2007年12月アーカイブ

『アダプテーション』
『チャーリーズエンジェル』
『おいしい生活』
『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』
『ストロベリーショートケイクス』
『ハンナとその姉妹』
『それでもボクはやってない』
『LOFT』
『ドッペルゲンガー』
『回路』
『CURE』
『かもめ食堂』
『蟲師』
『バベル』
『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』
『マッチ工場の少女』
『コントラクト・キラー』
『ラヴィ・ド・ボエーム』
『父親たちの星条旗』
『硫黄島からの手紙』
『用心棒』
『燃えつきた地図』
『エレファントマン』
『ロストハイウェイ』
『マルホランド・ドライブ』
『ボルベール<帰郷>』
『インランド・エンパイア』
『ホステル』
『グラインドハウス(USAバージョン)』
『300』
『ゾディアック』
『裁かるゝジャンヌ』
『吸血鬼』
『THE焼肉ムービー プルコギ』
『長州ファイブ -CHOSYU Five-』 
『のんき大将〈カラー版〉』
『ぼくの伯父さんの休暇』
『郵便配達の学校』
『左側に気をつけろ』
『ぼくの伯父さんの授業』
『ぼくの伯父さん』
『プレイタイム〈新世紀修復版〉』
『タクシードライバー』
『恋する惑星』
『仁義なき戦い』
『ボルベール<帰郷>』
『キサラギ』
『仁義なき戦い 広島死闘篇』
『仁義なき戦い 代理戦争』
『殯の森』
『ライブ・フレッシュ』
『オール・アバウト・マイ・マザー』
『トーク・トゥ・ハー』
『バッド・エデュケーション』
『エンジェル』
『デス・プルーフ』
『プラネット・テラー』

以上57本(『グラインドハウス』アメリカ公開版を一本として)。劇場鑑賞は48本。
blogをいい加減にしかつけていないから、少し本数と順序が曖昧だけれど。
去年が55本だから、怠惰に映画を観ていたら、大体これくらいの本数になるということだろうか。
去年より少なくなった気がしていたけれど、オールナイトに何度か行ったのが効いているのだろう。
黒沢清、アキ・カウリスマキ、ジャック・タチ、ペドロ・アルモドバルのオールナイトか。
引っ越してよかった。

相変わらず新作の少ない、誠実とはいえない映画好きなのだけれど、
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、タランティーノ、アルモドバル、オゾン作品の新作を観られたのはうれしい限り。

まあ、一番印象深かったのは『デス・プルーフ』だな。
敢えて新文芸坐で締めくくってよかった。
この二本立てがなければ、『エンジェル』が2007年鑑賞の最後になるところだったのだから。
それはそれでよいけれど。

さて、来年も50本観られるかどうか。
50本程度じゃどうしたって貧弱な映画経験だと二年連続して思う。
早速1月にシネマヴェーラで深作欣二特集をやるそうで、目から血が出るほど行きたいけれど、どうやら一本も行けそうに無い。
残念だけれど、またどこかでやってくれることを期待して、来年も生きていこうと思う。

ちなみに、本は今年あまり読んでいないし、記録もつけていないので、リストアップはやめておく。

新文芸坐で『デス・プルーフ』と『プラネット・テラー』の二本立てを観てきた。
客入りは年の瀬にもかかわらず、ほぼ満員。

やっぱりこの二本は二本立ての映画館で観るのが正しい鑑賞方法のような気がする。

『デス・プルーフ』はアメリカ公開版の方がテンポは良いし、まとまりもよい気はするけれど、女性がより魅力的、というか、フェティッシュ、というか、タランティーノがねちっこく撮っているのは単体公開版の方だろう。
誰だったか忘れたけれど、コラムニストが、入学試験なんかで「選択肢」という単語に「肢」という漢字が入っていて、それが妙に艶かしく感じる、と言っていた。その感じ方の是非はさておき、タランティーノは足というよりまさに肢をなめるように、文字通りカートラッセルに舐めさせたりしているし、撮っていた。

