2007年8月アーカイブ

『グラインドハウス(USAバージョン)』

グラインドハウスは本来2本立て映画を再現するという企画だったので、アメリカでは2本まとめての上映という形で公開されている。
それに加えて、フェイク予告篇と言われる、実際には存在しない映画の予告篇、そしてレストランの広告まで含めての上映となっている。

しかし、その形での公開となると上映時間が3時間半に及び、劇場としては効率が悪い。
ということで別々での公開もやむなし、公開されるだけでもありがたいと思わなければいけないのだろう、と諦めていたのだけれど、東京大阪のみ、しかも一週間のみでUSA公開バージョンでの公開があるというではないか。

値段が3000円でも、場所が六本木ヒルズでも、そりゃあ万難を排して行くしかないのである。

最終日の午後一時からの回。ほぼ埋まっていたけれど、まだ空席もあった。どうやら平日の回はかなり空いていたときもあったようで、少しもったいない、というか、これでいいのだろうか、とも思った。折角の公開なのにね。

フェイク予告編の感想は省略するけれど、
『マチェーテ』はまじで面白そうで、実際ロバート・ロドリゲスなら外さずに撮ってくれるのだろうなあ、という具合だった。たとえストーリーが『極大射程』まんまでも。

前半はロバート・ロドリゲスパートの『プラネット・テラー』
さすがロバート・ロドリゲス!と云う感じで、外さずにきっちりと作ってくれていて面白い。
ローズ・マッゴーワンの魅力爆発。
文句なく面白い。

後半はタランティーノ・パートの『デスプルーフ』
『プラネット・テラー』の出来も良かったけれど、それは想像通りだった。
けれど、『デスプルーフ』は想像を絶する出来だった!

前半のダラダラとした会話の長回しや、フェティッシュなまでの寄りなど、少し冗長とも取れる間が続いた。会話の裏側に何か意味、というか、例えばリンチが会話自体も音楽と捉えているような、台詞のリズムやテンポというもののみが示す何かがあるような気もしたけれど、端的に言えば冗長だった。
しかし、それがカートラッセルがデスプルーフ仕様の車にエンジンをかけた瞬間にぶっ飛ぶ。
「2トンの鉄の塊」が想像を絶する速さと衝撃でぶつかり合う!
そんなシンプルなことが、こんなにも面白いなんて。

私はある時期からカーチェイスが退屈に思い始めていた。
幼い頃からアクション映画は大好きで、そしてカーチェイスのシーンも好きだった。テレビで放送されていた『激突』も好きだった。
けれど、いつからかカーチェイスは何かありがちな表現で、どこかありふれた、退屈なもののように感じていたのだ。
しかし、それは、私自身の見方と云う点もあったのだろうけれど、カーチェイスはそもそも面白いもので、撮り方次第なのだ、ということをこの映画は教えてくれた。

素晴らしさを表現するときに鳥肌が立つと云う言葉を使うことを大江健三郎は先日の講演会で冗談交じりに揶揄していたけれど(休憩時間にあなたの講演を聞いて鳥肌が立ちましたと言われてそんなに酷かったかと落ち込みましたと言っていた)、誤用を承知で使うなら、一体何度鳥肌が立っただろう。

身体感覚が誤用に導かれたのか、身体感覚が先立って誤用が生まれたのかはわからないけれど、私は映画で感動すると、凄いと思う前に気がつけばぞわぞわと鳥肌が立っている。
それが、カーチェイスの場面では始終だった。

ゾーイたちが反撃を始める場面での血の沸きよう、肉の踊りようは一体どうだろう!
もう、最高だった。
傑作だった。

こんなことを言うと、絶対に「引かれる」ことはわかっているのだけれど、
the endの文字が出るラストシーンはあまりに能天気で、劇場中笑いに包まれていたが、その後のスタッフロールで私は涙が込み上げてきた。

