3.文学の最近のブログ記事

http://yamagata-np.jp/news/200810/05/kj_2008100500070.php
大江健三郎が日取りを勘違いして、講演に来なかったのだとか。

そんなことはどうだっていい。観客も、井上ひさしと大江健三郎の講演を両方聞けることになれば、ラッキーと思う人が多いんだろうし。

むしろ、ひっかかったのは
大江さんが現在、書き下ろし小説に取り掛かっていることに触れ「日付を忘れるくらい執筆に集中していたのでは。」
という部分。

また小説に取り掛かっている!これは楽しみに待たざるを得ない。

大江健三郎の小説の最新作は、『さようなら、私の本よ!』と思っているかもしれないが、そうではなくて、去年の年末に出た『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』が小説の最新作だ。

この小説は、あまり話題になっていないみだいだけれど、こんな小説をこの年齢になっても書けるということに、改めて感嘆せざるを得ない。

この小説がどういう小説か、ということを説明することは難しいのだけれど、以下の部分を引用してみよう。

事実として、ラウリーはどうやってるか? いまいったとおり、かれはシナリオを書いていない! フィッツジェラルドの小説を完璧に映画にしたものがあるとして、それをマージュリーと見てる自分。この視点を設定して、その視点で映画を見てゆく、そしてそのまま三人称現在形の小説を書いてるんだ。一般のシナリオに対比してみれば傷だらけだ。無闇に長いト書、カメラへの指示のつもりの詳細な情景描写……つまりラウリー・シネマというほかない、かれの映画の小説を書いているんだ! Kenzaburo、きみはもうすでに、いったんシナリオを書いた。それが映画になればどういうものであるか、きみ自身には見えていただろう。それを思い出して書いてもらいたい。小説の玄人として、映画の小説をかいてもらいたい。それをテクストに、サクラさんが自由に映画を撮影する。彼女こそ映画の玄人だ。それはできる。

サクラさんは永生きするはずだが、おれやきみ二人の協力者が欠けて実際のプランは流れてしまっても、きみの書き上げておく小説としてのシナリオを読むことで、まさにわれらの映画を見ることができる。しかもKenzaburoの小説をつうじて、将来かなりの人数が、サクラさんのその映画を見るのと同じ体験をするだろう。

つまり、この小説の主人公であるKenzaburoは、出来上がった映画を観客として見ているという視点でシナリオを書き、それによって映画は撮影される。
そして、この小説の中の、Kenzaburoのシナリオの読者は、このシナリオを読むことによって、映画を追体験できる。
ここまでなら、まだわかるのだけれど、ここから現実世界まで、もう一段階同じ構造が作られる。
つまり、この作品の中では、実際にKenzaburoによって書かれたシナリオはそのままの形で提示はされない。それは当然で、現実世界の読者が呼んでいるこの小説そのものが、このシナリオそのものであるからで、この小説自体が、この小説世界内のサクラさんの映画を小説によって表現しているものだからだ。
つまり、この小説は、サクラさんの映画を観客として見ている視点からKenzaburoによって書かれたシナリオ、にそって撮られた映画を、現実の小説家大江健三郎が、Kenzaburoがたったのに似てはいるが、一段階メタな視点をから、三人称現在形で−その類まれなる想像力によって−描いた、という複雑な構造をとっているのだ。

つまり、この小説は、小説によって映画を表現できるか、という試みなのだと思う。
それを、これだけ実験的な(と言ってもいいだろう)構造で描いている。
しかも、その複雑な構造だけにとらわれることなく、その筆致は、「レイター・ワーク」と自ら言っているように、静謐で、美しい。
しかし一方で、ユーモアも忘れてはいない。

こんな小説を、この年齢で書ける大江健三郎という作家の衰えない想像力−創造力−に感嘆するとともに、新作を同時代に読めることが幸福と感じずにはいられない。

しかも、新作を書いているというではないか!
待ち遠しく待つとしよう。

ちなみに、この小説は、表紙の帯に、作者自らが書いているように、"It's only movies, but movies it is !"というフレーズがキーになっている。
まさに、それがテーマであろう小説。軽妙さもあってすばらしい。

いったん口をつぐみ、木守は私の右腕を見つめる思い入れをしてから、続けていた。
きみはサクラさんがよく口にする言葉として、"It's only movies, but movies it is !"というのを聞いただろう?「たかが野球、されど野球」というやつのもじりだね。

Chasin' The Bird

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ついに会った、鳥-bird-に。

最近ジャズを余り聴いていないな、と思い、前から気になっていたジャズベースを聴くことにした。
手当たり次第に有名な人を聴いてみようと思い、ジャコ・パストリアス、ポール・チェンバース、ロン・カーター、チャールス・ミンガス、とまさに手当たり次第に借りた。
それらを聴いていると、お、これいいな、と思う曲があって、それがポール・チェンバースが演奏している"Chasin' The Bird"という曲だったのだ。

"Chasin' The Bird"というのか、と思い、CDを見たら、納得した。そうか、オリジナルはチャーリー・パーカーなのか、と。
こんなことも知らないから、ジャズのことを書くのは気が引ける。

ジャズを殆ど全く知らない私でも、チャーリー・パーカーの名前は知っていて、そのニックネームがbirdということも知っていた。
大江健三郎の小説によって。

大江健三郎の小説でバードというニックネームの主人公といえば『個人的な体験』が有名で、他には短篇の『不満足』にも出てきている。
このバードという人物が同じニックネームを持つジャズミュージシャンから来ていることは知っていたし、チャーリー・パーカーの名前も一応は知っていた。

