5.絵画の最近のブログ記事

「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」を国立新美術館で見てきた。

素晴らしい。


ピカソが新聞記者のインタヴューに答えて語った言葉の中に、次の有名な一節がある。

ある絵を説明しようなどと試みるものは、たいていの場合誤りを犯す。もう大分前のことだが、ある時ガートルード・スタインが嬉しそうな様子で私のところにやって来て、私の絵が何を描いたものか、やっとわかった、三人の音楽家を描いたのに、と言った。ところがその絵というのは、実は静物だったのだ……。

(中略)

ピカソの言葉の中で、おそらくもっともしばしば引用されるこの「小鳥の歌」の比喩は、実は、冒頭に引いたスタイン女史のエピソードと同じ機会に語られたものである。

人はみな絵画を理解しようとする。ではなぜ人は小鳥の歌を理解しようとしないのだろうか。美しい夜、一輪の花、そして人間をとりまくあらゆるものを、人はなぜ理解しようとはせず、ただひたすらそれらを愛するのだろうか……。

この見事な一節は、それだけを取り出してみた場合、疑いもなく鋭い真理を含んでいる。だが、だからといって、多くの人が主張するように、この言葉は「絵画とは理解するものではない、感じるものだ」などと言っているわけではない。人はピカソのこの言葉を、芸術に接する上での努力の欠如という自己の怠慢を誤魔化すための免罪符とすることはできない。なぜなら、ピカソの不満は、人が絵画を「理解しよう」とすることにあるのではなく、人が絵画を「愛そうとしない」ことにあるからである。「小鳥の歌」を愛することを知っている人が、なぜ絵画を愛することをしないのか―それこそがピカソの不満であった。つまり彼は、スタイン女史にせよ誰にせよ、彼の作品の中に「三人の音楽家」を―あるいは静物を―認めることに不服を述べたてているわけではない。まるで判じものか何かのように、何が描いてあるかということだけしか見ようとしないその点に痛烈な批判を投げつけているのである。
したがって、ピカソのこの有名な言葉からただちに、「だから絵画は理解しなくてもよい」という結論を導き出すのは、いささか性急といわなければならないだろう。まして、だから絵画はただボンヤリと眺めていればよいということにはけっしてなるまい。むしろ逆に「愛する」ということくらい積極的な努力を必要とするものはほかにないのではないだろうか。おそらく、人は愛することすらもやはり学ぶものなのである。

(高階秀爾 『20世紀美術』)

自戒を込めて引用。

以前受けた授業で、パブロ・ピカソ 《スュズ(グラスとスュズの瓶)》について学んだことのまとめ。
再掲。
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2006/02/post_283.html

忘れ名日記

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前エントリを書いたときに、音楽は一次的なもので、背景知識が必要ないというような事を誰かが言っていたとぼんやりと思い出した。
それが誰だったかを思い出そうとしていたら、それに続く言葉が確か、絵画もそのような一次的なものであるべきだという意味だったように思った。
そこで、そうだ、これは確か、高階秀爾の『20世紀美術』で読んだのだと気がついた。
そして、確かこの一節は、ブラックだったか、と思ったけれど、どうにも確証がない。
調べてみようと、『20世紀美術』を探したけれど、書棚の美術関係の本を並べている所には何故か無い。
そういえば以前何かを調べたときに出したような気がするが、と思うものの、何処にあるか皆目見当もつかない。
なにやら本がごちゃごちゃと積んである箇所を横目で見ながら、きっと其処にあるのだろうなあなどと思いながら。
確かあれは、神保町で買って、ちくま学芸文庫なのになぜかパラフィン紙がついていたなあ。
あれは店主のサアビスだったのだろうか。
あれ、そういえばあの言葉はブラックじゃなかったかもしれない。
そもそもブラックは何ブラックだっただろうか。
ジャック・ブラック。いや、違う。
ジョルジュ。そう、確かジョルジュだ。
いや、しかし。
本当にジョルジュだっただろうか。
ジョルジュ・ブラック。と確かめるように呟きながら。
本が積んであるのを横目で見ながら。

