朝、味気ない携帯のアラーム音で目覚めかけると、まだ少しく頭と身体が重い。
きっと体温を測っても熱は無いのだ、と思いつつ、ひりひりとする喉からしわぶきは飛び出て、"鼻セレブ"ではなをかんだ。
頭と身体は相変わらずぼんやりとしているけれど、兎にも角にも目覚めなければならないので、枕元のリモコンで、オーディオのラジオを点けた。
―今話題となっている透明少女ですが
ああ、透明少女、話題か。
と思っていたら、「防衛商社」だった。
詰まった鼻でぐすぐすと笑った。
そう、風邪の引き始めの症状のようなのだ。
風邪の話でもしようか。
と言っても、今年の春先もたしか同じような症状で、熱はないけれど、喉と鼻が切ないことになるのだ。
そして結局そのまま治る。
これが風邪が引き始めのまま治ったのか、鼻炎のようなものなのかはわからないけれど、鼻声で喋っていた相手から、
―いつまでも薄着で自転車にのっているからだよ。
と言われてぐうの音も出ねえ。
そんな具合で大事をとって―この表現は仮病で休むときの常套句として好きだ―、相も変わらずベッドでごろごろとしていた。良い大人が。
良い大人じゃなくて、というとじゃあ悪い大人か、と言うと今でも少なくとも良い大人じゃないけれど、この場合の良い大人というのは良い若ぇもんが、ていうような意味合いなので、良い大人じゃないころ、というのは具体的には子供のころ、ということにさせていただきたいところである。そんな子供のころから、風邪気味になると、熱があって本当に苦しい時にはただ眠っているしかできないし、意識も朦朧としているのだろうけれど、直りかけだとかひきはじめだとか言った軽い症状の時には、えてして暇をもてあましがちになるので、布団の周りには本が何冊かつんであったように思う。
テレビジョンをミル貝、すれば暇も潰れようが、小さいころから余りテレビジョンをミル習慣が無かったので、ぼんやりとであってもテレビジョンをつけっぱなしにしていると疲れてしまうのだ。そもそも今現在部屋にはテレビジョンはない。
では本はどんなものであってもよいか、と言えばそうではない。
面白すぎる本だと根を詰めて読んでしまうので、かえって疲れてしまう。
そこで短編集だとかエッセイだとかを子供のころはぼんやりと読んでいたのだけれど、詩が読めるようになってからは詩集を読むようにしている。
この日もそうで、周りには風邪気味を察知して以降家に帰る途中で寄った図書館で借りた詩集、オーデン詩集を積んでいた。
重い頭に政治的な詩は少しつらいし、頭から順番に咀嚼していくには顎の力も足りねえ、てことで、ぱらぱらと目に付いた詩を読む、という不実な詩の読み方をしていた。
確か『星の王子様』で冒頭に、大切な話だから寝転がって読まないでほしい、と言う言葉があったと思うのだけれど、オーデンにも勘弁してもらうことにしよう。
そこで、前から好きだったひとつの詩を紹介しようと思う。
よりによって引用する詩がそれか、君は何もオーデンをわかっていない、と言われればまあその通りで、私はオーデンを何も解っていませんと言うほかないけれど、そもそも宿酔のたびに中原中也の千の天使がバスケットボールする、と云うフレーズを思い出しているような詩に対して不実な私に言っても無駄なのかもしれない。
その詩は『法律は愛に似て』("Law Like Love")と云う題で、法律を学んでいる人は悦びそうだけれど、私は寧ろ愛の方が関心がある。
ねえ、きみ、ぼくたちは、ほかのひとほど
法律のことは知っていないことを知っている。
すべきことと、すべきことでないことについて、
その法律があることを、
喜んでか、悲しんでか、
すべてのひとが同意し、
すべてのひとがそれを承知していること以外は、
ぼくは、きみと同様、何も知っていない。だから、法律をほかのことばで言い替えるのは
ばかげていると思っている。
ほかの多くのひとたちと違って、
法律は、などと繰り返すことはできない。
それでも、ほかのひとたちと同様、
ぴったり言い当てるとか、
あるいは、自分たちの立場を抜けだして
無関係な状況に入るといかいう、
だれもが持つ願望を抑えることもできない。ぼくは、すくなくともきみの虚栄心と
