2008年2月アーカイブ

先日、ある人と『暴力脱獄』(何度でも思うが、この邦題は作品への冒涜だ!)の話をした。

その人は一見して"Cool hand Luke"がキリストをモチーフに描かれていることに気づいたらしいけれど、実は私は初見では気がつかなかった。

そこで、改めてDVDを借りて見直したら、あまりにもキリストのモチーフの描き方が明らかであったので、私は一体何を観ていたのだろう、と恥じた。

映画の前知識がなくっても、本数を観ていなくても、感性で映画に触れることができる人がいるのだと思う。
そういう人は映画に限らず、いろいろとバランスよく出会いを果たしていて、結局のところ、「感性が豊か」ということなのだろうなあ、と感心した。

何度目かの"Cool Hand Luke"(もう邦題は言うまい)、はやっぱり感動的で、その人の言葉を借りれば、やっぱり、「あの笑顔はずるい」ほどかっこよかった。

邦題が納得がいかないけれど、レンタルビデオ店でのこの作品の扱われ方も意味がわからなかった。随分と探してもなかったこの作品があったのは、なんと、「アクション」の分類。
脱獄するのに全く暴力を使っていないこの作品の邦題が暴力脱獄で、なぜ分類がアクションなんだ。
ショーシャンクはヒューマンとかドラマ、とかなのに?

そもそも意味がわからないレンタルビデオ店の分類に文句を言っても仕方ないけれど、大好きなこの作品が冷遇されているみたいで、少し悔しい。

Chasin' The Bird

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ついに会った、鳥-bird-に。

最近ジャズを余り聴いていないな、と思い、前から気になっていたジャズベースを聴くことにした。
手当たり次第に有名な人を聴いてみようと思い、ジャコ・パストリアス、ポール・チェンバース、ロン・カーター、チャールス・ミンガス、とまさに手当たり次第に借りた。
それらを聴いていると、お、これいいな、と思う曲があって、それがポール・チェンバースが演奏している"Chasin' The Bird"という曲だったのだ。

"Chasin' The Bird"というのか、と思い、CDを見たら、納得した。そうか、オリジナルはチャーリー・パーカーなのか、と。
こんなことも知らないから、ジャズのことを書くのは気が引ける。

ジャズを殆ど全く知らない私でも、チャーリー・パーカーの名前は知っていて、そのニックネームがbirdということも知っていた。
大江健三郎の小説によって。

大江健三郎の小説でバードというニックネームの主人公といえば『個人的な体験』が有名で、他には短篇の『不満足』にも出てきている。
このバードという人物が同じニックネームを持つジャズミュージシャンから来ていることは知っていたし、チャーリー・パーカーの名前も一応は知っていた。

今まで聴いたことはなかったけれど、なんだか、やっとバードに出会えた気がして、とても嬉しかった。
まさに、"Chasin' The Bird"だ。
ずいぶんと回り道ではあるけれど、急ぐ道でもない。

このバードという人物は実に印象的で、私が特に『個人的な体験』が好きということもあるのだけれど、バードがまだ20歳のころの話の『不満足』も非常に印象深い作品だ。そして面白いのが、『不満足』はまさに初期大江作品の特徴が色濃いのに比べて、『個人的な体験』は、まさにそんな初期初期大江作品から決別するきっかけともいえる作品で、それらに同じバードという登場人物を通して描かれているという点だ。

『不満足』の冒頭で、バードは次のような人物として描かれる。

(<>内は原文ではふりがな)
鳥<バード>には、容貌、骨格、肉づき、姿勢、態度すべてに、あの神経過敏な羽根だらけの運動体を思い出させるところがあるからだ。鳥<バード>のすべすべして皺ひとつない鼻梁は鳥のクチバシのように張って力強く湾曲しているし、眼球はニカワ色のかたく鈍い光をもって用心深く、あんずの実の形でつりあがった眼のなかで動いている。脣はいつもひきしめられているように薄く硬く、頬から顎にかけては鋭くとがっている。髪は赤っぽく炎のように燃えたって空に向かっている。鳥<バード>が肩をはって前屈みに歩いているところは、痩せた運動家タイプの老人のようで、そして結局、鳥に似ている。そしてかれの性格の若いながらの重厚さとうらはらな金切声は、それは確かに鳥だ、鳥<バード>……
(大江健三郎 『不満足』)