今まで聴いたことはなかったけれど、なんだか、やっとバードに出会えた気がして、とても嬉しかった。
まさに、"Chasin' The Bird"だ。
ずいぶんと回り道ではあるけれど、急ぐ道でもない。

このバードという人物は実に印象的で、私が特に『個人的な体験』が好きということもあるのだけれど、バードがまだ20歳のころの話の『不満足』も非常に印象深い作品だ。そして面白いのが、『不満足』はまさに初期大江作品の特徴が色濃いのに比べて、『個人的な体験』は、まさにそんな初期初期大江作品から決別するきっかけともいえる作品で、それらに同じバードという登場人物を通して描かれているという点だ。

『不満足』の冒頭で、バードは次のような人物として描かれる。

(<>内は原文ではふりがな)
鳥<バード>には、容貌、骨格、肉づき、姿勢、態度すべてに、あの神経過敏な羽根だらけの運動体を思い出させるところがあるからだ。鳥<バード>のすべすべして皺ひとつない鼻梁は鳥のクチバシのように張って力強く湾曲しているし、眼球はニカワ色のかたく鈍い光をもって用心深く、あんずの実の形でつりあがった眼のなかで動いている。脣はいつもひきしめられているように薄く硬く、頬から顎にかけては鋭くとがっている。髪は赤っぽく炎のように燃えたって空に向かっている。鳥<バード>が肩をはって前屈みに歩いているところは、痩せた運動家タイプの老人のようで、そして結局、鳥に似ている。そしてかれの性格の若いながらの重厚さとうらはらな金切声は、それは確かに鳥だ、鳥<バード>……
(大江健三郎 『不満足』)

どうだろう、この冒頭の部分だけでも、私はこのバードに惹かれたのだけれど、私が三島由紀夫の文章の美しさが解らないように、この感覚を共有できない人もいるのだろう。

バードと僕と菊比古とはこの後、三人で精神病院から逃げ出した患者を捜索するのだけれど、その過程はむせ返るような濃密さで描かれる。

バードは物語の終盤で、菊比古との対比によって、「大人」として描かれる。

朝だ、悪夢は近づいてこない……港の工場へと出勤する工員たちの自転車を鳥<バード>と友人のオート三輪が次つぎにおいこしてゆく。朝の光に、睡りたりなくて不機嫌で、洗いたての頬を冷たい朝の空気に赤くした工員たちが、キラキラ光りながら自転車で走っていった。かれらは一日の労働をまえにして健康で生きいきとし、そしてどっしりと重い屈託と生命感とをうちにひめていて、そして鳥<バード>たちに無責任な好奇心をしめすことはなく、無関心に自分に閉じこもり、自転車で工場へ走ってゆく。鳥<バード>は自分がもう昨日までの苛立たしい不満足から開放されていることで、その工員たちと同じ静かな大人のひとりであることを感じた。鳥<バード>はもう、菊比古たちの不満と恐怖の世界に戻ってゆくことはないだろう、かれはいま、工員たちとともにキラキラ光りながらオート三輪の補助席に前屈みにかけて、むっと黙りこんで走っていた。大人たちの朝だ。

私が数年前(といってもずいぶんと前のように感じるのだけれど)、ある種の切実さで大江作品を読めたのは、きっと、青春というものを「不満と恐怖の世界」としっかりと描いてくれていたからなのだろう。
そして、私が大江作品をそれ以上に読むようになったのは、「不満と恐怖の世界」のその後、成長した人間はどう生きていくべきか、というひとつの回答(それは決して唯一の正解ではない)を示してくれたからだろう。

大人たちの朝を迎えたはずのバードは、『個人的な体験』の冒頭では、こういう人物として描かれる。

鳥<バード>、かれは二十七歳と四箇月だ。かれが鳥<バード>という渾名でよばれるようになったのは十五歳のころだった。それ以来かれはずっと鳥<バード>だ、いま飾り窓のガラスの暗い墨色をした湖にぎこちない格好で水死体のように浮かんでいる現在のかれも、なお鳥に似ている。鳥<バード>は小柄で、痩せっぽちだ。かれの友人たちは大学を卒業して就職したとたんに肥りはじめ、それでもなお痩せていた連中さえ結婚すると肥ったけれども、鳥<バード>ひとりは、幾分腹がふくれてきただけで痩せたままであった。かれはいつも肩をそびやかして前屈みに歩く、立ちどまっている時もおなじ姿勢だった。それは運動家タイプの痩せた老人の感じだ。かれのそびやかした肩は閉じられた翼のようだし、容貌自体、鳥をしのばせる。すべすべして皺ひとつない渋色の鼻梁はクチバシのように張って力強く彎曲しているし、眼球はニカワ色のかたく鈍い光をたたえて、ほとんど感情をあらわすことがない。ただ、時どき、驚いたように激しく見ひらかれるだけだ。唇はいつもひきしめられて薄く硬く、頬から顎にかけては鋭くとがっている。そして、赤っぽく炎のように燃えたって空にむかっている髪。鳥<バード>は十五歳のとき、すでにこのままの顔をしていた、二十歳でもそうだった。かれはいつまで鳥のようであるのだろう?十五歳から六十歳にいたるまで、同じ顔、同じ姿勢で、生きるほかない、そのような種類の人間なのか?そうだとすれば、鳥<バード>はいま、飾り窓のガラスのなかにかれの全生涯をつうじてかれ自身を眺めているのだった。鳥<バード>は嘔きたくなるほど切実に具体的な嫌悪感におそわれて身震いした。かれはひとつの啓示をうけた気分だった、疲れはてて子沢山の老いぼれ鳥<バード>……
しかし、おれが現実にアフリカの土地を踏み、濃いサン・グラスをかけてアフリカの空を見あげる日はおとずれるだろうか?と鳥<バード>は不安な思いで考えた。むしろおれはいま、この瞬間にもアフリカへ出発する可能性を決定的にうしないつつあるのではないか?すなわち、おれは、いま、自分の青春の唯一で最後のめざましい緊張にみちた機会に、やむなく別れをつげつつあるのではないか?もしそうだったとしても、しかし、もうそれをまぬがれることはできない。

