少年に思わせる」「礼節を欠いた態度が青少年に悪影響を与える」などの言説などだ。しかし、これらの言説はおかしい。スポーツという異なった位相のものを強引に「我々」の世界に引き寄せて考えようとするからこそ、「我々」の延長でスポーツを捉えようとするからこそ、そのような考え方が生まれてくるのだ。スポーツはスポーツなのだから、「我々」の規範からの批判は適当ではない。スポーツという異なった位相の世界では、極論すれば、「強ければ何をしても良い」と云うのはある程度は妥当するのではないかと思う。勿論、アスリートが大衆である以前にアスリートであるとは言っても、社会の一員であることは確かなのだから、制約は受けるだろう。しかし、何よりもまず、彼らはアスリートとして見られるべきであり、その発言にもある程度の寛容さをもって臨むべきではないか。スポーツは、「我々」とは位相が異なる世界なのだ。スポーツという極めて特殊な世界の人々を、まるで大衆の規範のように捉えることが間違っているのだ。素行が悪い一流のアスリート、彼が経済的に大きな成功を得ているのを見た青少年が、彼のようになりたいとその分野を目指すことは悪いことなのだろうか。悪影響なのだろうか。彼が成功しているのが、その悪い素行が理由であるとでも考えるならまだしも、その才能と努力が理由であると捉えていれば、彼の動機はスポーツを目指す青少年の動機として、悪影響と言い切れるものなのだろうか。それはしばしば、「青少年の行く末」を語る人々が肯定的に使う「ハングリーさ」そのものなのではないか。素行が悪い一流のアスリート、彼を「我々」の世界の規範と捉えるから、おかしなことになってくるのだ。アスリートはアスリートだ。スポーツはスポーツだ。それ以上でもそれ以下でもない。
スポーツはスポーツとして見ようではないか。「我々」を少しでも豊かにさせてくれる、それだけで十分ではないか。そこに、過剰に感動や物語といった「あるべき姿」を求める姿勢は、ある種の危うさを持っている。4年毎にしかサッカーを見ない人が、感動を求めてワールドカップを観る。ボクシングをろくに知らない人が、親子の美談を求めて世界タイトルマッチを観る。彼らが見ているものは、サッカーやボクシングという技術の応酬ではなく、フィクショナルな美談そのものである。
大江健三郎は、『人生の親戚』で、英米文学の専門家の女性の登場人物に次の様に語らせている。

無垢(イノセンス)は強調されすぎると、その反対の極のものになる、とオコナーはいってるわ。もともと、私たちは無垢(イノセンス)を失っているのに。キリストの罪の贖い(リダンプション)をつうじて、一挙にじゃなく、ゆるゆると時間をかけて、私たちは無垢(イノセンス)に戻るのだとも、彼女はいっているわ。現実までの過程をとばして、安易にニセの無垢(イノセンス)に戻ることが、つまりsentimentalityだというわけね。……私はなによりそれがいやなんだわ。

安易にニセの無垢に戻るsentimentality、これを求める姿勢が、現在のスポーツや芸術といった異なった位相を取り巻く状況に無いだろうか。現実の競技や芸術を観賞する過程をとばして、安易にニセの無垢の感動に戻ろうとするsentimentality、その姿勢は、一面で、全てを「我々」の延長として捉える、極めて不寛容な姿勢ではないだろうか。異なった位相を「我々」の延長として捉える、その行く先は、豊かさとは程遠い、画一化された「健全」と云う名の退屈と停滞ではないだろうか。

ボクサーに親子の美談を見る姿勢、
4年に一度のサッカーに感動を見る姿勢、
解りやすい悲劇や悲恋ばかり求める姿勢、
「不健全」とレッテルを貼った雑誌をビニールでくるむ姿勢、
全てのコンテンツは健全であるべきだとする姿勢、

