2007年11月アーカイブ

朝、味気ない携帯のアラーム音で目覚めかけると、まだ少しく頭と身体が重い。
きっと体温を測っても熱は無いのだ、と思いつつ、ひりひりとする喉からしわぶきは飛び出て、"鼻セレブ"ではなをかんだ。
頭と身体は相変わらずぼんやりとしているけれど、兎にも角にも目覚めなければならないので、枕元のリモコンで、オーディオのラジオを点けた。
―今話題となっている透明少女ですが
ああ、透明少女、話題か。
と思っていたら、「防衛商社」だった。
詰まった鼻でぐすぐすと笑った。

そう、風邪の引き始めの症状のようなのだ。
風邪の話でもしようか。

と言っても、今年の春先もたしか同じような症状で、熱はないけれど、喉と鼻が切ないことになるのだ。
そして結局そのまま治る。
これが風邪が引き始めのまま治ったのか、鼻炎のようなものなのかはわからないけれど、鼻声で喋っていた相手から、
―いつまでも薄着で自転車にのっているからだよ。
と言われてぐうの音も出ねえ。

そんな具合で大事をとって―この表現は仮病で休むときの常套句として好きだ―、相も変わらずベッドでごろごろとしていた。良い大人が。

良い大人じゃなくて、というとじゃあ悪い大人か、と言うと今でも少なくとも良い大人じゃないけれど、この場合の良い大人というのは良い若ぇもんが、ていうような意味合いなので、良い大人じゃないころ、というのは具体的には子供のころ、ということにさせていただきたいところである。そんな子供のころから、風邪気味になると、熱があって本当に苦しい時にはただ眠っているしかできないし、意識も朦朧としているのだろうけれど、直りかけだとかひきはじめだとか言った軽い症状の時には、えてして暇をもてあましがちになるので、布団の周りには本が何冊かつんであったように思う。

テレビジョンをミル貝、すれば暇も潰れようが、小さいころから余りテレビジョンをミル習慣が無かったので、ぼんやりとであってもテレビジョンをつけっぱなしにしていると疲れてしまうのだ。そもそも今現在部屋にはテレビジョンはない。
では本はどんなものであってもよいか、と言えばそうではない。
面白すぎる本だと根を詰めて読んでしまうので、かえって疲れてしまう。
そこで短編集だとかエッセイだとかを子供のころはぼんやりと読んでいたのだけれど、詩が読めるようになってからは詩集を読むようにしている。

この日もそうで、周りには風邪気味を察知して以降家に帰る途中で寄った図書館で借りた詩集、オーデン詩集を積んでいた。

重い頭に政治的な詩は少しつらいし、頭から順番に咀嚼していくには顎の力も足りねえ、てことで、ぱらぱらと目に付いた詩を読む、という不実な詩の読み方をしていた。
確か『星の王子様』で冒頭に、大切な話だから寝転がって読まないでほしい、と言う言葉があったと思うのだけれど、オーデンにも勘弁してもらうことにしよう。

そこで、前から好きだったひとつの詩を紹介しようと思う。
よりによって引用する詩がそれか、君は何もオーデンをわかっていない、と言われればまあその通りで、私はオーデンを何も解っていませんと言うほかないけれど、そもそも宿酔のたびに中原中也の千の天使がバスケットボールする、と云うフレーズを思い出しているような詩に対して不実な私に言っても無駄なのかもしれない。

その詩は『法律は愛に似て』("Law Like Love")と云う題で、法律を学んでいる人は悦びそうだけれど、私は寧ろ愛の方が関心がある。

ねえ、きみ、ぼくたちは、ほかのひとほど
法律のことは知っていないことを知っている。
すべきことと、すべきことでないことについて、
その法律があることを、
喜んでか、悲しんでか、
すべてのひとが同意し、
すべてのひとがそれを承知していること以外は、
ぼくは、きみと同様、何も知っていない。

だから、法律をほかのことばで言い替えるのは
ばかげていると思っている。
ほかの多くのひとたちと違って、
法律は、などと繰り返すことはできない。
それでも、ほかのひとたちと同様、
ぴったり言い当てるとか、
あるいは、自分たちの立場を抜けだして
無関係な状況に入るといかいう、
だれもが持つ願望を抑えることもできない。