『不満足』のバードの容貌の描写をなぞるようにして描かれた『個人的な体験』のバードの容貌の描写。しかし、それらは文の構成や「鳥<バード>……」という部分まで同じでいながら、そこにはやはり7年の月日が流れている。
つまり、『不満足』は十代から20歳へと移り変わる瞬間を、そしてこれは、「青春の唯一で最後のめざましい緊張にみちた機会」を描いている。
27歳のバードが超えるべき試練は、逃げ出した精神病院の患者ではなく、「頭部に異常をそなえて生まれてきた」赤ん坊である。
『不満足』と『個人的な体験』はどこかなぞるようにして描かれていて、それでいて決して重なり合うことはない。いわば、螺旋状に上昇していくようだ。
そしてこの螺旋は、27歳で途切れることはなく、驚くべきことに、『さようなら、私の本よ!』まで脈々と続いているのだ!
それが私が大江作品を好きになった理由かもしれない。
つまり、玉川上水に飛び込むやり方ではなしに、青春の後、どう生きることができるか、というひとつの回答(そしてそれはやはり唯一の正解ではない)、を信頼できるやり方で示してくれたように思ったのだ。
それは即ち私にとってのヒントになるということはないだろう、しかし、「老人の愚行」を依然として語ってくれる人がいるということに、私は大きく励まされた。

少し話しがそれたけれど、このような螺旋状の作品展開−そしてその螺旋運動の原動力は想像力!−は大江作品の魅力のひとつであると思う。
だから、私が人と小説の話をして、大江作品が面白いと言って薦めるとき、初期から順に読んでいったほうがいい、というのはそのためだったりする。
『個人的な体験』も、『万延元年のフットボール』も読まないでいきなり『さようなら、私の本よ!』を読んでも、面白くないとは言わないけれど、なんだかもったいない気がする。

何の話をするのか見失ったところで、そんな風に思い入れがある鳥<バード>に出会えたのがとても嬉しかった、ということにしておこう。

ちなみに、初めて聴いたチャーリー・パーカーは、鳥<バード>の印象とはずいぶんと違って、軽やかな音だった。いや、ひょっとしたら鳥<バード>の軽やかなのかもしれない。

『個人的な体験』の終幕近くのつぎの箇所が私はとても好きだ。


「鳥<バード>、あなたはいろんなことを忍耐しなければならなくなるわ」と火見子が鳥<バード>を励ますようにいった。「さようなら、鳥<バード>!」
うなずいて鳥<バード>は酒場を出た。かれがひろったタクシーは雨に塗れた舗道をすさまじい速度で疾走した。もし、おれがいま赤んぼうを救いだすまえに事故死すれば、おれのこれまでの二十七年間の生活はすべて無意味になってしまう、と鳥<バード>は考えた。かつてあじわったことのない深甚な恐怖感が鳥<バード>をとらえた。

あとがきで知ったのだが、発表当時はここで物語を終わらせた方がよいという批判もあったのだそうだ。実際大江健三郎自身も、この一節が「充分な力と重みをもちうるように、先行するシーンがよく描きこまれてさえいえるならば、ここで小説を切ったにしても、充分に自分のめざしたところはつたわると思う。」と述べているが、続く部分についてはこうも述べている「それでもなおかつ、この小説を書いた僕が、二つのアステリスクにつづくシーンを必要としたことについては、それなりに若い書き手としての必然性があってのことだったと、それゆえにこそ批判を覚悟で抗争をつらぬいたのだったと、いまも僕はそのような自分を支持する」と。

実際、これを始めて読んだときは、「若い読み手」としての私にとっても、二つのアステリスクにつづくシーンはとても切実に必要ものだった。その直前の一節が本当に切実であっただけに。

その二つのアステリスクに続くシーンはこう締めくくられている。

「きみは変ってしまった」と教授が幾らかは愛惜の念もこもっている、あたたかい肉親の声でいった。「きみにはもう、鳥<バード>という子供っぽい渾名は似合わない」
鳥<バード>は、赤んぼうを囲んでなおも熱中して話しあいながらかれらに追いついてくる女たちを待ちうけ、妻の腕にまもられた息子の顔を覗きこんだ。鳥<バード>は赤んぼうの瞳に、自分の顔をうつしてみようと思ったのだった。赤んぼうの眼の鏡は、澄みわたったにび色をして鳥<バード>をうつしだしたが、それはあまりにも微細で、鳥<バード>は自分の新しい顔を確かめることができなかった。家にかえりついたならまず鏡をみよう、と鳥<バード>は考えた。それから鳥<バード>は、本国送還になったデルチェフさんが、扉に《希望》という言葉を書いて贈ってくれたバルカン半島の小さな国の辞書で、最初に《忍耐》という言葉をひいてみるつもりだった。

今の私にとっても、まだこの部分は必要なように思う。

http://book.asahi.com/news/TKY200802060455.html

20代で短歌を捨てたと思われていた寺山修司(1935〜83)の未発表作が残っていた。188首を収めた歌集「月蝕(げっしょく)書簡」(岩波書店)が近く出る。47歳で早世した前衛歌人のうたがよみがえる。

