2007年10月アーカイブ

友人のライブに行った話とか、ボクシング行った話とか、初めてスクリーンでタクシードライバー観た話とか、色々あるけど、それはまた後で書くとして、これすげーな、という話。


http://kuro-obi.cinemacafe.net/
『黒帯 KURO-OBI』
http://youtube.com/watch?v=v9-vI4HxRmI
予告編
面白そう。
予告編みたところ技の切れが尋常じゃない。
と思ったら、俳優が空手してるんじゃなくて、空手家、しかも師範クラスが演技しているらしい。
これは日本版『マッハ!!!!!!』か。
行かんといかん。

「目が大きいんですね」
と言われたけれど、口説かれているとか艶かしいことでは全くなくて、コンタクトレンズを買いに行った先で言われたことだ。
黒目が少し大きいのだそうだけれど、通常目が大きいか否かは瞳の大きさよりも、眼の大きさで決めるとされているのだから、なあんだ、と言ったところである。

ちょうど出かけなければいけない用事のついでで寄ったのだけれど、台風が近いために風雨が激しく、そんな中来てくれてありがたいということで何故か1デイのコンタクトを1週間分おまけしてくれた。
そんなのもあるのか。

夜になると、風雨も収まってきたので、自転車で新文芸坐。
デ・ニーロとスコセッシの組み合わせということで、『タクシードライバー』『ニューヨーク・ニューヨーク』『レイジング・ブル』
なんといっても目的は『タクシードライバー』をスクリーンで観ること。

私はこの映画が大好きで、DVDも持っているのだけれど、スクリーンで観たことは一度もない。

今回実際にスクリーンで観たわけだけれど、冒頭の煙が濛々と立ち込める中をタクシーが走っていく場面を観た瞬間から、「ああ、私が今まで何度も観てきたものとはまるで別物だ」と感じた。
DVDと映画館の違いというよりは、私の見方の違いでしかないのだろうけれど、やはり圧倒的に違った体験だった。
ラストの不協和音とトラヴィスの狂気のまなざしが一瞬だけ移る場面は、DVDではあまり印象的ではないが、スクリーンで観たそれは、背筋を凍らすに足るものだった。
私はトラヴィスに自己投影するほど若くはないけれど、それでもこの映画がとても好きなのだな、と実感した。

至福の体験に喜んでいたけれど、少し心身のコンディションが悪かったので、一本だけで新武芸坐を後にした。

今の場所に引っ越したとき、新文芸坐まで自転車で行けると自慢するのに、「オールナイトで一本だけ観て帰るなんてことも出来るんだ」と言った事があった。
そのときは「そんなこと言うけれど、どうせ一本だけで帰るなんてことしないんでしょう」と言われた。
私も「まあそうだろうね」と答えたけれど、実際に一本で帰ることがあるとは。

そのことに落ち込んでいるわけではなくて、こういうこともあるのだな、とどこか驚いている自分がいる。

後楽園ホールでボクシング観戦。
応援しているジムの選手が何人か出るので観に行った。
といっても、今回は真鍋圭太は出ないのだけれど。

一番驚いたのはメインの試合のタイ人の打たなさっぷり(新しいスポーツか!という野次が秀逸だった)ではなく、後楽園ホールが完全分煙になっていたこと。

今までは入り口付近はもうもうと立ち込める紫煙で煙って見えていたのに、新しく出来たガラス張りの部屋に喫煙者たちは閉じ込められていた。
分煙化の波はここまでなのか。
私はタバコが苦手、というより、アレルギー気味なので、基本的には分煙には賛成だけれど、後楽園ホールまで…という印象は拭えない。
ラクーアや東京ドームといった小奇麗なスポットの中に、あれだけ猥雑で、場違いな場があるのが好きだったのだけれど、それもこれからは変わっていくのかもしれない。

そんなことに驚きながら、タクミと飲んで帰ろうという話になった。
私が最近雑誌で見た、良い感じの店に行ってみようと提案したら、タクミが知っている店だったので、連れて行ってもらった。
すると、そこは私も知っている店だった。
しかも、二年ほど前にやはりタクミと一緒に行っている店ではないか。

ちょっとだめかもしれない、と思ったけれど、
イデスバルド(だったよね)は非常に美味かったし、レフのヴィエイユキュべもつぼだった。

と、今銘柄を調べていたら驚愕のニュースが。
デリリウム・カフェ http://deliriumcafe.jp/
10/25にオープンらしい。
こんなのもあるのか!