ぼくの虚栄心を押し込めて、
秘やかな類似点を
秘やかに述べることもできないわけではないが、
ここはともかく得意げに、
法律は、愛に似ている、と言おう。愛に似て、ぼくたちは、それが生まれたところも理由も知らない。
愛に似て、ぼくたちは、強制することも、逃げることもできない。
愛に似て、ぼくたちは、たびたび涙を流す。
愛に似て、ぼくたちは、めったに守らない。
(W・H・オーデン「法律は愛に似て」 沢崎順之助訳編『オーデン詩集』)
愛の無い学問は学びたくない、と言って法律家への道を放棄して音楽家になったのはシューマンだったか。フレデリック・バジールもそうだと思っていたのだけれど、これは記憶違いで、バジールは医学を学びにパリに来ていたらしい。
そんな愛が無いと言われる法律を敢えて愛に似ているとさらりと言っているところがなかなか好きだ。
さて、このような詩をぼんやりとベッドで眺めながら考えていたことがあって、それは考えていたというよりはくだらない妄想のごときものなのだけれど、
「法律と珈琲は似ているか」
ということだ。
ついに気が触れた、と言われてもあながち間違いではないけれど、サニー・デイ・サービスの"コーヒーと恋愛"という曲があるので、引用してみたい。
香ばしい香り薫れば ほろ苦い恋にも似ていて
あわてるとちょっと熱いよ ゆっくり腰をおちつけて
風に乗って香り高く 苦い涙ほろほろと
喫茶店の窓辺から 花咲く朝の通りへと
コーヒーと恋愛が共にあればいいカップのふちすれすれに たっぷり入ったのが好きだな
クリームをちょいといれたら 白いらせんを描きだす
恋心もぐるぐると 目まぐるしく移り変わり
気が付いてみれば 花咲く朝の通りへと
コーヒーと恋愛が共にあればいいなんだかんだ言ってみても 飲めば飲むほどに眠れず
分かってはいたって どうにも止められないってもんさ
風に乗って香り高く 苦い涙ほろほろと
喫茶店の窓辺から 花咲く朝の通りへと
娘さんたち気を付けな コーヒーの飲みすぎにゃ
(サニー・デイ・サービス"コーヒーと恋愛")
つまり、この歌ではコーヒーと恋愛は共にあればいい、としか言っていないけれど、コーヒーと恋愛をアナロジーで描いていることは明白なので、この歌詞からコーヒーと恋愛の共通点を考えることは可能だろう。
それをあえてあげるとすれば、次の5点になるだろうか。
?あわてるとちょっと熱いこと
?ほろ苦いこと
?目まぐるしく移り変わること
?飲めば飲むほどに眠れないこと
?どうにもとめられないこと
これに対して、先のオーデンが法律と愛が似ている、と言っている点は、以下の四点だろう。
a.「それが生まれたところも理由も知らない。」
b.「強制することも、逃げることもできない。」
c「.たびたび涙を流す。」
d.「めったに守らない。」
さて、ここで、恋愛と愛は同じか、というアポリアには敢えて踏み込まないとして、同じだということにさせていただこう。
そうすると、?から?のコーヒーと愛の共通点が愛と法律にも認められれば、または、aからdの愛と法律の共通点がコーヒーと愛にも認められれば、コーヒーと法律が似ていると言ってもいいのではないだろうか。法律が何を指すか、ということについても本当は厳密な定義づけが必要なのだろうけれど、面倒なので、曖昧にしておくけれどいいよね。いいとさせていただく。その知識もないし。
では
?から?は法律にも該当するだろうか。
?法律はあわてるとちょっと熱いか。
熱い、というのを少し痛い目を見る、という意味だとすれば、確かに法律は取り扱いに用心が必要なことは熱いコーヒー以上であることは間違いないといえそうなので、肯定していいだろう。
?法律はほろ苦いか。
難しい。苦いかどうかは主観的なのでわからないけれど、法律をsweetだと考えている人はあまりいなそうだし、無味無臭というよりは嫌われがちな法律はほろ苦いと言ってもいいような気がする。
?目まぐるしく移り変わること
ものによるんだろう。目まぐるしく改正される法律もあれば、そうでないものもある。
?飲めば飲むほどに眠れない