これもソースが不確実なのだけれど、タランティーノはリンチのことが余り好きではないそうで、その理由がなぜ彼のように好き勝手撮っている作品が観客に受け入れられているのか理解できないからだそうだ。
タランティーノもたいがいじゃないか。リンチはむしろ受け入れられずに殆ど自主制作みたいな形で公開しているのに。

いやはや、それでもまあ、ラストのカーチェイスの盛り上がりっぷりといったらない。
ああ、映画って最高、と脊椎が痺れるほどの快感を味わった。
何度でも観たいな。ただし、映画館で。

以前六本木でアメリカ公開版を観たときは、ファンばかりだからだと思っていたけれど、この日も上映後拍手が起きていた。
いい映画には自然と拍手が出るね。

『プラネット・テラー』も相変わらずのロドリゲス映画。
面白くて、1年の締めくくりにはめでたくて良い。

隣の席が女性二人で観に来ている人で、膝を叩いて愉しんでいたのだけれど、休憩時間に、2人で、あの人(カート・ラッセル)自体は全然デス・プルーフじゃなかったんだね。と言っていた。
おもろ。



何しろもうずいぶんと前のことで あらためて考え直すのも今さら
いまだ残るその違和感は川で掬い上げた一粒の砂金に似ている
放っておけばきっとひそやかに何事もなく忘れてしまう
ただそのまま川に流してしまうにはあまりにも
(小林大吾『砂金』)

という具合で久々に更新だけれど、少し書き漏らしていた映画のことを書いておかなければ、何事も無く忘れてしまいそうだ。

まずは12/3の新文芸坐でのペドロ・アルモドバルオールナイト。
客の入りは半分以下といったところ。
どの監督のオールナイトの客の入りが良いのかが全く解らない。
リンチはガラガラに違いないと思っていたら立見も出ていて、今回は結構多いだろうと思っていたらガラガラだったり。

『ライブ・フレッシュ』
たしかこの作品でアルモドバルは長篇映画作家として有名になったように記憶していたけれど、今までこの作品を観たことがなかった。
原作つきということだけれど、どこを切ってもアルモドバル色があふれ出していて、よかった。
それでいて、原作つきということでいいこともあって、それはつまり、まとまっているということ。
交叉する男女の人間模様は巧みに描かれていて、それでいてねっとりとしている。
とてもよかった。
そういえば、エレナがテレビで映画を観ているシーンがあって、その作品がルイス・ブニュエルの『アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生』だったので「おお!」と思った。

この作品は最近観たのだけれど、男に引きずられたマネキンから足だけずり落ちるシーンがとても衝撃的で、それでいてどこかフェティッシュな、印象的な場面だった。そして、その場面がまさに引用されていて、ああ、そういえば、この人形を焼き捨てるようなフェティッシュさは、少し『トーク・トゥ・ハー』の寝たきりのアリシアの美しさに通じるところがあるのかもしれない、と思った。

そういえば、『トーク・トゥ・ハー』でもベニグノが観るサイレント映画は劇中劇として出てくるし、この『ライブ・フレッシュ』でも明らかに主人公が奔放な女性に振り回されるという構図は劇中劇として非常に重要さを持っている。ルイス・ブニュエルのこの作品を知っていなければ気が付かない伏線なのだけれど。
ひょっとしたら、アルモドバル作品にとって、劇中劇はとても重要な意味をもっているのでは、と今さらながらに気が付いて、好きな監督のつもりだったけれど、何も見ていなかったのだな、と反省もした。
『オール・アバウト・マイ・マザー』でも劇中劇として『欲望という名の列車』は重要な意味をもつわけだし。

アルモドバル色が鮮やかに出ていながらも、話はきっちりとまとまっている(ほかの作品がまとまっていないというのではなくて、なんというのだろう、きちんと収束していくというような意味ぐらいで)ので、初めてアルモドバルを観るという人にも薦められそうな気がした。
今となっては、『ボルベール』という傑作があるので、そちらを観れば十分なのだが、これと二本合わせて見ると、ペネロペ・クルスの変貌に驚く。

