2009年2月アーカイブ

『ロルナの祈り』の感想を書いていて、やはり知らず知らずのうちに、過去の作品と比べて優れているかどうかを検討しようとしている自分に気が付いた。

もう、星幾つなんて発想は遠い昔にやめたはずなのに。


私が映画を観て、星幾つと表現しなくなった時期と、映画館に観にいきだした時期は重なる。
つまり、映画館でたくさん映画を観るうちに、この映画が星幾つかなんて、ばかばかしい決め方だと思ったからだ。


その理由は、星5つの映画が星1つの映画に比べて、単純に5倍素晴らしいといえるだけの共通の指標があるのか、ということだ。
おそらく、そんな基準は、無いか、基準として機能しないくらいの曖昧なものにすぎない。考えうるのは、こちらよりもこちらのほうが面白かった、というような。そうであれば、どの程度面白かったかを数値化するよりも、どのように面白かったかを言語化したほうがよほど有意義だと私は思う。
また、同じ星3つの映画であっても、映画を観る経験はまるで違うはずだ。
『ゴッド・ファーザー』と『スター・ウォーズ』はどちらも、オールタイムベストではともに上位に入っているけれど、この両者の映画体験が同じであるなんて暴論はないだろう。

何より、あなたの映画体験はその星の種類だけしかないのか、ということが疑問なのだ。

確かに、このように単純化した指標であらわしたいという欲求はわからなくもない。

ここで思い出したのが寺山修司の言葉だ。
原典も引用しないで問題だけれど、競馬好きの寺山修司に対して記者が、あなたの競馬は平均すると勝っていますか、負けていますか、と聞いたのに対して、寺山修司は、なぜ平均するんだ。あなたの人生は平均すると勝っていますか、負けていますか、と聞いたのだそうだ。

寺山修司が言いたかったのは、その個々が独特の体験であるはずの競馬を、経済的な勝ち負けという単純な指標で二分することの愚かさなのだろう。

しかし、これを端的にあらわした、「あなたの人生は平均すると勝っていますか、負けていますか」という問いも、現在においては、カウンターとして弱くなっているのかもしれない。

なぜなら、巷に溢れている「勝ち組」「負け組」という単純な二分法は、現に人生を平均して勝っているか負けているかを決めるものだからだ。

私は勝ち負けで物事を決めるのにどうも馴染めない。

ただし、このような単純な分類が、力をもつことは否定できない。
映画の星獲り評だってある程度盛り上がることは確かだし、勝ち負けのシンプルな二分法が、非常に強度を持つことは否定できないように思う。

けれど、私は、寺山修司のこの言葉に強くひきつけられてしまう。
それだけ、強度が弱いことなのだろう、と昔は思っていたし、勝ち負けに興味がないということは、人としての生存能力において劣っているように感じていたけれど、今は、別の強度を身につけたいものだと思うようになった。

まあ、そんな、こんな。

だから、序列化したい欲求にときにはかられつつも、今後も私は映画に星をつけることは無いだろう。

恵比寿ガーデンシネマで『ロルナの祈り』を観てきた。

公開から一ヶ月も経っていないのに、館内はガラガラだった。
大丈夫なのだろうか。

・感想
率直な感想としては、過去の『イゴールの約束』『ロゼッタ』『息子のまなざし』『ある子供』のどれもにあった、ナイフで心を削ぎ切りにされるような、ヒリヒリとした感覚が少し薄かった。

今までの4作(厳密には、それ以前にも劇映画を撮っているけれど、観られないのと、本人たちも確か失敗作だと語っていた気がするので割愛)と違うのは、近作もやはりカンヌ映画祭で賞を獲ったけれど、その賞が「脚本賞」だということが大きいのではないだろうか。

今までの4作は、一見荒々しいハンディの映像のようにみえても、とても緻密に作られているし、そこを否定する人はいないだろう。しかし、それらの作品は、脚本が優れているというものではなかったように思う。つまり、どれも筋自体は、とてもシンプルなのだ。もちろん、それは作品がシンプルであることは意味しない。そこが映画という面白さを伝えてくれるようで、この人たちの作品がすきなのだけれど。

しかし、近作では、脚本が賞を獲っているように、とてもよくできている。
冒頭から、薄皮を剥くように、偽装結婚を行っていること、また、次の偽装結婚が控えていること。などが徐々に明らかとなっていく。
もちろん、それだけならば、今までのダルデンヌ兄弟の作品だって、何ら説明的なものはなく、徐々に明かされていたのであって、近作だけ違うということにはならないだろう。
しかし、近作では、話がそう展開するのか、と驚かされるところがあるし、なんというか、特に「話の筋」に驚かされることが多かったように思う。

それが是か非かという点は、これだけでは判断できないだろう。話の筋に驚かされたから素晴らしいとか、あるいはそうでないとか、いうことは意味が無い。
それこそ、映画は複合芸術なのだから。

ただ、今までのダルデンヌ兄弟の作品とは違うということは確かなように思う。
ダルデンヌ兄弟は、まだまだ変わるというのだろうか。


そこで、映画自体を鑑賞した感想としては、前半部分は今までのダルデンヌ兄弟らしい雰囲気だったように思う。ただ、やたらと「鍵」と「箱」のイメージが目立った。

アルタ・ドブロシは自らの部屋に鍵をかけて、さらに、ベッドの枕元の引き出しにも厳重に鍵をかける。中に大したものは入ってなさそうに思えるのに。そして、ジェレミー・レニエがベッドの「中」に入ったときも、激怒する。ベッドの「上」には寝てもいいけれど、「中」はやめて、と。