個人的には良い入眠剤ではないかと思うし、一般的に言っても、法律を摂取しすぎて眠れなくなったなんて人は聞かない。
?どうにもとめられないこと
法律を摂取するのがどうにもとめられない、なんて人は聞いたことがあまりないけれど、いるのかもしれない、あまり近寄りたくないけれど。いずれにせよ、稀有ではないだろうか。
?と?は法律に当てはまらないと言っていいだろうけれど、?は微妙、?と?は肯定してよいのではないか。
続いて、aからdはコーヒーにも該当するだろうか。
a.コーヒーが生まれたところも理由も知らないか
コーヒーがいつから飲まれるようになったかはよくわかっていないらしく、その起源についても2つの伝説があるそうだ。ヤギ使いが見つけたという伝説と修道者が見つけたという伝説があるようだ。
生まれたところも理由も知らないと言えるだろう。
b.コーヒーを強制することも、逃げることもできないか。
強制することができないことは言うまでもないだろう。コーヒーの魅力は抗いがたいものがあると個人的には嗜好として思うけれど、カフェイン中毒ならまだしも、コーヒーの影響力はそこまで強くないだろう。
c.コーヒーについて私たちはたびたび涙を流すか。
『マルホランド・ドライブ』のように、不味いコーヒーを飲んだときはナプキンにでも吐き出したくなるし、最低の気分で飲む冷えたコーヒーには涙を流したい気分にもなるけれど、コーヒー自体について涙を流すことはまずないだろう。
d.めったに守らない
コーヒーは規範ではないので、守るも守らないもないだろう。美味しい作り方をしない、ということだったらあるだろうけれど、山川直人の次の言葉を参考にすれば、それだって決して規範ではないと言って良い、いや、言いたいのだ。
コーヒーの旨い不味いを決めるのは、コーヒーそのものの味もさることながら、いつ、どこで、誰と、どんな会話をしながら飲むかだと思うんです。だからインスタントだって缶コーヒーだって、旨い時は旨いんだって、思ってます。岩:いや、嘘だ!(笑) だって山川さん、インスタントのコーヒー飲まないでしょ。缶コーヒーのブラックも飲めないって言ってましたよ!(笑)
飲めない…けど……。いや、だからね(笑)、岩井さんには何度も言ってるけど、不味いコーヒーもコーヒーなんですよ。コーヒー好きがふたりいて、どこかの店でコーヒー飲んで、何も言わずに出てきて「不味かったねえ」なんて言って、何年か後に「あの時のコーヒーはひどかった」って話すのが楽しいんですよ。不味いことによって思い出ができるわけだから、それはそれでいいんです。進んで不味いのを飲むことはないけども。
モ:コーヒー通の人が「缶コーヒーなんてコーヒーじゃねえよ」とか言うような否定の仕方はしない、ということですね。
そういうことはやっぱり言っちゃいけないと思います。……単行本の打ち合わせで関根さん(※6)の事務所に行った時にね、関根さんと岩井さんが、「モンカフェって結構飲めるよね」って話してたんですよ。で、オレはモンカフェを自分から進んで飲むことはないけれども、たとえばそこで、関根さんが淹れてくれたら飲むわけで。“関根さんが淹れてくれたコーヒー”っていうコーヒーですもんそれは。
自分の単行本について、編集の人とデザイナーの人が真剣に議論を交わしてくれてる横で、ああ幸せだなあと思ってたら、その時に飲んだコーヒーが何かなんて、問題じゃないですから。
(http://www.kanshin.jp/comic-beam/?mode=keyword&id=493015)
cとdはコーヒーには該当しそうにないけれど、bは半分は該当していて、aは該当していると言っていいだろう。
つまり、コーヒーと法律が似ているとしたら、それは愛を介して、
あわてるとちょっと熱いこと
ほろ苦いこと
(めまぐるしく移り変わるものもあること)
うまれたところも理由も知らないこと
強制することができないこと
ということになるだろうか。
そもそも法律は強制することができるだろう、とかはオーデンに言っていただきたい。
こんなことをぼんやりと考えていた、というはなし。
さて、今日も温かくして眠ろう。
コーヒーと恋愛は控えめにして。