こ、これは気になる。

父ひとり消せる分だけすりへりし消しゴムを持つ詩人の旅路

この歌とてもいいな。
東京に出てきた後の寺山修司がどのような気持ちをどのような歌に込めたのか、とても知りたい。

明けたね。
明けたよ。

忌野清志郎が、KYってのは今年もよろしくのことだ!、って言ったらしいね。
いかす。

年末年始はいろいろあって、といっても、主にぼんやりとしていたのだけれど、連絡を取っていたのが殆ど家族のみだった。
主なメールの相手が姉で、その内容は『仁義なき戦い』シリーズで誰が好きだとか、帰省する日程との関係でいつ猫の世話をしにいくかとか、そういう話ばかりだった。
ちなみに、姉夫婦が帰省している間は、猫たちも寂しいらしく、非常に手厚いもてなしをうけた。早い話がもてた。
女性にもてるよりも、猫にもてた方がうれしいかもね、と二つのふわふわのうちでよりふわふわな方に言ったら、どっちでもいいから、撫でろよ、とでも言うように目を細めてに私を見上げた。

以上を持って年末年始の報告とさせていただいて―ちなみに姉は小林旭(おそらく『代理戦争』の)が好きで、私は渡瀬恒彦(同じく『代理戦争』の)だった―最近琴線に触れたことでも挙げてみよう。

まずは詩。
詩集を贈られた。ミヒャエル・エンデの『影の縫製機』を。
私はミヒャエル・エンデには特別な思い入れがあって、それはおそらく、記憶している限り、最初に自分で読んだ長い作品が『モモ』だったからだろう。
そんな事情を知らないであろう人から、たまたま頂いたので驚くとともに、とてもうれしかった。
人に本を贈るということはとても素敵なことだと思うけれど、とても難しいと思う。
その人の趣味を知ることは難しいし、趣味に沿いすぎていても面白みがない。
さらに詩集になると、とても難しい。
さらりとエンデの詩集を贈れるような、そういうセンスをとてもいいものだと思った。

本自体も勿論素晴らしい。
装丁も美しいし、ビネッテ・シュレーダーによる絵も素晴らしい。
エンデの詩については言わずもがな。

ある日の朝八時
綱渡りはなにもかけずに
虚空をあるきだす
まるでそこにロープがあるかのように!
奈落のはるか高みを
足どり軽く すいすいと
けれどもつかむところのない フェリックス
風にふかれてとんでった

風のふくまま 気のむくまま
どこへいったか綱渡り
望遠鏡のぞいた天文学者がいったとさ
アルゴー号の星座の中に かれがいた
夢なものか
ちゃんと見た
星から星へ
綱をわたるようにあるいていた
(ミヒャエル・エンデ『綱渡り』)

綱をどんどん細くしていって、ついには綱すら必要とせずに虚空を歩き出した綱渡り。
この軽やかな興奮が素晴らしい。また、風にふかれてとんでいる絵がまた素晴らしい。
素晴らしい詩的興奮を味わった。


詩といえば、ある人が薦めていたアンドレ・ブルトンの『狂気の愛』を牛歩どころか蝸牛の歩みで読み進めている。
ずるをして、最後の娘への箇所を読んだら大層感動して、これは最初から順に読み進めていこうと思っている次第。
この作品に興味をもったのは、その人がmixiで薦めていたから、というのも大きいのだけれど、この「狂気の愛」というフレーズに惹かれたという点も大きい。

去年ルイス・ブニュエルの映画について山田宏一が話していたのだけれど、映画雑誌のインタビューで愛に何を求めますか、と尋ねられたブニュエルは、あたりまえのようなことだけれど、愛、狂気の愛、と答えたのだそうだ。
リュミエールか何かが出典だそうで、フランス語が全くわからない私には原典をあたることができず、不確かな引用になってしまうのだけれど。
このように、このエピソードがとても印象に残っていたところに、アンドレ・ブルトンの『狂気の愛』を知ったので、非常に興味がわいたのだ。
勿論邦訳で読んでいるけれど、表現の美しさに感動する。
こういうものを原典で読めるということはとても幸福な体験なのだろうな。
とはなからあきらめていてはいけないのだろう。

わたしは愛が生活と争いもつれ合うことも否定しない。わたしはただ、愛が生活に打ち勝つべきだと思うし、そのためには、愛が、愛自体に関するひとつの詩的意識にまで昂められねばならないことを言っているのだ。つまり、愛が必然的に出逅う愛に敵対するいっさいのものが、愛に固有の栄光のまっただ中で溶解されるような、そういう愛自体の詩的意識にまで。
(アンドレ・ブルトン『狂気の愛』)

詩は詩、でも歌詞の話をすれば、今更ながらに、"EnglishMan In New York"をきちんと聴いた。
というのも、羊毛とおはなの"Live In Living’07" (まあ絶品のアルバム)の中でカバーされていたのを聴いたのだけれど。
もちろんこの曲のメロディぐらいは聴き覚えがあったけれど、タイトルすら知らなかったし、勿論歌詞の内容も知らなかった。
ところが聴いてみると、素晴らしいではないか。今更。
勿論、このカバーが素晴らしいということもあるけれど。

Modesty, propriety can lead to notoriety
You could end up as the only one
Gentleness, sobriety are rare in this society
At night a candle's brighter than the sun

Takes more than combat gear to make a man
Takes more than a license for a gun
Confront your enemies, avoid them when you can
A gentleman will walk but never run

If, "Manners maketh man" as someone said
Then he's the hero of the day
It takes a man to suffer ignorance and smile
Be yourself no matter what they say