はっきり言えば、この映画ではなく要素はゼロだ。
けれど、私は涙が込み上げてきた。
タランティーノファンでよかった、と。
B級映画に対する知識もないし、『キル・ビル』を十分に愉しめたとはいえないのだろう。最高に面白かったけれど。
今回の『デス・プルーフ』で触れられたカーアクション作品も少ししかしらない。
でも、最高に面白いのだ。
RHYMESTERの宇多丸が「タランティーノを抱きしめたい!」と絶賛していたけれど、まさにその気持ちがわかる。
タランティーノが好きで良かった。
映画自体が、というより、こういう作品を撮ってくれたこと、こういう作品があることに対する感動の涙、というのは今まで体験したことがなかったので、驚いてしまった。
一週間のみの公開で、一度しか観られなかったけれど、私はこの一週間でこのバージョンでの公開を観られたことは、絶対に大切な体験だった。

さて、あとは一本ずつの日本公開バージョンを観に行こう。
2本とも何人もで盛り上がって観たいから、誰か誘って行きたい。
もうさすがに涙することもないだろうし。

『ホステル』を観た。

DVD観賞

SmaSTATIONだったと思うけれど、SMAPの稲垣吾郎がこの作品について「存在自体許せない」と発言したことで、映画ファン(特にホラー映画ファン)の怒りを買っていたことが思い出される。

確かに、存在が許せないと云う言葉は非常に暴力的(ホラー映画そのものよりもね)だし、批評として不適切ではあると思うけれど、それ以上に映画ファンの対応、それだけ怒ったということは、逆説的にそれだけSMAPというものの影響力が強いということを示しているように思う。
なぜならそもそも、映画は稲垣吾郎の許しがなくても存在しうるなんてことは自明なのだから、批評というより暴言であったとしても、一つのものの見方として捨て置けばよいのだ。
実際、井筒和幸が『キルビル』を100円ライター映画と評したときも、皆大して怒り狂わなかったではないか。
稲垣吾郎の発言が捨て置けないのは、実際「存在を許せない」と発言することがそれなりに重みを持つからであろう。
「テレビ屋から映画を取り戻せ!」という煽りが今月の映画秘宝の表紙に載っていたけれど、実際問題映画はテレビ屋の手にあるのだな、と実感してしまった出来事でもあった。

そして、実際『ホステル』を観てみると。

面白いではないか。
そして、どうして稲垣吾郎が存在を許せないと言ったのかよくわからなかった。
脚本は非常によくできているし、撮り方も上手い。
何というか、正統派な作品であるし、正々堂々と勝負しているのを感じる。
そしてそれでいて、要所要所で外してくるので、「お約束」が通用しない緊張感も絶妙に保たれている。
非常に巧い作品なのだ。
これはスクリーンで観るべきだった。
まあ、映画の見方は人それぞれだけれど、他の見方を全否定するような狭量な見方はしたくないなと感じさせてくれるには十分だった。

最近笑ったのは、『グラインドハウス(USAバージョン)』を薦めるブログのエントリで、警官を車ではね飛ばしてでも観に行くべき、とあって、『セシル・B・ザ・シネマウォーズ』でもあったけれど、映画オタクを敵に回すと怖いなあ、と大笑いした。

私は映画に詳しいわけではなくて、ただ映画が好きなだけだ。
それだけなのだけれど、時折面白い映画は無いかと聞かれる。

―何か面白い映画ない?
―例えばどんな作品が好き?
―『セブン』とか『L.A.コンフィデンシャル』とか『ユージョアル・サスペクツ』とか
―ああ、なるほど。

こういうやりとりが特に多い気がする。
つまり彼(ら)は、脚本が緻密に計算されているサスペンスで、ラストであっと驚くような謎解きがされている作品がすきだということなのだろう。
他によく聞く作品としては、『ソウ』や『メメント』だろうか。

こういう映画を好むことが悪いわけでは勿論無いし、批難する気も毛頭ない。
何より、私自身数年前までそういう映画の観方をしていたのだから。
より正確に言えば、映画というよりは、DVDやビデオではあったけれど。

『セブン』も『L.A.コンフィデンシャル』も『ユージョアル・サスペクツ』も『メメント』も素晴らしい作品だと思うし、大好きな作品だ(より正確に言えば『ソウ』はあまり好きではないけれど)。
けれど、そういう作品を特に好む人から、面白い作品は?と聞かれると、私は何か違和感を感じてしまう。

彼らの映画の嗜好を否定する気は矢張り毛頭ない。
彼らの映画の観方がもったいない、なにかもっと面白い作品もあるのに、というのは近いけれど、そういう「上から見ている」感覚でもない。