ぼくは、すくなくともきみの虚栄心と
ぼくの虚栄心を押し込めて、
秘やかな類似点を
秘やかに述べることもできないわけではないが、
ここはともかく得意げに、
法律は、愛に似ている、と言おう。

愛に似て、ぼくたちは、それが生まれたところも理由も知らない。
愛に似て、ぼくたちは、強制することも、逃げることもできない。
愛に似て、ぼくたちは、たびたび涙を流す。
愛に似て、ぼくたちは、めったに守らない。
(W・H・オーデン「法律は愛に似て」 沢崎順之助訳編『オーデン詩集』)

愛の無い学問は学びたくない、と言って法律家への道を放棄して音楽家になったのはシューマンだったか。フレデリック・バジールもそうだと思っていたのだけれど、これは記憶違いで、バジールは医学を学びにパリに来ていたらしい。
そんな愛が無いと言われる法律を敢えて愛に似ているとさらりと言っているところがなかなか好きだ。

さて、このような詩をぼんやりとベッドで眺めながら考えていたことがあって、それは考えていたというよりはくだらない妄想のごときものなのだけれど、
「法律と珈琲は似ているか」
ということだ。

ついに気が触れた、と言われてもあながち間違いではないけれど、サニー・デイ・サービスの"コーヒーと恋愛"という曲があるので、引用してみたい。

香ばしい香り薫れば ほろ苦い恋にも似ていて
あわてるとちょっと熱いよ ゆっくり腰をおちつけて
風に乗って香り高く 苦い涙ほろほろと
喫茶店の窓辺から 花咲く朝の通りへと
コーヒーと恋愛が共にあればいい

カップのふちすれすれに たっぷり入ったのが好きだな
クリームをちょいといれたら 白いらせんを描きだす
恋心もぐるぐると 目まぐるしく移り変わり
気が付いてみれば 花咲く朝の通りへと
コーヒーと恋愛が共にあればいい

なんだかんだ言ってみても 飲めば飲むほどに眠れず
分かってはいたって どうにも止められないってもんさ
風に乗って香り高く 苦い涙ほろほろと
喫茶店の窓辺から 花咲く朝の通りへと
娘さんたち気を付けな コーヒーの飲みすぎにゃ
(サニー・デイ・サービス"コーヒーと恋愛")

つまり、この歌ではコーヒーと恋愛は共にあればいい、としか言っていないけれど、コーヒーと恋愛をアナロジーで描いていることは明白なので、この歌詞からコーヒーと恋愛の共通点を考えることは可能だろう。
それをあえてあげるとすれば、次の5点になるだろうか。
?あわてるとちょっと熱いこと
?ほろ苦いこと
?目まぐるしく移り変わること
?飲めば飲むほどに眠れないこと
?どうにもとめられないこと

これに対して、先のオーデンが法律と愛が似ている、と言っている点は、以下の四点だろう。
a.「それが生まれたところも理由も知らない。」
b.「強制することも、逃げることもできない。」
c「.たびたび涙を流す。」
d.「めったに守らない。」

さて、ここで、恋愛と愛は同じか、というアポリアには敢えて踏み込まないとして、同じだということにさせていただこう。
そうすると、?から?のコーヒーと愛の共通点が愛と法律にも認められれば、または、aからdの愛と法律の共通点がコーヒーと愛にも認められれば、コーヒーと法律が似ていると言ってもいいのではないだろうか。法律が何を指すか、ということについても本当は厳密な定義づけが必要なのだろうけれど、面倒なので、曖昧にしておくけれどいいよね。いいとさせていただく。その知識もないし。
では
?から?は法律にも該当するだろうか。
?法律はあわてるとちょっと熱いか。
熱い、というのを少し痛い目を見る、という意味だとすれば、確かに法律は取り扱いに用心が必要なことは熱いコーヒー以上であることは間違いないといえそうなので、肯定していいだろう。
?法律はほろ苦いか。
難しい。苦いかどうかは主観的なのでわからないけれど、法律をsweetだと考えている人はあまりいなそうだし、無味無臭というよりは嫌われがちな法律はほろ苦いと言ってもいいような気がする。
?目まぐるしく移り変わること
ものによるんだろう。目まぐるしく改正される法律もあれば、そうでないものもある。
?飲めば飲むほどに眠れない
個人的には良い入眠剤ではないかと思うし、一般的に言っても、法律を摂取しすぎて眠れなくなったなんて人は聞かない。
?どうにもとめられないこと
法律を摂取するのがどうにもとめられない、なんて人は聞いたことがあまりないけれど、いるのかもしれない、あまり近寄りたくないけれど。いずれにせよ、稀有ではないだろうか。