どうだろう、この冒頭の部分だけでも、私はこのバードに惹かれたのだけれど、私が三島由紀夫の文章の美しさが解らないように、この感覚を共有できない人もいるのだろう。

バードと僕と菊比古とはこの後、三人で精神病院から逃げ出した患者を捜索するのだけれど、その過程はむせ返るような濃密さで描かれる。

バードは物語の終盤で、菊比古との対比によって、「大人」として描かれる。

朝だ、悪夢は近づいてこない……港の工場へと出勤する工員たちの自転車を鳥<バード>と友人のオート三輪が次つぎにおいこしてゆく。朝の光に、睡りたりなくて不機嫌で、洗いたての頬を冷たい朝の空気に赤くした工員たちが、キラキラ光りながら自転車で走っていった。かれらは一日の労働をまえにして健康で生きいきとし、そしてどっしりと重い屈託と生命感とをうちにひめていて、そして鳥<バード>たちに無責任な好奇心をしめすことはなく、無関心に自分に閉じこもり、自転車で工場へ走ってゆく。鳥<バード>は自分がもう昨日までの苛立たしい不満足から開放されていることで、その工員たちと同じ静かな大人のひとりであることを感じた。鳥<バード>はもう、菊比古たちの不満と恐怖の世界に戻ってゆくことはないだろう、かれはいま、工員たちとともにキラキラ光りながらオート三輪の補助席に前屈みにかけて、むっと黙りこんで走っていた。大人たちの朝だ。

私が数年前(といってもずいぶんと前のように感じるのだけれど)、ある種の切実さで大江作品を読めたのは、きっと、青春というものを「不満と恐怖の世界」としっかりと描いてくれていたからなのだろう。
そして、私が大江作品をそれ以上に読むようになったのは、「不満と恐怖の世界」のその後、成長した人間はどう生きていくべきか、というひとつの回答(それは決して唯一の正解ではない)を示してくれたからだろう。

大人たちの朝を迎えたはずのバードは、『個人的な体験』の冒頭では、こういう人物として描かれる。

鳥<バード>、かれは二十七歳と四箇月だ。かれが鳥<バード>という渾名でよばれるようになったのは十五歳のころだった。それ以来かれはずっと鳥<バード>だ、いま飾り窓のガラスの暗い墨色をした湖にぎこちない格好で水死体のように浮かんでいる現在のかれも、なお鳥に似ている。鳥<バード>は小柄で、痩せっぽちだ。かれの友人たちは大学を卒業して就職したとたんに肥りはじめ、それでもなお痩せていた連中さえ結婚すると肥ったけれども、鳥<バード>ひとりは、幾分腹がふくれてきただけで痩せたままであった。かれはいつも肩をそびやかして前屈みに歩く、立ちどまっている時もおなじ姿勢だった。それは運動家タイプの痩せた老人の感じだ。かれのそびやかした肩は閉じられた翼のようだし、容貌自体、鳥をしのばせる。すべすべして皺ひとつない渋色の鼻梁はクチバシのように張って力強く彎曲しているし、眼球はニカワ色のかたく鈍い光をたたえて、ほとんど感情をあらわすことがない。ただ、時どき、驚いたように激しく見ひらかれるだけだ。唇はいつもひきしめられて薄く硬く、頬から顎にかけては鋭くとがっている。そして、赤っぽく炎のように燃えたって空にむかっている髪。鳥<バード>は十五歳のとき、すでにこのままの顔をしていた、二十歳でもそうだった。かれはいつまで鳥のようであるのだろう?十五歳から六十歳にいたるまで、同じ顔、同じ姿勢で、生きるほかない、そのような種類の人間なのか?そうだとすれば、鳥<バード>はいま、飾り窓のガラスのなかにかれの全生涯をつうじてかれ自身を眺めているのだった。鳥<バード>は嘔きたくなるほど切実に具体的な嫌悪感におそわれて身震いした。かれはひとつの啓示をうけた気分だった、疲れはてて子沢山の老いぼれ鳥<バード>……
しかし、おれが現実にアフリカの土地を踏み、濃いサン・グラスをかけてアフリカの空を見あげる日はおとずれるだろうか?と鳥<バード>は不安な思いで考えた。むしろおれはいま、この瞬間にもアフリカへ出発する可能性を決定的にうしないつつあるのではないか?すなわち、おれは、いま、自分の青春の唯一で最後のめざましい緊張にみちた機会に、やむなく別れをつげつつあるのではないか?もしそうだったとしても、しかし、もうそれをまぬがれることはできない。

『不満足』のバードの容貌の描写をなぞるようにして描かれた『個人的な体験』のバードの容貌の描写。しかし、それらは文の構成や「鳥<バード>……」という部分まで同じでいながら、そこにはやはり7年の月日が流れている。
つまり、『不満足』は十代から20歳へと移り変わる瞬間を、そしてこれは、「青春の唯一で最後のめざましい緊張にみちた機会」を描いている。
27歳のバードが超えるべき試練は、逃げ出した精神病院の患者ではなく、「頭部に異常をそなえて生まれてきた」赤ん坊である。
『不満足』と『個人的な体験』はどこかなぞるようにして描かれていて、それでいて決して重なり合うことはない。いわば、螺旋状に上昇していくようだ。
そしてこの螺旋は、27歳で途切れることはなく、驚くべきことに、『さようなら、私の本よ!』まで脈々と続いているのだ!
それが私が大江作品を好きになった理由かもしれない。
つまり、玉川上水に飛び込むやり方ではなしに、青春の後、どう生きることができるか、というひとつの回答(そしてそれはやはり唯一の正解ではない)、を信頼できるやり方で示してくれたように思ったのだ。
それは即ち私にとってのヒントになるということはないだろう、しかし、「老人の愚行」を依然として語ってくれる人がいるということに、私は大きく励まされた。