最近映画館でコーエン兄弟の新作『ノーカントリー』(なにやら傑作の予感がしていた)の予告篇を観ていたら、どこかで見たことある男が殺し屋を演じていた。
どこで見たのだろうと思い出していたら、この作品のデイヴィッドを演じていたハビエル・バルデムだった。

いつものようにロビーには映画雑誌の切り抜きがあったのだけれど、その中の淀川長治の評が非常に興味深かった。

同じゲイということで、わかるところがあったのか、生き生きとしたその文体は思わず笑ってしまうほど楽しげだった。
それでいて、鋭いと思わせられたのは、アルモドバルは男を愛する女を男として撮っているというものだった。
つまり、アルモドバルは男としての目線でありながら、それでいて同調しているのは男を愛する女としての立場だろうということだろう。
これは確かに面白い指摘のような気がした。
その後のアルモドバル作品では、女性(元男性)だったりとか、ゲイだとかが出てきて、さらにその視点と対象は多様になっていき、鮮やかさも増すのだけれど、この作品の時点でしっかりと指摘している淀川長治というのは、凄いなあと思った。
これはきっと、彼自身もゲイだから、というだけの読みの深さではないのだろう。

―お前は僕の青春を奪った
―お前はクララを奪った
―彼女は誰にも奪えない
―青春も誰にも奪えない
(『ライブ・フレッシュ』)

『オール・アバウト・マイ・マザー』
やっぱり良い。結局私が一番好きなアルモドバル作品はこれかもしれない。
しみじみと、何度も見返したくなる作品だ。
どの女性も魅力的に描かれているけれど、アグラードが一番好きだ。

『トーク・トゥ・ハー』
以前観たときとまるで違った印象を受けた。
以前よりもベニグノが人間臭く思えたし、マルコが優しく見えた。
不思議なものだ。
最近この作品についてある女性と話したのだけれど、彼女は女性がこの作品の中で感情移入する対象はベニグノなのではないか、と言っていたのが興味深かった。

『バッド・エデュケーション』
これは公開時に観てがっかりしたから、観ないで帰ってもよかったのだけれど、何か違って観えるかと思ったが、やはり詰まらなかった。
どうにもこの作品のよさが解らない。

続いて、最近12/22に観たオゾンの新作『エンジェル』について
観たのはシャンテ・シネ。

最初はなんだこれ、と思ったけれど、オゾン作品を観るのが久しぶりだったものだから、これがオゾン作品だってことを思い出したら、腑に落ちた。
『ぼくを葬る』とか撮ってるものだから、オゾン作品がどういうものかって少し忘れていたのかもしれない。
そう、これは結局オゾンが得意な「悪趣味」と「意地悪」に充ちた、オゾンらしい作品だったのだ。
オゾン初の英語劇だとか、時代が現代じゃないとか、そういう設定に知らず知らずのうちに、どこか「大作」めいたものという先入観を持ってしまっていたのだろう。
なんのことはない、基本的な構造は『ホームドラマ』と同じなのだ。
『ホームドラマ』がシットコムのパロディであるのに大して、この作品が昔のハリウッド映画みたいな恋愛映画的なものを対象としているという点が違うにすぎない。
それがちょっと解りにくいのは、『ホームドラマ』は解りやすくパロディにしていたのに対して、この作品は茶化しているのか本気なのか、ちょっとわかりにくいところで、寧ろそれが両立しているような意地悪さがあって、これはこれで非常にオゾンらしい気がしてきた。
それにしても、シャーロット・ランプリングの迫力はとてもよいし、過剰な演技をきちんと過剰に演技している新人のロモーラ・ガロイもオゾンの期待にきっちりと応えているように思った。
あんな役を本気で演じられるなんて、いいね。
どんな役柄であろうと全力で演じている豊川悦司に対して感じるのと同じような好感を持つ。

ただ、この作品をはじめて観て、楽しめるかというと、少し難しい気がしないでもない。
過剰な点は過剰なのだから、それ自体面白いと思うし笑ってもよいと私は思うのだけれど、残念なことに、この描写が現在の日本という文脈では、過剰じゃなくなってしまっているのだから、ともすれば平板なものにしか見得なくなってしまう恐れもあると思うからだ。
田舎の女性が、有名作家になって、社交界デビューして、貴族の息子と結婚して、なんてあまりに典型的なサクセスストーリーをかなり意地悪く描いているのだけれど、この典型的な、ある種の陳腐さが陳腐さとして受け取られないような文脈が今の日本にはある気もするからだ。