?と?は法律に当てはまらないと言っていいだろうけれど、?は微妙、?と?は肯定してよいのではないか。

続いて、aからdはコーヒーにも該当するだろうか。
a.コーヒーが生まれたところも理由も知らないか
コーヒーがいつから飲まれるようになったかはよくわかっていないらしく、その起源についても2つの伝説があるそうだ。ヤギ使いが見つけたという伝説と修道者が見つけたという伝説があるようだ。
生まれたところも理由も知らないと言えるだろう。
b.コーヒーを強制することも、逃げることもできないか。
強制することができないことは言うまでもないだろう。コーヒーの魅力は抗いがたいものがあると個人的には嗜好として思うけれど、カフェイン中毒ならまだしも、コーヒーの影響力はそこまで強くないだろう。
c.コーヒーについて私たちはたびたび涙を流すか。
『マルホランド・ドライブ』のように、不味いコーヒーを飲んだときはナプキンにでも吐き出したくなるし、最低の気分で飲む冷えたコーヒーには涙を流したい気分にもなるけれど、コーヒー自体について涙を流すことはまずないだろう。
d.めったに守らない
コーヒーは規範ではないので、守るも守らないもないだろう。美味しい作り方をしない、ということだったらあるだろうけれど、山川直人の次の言葉を参考にすれば、それだって決して規範ではないと言って良い、いや、言いたいのだ。

コーヒーの旨い不味いを決めるのは、コーヒーそのものの味もさることながら、いつ、どこで、誰と、どんな会話をしながら飲むかだと思うんです。だからインスタントだって缶コーヒーだって、旨い時は旨いんだって、思ってます。

岩:いや、嘘だ!(笑) だって山川さん、インスタントのコーヒー飲まないでしょ。缶コーヒーのブラックも飲めないって言ってましたよ!(笑)

飲めない…けど……。いや、だからね(笑)、岩井さんには何度も言ってるけど、不味いコーヒーもコーヒーなんですよ。コーヒー好きがふたりいて、どこかの店でコーヒー飲んで、何も言わずに出てきて「不味かったねえ」なんて言って、何年か後に「あの時のコーヒーはひどかった」って話すのが楽しいんですよ。不味いことによって思い出ができるわけだから、それはそれでいいんです。進んで不味いのを飲むことはないけども。

モ:コーヒー通の人が「缶コーヒーなんてコーヒーじゃねえよ」とか言うような否定の仕方はしない、ということですね。

そういうことはやっぱり言っちゃいけないと思います。……単行本の打ち合わせで関根さん(※6)の事務所に行った時にね、関根さんと岩井さんが、「モンカフェって結構飲めるよね」って話してたんですよ。で、オレはモンカフェを自分から進んで飲むことはないけれども、たとえばそこで、関根さんが淹れてくれたら飲むわけで。“関根さんが淹れてくれたコーヒー”っていうコーヒーですもんそれは。
自分の単行本について、編集の人とデザイナーの人が真剣に議論を交わしてくれてる横で、ああ幸せだなあと思ってたら、その時に飲んだコーヒーが何かなんて、問題じゃないですから。
(http://www.kanshin.jp/comic-beam/?mode=keyword&id=493015)

cとdはコーヒーには該当しそうにないけれど、bは半分は該当していて、aは該当していると言っていいだろう。

つまり、コーヒーと法律が似ているとしたら、それは愛を介して、
あわてるとちょっと熱いこと
ほろ苦いこと
(めまぐるしく移り変わるものもあること)
うまれたところも理由も知らないこと
強制することができないこと

ということになるだろうか。
そもそも法律は強制することができるだろう、とかはオーデンに言っていただきたい。

こんなことをぼんやりと考えていた、というはなし。

さて、今日も温かくして眠ろう。
コーヒーと恋愛は控えめにして。

あぶらだこ、が良すぎる。

歌詞、変拍子、声、演奏、とにかくいろいろ良い。

今更あぶらだこに嵌っているわけで、今更ネットでいろいろと調べていると、「難解な歌詞」的な表現がいろいろと見られた。
難解、かあ、と違和感を感じていると、http://www.loft-prj.co.jp/interview/0202/09.html
であぶらだこの長谷川裕倫と怒髪天の増子直純との対談で、