少し話しがそれたけれど、このような螺旋状の作品展開−そしてその螺旋運動の原動力は想像力!−は大江作品の魅力のひとつであると思う。
だから、私が人と小説の話をして、大江作品が面白いと言って薦めるとき、初期から順に読んでいったほうがいい、というのはそのためだったりする。
『個人的な体験』も、『万延元年のフットボール』も読まないでいきなり『さようなら、私の本よ!』を読んでも、面白くないとは言わないけれど、なんだかもったいない気がする。

何の話をするのか見失ったところで、そんな風に思い入れがある鳥<バード>に出会えたのがとても嬉しかった、ということにしておこう。

ちなみに、初めて聴いたチャーリー・パーカーは、鳥<バード>の印象とはずいぶんと違って、軽やかな音だった。いや、ひょっとしたら鳥<バード>の軽やかなのかもしれない。

『個人的な体験』の終幕近くのつぎの箇所が私はとても好きだ。


「鳥<バード>、あなたはいろんなことを忍耐しなければならなくなるわ」と火見子が鳥<バード>を励ますようにいった。「さようなら、鳥<バード>!」
うなずいて鳥<バード>は酒場を出た。かれがひろったタクシーは雨に塗れた舗道をすさまじい速度で疾走した。もし、おれがいま赤んぼうを救いだすまえに事故死すれば、おれのこれまでの二十七年間の生活はすべて無意味になってしまう、と鳥<バード>は考えた。かつてあじわったことのない深甚な恐怖感が鳥<バード>をとらえた。

あとがきで知ったのだが、発表当時はここで物語を終わらせた方がよいという批判もあったのだそうだ。実際大江健三郎自身も、この一節が「充分な力と重みをもちうるように、先行するシーンがよく描きこまれてさえいえるならば、ここで小説を切ったにしても、充分に自分のめざしたところはつたわると思う。」と述べているが、続く部分についてはこうも述べている「それでもなおかつ、この小説を書いた僕が、二つのアステリスクにつづくシーンを必要としたことについては、それなりに若い書き手としての必然性があってのことだったと、それゆえにこそ批判を覚悟で抗争をつらぬいたのだったと、いまも僕はそのような自分を支持する」と。

実際、これを始めて読んだときは、「若い読み手」としての私にとっても、二つのアステリスクにつづくシーンはとても切実に必要ものだった。その直前の一節が本当に切実であっただけに。

その二つのアステリスクに続くシーンはこう締めくくられている。

「きみは変ってしまった」と教授が幾らかは愛惜の念もこもっている、あたたかい肉親の声でいった。「きみにはもう、鳥<バード>という子供っぽい渾名は似合わない」
鳥<バード>は、赤んぼうを囲んでなおも熱中して話しあいながらかれらに追いついてくる女たちを待ちうけ、妻の腕にまもられた息子の顔を覗きこんだ。鳥<バード>は赤んぼうの瞳に、自分の顔をうつしてみようと思ったのだった。赤んぼうの眼の鏡は、澄みわたったにび色をして鳥<バード>をうつしだしたが、それはあまりにも微細で、鳥<バード>は自分の新しい顔を確かめることができなかった。家にかえりついたならまず鏡をみよう、と鳥<バード>は考えた。それから鳥<バード>は、本国送還になったデルチェフさんが、扉に《希望》という言葉を書いて贈ってくれたバルカン半島の小さな国の辞書で、最初に《忍耐》という言葉をひいてみるつもりだった。

今の私にとっても、まだこの部分は必要なように思う。

哀切

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姉夫婦の猫の一方の様子がおかしいというので、獣医に連れて行くのに付き添った。
キャリーバッグに入れて外へ出すと、室内外で全く外を知らないこともあって、不安な声で鳴く。
その鳴き声、というより泣き声は、まさに哀切極まれり、といった具合で、こいつがこんな声で鳴くのを初めて聞いて驚いた。
その泣き声は人の声に似ていて、といっても、発情期の夜に聞こえる猫のそれとはまるで違って、聞いているこちらも切なくなるような声だった。
ひょっとしたら、「猫かわいがり」しているからそう聞こえるだけなのかもしれないけれど。
病院に着くころにはぐったりとしてて、興奮気味だったが、軽い膀胱炎ということだった。
痛みもないだろうとのことで、少し安心した。
部屋に戻ると、少し警戒していたようだけれど、なでるとぐるぐると声を立て、ストーブの前ですぐに仰向けで眠っていた。
猫というのは不思議な動物だなと思う。
こうして昼間に撮った写真を見ていても、携帯カメラの性能という問題はあるけれど、その時々でずいぶんと表情も違って見える。
それにしたって、あいつの鳴き声の哀切具合といったら、実際、こっちがたじろぐほどだった。
姉夫婦が三月には転居するそうで、気軽には会えなくなってしまうけれど、尾が二つに分かれるくらいに長生きしろよな、と相変わらず野生の欠片もなく仰向けでのびのびと寝ているふわふわなやつを見て、思った。

