2008年12月アーカイブ

今年は私自身についてというよりはむしろ、私の周囲で、いろいろなことが起こって、そのうちのいくつかはあまり望ましくは無い出来事だった。
それらの望ましくないいくつかの出来事は、私にあと少し何かがあったのなら、何とかなっていたのかもしれない、なんて思うこともあったけれど、結局それも思い上がりなのかもしれない。

たしかに在り得べき生として、あと少しの何かがある私が、望ましくないいくつかの出来事を、回避や解決できていたとしても、あと少しの何かが足りない私はいまのところ、それを悔いたりはしないようにしようと思う。
そして、何とか間にあわせて、足りない何かを手に入れようと思う。

それが、大晦日のせめてもの思い。

来年は佳い年になるといいな、あの人や、あの人や、あなたにとって。


おそらくそのような新年の挨拶の、やがて僕に届くもっともきびしい呼びかけは、かのけだかき翁の叫び声のようではないだろうか? 何事ぞ遅き魂等よ/何等の怠慢ぞ、何ぞかくとゞまるや。その声を聞く時、自分の腰に、一本の滑かなる藺が束ねられているといいのだが……
(大江健三郎『新年の挨拶』収録『カトーの藺草』)


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地下鉄にて

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地下鉄のホームで電車を待っていると、私の前をスーツ姿の男性が通り過ぎた。スーツ姿の男性、というにはまだ少し若さが残りすぎているような、社会人一年目か二年目のような印象だった。彼は何度か私の前を横切り、携帯を手に不安そうにうろうろとしていた。誰かと待ち合わせているのだろうか。
そんなことを考えながら、彼の様子を見るともなく目で追っていると、彼は足を止め、うれしそうにある方向を見た。私もなんとなくそちらに目線をやると、スーツ姿の女性が彼の方へ向かって歩いてきた。
彼女もやはり、スーツ姿の女性、というには少し若さが残りすぎているようで、同じく社会人になって間もないという印象だった。彼女はやはり、携帯を手に、彼の方へ駆け寄り、とても嬉しそうな笑顔を浮かべた。
その笑顔は、彼に会えて嬉しいという彼女の感情が溢れんばかりで、とてもいいものだった。そして彼女は、彼のことが愛しくて仕方がないというようなしぐさと表情で、彼の肩にそっと手を触れた。
そして、彼もとても嬉しそうな笑顔で、何か言葉を交わしているようだった。そして、彼が彼女の首下から下がっているネックストラップの社員証を指差すと、彼女は少しはにかむようにして笑った。
そのころ時刻は21時過ぎだったので、おそらく彼女は一刻も早く彼に会いたくて、社員証をしまうのも忘れるくらいに急いで駅に駆けつけたのだろう。そして、おそらく彼も。

なんだか、とても、いいなあ、と思った。

彼女のとても良い笑顔を見せてもらって―いささか趣味の悪い覗き見だったのかもしれないけれど―、こちらまで笑みがこぼれるようだった。

そして、こういう風景が見られるのだから、クリスマスというものも悪くない。

「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」を国立新美術館で見てきた。

素晴らしい。


ピカソが新聞記者のインタヴューに答えて語った言葉の中に、次の有名な一節がある。

ある絵を説明しようなどと試みるものは、たいていの場合誤りを犯す。もう大分前のことだが、ある時ガートルード・スタインが嬉しそうな様子で私のところにやって来て、私の絵が何を描いたものか、やっとわかった、三人の音楽家を描いたのに、と言った。ところがその絵というのは、実は静物だったのだ……。

(中略)

ピカソの言葉の中で、おそらくもっともしばしば引用されるこの「小鳥の歌」の比喩は、実は、冒頭に引いたスタイン女史のエピソードと同じ機会に語られたものである。

人はみな絵画を理解しようとする。ではなぜ人は小鳥の歌を理解しようとしないのだろうか。美しい夜、一輪の花、そして人間をとりまくあらゆるものを、人はなぜ理解しようとはせず、ただひたすらそれらを愛するのだろうか……。

この見事な一節は、それだけを取り出してみた場合、疑いもなく鋭い真理を含んでいる。だが、だからといって、多くの人が主張するように、この言葉は「絵画とは理解するものではない、感じるものだ」などと言っているわけではない。人はピカソのこの言葉を、芸術に接する上での努力の欠如という自己の怠慢を誤魔化すための免罪符とすることはできない。なぜなら、ピカソの不満は、人が絵画を「理解しよう」とすることにあるのではなく、人が絵画を「愛そうとしない」ことにあるからである。「小鳥の歌」を愛することを知っている人が、なぜ絵画を愛することをしないのか―それこそがピカソの不満であった。つまり彼は、スタイン女史にせよ誰にせよ、彼の作品の中に「三人の音楽家」を―あるいは静物を―認めることに不服を述べたてているわけではない。まるで判じものか何かのように、何が描いてあるかということだけしか見ようとしないその点に痛烈な批判を投げつけているのである。
したがって、ピカソのこの有名な言葉からただちに、「だから絵画は理解しなくてもよい」という結論を導き出すのは、いささか性急といわなければならないだろう。まして、だから絵画はただボンヤリと眺めていればよいということにはけっしてなるまい。むしろ逆に「愛する」ということくらい積極的な努力を必要とするものはほかにないのではないだろうか。おそらく、人は愛することすらもやはり学ぶものなのである。

(高階秀爾 『20世紀美術』)

自戒を込めて引用。

以前受けた授業で、パブロ・ピカソ 《スュズ(グラスとスュズの瓶)》について学んだことのまとめ。
再掲。
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2006/02/post_283.html

風、鋭くなって

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もう師走で、風、鋭くなって。

なんとなく色々とザワザワとしている。

携帯が壊れて、こっちの声は向こうに通るけれど、向こうの声がこっちに通らないwhat we've got here is failure to...communicate!という、ありさま。

少し前、「今」の音楽としてeastern youthを聴きまくっていて。それが26歳と半分の私という性格を客観的に示すものだとしたら、切実にnumber girlを今の「今」の音楽として聴きまくっている私は一体何なんだろう。

端的に言って、センチメンタル過剰か。

まあ、そんな、こんな。

二週連続で『トウキョウ・ソナタ』を観に行ったり、ジャン=フィリップ・トゥーサンに直接質問する機会があったり、なんかまあ、いろいろ。

そんな、こんな。

あ、携帯は直った。

風、鋭くなって。

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