若冲の黒

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プライスコレクションを観て来た。
目的は矢張り目玉の伊藤若冲だったわけだけれども、実際観てみると驚いたことが色々とあった。

実物を観るまでは、若冲と云えば鶏、ということで、エネルギー溢れる鶏の印象から、鮮やかな色遣いという印象があった。喩えるなら、鶏の鶏冠のような。

しかし、実際に観てみると、印象が強いのは黒だった。
何と云うか、黒がとても深いのだ。
例えばこの作品、http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060515100355
鮮やかな赤の色遣いが美しいが、それ以上に黒が際立っているように感じた。
赤や茶色や白の細やかな色遣いと線は、写実的ではあるのだが、その構図の妙と背景の松の枝などの大胆なデフォルメとによって、同時にどこか独特の造形的な面白さが感じられる。細やかな描写と大胆なデフォルメ、その両者が同時に迫ってくるのだが、その架け橋になっているのが、黒の深さのように感じた。墨によるグラデーションだからかは解らないが、黒によって、すっと背景よりも向こう側、どこか深くに図像そのものが潜りこんでいくような、そんな感覚を持った。
この黒は、濃いというよりも、深いという色合いだったように思う。濃いというと、どこか厚塗りのような感覚があるが、これは、どこか深く深くに浸透していくような、そんな黒だった。
それが最も印象的だったのは、黒一色で描かれていた、『花鳥人物図屏風』(http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060509100321)と『鶴図屏風』(http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060510095359)だ。
『花鳥人物図屏風』は、墨のグラデーションが美しく、深い黒が斯くも鮮やかであってよいのだろうか、と驚いた。
『鶴図屏風』は、その線の迷いの無い美しさが凄い。時に細く繊細に、時に太く大胆に、それらのつなぎ目が全くないように、自由闊達に線が走っている。その疾走感はどこか涼やかさすら感じた。そして、鶴の羽の端の方の深い黒が、大胆なデフォルメの図像的な味わいを、浮き上がらせること無く、静かさをもたらしているように感じる。
若冲の黒、凄いよ。

他に非常に印象的だったのは、『雪中松に兎・梅に鴉図』(http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060627095340)だ。
このかっこよさは一体なんだろうね。驚くばかり。とんでもねえや。

また、興味深い展示方法だったのが、照明だ。移ろい行く光の下で観賞するというコンセプトのもとで、光源の色と方向が徐々に移ろいゆく。
その中で、金泥や金箔は驚く程に多彩な光を見せる。今まで金屏風の金箔や金泥の部分は、どこか平坦なものだと思っていた。しかし、絵の具との光の反射の仕方の違いによって、とても豊かな情感を作りだすということに驚いた。
以前森美術館で観た、『杉本博司 時間の終わり』展で、平安貴族が観た光を再現する、と云うコンセプトのもとで、自然光に照らされる三十三間堂の写真があった。また、能の舞台も、自然光で観賞するというコンセプトから、日中は窓から日光を採りこんでいたようだが、フラットな光との比較と云う点では、時間がかかりすぎ、解りにくかった。
今回、自然光ではないにしても、多彩な光で作品を照らすことによって、驚く程にその表情を変えて見せたのは非常に新鮮だった。昔の人々は、フラットな蛍光灯では物を見ていなかったのだなと、しみじみと思った。

そこで、はたと思い浮かんだのが、数年前の京都観光での体験である。妙心寺法堂の雲竜図、八方睨みの龍の迫力に私は感動したのだが、それと比較して、建仁寺法堂の双龍図は少々迫力に欠けるように感じた。妙心寺の雲竜図は狩野探幽の作、建仁寺の双龍図は創建800年を記念して現代の日本画家小泉淳作が描いたものだ。勿論、現代に作られた双龍図の方が、色も綺麗だし、デザインも優れているように感じた。しかし、どこか、八方睨みの龍とは違うのだ。それが何かがとても不思議だったのだが、今考えると、それは光の違いだったのかもしれない。
確かな記憶ではないのだが、私はNHKで小泉淳作が龍の絵を描いているのを見たように思う。確か下書きだったが、あれだけ大きな天井画を描くために、紙をつなぎ合わせて体育館で描いていた。勿論その照明は煌々と輝くフラットな水銀灯なわけである。しかし、実際の法堂は勿論、フラットな光源ではない。蝋燭の光や自然光などの光源に照らされて見られる。勿論、そのことを全く計算せずに描いたわけではないだろうし意図して彩色もしていると思う。しかし、案外現代の我々に染み付いた光の感覚は根が深いもので、それが二つの龍の天井画の違いに表れたのかもしれないと、ふと思ったのである。
龍の天井画と云えば相国寺の蟠竜図が「啼き龍」として有名だが、妙心寺の八方睨みの龍の迫力は、凄まじいものが在る。確か公開期間は限られていたと思うが、機会があれば観るのを強くお奨めする。