感動したイデスバルドの樽生まである。
これは行かんといかん。

姉夫婦の家に行った際、少し話していたら、姉がこんなことを言っていた。

恋愛経験の少ない男とか、女々しい(この言葉は好きではないけれど、と留保しながら)男とかは、自分が傷ついたら相手を非難して良いと思い込んでいる節がある。と。

かっこいいことを言う。

恋愛経験が多いとも言えないし、少なくとも雄々しいとは言えない私は、うへえ、と思ってぐうの音も出ませんでした。


誰かが僕の噂をしてる。あぁ。くしゃみがとまらない。ハクション。
ふつうのしあわせ "ハクション"

友人TとNのライブに行ってきた。月並みな表現ではあるが、彼らの音楽は格好よく、
疾走感あふれかつセンチメンタル、という素晴らしさだった。

けれど、そのことを詳しく書こうと思ったら、どうにも上手く書けない。
きっと、黒塗りの小さな部屋の中で、空気を震わす振動に麻痺った私の頭が感じたそのどこか生々しい感想は、
彼らと私が共有していた時間のこと、また、それ以降の時間の流れを捉えることなしに上手く表すことは出来いからだろう。

だから、Nのバンド「ふつうのしあわせ」の音源の中で、とくに好きな二曲について書こうと思う。

ひとつめは、"ハクション"と云う曲だ。
「誰かが僕の噂をしてる。あぁ。くしゃみがとまらない。」と云うだけの歌詞が、心地よくも妙にかっこいい音楽に載せて語られている。
私がこの曲を好きなのは、その軽やかなメロディに載せて語られるこのシンプルな歌詞。くしゃみがとまらない。だれかに噂され続けている。けれど、それ以上のことは書かずに、ただくしゃみという現象そのものを記している。誰かに噂されていると考えるのは、やはりどこか過剰な自意識があるのだろう、そしてそれがとまらないということもきっと何か噂されるようなことが思い当たるのだろう。その自意識は軽やかかつ後半の疾走感あふれるメロディによって、嫌味はなく、どこか爽やかですらある。誰かが噂をしているかもしれないということ、それを私が感じているということ、それらを否定的なニュアンスや嫌味な自意識の色を感じさせることなく、実にいい具合に表現できている曲だと思う。

もうひとつは、"うそ"と云う曲だ。
私がこの曲を好きな理由は"ハクション"と似ているのかもしれない。
「お前はなんでうそをついたのかな」というだけの歌詞と1分少しの短い歌詞。
一見くよくよと思い悩んでいそうな歌詞ではあるが実際聴くと、その少々なげやりにも聞こえる歌い方と、やはりかっこいいメロディによって、印象はまるで異なる。
"ハクション"と同じく、うそをついたという現象それ自体が不思議でしょうがない。うそを非難するというニュアンスはあまり感じられない。ただ、そこに残るのは、腑に落ちない疑問だけで、良いか悪いかの判断までいたっていない、あえていたらせていない。
そんな気がする。

私がこの二曲がすきなのは、うそ、噂、というネガティブな評価をしがちで、特に自意識とからみあいがちなテーマでありながら、その疾走感あふれる音楽によって軽やかに、自意識をひけらかすことを避けるという節度を持っているからかもしれない。
しかしやはりどこかに韜晦を感じさせるむきもあったりして、複雑でもある。