おそらくその違和感の理由は、私には彼らが面白いと感じる作品を薦める資格が無いと感じながらも、私が過去に彼らと同じ映画の観方をしていた経験に照らして、やはり彼らが面白いと思う作品を挙げることは一応可能だからだろう。

例えば『スナッチ』(或は『ロック・ストック・アンド・トゥー・スモーキング・バレルス』)やヒッチコックの傑作群など。

けれど、私自身は自分の嗜好として、昔そのように自分が観ていた映画の見方は今よりも面白くなかったと思っているのだ(何より、そのような系統の映画の傑作は本数が少ない)。ここに挙げた作品が傑作なのは言うまでもないことだけれど、そのような作品の選択の仕方として、どこか誠実でないような気がしてしまうのだ。映画そのものに対しては勿論のこと、自分が本当に素晴らしいは思っていない映画の選択の方法、つまり、映画に対する付き合い方そのものを薦めるということが相手に対しても誠実でないような気がするのだ。
しかし、言うまでもなく、自分の嗜好を押し付けることもしたくない。私はアルモドバルやオゾンやリンチやタランティーノと出会えたことを幸せに感じているけれど、全ての人どころか、私と同じ道を辿る人なんて極めて少ないだろう。

ではどうすればよいのだろうか。大抵は上記の作品から相手が観ていない作品を伝えるけれど、どこか後ろめたさも感じる。

そこで、最近気がついた解決方法がある。

私の現在の嗜好と、彼ら(そして昔の私)の嗜好を止揚してくれるような作品を挙げればよいのだ。

それは、例えば、『マルホランド・ドライブ』。

どこがだよ、と思われる方も居るかもしれない。

けれども、所謂「謎解き」系に刺激を求め続けるような人は『マルホランド・ドライブ』でその謎解きを試してみては如何だろうか。
そこには反則すれすれの、「謎解き」があるし、今まで観たこともない映画であることは保証してよいだろう。

ただ、少しばかり「謎解き」の「謎」がメインで提示されており「解き」の部分は自分で行う必要があるけれど、きっと「謎解き」映画を好んで観てきた人なら、その程度のことで躓きはしないだろう。

そして、ここからは私自身の期待というか妄想だが、一応の「謎」「解き」が完成したときに気がつくのだ。謎解き自体が無意味だったことに。

このような期待(妄想)を込めて、最近は『マルホランド・ドライブ』を薦めているのだけれど、薦めた人から以後映画の話を全く振られくなったという経験ばかりを繰返している。
反省はしていない。

実はもう一つ止揚する方法としてタランティーノ作品を薦めるというものもあるのだけれど、それはまた別の話。結果だけいえば、矢張り芳しくはない。

さて、実は以上の話は前振りで、本題は『マルホランド・ドライブ』の監督として有名(と私は思い込んでいたのであるが、実はそうでもないらしいと最近知った)デイヴィッド・リンチの新作『インランド・エンパイア』についてだ。

『インランド・エンパイア』 恵比寿ガーデンシネマにて

『マルホランド・ドライブ』が虚実入り乱れた、次元のよじれた構成になっていた、また『ロスト・ハイウェイ』がメビウスの輪のような構成になっていたことでも十分凄まじかったのだけれど、『インランド・エンパイア』はそれどころではない。

なんと、五重の入れ子構造になっているのだ。
しかもその相互が『マルホランド・ドライブ』のように捩れて時折繋がるのだ。
つまり、構造から言えば、『マルホランド・ドライブ』を2.5倍複雑にして、『ロスト・ハイウェイ』風の捩れを組み込んだような。そんな複雑さなのだ。

途方も無い。

しかしそれでも、一応の解釈はリンチ作品に親しんできたなら、一度目でも何となくは解るし、劇場パンフレットの解説が非常に素晴らしい出来なので、構造は理解できる。

だが、そんなことに意味がないことに気がつくのだ。
この作品は謎を解くことが目的ではない。
新文芸坐のリンチ・オールナイトで滝本誠がパンフレットの解説が素晴らしいとしながらも、よんだところで益々解らなくなるだけだ、と述べていたけれど、まさにその通りだ。