──あぶらだこって「難解だ」とかよく言われますけど、裕倫さんの人柄がそのまま出てるだけなんですね。
増子 そう。裕倫さんがこの間言ってたけど、「歌詞や曲が『難解だ』と言われるのは不本意だ」と。「難解なつもりで作ってないし、自分をそのまま出してるだけだから、これが難解だったら、『難解だ』って言われること自体が難解だ」って。なるほどな、と思ったね。


という表現があった。

私はあぶらだこを聴いて難解だとは思わなかったし、確かに、難解ということ自体が難解だと思うなあ、と感じて、ここでふと思いついた。

難解だということ自体が難解、そう思ったことが今までにあった。

それは、デイヴィッド・リンチが好きだと人に言ったときに、『マルホランド・ドライブ』が難解だった、と言われたときに感じたのだ。

私はあの映画を観たときに、難解だとは少しも思わなかった。変な映画だとは思ったけれど。

思うに、難解、という表現は、理解できる、ということを前提にしているのだろう。
だから、あぶらだこの歌詞だとか、リンチの映画とか、きっとすっきりとした理解の仕方があって、けれど自分にはそれが解らない、ということで、難解だ、と言っているような気がする。

それは例えば『LAコンフィデンシャル』が登場人物が多くてよくわからなかったという意味での難解さのことで、登場人物がはっきりわかって、伏線も理解できれば、あらかじめ与えられたプロットの道筋がはっきりと解るはず、という前提があるということだ。

けれど、あぶらだこもリンチもそうだと思うのだけれど、このようなあらかじめひとつの道筋が決まっているということが大した意味を持たない作品も存在する。
そのような作品に対して、難解、ということはどこか的外れのような気がしてならない。

難解もなにも、そのまま味わえばいいのではないだろうか。

 「暗く不安を掻き立てる物事に充ちた夢。この世界には二種類の人間がいる……。それに気づかずに眠る人。そしてそれを夢見る人。さあ、仲間を呼んで大騒ぎといこう!」―デヴィッド・リンチ―

そんなデイヴィッド・リンチの珠玉の三本、『ロスト・ハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』の三本をシアター・イメージフォーラムで上映するらしい。
http://www.imageforum.co.jp/indreams.jpg

私は行けるかわからないけれど、難解、と感じる前に、「暗く不安を掻き立てる物事に充ちた夢」を見てみたい人にはお奨めしてみよう。

最近面白い映画がないか、と思っている人にもお奨めしておこう。

良質のサスペンスが好きだけれど、最近ツタヤでも作品が見つからない人にもお奨めしておこう。

あなたが今まで観たことがない種類の映画であることだけは保証できるから。
あなたがそれに気づかず眠る人、でないことを願いながら。

最近blogの更新回数が多いのは、そういう気分だから。
文章のもとのようなものが、どろどろと止め処なく出てくる。
あと、暇だから。

今日もとりとめのないことを書く。

自由が丘を買い物ついでにぶらぶらしていると、絵を売っている店があったので、入ってみた。
画廊、と言うのではなくて、絵を売っている店と言ったのは、画廊、というようなどこか固いイメージではなくて、絵の値段が面積によって決まるという、いわば量り売り、のようになっており、店内もどこか開放的な雰囲気だったからだ。

いろいろな絵があって、観ているだけで楽しかったし、これを飾りたいな、なんて思うものもあったけれど、家の壁にはヘドウィグが居るので、買うのは控えて外へ出た。

そのときたしか4時過ぎだったかと思うのだけれど、11月に入って随分と日が短くなっていて、もうどこか黄色がかった光になっていた。気温も少し下がり始めていたけれど、この日は日中快晴でとても暖かかったので、かえって心地よいぐらいだった。

ああ、日が短くなったな、なんて思いながら私は空を見上げていると、私が今しがた出てきた店のちょうど向かいの店の庭に、とても良い具合の樹が植わっているのに気がついた。