I'm an alien I'm a legal alien
I'm an Englishman in New York
(STING "Englishman In New York")

legal alienという言葉がなんとも良い。
"At night a candle's brighter than the sun"というフレーズも好きだ。
Stingの原曲も聴いたけれど、羊毛とおはなのカバーがとてもよくて、こちらの方が好きかもしれない。
山崎まさよしもカバーしているとのことなので、少し聴いてみようかと思う。

この歌の内容は、やっぱり普遍的なもので、例えば東京にいる関西人とかにも通じるのかな、と思ったけれど、それは私の嫌いな過剰な関西アイデンティティの誇示のようで、少し違うかな、とかいろいろと東京へと向う新幹線の中で考えていた。
どうやら、実際に、この曲のカバー?で"関西人 in Tokyo"(種浦マサオ)という曲があるらしい。
過剰な関西人アイデンティティの誇示だったらいやだな、と思っていたら、まさにその点を逆手にとって、
関西人と一括りにされがちながらも、実は奈良出身で特に面白いことを話すのが得意なわけでもない、という心情を歌っていたので驚いた。

面白い人でくくらんといてや しゃべり 自信がないから
どんなに言うてもこの関西弁 貼られてる レッテル決まってる

Oh ほんま エイリアン
なんかちょっとちゃう エイリアン
俺 関西人 in Tokyo
Oh ほんま エイリアン
 なんかちょっとちゃう エイリアン
俺 関西人 in Tokyo

コンパに呼ばれて つっこみ任されて 中途半端なボケかまされて
「面白い人ね」って、 「大阪の人は」って
だから違うんだ 俺は奈良生まれだ!
(種浦マサオ "関西人 in Tokyo")

やっぱりちょっと鼻に付くところもあるけれど、それはいわゆる関西弁のイメージから来ているもののようにも思えて、この歌自体は、けっこうまっとうなことを言っているような気がした。
だからといって、この曲が面白くて、カラオケなんかで歌うかといえば、そういう行いこそがこの曲で言うところのレッテルに他ならないように思う。
なんか、おもろいね。

あとは、言葉、ではないけれど、森美術館の"六本木クロッシング2007"を観てきた。
前回(2004年だったらしい)行ってとても面白かったので、今回も開催期間ぎりぎりに滑り込んだ。
前回も現代芸術の多様な姿を観られて、何より解りにくいことぬき!という具合に楽しめて非常に良かった。
今回も楽しい展示がとてもたくさんあって、興味深かった。
琴線に触れた作品がいくつもあったけれど、今日は少し長く書きすぎたので、省略しようと思う。

あ、そうだ。今年もよろしく。KY。

http://d.hatena.ne.jp/thinkingreed/20070805について

作品を鑑賞した際の感動と、優れた批評に触れた際の感動はどのような関係に立つのか。また両者は価値的に異なるものなのか。という問題について私なりに考えてみた。
とは言っても、大学での少しだけ受けた講義を参考にしてのことだから、もとより浅い素人考えであることは断っておく。

講義で用いた『フィクションの美学』(西村清和 勁草書房)を引用しながら。

この本によると、フィクションについての言説は次のように4つのレベルを区別すべきだとしている。(p.52)
1.虚構テクストの発話行為としての「小説を書く」作者の虚構世界を描写し構築する行為
2.テクストのなかの個々の主張文を、じっさいに虚構世界への指示にもちいる語り手ないし登場人物のふるまい
3.テクストの主張文をフィクションの慣習にしたがって虚構世界への指示として読み、小説を経験する読者の行為
4.現実の読書経験に接して、テクストや虚構世界さらには現実世界について主張する批評的言説の行為

この4つの中で4の行為のみが、科学や宗教神話とおなじ資格で真実であるか否かを問いうる、つまり、真理性にかかわる行為である。つまり、1から3の行為は虚構世界の構築にかかわる言説であり、それが真実に一致しているか否かは関係がないということであり、それに対して4の行為はシャーロックホームズが気難しい人間かユーモアに満ちた人間か、という読書経験についてのtruth/falseを問いうる、或は、『自転車泥棒』の虚構世界がどの程度現実世界と一致視しているかというtruth/falseを問いうるということである。
このように、1から3、とくに、今回問題としている3の読者(観客)として作品を経験するという行為と4の作品について語る行為というものは質的に異なり、独自の美的行為だと言える。

さて、このように観客として作品を経験する行為と、作品についての言説が質的に異なる行為だということは、明らかであると言えるが、問題なのはその両者の関係、とくに「価値」についての違いである。

そこで問題となる読者として作品を経験するというのはどのような行為であるかについて、この本は次のように述べている。

「読者である」とは、虚構の発話行為の文脈の慣習として、いっさいの言明の指示表明を、舞台上の虚構世界への指示にふりむけよ、そのさい、発話者も聞き手も、それぞれの世界認識や行動の準拠枠としての信念体系をたずさえるにしても、これを虚構世界の理解とイメージ形成のために動員せよ、という指令にしたがうこと以上ではない。虚構文の指示の先は、舞台上の虚構世界の次元であり、その先には、もともとなにもない。読者の観客席は、もっぱらこの前方の舞台のみを見るようにしつらえてあり、この観客席に身をおくかぎり、わたしは自分のうしろにひかえる現実世界をふりかえったり、また舞台のむこうがわにつきぬけたりは、読書行為の慣習上、してはならない。
(略)
一瞬わたしは、目をテクストからはなして、自分自身の理念に集中しつつ、これらの主張の妥当性や真偽を検討する。それは、読書行為の中断である。そのときわたしは、読書の観客席をはなれて、自分の背後の現実へと視線を向けているのである。伝統的な「詩の可能的普遍性」の主張のように、読書行為をつうじての虚構世界の経験が、その「一般化」において、われわれに、自分自身や人間一般のあるべき姿、あるいはありうる姿を反省させることが、ときにあるとしても、それはビアズリーもいうように、「作品を読んでいるあいだではなく、読んだあと」のことであり、したがって論理的にいうかぎり、作品経験をそのような指示にもちいるのは、作品自体ではなく、批評家や文学研究者、哲学者、あるいは伝記作者や歴史家である。
(西村清和 同書pp.82-83)