3時間の映像トリップそのもの、夢の世界に浸ること、そのものが悦び以外の何ものでもないのだ。
五重の構成の謎?そんなもの謎でもなんでもない。

一番の謎は、どうしてこんなにリンチの作品が魅力的に感じてしまうのか、ということそのものだ。
そしてそれは、決して解けて欲しくない謎だ。

さて、あと何度観に行こうか。

悲しい話

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悲しいうわさを聞いたよ 昨日
お前がこの街を出て行くなんて
嘘だと言ってくれ 嘘だと言ってくれ
悲しいうわさは嘘だと言ってくれ
("悲しいうわさ" The Blue Hearts)

悲しいことがあった。
実際、少しは悲しい話だ。

私は白金台にあるオリオール・バラゲのチョコレートケーキが大好物だったのだ。
高級ショコラティエのケーキだから、当然それなりに値が張るので、気軽に買うということは不可能だけれど、
どうしてもチョコレートケーキが食べたい時だとか、友人宅で集まって飲むにあたって少し張り切った手土産が必要なとき、あるいは単に花見の時など、買ったときは持ち運んでいる間も食べる瞬間が待ち遠しかった。
八種類のチョコレートを重ねて、チョコレートでコーティングしたケーキは非常に美味しくて、私はもとより甘味に詳しくはないけれど、今まで食べたケーキの中で一番美味しかった。

と過去形で書いたのは、どうやらもう取り扱いをやめたらしいからだ。
最近引越しはしたけれど、どうしてもあのケーキが食べたくなって、白金台まで買いに行こうとした。無駄足になるのも嫌なので、事前に売り切れていないかの確認を電話でしたら、もうケーキは取り扱いをやめたとのこと。

ショックが声に出たのか、応対をしてくれた店の方は、アイスクリームもありますよ、と励ますように言ってくれた。ちがうんだ、アイスクリームじゃなくて、ケーキが欲しかったんだ。あのチョコレート・ケーキが。
とても珈琲に合う、あのケーキが。

確かにチョコレートの値段設定からしたら、少しコストパフォーマンスが良すぎるような気はしていたけれど(確か3600円くらいだったか)、人気がなかったのか、コストパフォーマンスの関係だったのか。

とにかく、少しは悲しい話だ。

甲子園の試合でたった今逆転がどうのと話している人がいたので、どこを応援しているんですか?と聞いたら、その人は佐賀と答えた。
その人の出身は佐賀ではなかったので、なぜ佐賀なんだろう、と思って聞いてみると、そこしか残っていませんでしたから、とその人は答えた。
ああ、きっと応援していたチームが敗れて、残っているところを応援しているんだな、とぼんやり考えていた。その人たちと別れて暫くたってから、ああ、決勝戦ってことか、とやっと気がついた。
こういうときにどこか致命的なずれを感じてしまう、というのも、今日定食屋で遅い昼食を食べていたときに、随分と周りの客が熱心にテレビの高校野球に見入っていたのだけれど、私はそれを決勝戦だという認識すらなく、あ、甲子園、くらいしか見ていなかったからだ。
プロ野球は見方が全くわからないから無知なのだけれど、同じく高校野球もあまり見ない。同じ県だから応援するというメンタリティも理解できないし、なぜ敢えて暑い最中に大会をする必要があるのかもよくわからない。ひょっとしたらそのような理由は後付けなのかもしれないけれど、端的に興味が湧かないのであって、そのことはやっぱり世間一般とはずれているのかもしれないな、と思った。
そこしか残ってないからですよ、と答えたあの人は、私の曖昧な返答で私が今行われている試合が決勝戦だということを知らないと理解しただろう。
なんだか、また、やってしまったな。
と思いながら、夕方になっても暑い下北沢の街をぶらぶらと歩き、女囚さそりがプリントされた真ピンクのTシャツを買って帰った。
そんな夏の一日。
言いたい事はただひとつ。
女囚さそりのTシャツがかっこいいってことだけだ。

渋谷に帰郷す

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お盆といっても帰省することもないので、せめて『ボルベール<帰郷>』を観てきた。と言うには少し出来すぎで、実際は見逃していたアルモドバルの新作を公開中に観ておこうと急に思い立っただけの話である。
真夏日の真昼間の渋谷は当然至極に暑くて、熱いと書いても誤字ではないほどであったけれど、少し気が遠るような気がして、それほど不快ではなかった。