しばらくこの作品が本気なのか、と思ってしまった私もやはり、この文脈からは自由ではないのだな、と思って少し反省した。
オゾンファンにとっては、くっくっと意地悪く笑える久々のオゾン悪趣味満載の作品だったように思う。

ただ、一般受けするかといえば、それは怪しいといわざるを得ず、公開してまだ一ヶ月もたっていない週末の夜というのに、客の入りはガラガラだった。
次回作が観られるかどうか、少し不安でもある。

月光仮面が

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月光仮面が来ないのと、電話をかけてくる人はいないけれど、近頃本当に「ついてない」としか言いようがないようなことばかり起こっていて、―いい事ばかりはありゃしない−と唄いたくもなる。

昨日は特にひどくて、夜中にamazonで本を買おうとして、財布からクレジットカードを探すが見つからず、青くなる。財布内のあるべきポケットにはなく、部屋中のどこを探してもない。すわ、紛失、もしくは、盗難。と思って、最後にクレジットカードを使ったときを思い出すともう一月以上昔だ。
身も心も青も青で紺碧のブルーになって、24時間対応のコールセンターに電話をかけて遅ればせながらカードをとめて頂いたところ、相手が仰るには、遺失物届けを出せば保険で保障されるかもしれないとのこと。
少し赤みがかったブルーになって、ふるふると振るえながら、自転車にマグライトをひっつけて交番へと向かっていると、青信号で、横断歩道の自転車走行部分を、ライトを点灯させて、走っている、私の横からタクシーが急に左折をかましてきて、接触。
大事には至らなかったものの、きまずく、文句の一つでも、と思うことすら青い私には不可能であった。
そして何とか遺失物届け、遺失の期間一ヶ月、場所、東京都内のいずれか、というあまりに膨大な届出を出した後に、け帰って、眠った。
そして今朝早く、外出する用事があったので、自転車に乗ろうとすると、パンクしている。
思い当たる節は一つ、昨日のタクシーとの接触だ。
自転車で間に合う時間ではあったが、電車では間に合わない時間。
やむなく朝からタクシーを使う。
なんで。

こんな具合。今年は本当にひどい。
冷蔵庫も壊れるし、そういえば、最近パソコンが壊れて、部品を交換して直ったかと思えば、次はルーターのファームウェアの異常か何かで、ネットが不通だ。

今は出先でこれを書いている。

今年は確か本厄ではなかったと思うのだけれど、私は今年、生き残れるのだろうか。

雷でも落ちても不思議はない。

まあ、なんだかんだ言っても、幸福は量ではなく、質なのだから、私はなんだかんだいって幸福なのだと思う。

それくらい思わせていただきたい。

いい事ばかりは ありゃしないなあ、全く。

私が聴きたかった音楽は、これだ!と興奮せざるを得なかった。

ラジオから流れてきた小林大吾の曲、というより、詩、を聴いたからだ。

ラップという表現方法はとても可能性があると思っている。
けれど、どうにも「ワルさ」を前面に押し出す自己主張には少し抵抗があって、そうじゃない表現としてのラップはないのだろうか、と思っていた。
といっても、私がラップに可能性があると思ったのは、ポップスの表現方法というわけではなくて、滂沱と流れ出る自意識だとか感情だとか、そういうものをそのまま表現できるように思っていたからだ。