そしてそれらの微妙さを支えているのは、文句なくかっこいい音楽。
インストもよい。
http://profile.myspace.com/index.cfm?fuseaction=user.viewprofile&friendID=1000372607

http://cinematoday.jp/page/N0011735

真の平和とは戦争がないことを言うのではなく、すべての苦しみや否定要素がないことだ。変化は内側から始まるもの。超越した瞑想の気持ちが大事だ

リンチがイスラエルの首相相手に瞑想について説教しているのだと思った。
どうやらイスラエルの映画学校で言ったらしくて、首相に一席ぶったわけでは無さそうだけれど。

いかすなあ。
完全にあちら側に行く日がどんどんと近づいているのを感じる。

あちら側とは勿論「狂気」と言われる側で、リンチにとってはそれは祝福すべきことだと思う。
言うまでもなく、リンチファンにとっても。

難点は、出資してくれる人が居ないことだけれど、それはもうデジカムでの撮影とノーギャラで出てくれる人脈でカヴァーできそうだ。配給も充実しすぎの公式HPでの公開もやむなしと考えれば何とかなる。

それに、イスラエル出資で撮っちゃえばいいんじゃない。
リンチに国策映画を撮らそうとすることは、小津に国威高揚映画を撮らせようとした日本より愚かな行為だと分かっていれば(そしてそれを分からない人が世界に一人でもいるだろうか)、自由に撮らせてもらったりしないだろうかね。

それにしても、この記事の写真いかすなあ。
携帯の待ちうけにしたら良い夢見られますか。

気病い、ではないけれど、少々気ぶっせいだったので、
「色つやのええ、ふっくらとした、やわらかな」ものと遊びに行こうと思った。
4.7キログラムと2.3キログラムの、ふっくら、というかふわふわとしたものは、4.7キログラムはボリュームのあるふわふわ具合で触ってみるとウレタンのような質感で、2.3キログラムは少しサラサラとしていた。
二人は私にお構いなしで、ほたえたおしており、疲れたのか暫くすると私に寄ってきて一声鳴いたので、撫でるとじきに仰向けで眠った。
如何にも猫、と言った気まぐれさで、しかも姉夫婦に大層甘やかされた二人ないし二匹(町田康が愛猫を人前で二人と云うか二匹というかのためらいを面白くエッセイに書いていたっけ)は、人に近づけば心行くまで撫でてもらえると当然のように思っているふしもあり、しかも、眠る時はなるだけ人にくっついて眠りたいらしく、テーブルに座っていると気がつくと足を枕にされていることがある。

そんな具合で、少しく気が晴れて帰宅したところ、たまたま新文芸坐のオールナイトに丁度よい時間であったので、急遽思い立って行くことにした。
しどけない格好に着替えて、自転車でふらふらと走っていく。
この気安さのために今の場所に引っ越したと言っても過言ではない。

目当てのオールナイトは、ジャック・タチ特集。
ジャック・タチというと、ああ、あの『ぼくの伯父さん』の。ガーリーな人に人気ありそうな。
と云うぐらいの印象だったのだけれど、全く観てもいないのにそう云う知識だけ増えていくのは避けるべきだと思い、気になっていたこともあり、時間が丁度良かったこともあり、観に行った。

『のんき大将〈カラー版〉』
冒頭に流れるメッセージによると、『のんき大将』にはモノクロとカラーの2バージョンあるらしい。
元々の公開はモノクロだったのだが、実は技術的実験として、カラーでも同時に撮影されていたらしい。
しかし、提供元がカラーから撤退、現像もされずにモノクロのみでの公開に至ったそうだ。
それを、現像して、再現したものがカラー版、ということだそうだ。
作品の内容は田舎町の郵便配達員のコメディ。
笑えて面白かった。コメディをそれほど観ているわけではないので詳しいことはよくわからないけれど、笑えたことは確か。
所々に現れる優しさが違和感がなくて素敵だった。
好きな場面が、祭の夜が明けた早朝、若い娘二人が夜通し遊んだ後のようで晴れ着のまま歩いて帰っているところ。
一人の家の前に着き、一人は家に入っていくが、その歩き方が少しおかしくて、足を引き摺っているように見える。その娘は家に入ってドアを閉めるが、少しだけドアを開けてもう一人が歩き去るのを見ている。映像はそれを娘の頭越しにドアの隙間から映すが、もう一人の歩き去る娘の後姿もやはり歩き方がおかしい。数歩歩いた後に、ヒールのある靴を脱いで、はだしで歩いて帰る。
というだけの些細なシーン。
夜通し祭で遊んだ気だるさ、二人の友人の間の機微の描き方が何だか良かった。
郵便配達員フランソワは自転車で郵便集配をしているのだけれど、パンクの治し方が現代と全く同じだった。
また、フランソワの速さを表現するのに、ロードに乗ったレーサーの集団より早いという描き方があった。
車とか汽車とかじゃなくて、同じ自転車で、レーサーより速いと表現していた。それだけレーサーの速さが身近なものなのだろう。
50年以上も構造が全く変わっていない自転車というものはちょっとすごいと思った。
素材面での飛躍は凄まじいけれど。
やらとアメリカ流がどうこう言っていたけれど、当時のフランス人はそれほどまでにアメリカにコンプレックスを持っていたのだろうか。


