2007年9月アーカイブ

mixiの日記にblogでコメントすると云うのが慣行のようなので倣ってみようと思う。

昨日,一目惚れをした. ずっとしっくり来なかったのは,こいつに出会うためかと.
そんなわけで,数年ぶりに自分の自転車です. 紆余曲折を経たものの,早速気に入ってしまい, うきうきしながら一駅分走ってしまった. 風を切る感じがたまらなくて. 某先輩が,自転車は非日常の道具だとおっしゃっていたのが とても良く分かった. 今度晴れた休みには,きっと川を見に行こう.

最近の一目惚れ、といえば
http://www.60vision.com/product/aderia60/product01.html
このティーカップだろうか。

私はここで一目惚れと言ったのは、一目見てそのデザインを気に入ったという程度の意味でしかなくて、ことさら異性間(或は同性間)の感情の機微に喩えるというほど深い感興ではない。
そして、より厳密に修辞するなら、このティーカップとは一目惚れというよりは運命とでも言うべきで、それは他人にとっては些細で取るに足らない偶然を当人は想像力によって一つのストーリーに仕立て上げて何かしらの結びつきを感じている、と云う点でもその方が妥当なのだろうけれど、それはまた別の話。

さて、自転車と一目惚れ、と云うことでふと思い出したことがあった。
それは私が二台目の自転車購入を検討していた時のこと、冗談交じりに二台目も愛せるような人なのかと言われたことがあった。
車をよく替える男は女性関係が派手だ、なんてクリシエは聞いたことがあったけれど、自転車を恋人に喩えるというのは聞いたことがなかったので、理解するのに少し時間がかかった。

乗り物を恋人に喩える、という表現は解らなくもないが、私にとって自転車はそのようなものではなく、自分を拡張してくれるものだ。
自転車は他者ではないので、そこに恋愛に喩えるような関係を感じたこともなく、だからこそその人の冗談を理解するのにしばし時間を要してしまったのだろう。

私は自転車をメンテナンスするし、長く乗り続けたいと思っているけれど、それは道具としての愛着だと思う。
一見それと矛盾するようだけれど、私は自動車を持たないし、それどころか免許すら持っていないということもあるのかもしれないが、神経質なまでに車をピカピカに磨き上げる人の気持ちは理解できない。
車は外を走るもので、そのために出来ているのだから、何も顔が映るまで磨き上げなくてもよいではないか、と思うのである。自転車だって外を走るではないか、といわれるかもしれないが、自転車の場合少し事情が違う。
確かに自転車は外を走るし、MTBにおいては可也過酷な状況でも耐えられるような仕様になっている。しかし、それはメンテナンスを前提としているのだ。詰まった泥や水を放っておけば一年もたたずに乗れなくなるだろうし、風雨にさらせばすぐに錆は出てくる。油を差さないと劣化も早い。メンテナンスをしなければ動かなくなるのだ。
だから、自動車に関しても快適に走るためのメンテナンスはきっちりとすべきだと思うし、実際多くの人はそうしているのだろう。けれど、それが息を吹きかけて袖で磨く、と云うくらいにまで行くと、それはメンテナンスと異質なもので、少し気持ちが悪く思う。

少し話がずれたけれど、要するに私が自転車に対する捉え方は自己を拡張してくれるものというものであって、そこに他者性はない。だからこそ、自分の足でどこまでも行けるという快感があるのだし、非日常の道具たりえるように思うのだ。勿論、自転車に対する愛着は人一倍強いとは思うけれど。

それはひょっとしたら今の自転車に随分と長く乗り続けている、というただそれだけの理由でしかなくて、乗り始めたときは私も一目惚れしたのかもしれない。

mixiを引用して始めた割りに、なんとなくまとまりのない文章になってしまったけれど、
伝えたかったことは、
良い自転車に出会えてよかったですね。
メンテナンスをすれば自転車は思った以上に長く付き合えるし、風雨を遮ってやって、時折油を差すだけでも、驚くほどに寿命は違うようです。
という程度のことです。

やれん。

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1.出先で
2.自転車のチェーンロックを開けようとして
3.鍵を差し込んだ状態で
4.鍵が根元からポキリと折れて鍵穴に埋まった。

やれん。

大の字になって浮かんでいると、水を通してシャリシャリという金属質の音が聞こえてくる。
珊瑚礁が砕けて出来た白砂が波に動かされた音はシャリシャリと鳴り、場所によってはまるで炭酸の泡のようにも聞こえる。
私はそのまま、ぼんやりと空を眺める。
天気予報では曇り時々雨だった空はほとんどが青空で、時折流れる雲の速さで風の強さが解る。
空の青と水の青の間に身を浸しながら、私は考えた。
生命の源である海。それを隔てる空気。
その中間に存在して、空を見つめ、海底の音を聞いている私は、生命の根源と個別化の境環に立ち現れる存在。
ディオニソスとアポロンの間に立ち現れる私は、ゲシュタルトクライス。
日焼けでヒリヒリとしたゲシュタルトクライスは、大きめの波をかぶって、生命の根源の方に揺らいだ。
ごぼごぼと咳をしながら立ち上がったゲシュタルトクライスは、喉の奥で濃い塩分を感じながら、
こんなにしょっぱかったっけ。と呟いた。

非日常の道具

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引っ越して以来、日常の足として自転車に乗ることが多くなった。
自転車はそもそも日常の足ではないか、と言われるかもしれないが、少なくとも最近引っ越すまではそうではなかった。
実家に居た時も含めて、13年ほど乗り続けている今の自転車は、時折買い物などの日常の用途にも使われることはあったが、主として非日常のものであった。
たとえそれが近所の河川敷まで行くものであっても、少し山手通りを走るだけであっても、斑尾高原や箱根峠まで行くのと同じような、「ここではないどこか」へ行くという意識がその濃淡こそあれ混じっていたのだ。
それが引っ越してこの自転車をつい日常の用途に使うことが多くなり、「ここではないどこか」という意識は薄くなっていった。
それに従うようにメンテナンスの頻度は低くなっていき、年季が入った自転車は梅雨を越してチェーンには無残に錆が浮いた。
自業自得と言いながら、自分自身に錆が浮いているようで、心に痛みを感じながらも、忙しさを理由にそのままになっていた。

それを最近、チェーンを取替え(何せ10年以上も使っていたと考えると恐ろしくなる)、ディレーラーもばらして磨き、油を差した。
見違えるように白金色に輝き始めるギア。
しっとりと油に濡れている新しいチェーン。
それらはとても美しい。
しかし、それら以上に美しかったものがある。

それは、古いチェーンのピンである。
チェーンを外す時は各チェーンをつないでいるピンをチェーンカッターという工具で押し出すようにして取り出す。
その取り外したピンが目を見張るような銀色に輝いていたのだ。
表面にはうっすらと錆が浮いているにもかかわらず、十数年使われ続けたチェーンの内部は銀色に輝いていた!

なんとなくハッとした体験だった。

新しくなったチェーンと磨いたギアが嬉しく、ここ数日無駄に自転車に乗っている。
すべるような滑らかさでペダルの力がタイヤの回転に変換されているのを感じながら走っていると時を忘れる。

映画館に行くだけでも、少し離れた本屋に行くだけでも、この滑らかさと力を無駄なく伝える回転は、再び私に「ここではないどこか」へ行けるのだという意識を思い出させてくれた。

山手線の内側に限って言えば、東京は狭い。
さて、今度の休日は、どこへ行こうか。

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