今回のプライスコレクションは色々と収穫の多い経験だった。

しかし改めて考えると、これだけの作品の価値を見出したのが、日本人じゃないというのは複雑だな。
でも、オフィシャルブログで全展示作品の画像を公開して、斬新な展示方法をしてくれたプライスさんは偉い!


http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060628095933
この子犬が可愛いすぎた。
http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060616102156
この唐獅子も可愛い。
http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060507135533
この犬もやらしくていいね。

まあ、そんなこんな。

いつの間にか藤田嗣治展が終わってしまっていたので、京都まで行って観てきた。

とても良かった。裸婦の乳白色は本当に輝いていて、それでいてしっとりと湿っているような、えもいわれぬ恍惚とするような質感だった。
手触りまで想像できそうな感じ。
エロし。クリムトとはまた違ったエロさがあるね。

猫も可愛い。
裸婦と共に猫が描かれることが多いが、この場合の猫は、よくあるように女性性を模して描かれているような猫とはちょっと違うような気がした。
藤田自身は

可愛がるがおとなしくしているが、そうでなければ引っ掻いたりする。ご覧なさい、女にヒゲとシッポを附ければ、そのまま猫になるじゃないですか(『巴里の夜と昼』」)

なんて言ったそうだが、これは諧謔としても一種の実感がこもっているのかもしれないが、それでも裸婦像とともに描かれる猫から受ける印象は少々異なる。
それは、あまりに裸婦の乳白色の肌が印象的で、猫の持つ毛並みと、連想される爪とのイメージが結びつきにくいということなのかもしれないが、それだけではないような気がする。
一瞬、猫は藤田自身の投影として描かれているのかとも思ったが、少し怪しげな視線を投げかける猫は、時折矢張り裸婦と同様に艶かしくもあり、しかし、それでいて性的な肉感は伴っていない。なんともミステリアスな印象だった。それと同じような印象は、フランスに戻った晩年の子どもたちの絵からも受けた。藤田自身、この子どもたちはどこにも居ない子どもたちだと語ったそうだが、実際どこかミステリアスで、猫と同じく艶かしくもありながら、どこか聖性をまとったような、とても不思議な印象を受ける。猫は聖性などまとっては居ないが、女性を直截に連想させるようなしたたかさよりは、ミステリアスな、中世的な印象をまとっているような気がする。どちらかといえば、中世的な女性、ではなく、中世的な男性、といった感じだろうか。言葉にするのは少し難しいが、何とも不思議な印象だった。
もっとも、それは裸婦と一緒の猫について感じたことで、藤田と一緒にくつろぐ姿の猫は、もう、ただ愛らしかった。これはもう、女性なんだろうな。