『ぼくの伯父さんの休暇』
面白かった。音響が愉快。
悪気はないけれど、どこかずれているムッシュ・ユロ(ジャック・タチ本人)に翻弄される周りの人々、ということで、どこかミスタービーンに似ていると思ったけれど、ローワン・ワトキンソンはジャック・タチに影響を受けているそうだ。ミスタービーンほどのくどさはないけれど。
好きな場面は仮面舞踏会。
政治的ニュースを食い入るように聞いている宿の人たちを尻目に、大きな音でヒロイン(と言っていいだろうか)の女性と踊る場面は何だか素敵で良い。
また、ラストでは結局ヒロインとすれ違って帰るけれど、思わぬ人物からの支持の表明があったりして、素敵だった。
笑わせてくれるテンポもよかったし。
今回のオールナイトでは一番好きだった。

『郵便配達の学校』
短篇。
『のんき大将』で見られるギャグが多かった。
それでも教会の鐘のシーンは面白い。

『左側に気をつけろ』
短篇。
これからボクシングをする二人がお互い見得を切るのだけれど、その方法が一方が胸に力を入れると上着のジッパーが筋肉の隆起で下がっていくというもので、もう一方はそれに対して同じく胸の筋肉の隆起でボタンをはじけ飛ばしていた。
最後はお母さんが一番強いという落ちといい、少しラピュタを思い出した。

『ぼくの伯父さんの授業』
ジャック・タチの演技講座。
生徒の失敗模様を見ていると、パントマイムというか、動きを細部まで意識しているのだなと感心。
そういえば、『フォー・ルームス』のティム・ロスは変な動きだったけれど、ひょっとしてジャック・タチ作品を意識しての演出だったのだろうか。

『ぼくの伯父さん』
作品名しか知らなかったし、ほのぼのコメディみたいな印象を抱いていたのだけれど、少し違った。
ジェラールの父の世界と、ユロ伯父さんの周りの世界とのコントラストが不思議で、徹底的にかみ合わない。
笑いどころも『ぼくの伯父さんの休暇』とか『のんき大将』の方が多かったことから見ても、典型的なコメディというよりは、色々と主張が感じられた。
ジェラールが近所の悪ガキと打ち解ける場面、そして、ジェラールがユロ伯父さん、そしてラストでは父と手を繋ぐシーンが好きだ。

『プレイタイム〈新世紀修復版〉』
最後の上映だったので、少し眠ってしまった。
気がつくと、全く台詞が無しで、通り沿いで壁がすべてガラス張りのアパートの場面だった。
そして、その後、開店したナイトクラブでのどたばた。
どうやら眠らなくてもプロットらしいものはなかったらしい。
ナイトクラブのどたばたが、本当に「ああ、鬱陶しい」と思わせるほどで、
ひょっとしたらこれは『山猫』の舞踏会の暑苦しさみたいなもので、不快さを追体験させるためにこれだけ執拗にグダグダな様子を描いているのかもしれないと思った。
少し退屈だったのはオールナイトの眠気のせいだろうか。


オールナイトが終わって外に出ると、秋とは言えもう日は昇っていて、『プレイタイム』の朝の風景が被って見えた。
オールナイト終わりの早朝の非現実さはいつまでたっても慣れないし、だからこそ好きだ。

最近色々なものが壊れている。
自転車のタイヤ(チューブじゃなくて外側のタイヤ)が擦り切れた。
冷蔵庫は8ビートのノイズを延々と吐き出している。開けたら肉が腐っておった。
突然ネットに繋がらなくなったりするし、人間関係も少し綻びが見受けられる。
胃も少しく壊れた。
自転車の鍵は差し込んだ状態で根元からポキリと折れるし。