私がその可能性を感じてとても好きだったのは、ZAZEN BOYSの"自問自答"だった。
確かにZAZEN BOYSの曲はすべてとても洗練されているとは思うし、とてもよい曲だとは思う。
それでも、number girlのセンチメンタリズムを研ぎ澄まされたメロディに乗せて唄う、という私が好きだったところとは少し違っていて、結局いつもiPodの中に必ず入っているのは、ZAZEN BOYSではなくて、number girlだった。
けれど、そのようなZAZEN BOYSの曲の中で、異色の光を放っていると私が感じる曲が"自問自答"で、それはnumber girlの世界の延長線、というには余りにギリギリすぎて、延長線というよりはもはや極北、という感じがした。
そこはもはやセンチメンタリズム、なんてものではなくて、全てを見透かすような視線、そして、それが乗っているメロディもとてもシンプルで、それすら途中からほぼ消える。
友人とこの曲について語っていたとき、―これを言うてしまったら、もう終わりやん、と云う話が出た。
全くその通りで、まさに極北のようなこの曲はそれだけにとても魅力的だった。
そして、その極北のようなあそびのない世界観を表現するのに、ラップ(詳しくないのでいわゆるライムがそれほどないこれをラップと言っていいのかはわからないけれど)的な表現方法はとても最適で、それは例えば、大江健三郎が一言も言い漏らすまいと書いているような文体にも似ているように思った。

だから、私はもっとこういう曲が聴きたいと思ったけれど、「もう終わりやん」と言いたくなるような世界観を描いてしまったZAZEN BOYSはこの後こういう曲を発表することは無かったし、「ワルさ」に馴染めぬまま、ヒップホップの中から探し出すことも出来なかった。

それが、やっと聴けた。それも、"自問自答"のような極北ではなくて、豊饒な詩情溢れる世界観を表現する手段として。

それが小林大吾だった。
http://www.wildpinocchio.com/
ここで全曲視聴できるほか、
http://podcast.tbsradio.jp/utamaru/files/20071124_kobayashidaigo.mp3
ここでは7:47あたりから"話咲く種をまく男"がまるまる一曲聴ける。

とてもうれしかったので、CDを買おうと思ったけれど、なぜかamazonでは新しいアルバム『詩人の刻印』が売っていない。探しに行くと当然のようにHMVでもなかった。
困ったときにはディスクユニオン、ということで、さすがはディスクユニオン、無事手に入れることが出来て、それ以来このアルバムばかり聴いている。

何が良いか上手くいえない、ということを上記podcastで説明されていたけれど、私はもとよりどの音楽であっても何が良いと感じたか上手くいえないので、上手くいえないなりにちょっといってみようと思う。

まず良いのが、やさしさ、だろう。私が少し抵抗があって入りづらかった「ワルさ」はそこにはなく、とてもやさしい世界観があった。
ここでやさしさ、と書いておもったのだけれど、やさしさというだけでは少し単純化しすぎているようにも思う。
なんといえばいいのだろう。それは、詩情溢れる、ということなのかもしれない。

流れ出てくる言葉はどれも周到に選ばれているのがわかるような、詩人の言葉だと感じた。
けれど、それが単なる詩の朗読ではないのは、やっぱりこれがメロディについている曲でもあるからだろう。

つまり、詩であると同時に音楽でもある。どちらかが主でどちらかが従ということではなく、両者は完全にひとつのものとなっていて、二つの側面となっている、そんな感じの気がする。
音楽、という側面から見ると魅力的なのは、小林大吾の声、だろう。
ささやくようでありながら、少し低くて、とても心地よい。

やっぱりうまくはいえないけれど、とても素晴らしい曲だった。
一作目のアルバムも買おう。


聴きたかった音楽に出会えてうれしくてしょうがない。

何が彼女をあの場所に追いやったのか?
それを知っていたらまたちがった結末があったか?
とくべき謎ではなく不思議としてそのまま
世界はたぶんそんな理由でうつくしい
強いられるのは撓みなくはられたピアノ線のように
つとめてしずかに、
タフであること
ひとかけのバターをパンに塗るように
ただそれとなく、
なだめていくこと
(小林大吾 "腐草為蛍")

右手には冷たいピストルがある
左手には温かい愛がある
驚いてピストルを投げ捨てる
「落としましたよ」と
親切に拾ってくれた人の
てのひらには愛がのっている
面食らって自分の左手をみれば
捨てたはずのピストルをにぎっている
そのくりかえし
(小林大吾 "蝸牛の憂鬱")

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