『めがね』の口直しに借りていた『県警対組織暴力』をみた。

わなわなとふるえるほどに傑作。
wikipediaによれば、深作欣二が笠原和夫のシナリオが完璧すぎて撮りようがない、と言ったらしい。
それも頷ける。

菅原文太は悪徳警官だし、松方弘樹は狂犬やくざなのだけれども、かっこいい。成田三樹夫もやくざだし、梅宮辰夫もキャリア警官なのだけれども、あまりかっこよくない。
結局立ち位置によってキャラクターが決まっているのではなくて、彼らの価値観がぶれていないかどうかがかっこいいかそうでないかを分けているのだろう。
正義が相対的なものだというような価値観が仁義なき戦いの根底にも流れていたようだけれど、この作品においては特にそれが顕著だ。では、正義が相対的なものだとしたら、その時々にとるべき正義を変えていてもよいかといえば、そうではなくて、自分の価値観を貫き通したかどうかが、菅原文太と梅宮辰夫、松方弘樹と成田三樹夫の明暗を分けている。どちらが明でどちらが暗なのかは人によるだろうけれど。
梅宮辰夫の「朝の体操」があんなに間抜けで脱力感に満ちているのは、今まで明でも暗でもなくて、価値観がぶれているのかどうか曖昧だった彼が、菅原文太とは別の側の人間だと判明するからだろう。

すべての場面が名場面、すべての台詞が名台詞、と言ってもいいような密度。
有名な川谷拓三の取調べのシーンは壮絶で、実際に暴行しているとしか思えない(実際に打撲で発熱したらしい)。全篇にみなぎるテンションの高さ、名優たちの鍔迫り合いの迫力。
またダンヒルのライターだとか、茶漬けのエピソードだとか、ディテールもまた上手い。

たまらない傑作だった。

『かもめ食堂』がちょっとひっかかった作品だったので、目黒シネマの荻上直子の二本立てに行ってきた。
作品は『バーバー吉野』と『めがね』

『かもめ食堂』がひっかかったというのは、所謂「スローフード」的なライフスタイルを描いたというだけではないようなひっかかり、悪意とまで言うといいすぎではあるけれど、なにか鋭いものが一枚下にあるように感じてしまったのだ。
そしてまた、ひょっとしたら、この監督は、わざとこのひっかかりを残しているのではないだろうか、だとしたらすごく意地が悪くて好みだけれど、それは私の穿った見方なのだろうか、と気になっていた。
小林聡美がプールで泳いでいて周りから拍手を受ける場面はおそらく、こういった含みをなく「良い」場面として描かれているのだろうというのはわかったけれど(私はこのシーンが何かとても怖かった)、メインの三人は結局交わることはなく、どこか突き放したような関係のように私には見えてしまったのだ。

そういう気がかりがあって、単純に「ソトコト」が好きそうな人たちが好きそうな監督、というだけの印象ではなくて、ひょっとしたらこの人、オゾンみたいな意地悪さがあるんじゃないか、みたいな期待というか、疑惑というか、そういうものが個人的にはあった。

そういう経緯で観た一本目が『バーバー吉野』
丸坊主ではなく、「吉野ガリ」というビジュアルにしたのは面白いと思うし、長篇デビューとは思えない独自のスタイルも見えるように思う。
けれど、なんだか、普通、という印象をぬぐえない。
確かに、「男子」たちの動きは生き生きとして見えるけれど、予想の範囲内でしかなく、(写真と比較するのはおかしいのかもしれないけれど)梅佳代の『男子』ほどの突き抜けた感もない。
それでもほほえましい様に仕上がってはいるけれど、都会から来た転校生に触発されて、少年たちが反抗して、伝統が少し変わる。
そういういたって当然の展開のみで、少し面白みに欠けるように思った。
もたいまさこは母親というよりは父親的役割もになっていて、少年は「父殺し」ならぬ「もたいまさこ殺し」という困難を背負うことになるのだけれど、このもたいまさこが単純に伝統に固執しているだけでしかなくて、正当性が感じられないから、結局少年のワンサイドゲームになるのはやむをえないという結果になっているようにも思えた。
悪くないし、端麗にしあがっているけれど、どこか面白みに欠けるなあ、という印象だった。