『ボルベール<帰郷>』
シネマGAGA!にて
難病、夫殺し、不倫、性的虐待、etcの扱いが難しく、ともすれば陳腐なソープオペラになりかねない要素を盛れるだけ盛り込んでいるのに、きっちりと仕上げている脚本は素晴らしい力技と言えるだろう。
女性三部作とされているようだけれど、他の二作品、『オール・アバウト・マイ・マザー』と『トーク・トゥ・ハー』では、写しのようになった二人一組の組み合わせが、ずれながら重なりあっていく様子が特に印象的だったように思う。『オール・アバウト・マイ・マザー』のセシリア・ロス(マヌエラ)とペネロペ・クルス(ロサ)や『トーク・トゥ・ハー』のハヴィエル・カマラ(ベニグノ)とダリオ・グランディネッティ(マルコ)のような軸として進んでいく類似性もあるのだけれど、それ以外でも、主人公と女優のウマ(『オール・アバウト・マイ・マザー』)やリディアとアリシア(『トーク・トゥ・ハー』)など、随所に見られる。そして、この類似性がときに揺らぎ、差異を生み出し、また、新たな類似性を生み出し、と云う具合に進んでいくさまが印象に残っている。とはいっても、この2作品を観たのは何年も前であり、見返していないので詳しく述べることはできないのだけれど。

この作品ではそのような類似性が特に印象的であり、また、その二人一組の間ではそれぞれ秘密が分け持たれており、それが破られ第三者に共有される時に和解やコミュニケーションが成立しているようにおもう。

この作品で登場する主な秘密は以下のようである。
1.火事で死んだはずのイレーネが生きていること
2.パコを殺したこと
3.アウグスティーナの母とライムンダの父が愛人関係にあったこと
4.火事で死んだのは実はアウグスティーナの母であったこと
5.パウラがライムンダとその父との間の子であること
6.パコの死体を川沿いに埋めたこと

他にもパコの死体を冷凍庫に入れていることや、無許可でレストランを引き継いで営業していることなどもあるが、特に重要な秘密はこの6つと言っていいだろう。

このうちの1は、イレーネとパウラ伯母さんの間で共有されていた秘密であったが、それがまずソーレにも共有される。それによってイレーネとソーレのコミュニケーションが成立する場面は、ベッドで二人一緒に寝るシーンに顕著である。続いてライムンダの娘のパウラにも共有され、ソーレとパウラはライムンダに「似ている」と言われるような関係にもなり、また、幼い頃のライムンダの様子や娘に愛されない母の辛さという新たな秘密をイレーネとパウラとの間に共有させるに至る。さらにこの秘密で重要なのは、この映画のクライマックスとも言える、ライムンダにも共有される場面だろう。あまりにも感動的な表題の曲をライムンダが唄う場面や、実際にイレーネとライムンダが出会う場面の感動はどうだろう!
この場面の素晴らしさだけでもこの映画の魅力は十分だとも言えるけれど、一応他の秘密についても述べておく。

2の秘密はライムンダと娘パウラとの秘密。これはライムンダがイレーネと共有することを暗示する形で終わる。この場面で最早二人の間に新たな秘密の共有が必要がないことを示すほどに満ち足りた幸福な表情で満ちており、また、イレーネが去っていく暗闇のラストシーンの美しさは素晴らしい。

3の秘密はアウグスティーナがライムンダに洩らす形で共有されるが、真実は4であり、イレーネとパウラ伯母さん、続いてライムンダの間で共有される。3の秘密はTVで告白を強いられるが、アウグスティーナがそれを拒否することによって、登場人物達全体の親密さが表現されているのだろう。ちらりと映るくやしがるアウグスティーナの妹はあくまで家の外部にしか存在しない。4の秘密をライムンダとイレーネで新たに共有するに至る、夜の町を歩くシーンはとても印象的で、どこか心細くも美しい真夜中の町を、寄りそいながら歩く二人の様子がとても美しい。