2階建ての民家くらいの高さのその店よりも、その樹は背が高く、広葉樹のようだけれども横には広がっていなくて細長い印象だ。ひょっとしたらそう刈り込んであるだけなのかもしれないけれど。低いところにはあまり枝がなくて、葉は柏餅の葉、つまり柏か、に似ているけれども、どこかそれよりも薄く見えたし、あれほど丸みも帯びていなかったように見えた。その樹は、上のほうが少し黄色く色づいていて、その背景には良く晴れた青い空、そしてそれらを照らす外光は、夕方前の昼下がりの黄色がかった日光。
とてもその様子がよかった。

この樹はとても良いな。なんていう樹だろう、なんて思い浮かべていたけれど、私にはこの樹の名前がわからない。
私はぼんやりと山川直人が『コーヒーもう一杯』のエピソードとエピソードの間の空きページで、樹の名前と花の名前がわからないということを書いていた。
そんなことを思い出しながら。

私も大江健三郎の小説をあれだけ読んでおきながら、いまだに樹の名前は解らない。友人たちと旅行中に、車で移動していた折、杉と松と檜の区別もつかないのか、とSに笑われたりするほどだったりする。

私はこの樹の名前が解れば、今自由が丘で○○が紅葉している様子がとても綺麗で、君に見せたいと思った、と知らせることも出来る。
けれども、私には、この樹の名前が解らない。
これくらいの高さの樹で、こういう葉っぱがついていて、枝ぶりはこんな具合で、と話すこともできるけれど、大抵の場合、こういう説明は相手を飽きさせたりする。

なんだか、難しい、しかし、この樹の具合はとても良いなあ、と思っていると、私の後ろから、矢張り絵を見てきたと思しきカップルが店から出てきて、話していた。
盗み聞きをするつもりはなかったけれど、すれ違う一瞬に、会話の断片が聞こえた。

男―良い絵だったね。
女―うん。良い絵が見つかってよかった。
男―どこに飾るの?
女―部屋。
男―それは解ってるよ。

うん、部屋に飾ることくらい解るし、きっと部屋のどこに飾るのかを聞きたかったんだろう。けれど、それは伝わらなかった。
会話ってやつは難しい。ひょっとしたら伝わっていたけれど、面倒くさくて部屋、と彼女が答えたのかどうかは、すれ違っただけの私には解らない。

私は樹のいい具合の様子を伝えるのに過剰にならざるを得ないし、彼は省略したら部屋のどこに飾るのか聞けなかった。
私が伝えようとした誰かと共有できなかったのは、樹の名前というコード、彼が彼女と共有できなかったのは、何だろう、「どこ」が指す内容だろうか。
会話ってやつは難しい。
そういうことをぼんやりと考えていた、という話。

これは男の勝手な思い込みだろうが
女の人の口から植物の名前を聞くのはいいものだ。
それも花屋で売られているようなのではなく、
どこの家の庭にもあるような植物の名前。
道を歩きながら
「あ、○○」
「○○って、あれのこと?なんで知ってるの?」
「なんでって、なんとなく。知ってるんだもの」
なんて言われたら、それだけでホレてしまう。

男なら樹の名前を知ってるのがいい。
女の人は、樹の名前を知っている男に
ホレたりしないんだろうか?
残念ながら私は樹の名前も知らない。
かろうじて松と銀杏と柳の区別がつくくらい。
桜や梅でさえ、花が咲いてようやくそれと気づくくらいだ。
(山川直人 『コーヒーもう一杯』2巻)

少し前に駅のホームに、"You are what you buy."と書いたクレジットカードの広告があった。
それを見て、


You're not your job.
You're not how much money you have in the bank.
You're not the car you drive.
You're not the contents of your wallet.
You're not your fucking khakis.
You're the all-singing, all-dancing crap of the world.

と云う『ファイト・クラブ』の一節を思い出して、プロジェクト・メイヘム!とか思っていた。

そして、最近更新頻度が上がっているblogを今日も書いてみたらんと思って、最近買ったものを書こうとしている私は、タイラー・ダーデン風に言えば「消費社会に去勢された屑」ということになるのだろうか。

ちなみに私は、『ファイト・クラブ』が非常に好きな映画のひとつなのだけれど、これを好きだと公表することには『恋する惑星』が好きだと公表することに感じるような抵抗を感じない。
それはおそらく、『ファイト・クラブ』が大手レンタルビデオチェーンなどでは「カルトの名作」―初めてこのフレーズを見たときには驚愕した。だって、私はこの作品が名作だとは確信していたけれど、それにカルトのという限定がつくとは考えたこともなかったからだ―と言われているように、『ファイト・クラブ』好きはそもそも何かしらのポジティブな意味づけを与えられることが少ないように思っていたからだ。
けれど、そういった傾向は、言わば卑屈に裏返しにした差別意識に他ならないのであって、どんな映画でも好きだ、とどんどん公言していったろうかしらん、というのは既述の通りである。