つまり、観客が作品を鑑賞している際にも上記の3と4の行為はともに行われることがありえるのであるが、両者は論理的には異なるものであるとしている。そして、(同書p.77)によれば、観客が観客席にとどまることが出来るか、つまり、観客がその作品を読者として鑑賞する際に感動できるかどうかは、共感/反感にかかわる問題であり、それは作品のドラマトゥルギーないしストラテジーの問題であるとする。つまり、いかに上手く共感させて観客を「観客席」につかせるか、という問題であるということである。それに対して、「自分の背後へと視線をむける」行為、つまり、4の行為を行うということは、共感/反感にかかわるドラマトゥルギーないしストラテジーの問題ではなく、真/偽あるいは同意/不同意にかかわる問題であるとしている。

これによると、「優れた批評・評論・テクスト分析に触れて、「あ、そういうことなのかあ」と思って再び読み直してみる。」ということは、批評によって作品のドラマトゥルギーないしストラテジーを補完あるいは新たに創作する行為であるということができよう。そもそもテクストを読むということは、「観客席」は普遍のものではありえず、常に観客の偏見や文化的背景により左右されるものであるため、優れた批評・評論・テクスト分析に触れて「観客席」のドラマトゥルギーが変容するということも多いにありえることではないだろうか。

そしてこの際に問題となるのは、この変容・修正されたドラマトゥルギーによって得られる「観客席」と、それ以前の「観客席」とは価値的にどちらが優れているのか、ということであろう。
本来は、どちらも観客として作品を鑑賞するという行為であり、共感/反感にかかわる行為以外のものではないはずで、どちらが価値的に優れているとは言えないはずである。
しかし、それにもかかわらず、批評によって修正された「観客席」から得られる共感の方がより高度のものであり、そのような批評を可能とする作品はそれ以外の作品よりも高度であるというような考え方が存在するように思われるのはなぜか。

そのヒントもやはりこの本に求めることにしたい。
そのヒントは「有用の快」にあるように思う。(同書第一章参照)
この「有用の快」の考え方は、アリストテレスの詩学から現在も伝統的な解釈学に影響を与えている考え方で、非常に大雑把に言ってしまえば、芸術作品に価値があるのは、天才が創作した作品を受容することによって、読者や観客はその体験を通して普遍的真理に到達することができるからであるという考え方である。この考え方によれば、より普遍的な真理を表現している作品こそが有用で価値があるものであり、観賞の方法としての「観客席」についても、より普遍的な真理に到達しうるような方法が、より価値があるものということになる。
このような伝統的な考えかたに基づいているからこそ、修正された「観客席」の方がそれ以外の「観客席」よりも高度で価値があるものとみなされているのではないだろうか。また、作品の価値自体についても、そのような批評の存在によって普遍的な真理に到達しうるものの方が、より価値があるということも、この考え方に基づくものと言えるだろう。

しかし、上記のように、作品を観客として鑑賞する行為は、独自の美的行為であり、真理であるかどうかを問うことはできない共感/反感にかかわる行為のはずである。このような真理性を価値判断の基礎におく考え方は、上記3と4の行為を混同しているのであって、本来両者はどちらが優れているとは言えないはずではないだろうか。

『世界の中心で愛をさけぶ』より『人間失格』の方が文学作品としての価値が高いということを、上記のような伝統的美学の観点から説明するとすれば、『人間失格』は人間にとって何が普遍的な真実であるかを描いており、それを通して読者は真実に到達しうるから価値があるのであって、セカチューにはそのような普遍的な真実を描いていないから価値が無い、ということになるのだろう。
もしくは、このように真/偽という観点からではなく、上記のような共感/反感という点からも説明できよう。つまり、『人間失格』は一人称の語り方を用いており、読者にごく近い距離感を感じさせ、多くの人に「自分のことだ」と思わせるようなドラマトゥルギーが巧みに用意されている。一方、セカチューはそのようなドラマトゥルギーがそれほど巧みではないから、共感できない、というように。もっとも、観客の側の共感の敷居が低ければ、また、共感の基準が文化により異なれば、その共感の多さも変わってくるだろうから、『人間失格』よりもセカチューのほうが共感できるという人が居たとしても、何ら不思議はない。その場合でも、あくまで両者は共感/反感という点での経験に過ぎず、どちらが価値的にすぐれているとは言えないのではないだろうか。
どの程度観客として共感できるかつまり、観客として感動できるという点と、作品を題材として批評・テクスト分析をどの程度作り出すことができるかという点は質的に異なるものであって、どちらか一方の基準が他の基準より優れているということはできないのではないか。