『めがね』
なんだこれは、気持ち悪い、というか、怖い。というのが第一印象だった。
冒頭で光石研が「ここに居る才能がありますよ」と小林聡美に言うのだけれど、この台詞がこの作品を物語っていると言える。
つまり、この場所に居るのには資格が必要で、その資格がある我々は素晴らしいという、「上から目線」が常にあるように感じて、安らぎや休暇という印象とは程遠い不愉快さしか私は受けなかった。
さらに、「黄昏る」才能とか、「黄昏る」ことが得意とか、そういう言い回しが頻繁に現れるけれど、これも一々ひっかかった。
「黄昏ている」というのはあくまで第三者から観た状態に過ぎなくて、「黄昏る」ことが得意と言うには、常に第三者の目を意識して「ああ、私は今黄昏ている」と思っていなければならないのではないか。そんな自意識が全面に押し出された面倒くささを私は感じて、端的に言って鼻についた。
そもそも、「黄昏」が一番得意とされているのがもたいまさこなのだけれど、「黄昏」が一番得意な人というのは、毎朝他人の枕元で、他人がおきるまで正座して待ち続けるような性格と矛盾しないものなのだろうか。
他にも、もたいまさこが喪黒福造に見えてしょうがなかったりとか、加瀬亮がわざわざドイツ語で詠む詩が、単にドイツ語で何かしゃべっている以上に意味を持たない演出であることが腹が立ったりとか、いろいろと気になることはあった。
ただ、やっぱり映像は綺麗だし、小林聡美が編む赤いマフラーの素材感は美しかったし、食事は相変わらずシズル感溢れている。
それだけに胡散臭く見えてしまったのは、結局薬師丸ひろ子の宿と光石研の宿は、小汚いキャベツと鍬が見えるか見えないかの違いでしかなくて、その裏には「選ばれた我々」という意識が感じられたからかもしれない。

では、結局『かもめ食堂』で感じたひっかかりは私の穿った見方だったのか否か。
『めがね』をわざとその胡散臭さを全面に押し出しているとしたら、一見「スローフード」的ライフスタイル礼賛のように見えて、それを痛烈に皮肉っている作品ということになるけれど、『かもめ食堂』の成功の二匹目のどぜうを狙ったであろうこの作品としては、そのような作品の捉え方はやはり穿った見方ということになるだろう。
けっきょく『かもめ食堂』も、そこまで意図された演出ではなかったということだろう。

ただ、言えることは『かもめ食堂』はそのひっかかりが混入している度合いが絶妙だったために、妙に印象に残ったけれど、『めがね』の胡散臭さは全面に出ているから、単なる不愉快な作品としてしか私には感じられなかった。

この二本を観て帰って知ったニュースでは、『めがね』がベルリン国際映画祭でマンフレート・ザルツゲーバー賞を受賞したのだそうだ。この賞がどういう作品に贈られるものかはわからないけれど、映像のみの評価ならわかるけれど(それだけを切り離して賞を贈ることは理解できないけれど)、作品に対する評価だったら、理解不能だなあと思った。

チョコレートが好きだ、と今の時期言うのは、時節柄不穏当な表現なのかもしれない。
昔見たテレビで、及川 光博が「もてるということと、愛し愛されることとは全く別のこと」と言っていて、なるほど、と思ったけれど、この表現にのっとって言えば、私はもてるということに全く興味がないので、よく語られるチョコレートに対する複雑なルサンチマンのような思いは全くない。

だから、ある種のメタメッセージを含まないで、チョコレートが好きだ、ということを言ってみたというだけである。

大体、チョコレートを好きな男性というのは結構多いのではないかと思う。
特に、洋酒が好きな人はチョコレートも好きなのではないだろうか。

ウィスキーによく合うつまみといえばチョコレートが真っ先に浮かぶし、ラムやブランデーの入ったチョコレート菓子もとても美味しい。

さらに、珈琲とチョコレートの相性のよさは尋常じゃないし、それはワインとチーズや緑茶と和菓子の相性のよさに匹敵するものだと思うし、たとえるなら、「 サイモンとガーファンクルのデュエット ウッチャンに対するナンチャン 高森朝雄の原作に対するちばてつやの『あしたのジョー』」って感じだ。

さらに、思うのだけれど、甘さを減らしても魅力が減らないというのも特徴のひとつのような気がする。
もちろん、100パーセントカカオのあの苦いチョコレートが美味しいかといえば、美味しくはないけれど、甘みが少ないチョコレートは、とても甘いチョコレートとでまた違った魅力があるように思う。
たとえばクッキーだとか、生クリームだとかで、砂糖が控えめなものがあって「意外と甘くなくて美味しい」なんて表現が時おりあるけれど、なんというか、それは結局甘さという同じ数直線上の表現であるのに対して、チョコレートはちょっと違うような気がするのだけれど、別段菓子に詳しいわけではないので、単なる贔屓目なのかもしれない。

ともあれ、私はチョコレートが好きで、ショコラティエの作ったチョコレートなんかもいろいろと食べてみたいと思うのだけれど、一番チョコレートが盛り上がるのが、この時期だというのがジレンマだ。いたるところで開かれているチョコレート販売に行ってみたくもあるのだけれど、なかなかあういう場所は男性が行ける場所ではない。

ホワイトデーもチョコレートを贈るという風習にしてくれていたら、抵抗なく自分のためにチョコレートを買えるのになあ、ということを思ったりした。

何だか電化製品が故障するのが毎度のことになってしまったので大して驚かないけれど、エアコンからちっとも暖かい風が出てこないので、修理しに来て貰った。

すると、コンセントを抜いて入れたら、直った。

わざわざ来てもらったのに。
何だかばつが悪いのはなぜだろう。
なんというか、病院に行って実は病状が大したことなかったりしたときの照れくささに似ている。

故障した原因は、どうやら暖房を使わな過ぎて、モーターが起動しなくなっていたためだそうだ。

−暖房あまり使わないんですか?
と聞かれて、ああ、はい。あんまり使わないですね。
−寒くないんですか?
ああ、寒さには割と強くて。

というと、変なものでも見るような顔をされた。
確かに寒さに強いというのは、何だか機械的な性能の表現のようで、奇妙だ。
寒さに強くても寒さがいやだから暖房をつけるということはありえるわけで、そういう意味でおかしな表現だ。