さて、私が買ったものの話だった。
所詮はそれらのものを買った私、ではなくて、私が買ったもの、でしかないのだけれど。

まずは、直火式のエスプレッソマシン―マシンと言っていいのだろうか―。
購入したのは、ベタにビアレッティ。
珈琲店で購入したところ少し割高になってしまったのが若干の後悔。
それでも、本当はAlessiのクローム具合がええなあ、とも思ったけれど、直火式に1万円以上出すくらいなら、コーヒーメイカーを買うよ。
今まではペイパードリップで淹れていたけれど、これでエスプレッソ飲み放題じゃ、と思っていたけれど、やはり専門店なんかで飲む機械式に比ぶれば風味は落ちる。
それでも、家で飲める悦びはうれしい。
何せ自分、ヒキコモリですから。

次は、BOBLBE-Eのバックパック。
ハードシェルタイプの、あの、亀の甲羅みたいなやつ。
自由が丘の店に行ったところ、外に実際に亀が飼われていて笑った。
購入したのは、MEGALOPOLISが予想以上に大きく、滑稽にならない自信がなかったので、ひとつ小さいPeoples Delite。これで自転車に乗っているときの背中の蒸れが軽減される。
切実な問題なのだ。
シンプルに黒と思っていたけれど、意外とシルバーも良かったので、シルバーにした。
ステッカーでも貼ろうかと思ったけれど、家にあったステッカーが、恵比寿の「ぶた屋」に行ったときに貰った若干リアルなぶたのシールしかなかった。
これでも良いか。
本当ならば、好きな言葉でも、例えば"Look if you like, but you will have to leap."でも入れたいと思ったけれど、実際にこの奇妙な形状をしたバッグを背負っていると、それって空飛べるの、とか聞かれるらしいので、やめておこうかとも思う。でも入れるかもしれない。

また、ポスターフレームも買った。
引越す前も一時期以降部屋のポスターが煩くなったのですべて引き剥がしていて、今の部屋でも全く貼っていなかったけれど、大きく壁が開いたので、据え付けた。
これから毎日、壁には熱唱する大きなヘドウィグが居る。

最後は、漫画。
『ナチュン』。
富山大学人文学部准教授兼漫画家という不思議な作者だ。
漫画も少し奇妙で、


事故により脳の左半球を失った天才数学者が、イルカの生態を延々映したビデオを「数学論文」として発表。学会では困惑と失笑を買っただけだったが、図書館でその映像を見た主人公の青年は、奇妙なトリップ感覚とともに神の啓示のようなひらめきを得る。
(http://book.asahi.com/comic/TKY200703140195.html)

というぐいぐいと引き込まれる冒頭から始まった後に続くのは、主人公の青年がフィールドワークのために訪れた沖縄での日々。
アウトローの漁師や、言葉を解さない女性との日常。まさに、磯の香りが漂ってきそうな日常と、SFとが完全に渾然一体となっていて面白い。
『AKIRA』で金田が人工サンマをガシャガシャ/ぐァつぐァつと食べているシーンのような風景が続く。
2巻で、何かが起きそうな気配はあるけれど、これから先がとても気になる。
おもろいよ。

以上。
私が買ったもの。
それだけ。

『恋する惑星』を借りる際、ツタヤが半額だったので、もう一本借りた作品が、『仁義なき戦い』
どんな二本立てだ、という感じだけれど。

で、観た。

テンションが高い低いというけれど、もともとは糸が張られた強さというニュアンスだから、強い弱いという方が適切、というのは有名な話。
この映画は、テンションが強くて強くて、くんくんに張っている感じ。
それも、冒頭から約100分間の全てが緊張感に満ちていて、それだけ強いテンションなら、そらあ面白かろうて。
菅原文太も松方弘樹も梅宮辰夫も金子信雄(!)も、濃くて濃くて、さらにその濃さを際立たせるような映像。
凄い。これはいつか映画館で観たい。
続きが気になる。
シリーズ全て観てしまいそうな予感がする。