これで答えになっているかどうかは解らないが、最後に印象に残った文章を引用しておく。少し長いが、この文章で答えは足りるようにも思われる。やはり同じ本である。

たしかに、わたしがフィクションから、世界や人生や人間について、ときにまなび、自分の人生の指針をえることは、事実としてあるだろう。とりわけ、青春時代には、ひとはそのような経験をしたことがあるにちがいない。だからといって、それが読書経験の本質であるとか、芸術の価値であるとかいえるものではない。そのようなことが生じないばあいでも、他のどの場合よりもふかい共感と感動に満たされた読書経験をすることは、やはりおなじようにあるのである。共感や感動、感興、あるいはこれをなんと呼んでもかまわないが、このような美的経験の実質は、読者にのみわりあてられた観客席に身をあずけて小説を読む行為からしか、われわれにあたえられないものである。読者にとっての、小説を読むという芸術経験の価値は、さしあたり、このようなものである。これを「快楽」と呼ぶなら、それもよい。だが、この快楽の価値だけではものたりず、これを読書行為とはべつの文脈において、「有用の快」をいいたてるのは、議論をいたずらに混乱させる。われわれとしては「読書の快楽」だけで満足しよう。だが、わたしの人生に、読書からしかえられない快楽があるということ、このことだけでも、それがない人生の貧しさにくらべれば、この快楽はわたしにとって、ひとつの贈与なのではあるまいか。 (西村清和 同書 pp.84-85)

ガルシアと言えば、ガエル・ガルシア・ベルナルかもしれないし、『百年の孤独』と言えば焼酎かもしれない。
しかし、この場合はガルシア=マルケスのことだ。
ガルシア=マルケスの全小説が出版されるらしい。
http://www.shinchosha.co.jp/topics/marquez/
次はガルシア=マルケスを読もうかな。
フォークナーも気になっている。『八月の光』が凄かったものだからね。

インターネットってすごいなあ、ともう何回目かわからないけれど、やっぱり唸ってしまった。
http://takamatsu.cool.ne.jp/azure2003/
『政治少年死す』も『風流夢譚』も読めてしまう。
少しすっきりしない気分も感じるけれど。

ちなみに、他にガルシアで思い出すのは、アンディ・ガルシアとガルシア・ロルカと後一つ。
勿論、アルフレッド・ガルシアさ。
Bring Me The Head of Alfredo Garcia!!

1月の記録

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1月の記録
[映画]
[1] 『アダプテーション』 オンデマンド配信
[2] 『チャーリーズエンジェル』 オンデマンド配信

<本>
<1> 大江健三郎 『新年の挨拶』
<2> 大江健三郎 『現代伝奇集』
<3> 大江健三郎 『治療塔』
<4> 大江健三郎 『治療塔惑星』
<5> 大江健三郎 『静かな生活』
<6> 大江健三郎 『二百年の子供』
<7> 大江健三郎 『僕が本当に若かった頃』
<8> 大江健三郎 『青年の汚名』
<9> 大江健三郎 『孤独な青年の休暇』
<10> 大江健三郎 『さようなら、私の本よ!』

何とか大江健三郎の小説を一月中までに読み終えることが出来た。

大江健三郎作品の「しめくくり」としての『さようなら、私の本よ!』を読み終えた。
途中何度かブランクがあったものの、2年ほどの時間をかけて、小説に限って言えば(『政治少年死す』と『夜よゆるやかに歩め』を除く)ほぼ全ての作品を読み終えた。

私が鬱屈していた時期に出会って、痺れるほどの衝撃を受けた初期の幾つもの作品から、『個人的な体験』以降の「青春が過ぎ去った後」まできちんと書いたもの、また、『燃え上がる緑の木』を初めとした「魂のこと」を書いたもの、そして、老いを書いた「おかしな二人組み」三部作までを読み終えた体験は、確かに至福の体験であった。

読書体験には人生における特定の時期にしか出会えない、運命のような本があると、確か大江健三郎は書いていた。
私が読んだ全ての大江健三郎作品が私にとって運命の出会いであったとは言えないだろうが、いくつかは確実に今しか出会えなかった読書体験だと言い張ることは許してもらいたいと思う。

最後に読んだ『さようなら、私の本よ!』を含めた「おかしな二人組み(スウード・カップル)」三部作は、まだ私にはよく解ったといえないところが多い。

しかし、今後私が何十年と歳をとっていくにつれ、じょじょに「ああ、こういう具合だったのか」と解る日が来るように思えるし、また、そのように信頼している。

映画であれ、小説であれ、作品には観た者の内面に対して、その場で完結してしまうものと、ずっと棘がささったように何かが残り続けるものがある。
私にとって、大江健三郎作品は、後者であり、その棘は、深く、また、体内に入った異物を肉が包んでしまうように、徐々に同化していくように思われる。

私は確かに、大江健三郎の小説を読み終えた。
しかし、それら全てが解る日は、まだまだ遠く、一生のこととして、それは完結しないだろう。

ひとりの子供が全力で「徴候」に読み取ったすべてに抵抗して、考え続け・生き続けたことを、一冊の本に書くことはありえるだろう!少年が書くことを思い立って、書く技術の修練に生涯を入れ込む、そして、書き始める、ということは!そしてその本が、現実的な結果をもたらさないだろうか?
(大江健三郎 『さようなら、私の本よ!』)

いまコギーは、もう取り返せないところへ踏み出した・壊れてしまった人間の「徴候」を集めているが、それは世界が滅びる段になって、あの男は予言者だった、と認められるためじゃない。まったく、そんなことをして何になる、だから!
 コギーはその記述のなかに、なんらかの逆転のきざしを探そうとしている。自分では認め得なくても、きみの記述を読む次の世代が、それを読み取ってくれることをねがって、無益にみえる労作(トラヴァーユ)をやってるんだ。
 そうであればね、コギー。きみの「徴候」を読む人間が、老人になってやることなど望んでいてはだめだ。かれらが若いうちに自分も書き・若いうちに行動を始めるよう励まさなければ!
(大江健三郎 『さようなら、私の本よ!』)