5の秘密はライムンダとパウラ伯母さんの秘密であったが、イレーネが後に知ることになる。これによってイレーネはライムンダに愛されていなかったわけではないということを知るものの、これがディスコミュニケーションの要因となり、この作品のクライマックスの和解へと至る。

6はライムンダと近所の太った陽気な娼婦(カクテルが美味そうだった)との間の秘密であったが、後に娘パウラにも共有される。死体を埋めた場所にきっちりと墓碑を刻んでしまったうえで、彼はここに眠って幸せだったのだと言うあたりが、いかにもアルモドバル作品らしい。

主な秘密が共有される過程は以上のようだが、何といっても、メインとなるのはライムンダと母イレーネとの和解であろう。素晴らしかった。

ライムンダを演じたペネロペ・クルスはこんなに魅力的であったかと思うほどに芯の強い激情型の女性を演じている。『オール・アバウト・マイ・マザー』の演技から受ける印象とはまるで違っている。『オール・アバウト・マイ・マザー』や『トーク・トゥ・ハー』では演技が非常に巧みな役者が脇を固めている印象があり、この作品でもアウグスティーナやイレーネはそのような役割として演じられているが、そもそもペネロペ・クルス自体がこのような巧みな演技の役割を担っていると言えるほどに強烈な印象を残す。特に感情の熱さが伝わってくる眼差しの美しさが素晴らしかった。

『オール・アバウト・マイ・マザー』や『トーク・トゥ・ハー』とは少し違った印象を受けたのだが、それはおそらくイレーネを演じるカルメン・マウラのいたずらっぽい笑顔のような、どこか明るい印象が持続しているからというのもあるだろうし、席に着いたかと思えばすぐに立って終始移動しっぱなしなペネロペ・クルスの落ち着かなさというよりアクティブさのような、テンポの速さから来ているように思う。
それらの違いにもかかわらず、全体としての印象は紛れも無くアルモドバル作品であり、そのことに驚く。

素晴らしい作品だった。

http://d.hatena.ne.jp/thinkingreed/20070805について

作品を鑑賞した際の感動と、優れた批評に触れた際の感動はどのような関係に立つのか。また両者は価値的に異なるものなのか。という問題について私なりに考えてみた。
とは言っても、大学での少しだけ受けた講義を参考にしてのことだから、もとより浅い素人考えであることは断っておく。

講義で用いた『フィクションの美学』(西村清和 勁草書房)を引用しながら。

この本によると、フィクションについての言説は次のように4つのレベルを区別すべきだとしている。(p.52)
1.虚構テクストの発話行為としての「小説を書く」作者の虚構世界を描写し構築する行為
2.テクストのなかの個々の主張文を、じっさいに虚構世界への指示にもちいる語り手ないし登場人物のふるまい
3.テクストの主張文をフィクションの慣習にしたがって虚構世界への指示として読み、小説を経験する読者の行為
4.現実の読書経験に接して、テクストや虚構世界さらには現実世界について主張する批評的言説の行為

この4つの中で4の行為のみが、科学や宗教神話とおなじ資格で真実であるか否かを問いうる、つまり、真理性にかかわる行為である。つまり、1から3の行為は虚構世界の構築にかかわる言説であり、それが真実に一致しているか否かは関係がないということであり、それに対して4の行為はシャーロックホームズが気難しい人間かユーモアに満ちた人間か、という読書経験についてのtruth/falseを問いうる、或は、『自転車泥棒』の虚構世界がどの程度現実世界と一致視しているかというtruth/falseを問いうるということである。
このように、1から3、とくに、今回問題としている3の読者(観客)として作品を経験するという行為と4の作品について語る行為というものは質的に異なり、独自の美的行為だと言える。

さて、このように観客として作品を経験する行為と、作品についての言説が質的に異なる行為だということは、明らかであると言えるが、問題なのはその両者の関係、とくに「価値」についての違いである。