また、場内で、藤田が監修したというフィルムが上映されていて、日本の風俗を紹介する映像の中の、子ども達の遊びを描いたものらしい。どうやら、日本を誇張して描いているとの非難がなされたそうだが、現在から見れば、さほど誇張に感じなかったのだが、当時ではそうだったのだろうか。
映像自体は、強めの光で照らし出されたコントラストのはっきりとした映像で、とても面白かった。さすがに本職の監督ではないからかもしれないが、一寸カットのつなぎに不自然なところもあるように思えたが、それでも「この人、映画撮ってもいけるんちゃうの」と思ったのは事実である。ちゃんばらをする子どもたちの衣装が、黒と白の市松模様で、中には同じ市松模様の鉢巻をしているものもあり、ちゃんばらの棒も白黒の縞々だったりする。それに加えてコントラストのはっきりとしたモノクロフィルムだったのだから、妙にモダンな印象を受けたちゃんばらシーンだった。これが洋行帰りと云うやつか。小津なんかが見ていたら、どう感じたんだろうなと、気になったりした。
また、このタッチで時代劇を撮ってたら、ひょっとしたら傑作が生まれたんじゃなかろうかと思ったけれど、どうなんだろうな。案外超重厚な『日本の一番長い日』みたいのが出来たりするのかな。『アッツ島玉砕』を映像にしたような。
何故かクレジットがTsuguji Fujitaだったのだけれど、監督の時だけ変名を使ったのかな。
だったら同名義で一杯とれば良かったのに。
あと、古かったけどトーキーだった。

戦争画は、全然作風が違ったけど、ドラクロアみたいな重厚さもあって、びっくりした。

文化庁メディア芸術祭最終日に行ってきた。
時間の都合上で少し覗いただけになってしまった。去年より出展作品数が少なくなっているようではあっても、それでも全ての作品を観るには一日では足りぬほどのボリュームなのである。
見たのは、アート部門、エンターテイメント部門の一部、アニメーション部門の一部、マンガ部門、などであり、映像作品の上映は、アート部門とSIGRAPH(アメリカのメディア芸術イベント)の映像作品集である。
初めて行った去年も感動したのだが、今年も圧倒されるほどの鮮烈なアイデアとイメージの洪水である。ただ、若干去年と比べて作品数が減ったようにも思えた。
アート部門のインタラクティブな作品群は全て面白かったのだが、殆ど悪趣味な悪戯のようなものとして強烈に印象に残ったのは、『Conspilatio』http://plaza.bunka.go.jp/festival/sakuhin/sakuhin/art06.htmlだった。モニタとストローの差込口のついた装置からなるこの作品を文字通り味わうには、ストローを受け取り、差込口に差し込む。そして、モニターに映し出された食べ物を指でタッチした後は、ストローを吸い込む。すると、実際にその食べ物をストローで吸って得たデータから、ストローの吸うべき圧力、振動、音が再現され、まさにその食べ物をストローで吸っている感触が思った以上に生々しく再現される。その再現されるべき食べ物は、コーラから始まり、なめこ、納豆、ラーメン、果ては隠しメニューとして蛙(!)まで存在する。なめこがちょっとストローに引っかかってからズルリと吸い込まれる感触までが可也リアルで、蛙の気持ち悪さにいたっては、数時間後まで雨蛙が口の中に入ったような感触を引きずるほどショッキングであった。
他にも、天体望遠鏡のような形をした『SPYGLASS』http://plaza.bunka.go.jp/festival/sakuhin/sakuhin/art03.htmlも面白い。これを覗くと、あたり一面360度回転するのにしたがって動く海面の映像が見ることができ、ズームも可能である。そして、レンズの近くにはどこからか潮風のような空気がうっすらと噴出しているようで、単純なようでありながら、驚く程その世界を手近に感じることが出来る。それを可能にしているのは、文字通り全天見渡すことが出来る再現度であるのだろうが、こうも簡単に海を感じられるだろうかと驚かずにはいられない。
大賞を獲った『Khronos Projector』http://plaza.bunka.go.jp/festival/sakuhin/sakuhin/art01.htmlも素晴らしかった。正に時を指先で自在に操る感覚である。
どれもこれも、インタラクティブなものは、視覚はもちろんのこと、触覚、嗅覚、『CONSPIRATIO』に至っては味覚に近い口腔内の感覚、に訴えかけてくるもので、とても刺激的だった。

映像作品もどれもここに書ききれぬほど面白く、愉快で、とても楽しめた。
とても素晴らしい展示だと思うのだが、どうしてもっと宣伝しないのであろうか。折角こんなに素晴らしい活動をしているのに、知られていないのでは余りにも勿体無い。渋谷駅に大きなポスターは貼られていたが、その程度の露出しか私は少なくとも触れなかったし、『メディア芸術』という新しい分野なのだから、もっと文字通りメディアを活用してアッピールして然るべきだと云うのが、この展示を観に行って感じた唯一の不満点だった。