それらから私が感じるのは、豊かさとは程遠い、貧困な感性でしかない。

冗長に語りすぎただろうか。
続きはまた次のエントリーに書きたい。
読む人が居るか居ないかは別として。

貧すりゃ鈍する。
藁打ちゃ手打つ。

幾ら貧しくったって、売っちゃいけないものがある。
腰の大小を質に入れて、竹光で何を斬るのだろう。

そのベルトは、売っちゃいけない。
そのベルトは、買っちゃいけない。

うんざりだ。

http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20060525&a=20060525-00000182-kyodo-spo
徳山昌守が亀田興毅か長谷川穂積との対戦を条件に、引退を延ばしても良いと言ったらしい。
おお。
徳山と亀田興毅とでははっきり言って勝負にはならないと思うけれど、引っ込みがつかなくなってるんだから、どうせならば華々しく散ったらどうだろうか。
それにしても、
「本物と試合をしていないので、本物のボクシングを教えたいというのはある」
って格闘技ファンの気持ちを代弁してくれてるあたりが気持ちいい。
客寄せパンダのまま散るのは不憫ではあるのだけれど。

とはいえ、ボクシング好きとしては、徳山昌守と長谷川穂積との試合が実現したら非常に嬉しい。もっとも、徳山のモチベーションの問題もあるだろうし、これだけのビッグマッチだと実現は難しいのかもしれないけれど。

さてさて、どうなっても楽しみだ。

真鍋圭太の復帰戦を見てきた。
先日の日本タイトルマッチで悪夢のようなKO負けを喫した後の復帰戦。
結果としては、3RのKO勝ちだったが、何となく満腹感が足りなかった。
勿論復帰戦で、勝つことが重要なのは理解しているが、それでも期待してしまうのがファンの身勝手さであって、また、真鍋圭太がそれを期待させてしまうだけの才能の持ち主なのだろう。
ともあれ、良かった。

この日の試合は、何となくイマイチな試合が多かった。
イマイチ、というより、侘しさすら感じてしまった。
十歳以上年下でデビュー戦の若手と戦う、負け越している三十路のボクサー。
日本ランクに入りそうで入れず、タイ人と胡散臭い試合をせざるを得ない東大生ボクサー。
それでも、リングの中で打ち合う筋肉の躍動は美しく、我々は、ホールならではの拳が肌に当るどこか乾いた音に熱狂する。
そして、勝った者でも負けた者でも、何処か胸に迫るものを感じた折には、惜しみない拍手を送るのだ。

しかし、矢張り、目の覚めるような、才能がそのまま形をとったような、鋭いパンチを見たいものである。

圭太の次の試合に期待しよう。

後楽園ホールでボクシング観戦。勿論真鍋圭太を見るために。
前回は余りぱっとしない判定勝利だったが、今回は3Rに鮮やかなKO劇を見せてくれた。それでも、2Rの初めに良いパンチを貰ってしまったりと少し不安に感じるところもあったように思うか。それにしても、韓国のボクサーはタフだとよく聞くが、パンチのある真鍋圭太のいいフックを貰っても何でもないような表情をしているのには驚いた。なにはともあれ、鮮やかなKO勝利がとても嬉しい。本望信人がベルトを返上して、それに伴う王者決定戦に勝利して日本チャンピオン、そして世界挑戦、と順調に行って欲しいものだ。

鉛の空気

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とんでもない試合だった。これだけの試合は久しく見ていないような気がする。
少し遅れて地上波での放送となったPRIDE GPでのヘビー級王座決定戦、ミルコ対ヒョードル戦のことだ。
今までこんなにもミルコが距離を封じられたことがあっただろうか。こんなにもヒョードルがグラウンドで苦戦したことがあっただろうか。全てが今まで見た事も無い水準の試合だと云うことは、素人目にも明らかだった。
個人的には最近少し見飽きてきた感があった総合格闘技だが、まだまだ新しい試合が見られそうでまた興味が湧いてきた。

三兄弟

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亀田興毅の試合を初めて見た。ビッグマウスで話題先行だとか、期待の新星だとか色々と言われているが、思ったよりもきちんとした試合運びだった。防御もしっかりしているし、さほど深追いもしない。ビッグマウス振りからは意外なほど固いボクシングだったように思えた。
ただ、ちょっと面白みにかける試合だったように思えるか。評判通りかどうかは、きちんとした鑑識眼を持っていない私には解りかねた。東洋太平洋レベルではない、世界レベルとの試合を見てみたい。
まあ、真鍋の方が好きだけど。

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