(興奮で見返しても意味がなさそうな感想だったので、追記。)
「仁義なき戦い」と云う言葉は、もう映画のタイトル以上の意味を持っていて、例えば『藪の中』のように慣用句的な使われ方すらしていると言っていいのだろう。
だから、『仁義なき戦い』という作品についても、改めてタイトルの意味を考えることが余りないままに受け入れてしまうように思う。
けれど、実際に観てみると、「ああ、確かに仁義ねえわあ」と実感する。
仁義がない戦い。確かにその通りだけれども、現実問題として仁義なんて言葉はあまり実感として意味がわからない。それがこの作品を観ていると、いわばネガの形で仁義を示しているから、仁義が何となくわかってくる。
仁義とは、例えば出所したら全財産やると言っておきながら薄い給料袋しか渡さないことではなかったり、上に無断でヒロポンを売り飛ばすことではなかったり、まあ、いろいろなんだろう。
それがわかったからどうということではないし、あくまでこの作品にとっての仁義という意味なのだろうけれど、それがネガの形ではっきりと見て取れるというのは、なかなか凄い。
冒頭で引き込まれた場面。
闇市の愚連隊に対してやくざが襲い掛かる場面。とらわれた愚連隊の2人は、日本刀でそれぞれ片腕を切り落とされる。その切り口から赤ペンキのような真っ赤な血が噴出す。そして、画面は切り替わり、その血の流れとちょうど逆流するかのような流れで、鍋から丼に雑炊が流し込まれる。
血と食が如何に切実に結びついているかを映像とカットだけで雄弁に語っている。
そしてその後に続く菅原文太の、ちょっと忘れ物でもとってくるといった具合で「わしがやろうか」と気安く言う言い方と、漂う凄み。
まさにグングンにテンションの張った作品だった。

数日前のエントリに『恋する惑星』を引用したことがきっかけで、この映画についての記憶が少し薄れているような気がして、もう一度観ることにした。

この映画は過去に二回見たことがあって、一度は眠れなかった時期にたまたまテレビをつけたら深夜に流れていた折、もう一度は新文芸坐のトニー・レオンオールナイトの折、だと思い込んでいた。

それで今回三度目だから、今までの感想を見直そうかと思ったら、どうやら私の記憶違いだったことに気がついた。

というのも、確かにテレビで観たことはあって、これが2003年の10月11日、blogになる前のHPのログ(ローカル保存のみ)を参照すると、

夜中、『恋する惑星』を観た。
面白かった。多くの若者が熱狂したのも理解できる。

とだけ書いてあって、ずいぶんとそっけないし、なんだか偉そうだ。
自分も若者で、しかも幾分この映画に熱を帯びたくせに。

そして、新文芸坐のオールナイトは、これもやはりHPのログによると、2004年の7月10日のようだ。
しかし、この日のオールナイトは、 『インファナル・アフェア』、『月夜の願い 新難兄難弟』、『花様年華』、『ブエノスアイレス』の4本で、『恋する惑星』は観ていなかったようだ。
確かこれを観に行った折に『恋する惑星』のことをかなり詳しく思い出していたから、観たような気がしていたのだろう。
しかし、このオールナイトはよかった。並びも最適だと思う、すばらしいイベントだ。『花様年華』がよかったなあ。また観たい。

さて、今回3度目だと思っていたら2度目だった『恋する惑星』、初見から4年ほど経っていたと云うことか。
やはり私はこの作品が好きなのだと思う。
そして、堂々とこう書いておいて何だが、この作品が好きだと言うことにどこか気恥ずかさを覚えているのも、4年前と変わっていないのだろう。
だからこそ4年前は多くの若者が熱狂したのも理解できる、なんて偉そうな書きぶりをしていたけれど、端的に言って好きだったのだ。

金城武のパイナップルをやけぐいする姿も、金髪の女ドラッグ・ディーラーの気の利いたポケットベルのメッセージも、フェイ・ウォンの猫科っぽい気まぐれさと媚びのない仕草の愛らしさ、トニー・レオンのいやらしい笑顔と情けなかっこよさ、そして何より、ウォン・カーウェイが映し出す町並みの美しさ。あの、停電した店内で蝋燭が点るシーンはどうだろう。あの雨に滲む電飾の美しさ。雑踏の活気。フェイ・ウォンがトニー・レオンの部屋の窓から紙飛行機を飛ばすシーンも好きだ。ヒルサイド・エスカレーターの下から覗き込もうとするトニー・レオンの窮屈そうなすれ違い。
それらすべてが、やっぱり魅力的だと感じたのだ。