『僕が本当に若かった頃』を読み終えたので、小説に限って言えば、殆どのものは読み終えた。
大江健三郎作品にも登場したことがあるHP、大江健三郎ファンクラブの作品年表を参照した。
http://www.ops.dti.ne.jp/~kunio-i/personal/oe/nenpyou.htm
入手困難な『政治少年死す』と『夜よゆるやかに歩め』を除けば、読んでいないのは『孤独な青年の休暇』と『青年の汚名』ということになる。
それを読めば、残すはいよいよ、『さようなら、私の本よ!』だ。

こんなふうに全ての作品を読もうと思った理由は数多くあるが、『さようなら、私の本よ!』を読むためには、それまでの全ての作品を読んでいなくてはならない、と強く感じたというのが大きい。
何故、と言われればはかばかしい説明ができるのではないが、それが、礼儀だと感じたのである。

その待ちに待った喜びの瞬間が近づいている。これは楽しみでならない。

さて、その『さようなら、私の本よ!』を読むにあたって、これは2005年に出版された初版を購入しようと考えていたのだが、どうやらこんなものが出でいると言うではないか。去年の年末に。
www.amazon.co.jp/『「おかしな二人組」三部作』-大江-健三郎/dp/4062138042
長江古義人を主人公にした三部作、『取り替え子(チェンジリング)』、『憂い顔の童子』、『さようなら、私の本よ!』をまとめて、付録をつけたものらしい。
『取り替え子(チェンジリング)』と『憂い顔の童子』はともに単行本で持っている(『取り替え子(チェンジリング)』に関しては講談社文庫も)が、なぜか初版のものが105円でブックオフで売っていたものを購入したものだ。

これだけ安上がりになっているのだから、特装版を買うことにしようと思うが、9240円というのに少々たじろいでしまう。
きっと買うのだろうな。

また、これはmixiの大江健三郎コミュニティで知ったのだが、『M/Tと森のフシギの物語』が講談社文庫で出るらしい。
この作品は、『万延元年のフットボール』と並んで、ノーベル文学賞の選考に大きな意味を持ったと言われる作品で、実際大江健三郎作品の中でも非常に大きな意味を持つ作品だ。
そんな作品が、今まで絶版だったというのも信じがたいことではあるが、文庫でどうなっているのだるう、と少し心配になるところもある。

というのも、これは単行本では大判で、各ページに背景として、森の絵が描かれているのだ。
挿絵、というのではなく、丁度HTMLで言うところのbackground-imageのような具合で、文章の背景に全て同じ森の絵が、透かしのように入っているのだ。全てのページに。

この独特のページはとても興味深く、また、本を持つ喜びを感じたのであるが、これが文庫だとどうなっているのだろう、と少し気になった。
まあ、描かれてある中身に違いはないのだし、気になった人は古書で初版を1000円くらいで買えるのだから、問題はないのかもしれないが。

それにしても、『懐かしい年への手紙』を講談社学芸文庫で買おうとしたら、出版社在庫すらないのだから、驚く。この作品もしばらく手に入りづらくなるのだろう。『燃えあがる緑の木』三部作と、『宙返り』へと続く非常に重要な話であるのに。

若いころ、「みんなが読んでいる本」じゃなく、「信頼する人が読んでる本」を読もうとした。
と大江健三郎はジュンク堂の特設コーナー、大江健三郎書店に向けて記しているが、http://www.junkudo.co.jp/sakkashoten/07oe/ooe-kotoba.htm 「信頼する人が読んでる本」も手に入りにくい状況にはなって欲しくないとは思う。

まだ、「信頼する人」を探している段階ではあるのだけれど。

冬至はとっくに過ぎたとは言え、まだ日の落ちるのは早く感じる冬の昼過ぎの太陽に、責めたてられるようにして、神保町の古書店街に行った。
生憎、目的の古書店はおろか、大半の古書店の休業日は日曜日だったのだ。
曜日感覚が狂っていて今日が日曜日だと気がつかなかったと言えば、いかにも「日毎ーデンサ」風だけれども、さすがにそんなことはない。

それでも、開いている古書店があったので、入ってみると、大江健三郎作品が幾つかあったので見ていた。小説でまだ読んでいないものを探すと、『僕が本当に若かった頃』があった。

それとあわせて、もう5年以上欲しい欲しいと思いつつ、買うふんぎりがついていない本、『安部公房レトリック事典』も購入した。
この本は、安部公房の全ての著作から、著者の谷真介がレトリックを採集(この言い回しは巻頭にあるが、ことばを採集という言い方は、実に安部公房作品に相応しいように思える)、項目別に分けたものである。

絶版になっているが、多くの図書館に蔵書として入っていることと、若干のプレミアだけでいつでも買えるという思いから、ついのびのびになっていた。
それを、この古書店以外殆ど閉まっている日に神保町に来てしまう間の抜け具合も何かのきっかけだろう、ということで、購入した。

この日の彩りとして何かを加えたかったために神保町に来たのに、殆どの店が閉店で成果なし、では余りにモノクローム過ぎると感じたのが理由でもあるのだが。

銀色の帯つきで、初版、私は余り本を蒐集するという癖はないつもりだが、この本は確かに、蔵書欲というものをくすぐられるように思う。もっとも私は、五年間くすぐられ続けているほどの鈍感さの持ち主なのだけれども。

第二版では、追加収録もあるということらしいのだが、それを買うのはまた五年後になるのだろうか。
全集を買ったほうが良いのだろうけれど。
ああ、安部公房Complete Worksが欲しい。
これはもう十年ぐらいくすぐられ続けている。

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