ここから感じられるのは、アルタ・ドブロシとジェレミー・レニエとの関係だろう。つまり、彼らを隔てるのは鍵がかかった寝室のドアであり、引き出しの鍵であり、ベッドのシーツだったりする。アルタ・ドブロシはそこに一線をひくことによって、ジェレミー・レニエとの関係を断絶しているように思える。

それに対して、ジェレミー・レニエは、この隔てているものを取り払ってほしいと哀願する。それはアルタ・ドブロシが寝室に入ってから、何度もドア越しに呼びかける声であったり、また、アルタ・ドブロシが出かける際に、この部屋ごと鍵で閉じ込めてくれと頼む姿であったりする。つまり、ジェレミー・レニエにとっては、アルタ・ドブロシとジェレミー・レニエは、「わたしたち」なのであって、隔てているものというのは、外部と「わたしたち」を隔てている、玄関のドアと鍵に過ぎないのだ。

このすれ違いは、徐々に近づき、ジェレミー・レニエが売人から再び麻薬を買おうとする場面でついに、交わることとなる。つまり、麻薬の売人を追い出したアルタ・ドブロシは、自ら部屋に鍵をかけて、その鍵を窓から捨ててしまう。これによって、アルタ・ドブロシとジェレミー・レニエは「わたしたち」となり、世界に対して、ドアと鍵によって隔てられた存在となる。
そして、それでは足りぬとばかりに、さらに、二人を隔てる衣服をも、また、肉体の壁をも、二人は無言のまま、取り払おうとする。

そして、次の場面で、彼らは、鍵屋で合鍵を作る。もはやそれらは、ジェレミー・レニエとアルタ・ドブロシとを隔てるものではなく、二人と世界を隔てるものであるということを明らかにするように、二人はその代金を折半する。

その後の、ジェレミー・レニエが自転車で軽やかに走り、その後を笑顔で追いかけるアルタ・ドブロシの場面の素晴らしさといったらどうだろう!
この場面は予告篇でも流れていたのだけれど、この映像だけでも、素晴らしさが伝わるように思う。


さて、その後衝撃的な展開が訪れる。
以下は、この作品が脚本賞を獲っていることからもわかるように、脚本上重要な展開への言及を含んでいます。
つまり、ネタばれ注意です。


衝撃的な展開とは、余りにも渾然と姿を消されたジェレミー・レニエである。あまりにも突然のジェレミー・レニエの消失に、観客が戸惑うのと同様に、アルタ・ドブロシも戸惑っているはずなのだけれど、必死に、壁を再構築しようとする。

今までは、ファブリツィオ・ロンギオーヌたちとは「わたしたち」であったアルタ・ドブロシは、ジェレミー・レニエを殺されて、一体どのように「わたしたち」を構成するのか。

この揺れと迷いを、演じるアルタ・ドブロシは素晴らしいと思った。

結局、アルタ・ドブロシは、ファブリツィオ・ロンギオーヌと「わたしたち」を構成するのではなく、自らの罪と「わたしたち」を構成するみちを選ぶ。

つまり、彼女にとってジェレミー・レニエを救えなかったという罪が、形を変えて現れた、彼女の内部にやどったものと。
ここでアルタ・ドブロシとその子との「わたしたち」の関係は、今まで、世界対「わたしたち」という関係ではなく、世界対アルタ・ドブロシ、そしてその「内部」に子供がいる、と言う関係にある。

ここで、アルタ・ドブロシは、外部と彼女の子供とを隔てる、鍵または壁になろうとしたということなのだろう。
それを示すように、アルタ・ドブロシは逃亡中に、山小屋を見つけ、必死に鍵を閉め、子供を守るように、丸まって眠る。

さて、アルタ・ドブロシが逃げる場面で、「わたしたちを殺そうとしているのよ」とか「もっと遠くに」とか説明するのが非常に違和感があった。
なぜなら、ダルデンヌ兄弟は、すべてを映像で表しているのであって、今まで説明的な台詞なんて、一つもなかったからだ。
この台詞は結局、ファブリツィオ・ロンギオーヌたちがアルタ・ドブロシを殺そうとしているという説明をするための台詞なのではなく、アルタ・ドブロシが、その子供と二人でいる、ということを示すための台詞なのだろう。つまり、会話をさせることによって、彼女の内部にもう一人、「わたしたち」がいると示す台詞なのだと思う。

それにしても、今までのダルデンヌ兄弟の作風と異なることは確かなように思う。

今思えば、『ある子供』から、少し異なった傾向はあったのかもしれない。
50歳を超えて期待させてくれるなんて。


さて、この作品が今までのダルデンヌ兄弟の作品よりも素晴らしいかどうか。それに対しては判断に戸惑ってしまう。

つまり、今までの作品のような、ナイフで心を削ぎ切りにされるような感覚は無いけれど、それでも、やはり演出は緻密だし、脚本の面白さという点も加わっている。そして何より、エンディングで音楽が流れた!!

私は、少なくともこの作品を観ることができて、その独特の美しさを鑑賞できて、素晴らしかったと思う。それにとどめておこう。

ちなみに、この作品の原題は、"Le silence de Lorna"だ。silenceであって、祈りではない。
確かに、silenceを沈黙と訳してしまうと、ロルナが懸命に「わたしたち」を構成しようとする能動的な動きの印象をうまくとらえきれない。ロルナの、何だろう。静けさのようでありながら、弱さを含んでいつつも結構強いもの。案外、祈りという訳は適切だったのかもしれない。

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