SIGGRAPHの映像作品を観ていて、気になったのが、去年に比べて妙にブラックな、毒を含んだテーマの作品が多かったように思う。世相が反映されているのだろうか。
その中でも秀逸で笑わせてもらったのが、"Learn Self Defense"だった。
http://www.atomfilms.com/af/content/learn_self_defense
いやあ、面白い。
"Cubic Tragedy"http://video.google.com/videoplay?docid=104061516152793028&q=cubic+tragedyも面白かったが、ctrl+Zがそこまで一般的ではないと思うので、画像や映像を触ったことがある人しかわからないのかもしれない。これもやはり、毒がある。

少しだけしか見られなかったが、とても面白かった。来年も行けたらいいな。

最後に、コネタっぽく。
バカバカしいけど気に入った小品。
『コタツネコ』
http://www.aokijun.net/movie.html

http://www.guerrillagirls.com/
ゲリラガールズかっこいい。
フェミニズムはその周縁部分が一寸苦手だけれど。
ここまでcoolな表現をされると心に訴えかけてくる。

芸術もイデオロギーとは無縁ではない。

風呂に入った猿なんかより、こっちの方が好きですよ。


パブロ・ピカソ 《スュズ(グラスとスュズの瓶)》 1912年 について


全然分量が足りなくて、ダイジェスト的になってしまった。
きちんと書くには一万字でも足りまい。
読書感想文以下の代物でさぁ。

開催期間終了が近いプーシキン美術館展に行ってきた。

ミウラ先生、仕事してたんだね…。

今回の目玉のマティスの金魚は勿論、印象派からキュビスムまで、見所がちりばめられていて、豪華な展示だった。
中でも見所は、ミウラ先生自身も仰っていた、フランス近代版画のコーナーだろう。マネからピカソまでの版画が、可也の点数出ている。添え物ではなく、これだけの力を入れて展示されているのは、企画展にしては一寸珍しいのではないだろうか。

中々良かったが、個人的にはもっとキュビスムを観たかった。


人が溢れていたので、じっくり観られなかった。来週末なんかは、凄まじいのだろうな。

画を観に来たのか、後頭部を観に来たのか、わかりゃしない。
君もスノッブ、僕もスノッブ。みんなスノッブ。

先日、パリ出張帰りのセンセイの土産話を聞いた。
秋の展覧会シーズンで、ルーブル美術館ではジロデの展覧会が行われているらしい。
ジロデって誰?と思ったのは私だけではないらしく、美術史の講義でも院生の方以外知っている人はいなかった。それくらいマイナーな画家らしい。
ジロデはデヴィッドの弟子らしく、一応は新古典派に位置する画家なのだが、その画風は可也異端なのだそうだ。少しネットで検索してみたところ、矢張り異端で、ダヴィッドの画風と大きく違う。
気に入ったのだが、展覧会日本では行われないのだろうか。観たい。
グラン・パレでは「メランコリー」をテーマに、テーマ展が行われているらしい。デューラーのメランコリアは勿論のこと、憂鬱質がネガティブなイメージから、芸術家の思索を意味するポジティブな気質と見られるまでの変遷は勿論、そこから精神医学との出会いや近現代美術にまで及ぶ広い範囲を、メランコリーと云う側面から見せているらしい。ああ、これが一番観たい。でも、これは日本には来られないのだろうな。

他にも、ダダやの展覧会(作品と云う形では現存しているものも少ないらしいが)、クリムトらのウィーン分離派展、19C後半のロシア美術など、珍しい展示が今シーズンは盛りだくさんだと嬉しそうに先生は語っていたが、暇はあっても金が無い学生には、少々酷というものだ。

ちなみに、ジロデにしても、メランコリーにしても、クリムトにしても、ダダにしても、何処か陰のある、頽廃的イメージがある展覧会が多い。これは、世情を反映しているのではないかと先生は言っていたが、中々興味深い。暴動を起こしている若者は、メランコリアではなさそうではあるが。

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