寒がり、の反対の表現があればよいのだけれど。
暑がり、というのもちょっとちがう。

まあ、それだけの話。

暖かくなった部屋で、ビールを飲みながら『チャーリーズ・エンジェル フルスロットル』を観た。

私は家で独りで酒を飲むことは殆どなくて、だから大して酒が好きでもないのかもしれない。
けれど、こういう映画を観るときには、ビールでも飲まなければいけないような気がして、ついつい飲みながら観てしまう。
仁義もそうだ。

作品はとても面白く、ああ、やっぱりスクリーンで観てわくわく楽しむべきだったなあと思ったりもした。
私はやっぱりこういう映画が好きなんだなあと実感した。
アクションは、リアルとは程遠いけれど、観ていてきちんとわくわくするし、エンジェルたちの構えがさまになっていなくったって、そんな細かいことはどうでもよくなるような、快感がそこにはある。
このノリのよさ、ワルノリというと敢えてというニュアンスがあるけれど、この作品にあるのはそういう敢えて、というニュアンスのない単純にノリがよいという感じ。
敢えて、ボンジョヴィとかのちょっと古い音楽を使うというような鼻につく感じとか、或いは、センスのよさ、とか、そういう意味づけはあまりなくて、ボンジョヴィという位の意味しかないような。

パロディのシーンもあまりにもそのままで、CSIのパロディのシーンにはザ・フー"Who Are You"がまんま流れたりとか。

もう、センスがいいとか、悪いとか、そういう次元じゃなくて、なんというか、そんまんま、という感じ。
その、そのまんま、という感じが、プリミティブな快感を感じさせてくれる。

いたるところで主役の三人が笑い転げているのもとても魅力的でよかった。
MCハマーを踊っているシーンとか。
いやみなくこういう作品を撮れるのって、実はとてもすごいことなんじゃないかと思う。

こういう映画が好きだなあ。

そういえば、冒頭で救出される政府の要人がどっかで観たことあるなあ、と思っていたら、途中で、
あ、T-1000だ!と思い出した。
T-1000というのは、『ターミネーター2』での液体金属型のターミネーター。それを演じていたロバート・パトリックという俳優のようだ。
小学生のころ大好きだった映画が『ターミネーター2』で、もう何度も観たので、とても懐かしかった。

http://book.asahi.com/news/TKY200802060455.html

20代で短歌を捨てたと思われていた寺山修司(1935〜83)の未発表作が残っていた。188首を収めた歌集「月蝕(げっしょく)書簡」(岩波書店)が近く出る。47歳で早世した前衛歌人のうたがよみがえる。

こ、これは気になる。

父ひとり消せる分だけすりへりし消しゴムを持つ詩人の旅路

この歌とてもいいな。
東京に出てきた後の寺山修司がどのような気持ちをどのような歌に込めたのか、とても知りたい。

ラピュタ阿佐ヶ谷の岡本喜八特集で『ダイナマイトどんどん』を観てきた。

ラピュタ阿佐ヶ谷は名前は知っていたけれど、実は行ったことがなかった。
こんなに小さなところだったとは。
小さいけれど、いろいろと心配りが行き届いていたようで、いい雰囲気だった。
席数はとても少ないけれど、それにしてはしっかりとスクリーンも見やすかったと思うし、後ろがガラス張りになっていて上映する機械が見えるのも面白い。

同行していたSとニューシネマパラダイスのあの部屋だなんて話をしていると、和服姿の年配の男性に話しかけられたりする。
そういえば、Sと居ると新文芸坐なんかでよく年配の男性に話しかけられることが多くて、この日もいろいろな人が居るなかでなんで我々に話しかけてくるんだろう、という具合だった。
別に嫌じゃない、どころか、面白い話が聞けるので、なかなかいい機会だったりするのだけれど、別段話しかけてくれと思ってそういう雰囲気を出しているつもりはない。
ただ単にSと話しているだけなのだけれど。
これはきっとSの方に人に話しかけられやすい雰囲気があるのだと言ったら、そうでもないだろうと言われた。では私か、ということになると、私は少なくとも同年代の人からは話しかけづらいと言われることも多い。
どっちだろうと思ったところ、そういえば私独りで新宿の黒澤明特集を観ているときに話しかけられたなあ、とすると私が話しかけられがちなのか、ということを思って、不思議な具合だった。
ひょっとしたら、私は映画好きで年配の人限定で何か、話しかえられやすい周波数を発しているのだろうか。