こんなに色々と壊れているのは、きっと身の周りのモノたちが哀しんでいるからだ。
同じ日付で年が違う賞味期限のパイナップルの缶詰でも食べようか。
と『恋する惑星』を思い出したりするくらいにセンチメンタル過剰だ。

ここで難しいのは、私が『恋する惑星』を思い出すのは電球が切れたり、タオルが擦り切れたりする時であって、別段恋愛模様に関るシーンはそこまで鮮明に覚えていないのにもかかわらず、私自身をセンチメンタルだと言っていいのか、という問題かもしれない。

それを措いたとして、センチメンタル過剰であり、私はやはりどこか偏だとしても、別段弱ってはいない。

自転車と人間関係は私のメンテナンス不足が原因だし、冷蔵庫の故障とネットの切断は単なる不運だ。
自転車の鍵は新しく買えばいいし、新しいスリックタイヤはそれなりに快適だ。
胃は食べながら飲めば問題はない。
人間関係はメンテナンスの努力と縁、縁と命があったらまた他日、ってなもので、
冷蔵庫がなくても、冷凍庫は健在なので何でも凍らせてしまえば何とか生活はしていける。

今年の暑さには、夏は嫌いではないが、得意じゃないと何度改めて思ったことだろう。
秋は好きだし、得意だと思っていたのだけれど、久々のエントリがこんな体たらくだと、秋も得意ではないのかもしれない。
いや、そもそも得意な季節なんてあるだろうか。

そんなセンチメンタル過剰。

number girl "omoide in my head"を聴き乍
http://listen.jp/store/artword_1007512_30236.htm

真剣に。と言うと以前から真剣じゃなかったけれど、ブログを書く時間が随分と減ってしまった。
書かれるべきことは沢山あるけれど。
きっと書かなかったことは簡単に忘れたりするんだろうな。

9/27  Pat Metheny, Brad Mehldau Quartet JAPAN Tour 2007 NHKホールにて
9/22 『300』 『ゾディアック』 目黒シネマにて
9/29 『裁かるゝジャンヌ』 『吸血鬼』 新文芸坐にて
10/6 『THE焼肉ムービー プルコギ』 『長州ファイブ -CHOSYU Five-』 目黒シネマにて

時期を逸したけれど、呟く。
きちんと書かないのはずるいのだけれど。

運命が偶然を一つのストーリーに仕立て上げるものだとして、私はどちらかといえばそれを肯定的に捉えている。それを「運命とか信じちゃうタチ」と云うかどうかはさておいても。
そして、偶然のものを必然に仕立て上げようとする力、それはきっと想像力と言われるもので、中々素晴らしいものではないのかと、そう思っている。
いわゆるところのロマンチスト、ということになるのかもしれないけれど、日々ストーリーを感じながら生きていくというのも、中々楽しいもののように思う。

ところで、最近良い本を読んだ。

大人っぽい子どももいるし、子どもっぽい大人もいるから、
子どもと大人の間に境界線を引くのはむずかしい。
でも自分の中にある子どもっぽさに気づいていて、
それを他人と対したときに
うまくコントロールできる人は
大人と言えるんじゃないかな。
逆に自分は子どもっぽくない、ちゃんとした大人なんだと
信じこんでいる人は子どもっぽいような気がします。
どんな大人も百パーセント大人ではなくて、
かならず何パーセントかの子どもが
含まれているというのがぼくの考えですから、
からだの大きさのように
みて分かる違いがあれば
それでいいとも思えるし。
(『谷川俊太郎質問箱』 谷川俊太郎)

最近人と話していて、「それは甘いよ」といわれることが多い。
忌野清志郎の『世間知らず』と云う曲があって、私はこの曲があまり好きではなかったのだけれど、気がつくと結構「世間知らず」になっているなと思ったりする。
世間とは君じゃなく、ある種の規範なのだろう。
day dream beliverなんてまっぴら御免なのだけれど、
せめて「うまくコントロール」できるようにしようかと思う。

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