けれど、それを素直に言い表すのが気恥ずかしいというのは、刺激された部分が、「ぼくの心のやらかい場所」だったからかもしれない。
普段から頭も心もゆるゆるだろう、と言われれば全くそのとおりで、今はもうこうして「やらかい場所」であろうとどうだろうと平気でさらけ出せるほどの厚顔さは身に着けたとは思う。
けれどもやっぱり若干の気恥ずかしさの原因は、当時と同じで、その気恥ずかしさの程度が違うというだけなのだろう。

その理由、「やらかい場所」というのはどういうことなのだろう。
それはひょっとしたら、自分が感じた感動が切実なもの(やらかい場所まで達したもの)だったから、その感動を誤解されたくない、誤解されるくらいなら、表さない方が良い、ということだったのかもしれない。

『恋する惑星』は周知の通り、日本でとても有名な作品だし、ファンも多い。
けれど、だからこそ、『恋する惑星』を好き、というのは、(例えば、『アメリ』が好きと言ってしまうのと同じように)ある種のカテゴリに分類されるおそれがあるように思う。
私は映画をカテゴリで分類することがあまり好きではない。もっとも、このことはジャンル映画を否定しているわけではない。むしろ私はジャンル映画が大好きだ。より正確に言うなら、映画をカテゴリで分類すること、ではなくて、観客(というと違和感があるけれど映画ファンとか、視聴者とか、観者とか、そういうニュアンス)をカテゴリで分類することに抵抗があるのだ。
アクション好き、サスペンス好き、ラブストーリー好き、とかならまだ良い気もするけれど、フランス映画好き、チェコ映画好き、ミニシアター系好き、文芸映画好き、とかになると、抵抗が生まれ、シネフィル、とかになると端的に言って苦手意識がある。
面白そうな映画は何だって見境なく観ればいいじゃないか、と思うし、今更言うまでもないことだと思う。
けれども、やっぱり現状としては、そういう観客のカテゴライズが行われているように思うし、そのようなカテゴリを拠り所としている映画ファンも居るように思える。

だから、『恋する惑星』が好きだ、と表明することは、どこかそのような観客のカテゴリに拠って立つという表明に見られる危険性があって、私はそれが嫌で抵抗を感じていたのだろう。
私がこの映画を観て感じた感動は、一般的に『恋する惑星』好きといわれる人々と共通する性質のものなのかもしれないけれど、その共通性をアピールしたくはなかったのだろう。そして、その共通性「感受性豊か」とか「繊細」とか「ロマンチスト」とかそういう類(書いていてぞっとする。括弧つきで書いているように文字通りの意味で使っていない。)の、アピールをしているようにも読めてしまうところが、気恥ずかしさとためらいの理由だったのだと思う。

けれどもそのようなためらいは考えてみれば愚かなことで、やっぱりそのように気恥ずかしさを感じている私も観客のカテゴライズから自由ではないということだろう。

だから、私は若干気持ち悪いと思われようとも、素直に好きな映画は好きだと書こうと思う。

『恋する惑星』が好きだし、『ラブ・アクチュアリー』も好きだし、『エターナル・サンシャイン』は泣きましたよ。

嗚呼、すっきりした。

先週あったことの記事をこっそりと追加した。
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2007/10/post_501.html
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2007/10/post_500.html
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2007/10/post_499.html

最近あったことは、気になっている下北の店にSと行こうとしたら、定休日でげんなりして、やむなく宿場に行ったら、大学で一時所属していたサークルの後輩の人たちが飲みに来たのに出くわして、肩身が狭くて、げんなり。
飯田橋で開拓しようとした店が以前行ったことのある店だったりして、最近新しい店に行こうとするとうまくいかない。

なんとなくげんなりだったけれど、呉春を久々に飲めて美味かったし、Sとしょうもない映画の話でゲラゲラと笑っていたので、何だかんだ言って良い一日だった。

後輩には平日のあんな時間から飲んでいるなんて暇人だと思われたのだろう。

ああそうだ。悪いけれど、暇しか持っていません。

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