『ダイナマイトどんどん』
なんでこれ142分もあるんだ。
というのが上映スケジュールを見て感じた第一印象で、なぜならこの作品がヤクザが野球で縄張り争いに決着をつけるという内容だということを知っていたから。
まあ観てみたら、たしかに、ヤクザが野球で勝負、という地獄甲子園さながらの作品だったのだけれど、いい意味でがちゃがちゃとしていてとても賑やかで楽しい作品だった。
主役の菅原文太がこれがいい。
最近仁義なき戦いをよく観ていて、菅原文太のかっこよさに痺れていたけれど、この作品では、コメディを生き生きととても楽しそうに演じていて、思わず笑ってしまう。
本意気で演じているのが笑いをさそってとてもよかった。
対する北大路欣也もよいけれど、こっちは終始黙りこくっていて、いまいちキャラクターがつかみづらかった。
まあ、あの「ギョロ目」で菅原文太みたいに嬉々として走り回られても違和感があるのかもしれないけれど。

金子信雄は相変わらずの金子信雄で笑うし。嵐寛寿郎の「にんきょー!」の叫び声がとてもいい。

それに加えて、たとえば『肉弾』だとか『独立愚連隊』などにつながるようなシニカルな戦争への視点というものがあった。
戦災孤児のような薄汚れた子供が番傘を持って、試合の大乱闘を見て「せんそー!せんそー!」と叫ぶさまであったり、藤岡琢也の署長が「第七艦隊が怖いか!」とヤクザを煽る場面であったり、誰の台詞だったか忘れたけれど「勝つ勝つというて負けることもあるじゃない、先の戦争だって」と言う場面だったり。
これを明確な主張というより、笑いにまぶして織り交ぜているあたりがうまいなあ、と思わせられる。

思えば『肉弾』も何よりしっかり笑える作品だったな。

そういえば岡本喜八の映画はどれも半端なくタイトルまでの映像がかっこよくて、今回も最高だった。
ダイナマイトじゃーと叫ぶ菅原文太の台詞とトラックの爆発、そしてタイトル、それにあわせて流れる佐藤勝の名音楽。すばらしいなあ。
ああ、これから映画が始まるんだ!というプリミティブな喜びがこみあげてくる。
いい予告編を観たときの感動に近い震えが来て、それがこれから始まるんだから、さらに期待も高まろうというもの。
映画を観ることの純粋な楽しみというか、大げさに言えば幸福というようなものが、凝縮されているような気がする。

ヤクザが野球の試合をするだけで142分なわけではなくて、途中には任侠ものっぽいシーンもはさまれるのだけれど、これがあまり上手くなかった。
というより、敢えて任侠もののパロディらしくしているのかもしれないけれど、やっぱり任侠モノのメンタリティと岡本喜八作品に流れるものとは相容れないものがあるのかもしれないと思って興味深かった。
というのも、たとえば菅原文太が対立する組の橋伝に殴りこみに行く際に、仏壇を開けて母親に「もうすぐそっちに行くから」という台詞があるのだけれど、これは多分、高倉健ならば絶対に言わない台詞だろう。
岡本喜八作品の登場人物としては、実に自然な台詞だけれど、なんとなく任侠モノ、というイメージではないように感じた。
それほど任侠モノに詳しいわけではないのだけれど。
そういえば、岡本喜八が助監督を務めている『次郎長三国志』シリーズでは、次郎長一家は揃いも揃って何かといえばよくめそめそと泣いていたっけ。
それがいいんだけれど。

そういえば、作品の中で、野球で平和に勝負をつけなければ、沖縄で強制労働させる、とGHQからの代表者が言うのだけれど、これってどういうことなのだろう。

実際に占領下で沖縄に送って強制労働、なんてことがありえたんだろうか。
それもヤクザとは言え、戦闘員じゃないだろうし。

ただの法螺なんだろうか。
ちょっと気になった。

登場人物はどれも魅力的だったけれど、ピンクのスーツの岸田森がよかった。

いやあ、やっぱり岡本喜八作品は難しいこと抜きで楽しめて、とてもかっこ良い場面もあったりして、とてもいいなあ。
音楽もかっこいいし。
あとは三月の『ジャズ大名』を見逃さないようにしないと。

携帯を替えた。
いわゆるところの機種変更。
INFOBARからTalbyへとストレートのものを使い続けてきたのだけれど、ここにきて久方ぶりに折り畳み式にした。
店員さんにもINFOBARじゃなくていいんですか、と聴かれたけれども、長年使ったストレートをやめたその理由は、INFOBAR2のデザインがどうにも気に食わなかったからと、逆に意外と気に入ったデザインのものがあったから。

INFOBAR2が発売されるというニュースを聞いたときは嬉しかったし、期待もした。けれど、実物を見てみると、確かに丸みは帯びているけれど、そこからデザインコンセプトである「溶けかけたキャンディ」を連想することはなかった。
なぜか妙に最新機能をこれでもかと盛りこんで重くなった機体をまるでごまかすかのように角を丸めたかのようにしか見えない。
端的に言ってINFOBARにあったスマートさはなくなっていた。
しかも、色みがひどい。何なんだあの黄緑色は。シルバーなんて、プラスチックで作ってもちゃちいだけだし、何より単色で出して何が面白いというのだろう。
黒白もなぜか灰色と白という曖昧なカラーリングになっていたし。
錦鯉はつやつやしてよかったけれど、長期間使って表面の塗装が剥げてくることを思えば選択から外さざるを得ない。
なんというか、INFOBARにあった斬新さは、あまり感じられなかった。

では、結局何にしたかというと、
http://www.au.kddi.com/seihin/kinobetsu/seihin/w55t/index.html
これの銀色。
私は前々から、機能はどうでもいいから、とにかく薄いものがよくて、そして、ごてごてとした装飾はいらないから、シンプルに、ただし、素材にステンレスをつかってくれればそれだけでよい、と思っていた。
すごく簡単にできることだと思うし、プラスチックの銀色を使った安っぽい質感ばかりがあふれている中で、それくらい求めても過剰な要求ではないと思っていた。

そんな風に思っていたけれど、あきらめてストレートのものを使っていた(ただしINFOBARは周りの枠はステンレスでいい具合のシャープさだった)なか、以前INFOBAR2を見に行ったところでこの機種を知って驚いた。

やればできるんじゃないのと。

少し使ってみて、薄さのために犠牲になったであろうボタンの押しにくさとかはあるけれど、これはいずれ慣れるのだろう。
贅沢を言えば、前面だけではなく、背面や側面もステンレスで統一してほしかったが、重量とかコストの関係もあるのだろう。
そこは妥協して、これにした。

このデザインが何も優れているとは思っていなくて、ただ最低限はクリアしているというに過ぎない。
それほど携帯のデザインはひどすぎるものが多いと思う。
販売奨励金制度がなくなってから、携帯がどうなるのかはわからないけれど、とにかく新機能ばかりを追加して、妙にごてごてとしたデザインでは、ちょっと食指が動かないという人も多いのではないかと思うのだけれど。
こんな風に思うのは、普段携帯をGPS用途くらいでしか使わない私だけなんだろうか。

まだずいぶんと先になるだろうけれど、次の機種変更の時にはましなデザインの携帯が出ているといいな。

途中で止まっていた仁義を続きから二作観る。
『仁義なき戦い 頂上作戦』『仁義なき戦い 完結篇』
小林旭がかっこよすぎる。
菅原文太は言うまでもないし、眉毛を剃った梅宮辰夫も迫力があってよいなあ。
ただ、それだけの作品で終わっていないのは、儚く散る若者の姿をしっかりと描いているからだろう。
原爆スラムに居て、新しいテレビを買うために人を殺す。
あるいは、「男になるため」に殺す。
そんな彼らの暴力の不毛さを、しっかりと描いている。これは所謂任侠モノとは一線を画するものではないだろうか。
仁義なき戦いでの暴力は徹頭徹尾不毛で、時にこっけいですらあり、何より血反吐を撒き散らす醜いものとして描かれている。
暴力で何かが解決することは一切なく、大抵さらなる抗争を生むのみ。
深作欣二が描こうとしたのは結局、完結篇の最後の原爆ドームに尽きるのだと思う。

面白かった。

シネマヴェーラでの特集上映に行けなかったのが無念すぎるのだけれど、きっとまた機会はあるさ。

唐突にテキーラの話をする。

映画に出てくるテキーラのシーンで印象的なものといってまず思い浮かんだのが、『フリーダ』の一場面。
結婚式のパーティーで、花嫁と踊る人をテキーラの一気飲みで決めるという勝負があって、そこで大の男たちに勝ったのはフリーダ・カーロ。サルマ・ハエックが花嫁と踊るタンゴの情熱的、そして、かっこいいこと!

他に浮かぶのは、『フロム・ダスク・ティル・ドーン』だろうか。
タランティーノがうれしそうに、テキーラの一気飲み勝負の音頭をとっていた。
たしかにこの場面の飲みっぷりもかっこよくて、この直後に大変なことになっている場面よりも、妙にこのテキーラを飲む場面が印象に残っていた。
そういえば、『デス・プルーフ』でも同じようにタランティーノが音頭をとってショットグラスの一気飲みをしていたけれど、このときはテキーラじゃなくてサルトリューズ。
飲み方は同じように、飲み干した者からショットグラスをテーブルにタンッ!と叩きつけていた。
それが妙にかっこよく見えたっけ。

そういえば、『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』のラストシーンでもテキーラは印象的だった。
バンドが目的地の結婚式パーティに到着した後、マネージャーはそれを満足げに見守りながら、メキシコの荒野の闇へと消えていく。彼が何を思って去っていったのかはわからないけれど、その最後に飲むのが、サボテン生えた蛇口から出てくるテキーラだった。
水道の蛇口をひねるとみかんジュースが、みたいなノリは意外とインターナショナルなものだと実感すると同時に、それを許容できるような不思議な世界観がよかった。

思えばテキーラは、やっぱりショットで、タンッといい音を立てて飲み干すに限る。

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