そこで問題となる読者として作品を経験するというのはどのような行為であるかについて、この本は次のように述べている。

「読者である」とは、虚構の発話行為の文脈の慣習として、いっさいの言明の指示表明を、舞台上の虚構世界への指示にふりむけよ、そのさい、発話者も聞き手も、それぞれの世界認識や行動の準拠枠としての信念体系をたずさえるにしても、これを虚構世界の理解とイメージ形成のために動員せよ、という指令にしたがうこと以上ではない。虚構文の指示の先は、舞台上の虚構世界の次元であり、その先には、もともとなにもない。読者の観客席は、もっぱらこの前方の舞台のみを見るようにしつらえてあり、この観客席に身をおくかぎり、わたしは自分のうしろにひかえる現実世界をふりかえったり、また舞台のむこうがわにつきぬけたりは、読書行為の慣習上、してはならない。
(略)
一瞬わたしは、目をテクストからはなして、自分自身の理念に集中しつつ、これらの主張の妥当性や真偽を検討する。それは、読書行為の中断である。そのときわたしは、読書の観客席をはなれて、自分の背後の現実へと視線を向けているのである。伝統的な「詩の可能的普遍性」の主張のように、読書行為をつうじての虚構世界の経験が、その「一般化」において、われわれに、自分自身や人間一般のあるべき姿、あるいはありうる姿を反省させることが、ときにあるとしても、それはビアズリーもいうように、「作品を読んでいるあいだではなく、読んだあと」のことであり、したがって論理的にいうかぎり、作品経験をそのような指示にもちいるのは、作品自体ではなく、批評家や文学研究者、哲学者、あるいは伝記作者や歴史家である。
(西村清和 同書pp.82-83)

つまり、観客が作品を鑑賞している際にも上記の3と4の行為はともに行われることがありえるのであるが、両者は論理的には異なるものであるとしている。そして、(同書p.77)によれば、観客が観客席にとどまることが出来るか、つまり、観客がその作品を読者として鑑賞する際に感動できるかどうかは、共感/反感にかかわる問題であり、それは作品のドラマトゥルギーないしストラテジーの問題であるとする。つまり、いかに上手く共感させて観客を「観客席」につかせるか、という問題であるということである。それに対して、「自分の背後へと視線をむける」行為、つまり、4の行為を行うということは、共感/反感にかかわるドラマトゥルギーないしストラテジーの問題ではなく、真/偽あるいは同意/不同意にかかわる問題であるとしている。

これによると、「優れた批評・評論・テクスト分析に触れて、「あ、そういうことなのかあ」と思って再び読み直してみる。」ということは、批評によって作品のドラマトゥルギーないしストラテジーを補完あるいは新たに創作する行為であるということができよう。そもそもテクストを読むということは、「観客席」は普遍のものではありえず、常に観客の偏見や文化的背景により左右されるものであるため、優れた批評・評論・テクスト分析に触れて「観客席」のドラマトゥルギーが変容するということも多いにありえることではないだろうか。

そしてこの際に問題となるのは、この変容・修正されたドラマトゥルギーによって得られる「観客席」と、それ以前の「観客席」とは価値的にどちらが優れているのか、ということであろう。
本来は、どちらも観客として作品を鑑賞するという行為であり、共感/反感にかかわる行為以外のものではないはずで、どちらが価値的に優れているとは言えないはずである。
しかし、それにもかかわらず、批評によって修正された「観客席」から得られる共感の方がより高度のものであり、そのような批評を可能とする作品はそれ以外の作品よりも高度であるというような考え方が存在するように思われるのはなぜか。

そのヒントもやはりこの本に求めることにしたい。
そのヒントは「有用の快」にあるように思う。(同書第一章参照)
この「有用の快」の考え方は、アリストテレスの詩学から現在も伝統的な解釈学に影響を与えている考え方で、非常に大雑把に言ってしまえば、芸術作品に価値があるのは、天才が創作した作品を受容することによって、読者や観客はその体験を通して普遍的真理に到達することができるからであるという考え方である。この考え方によれば、より普遍的な真理を表現している作品こそが有用で価値があるものであり、観賞の方法としての「観客席」についても、より普遍的な真理に到達しうるような方法が、より価値があるものということになる。
このような伝統的な考えかたに基づいているからこそ、修正された「観客席」の方がそれ以外の「観客席」よりも高度で価値があるものとみなされているのではないだろうか。また、作品の価値自体についても、そのような批評の存在によって普遍的な真理に到達しうるものの方が、より価値があるということも、この考え方に基づくものと言えるだろう。

しかし、上記のように、作品を観客として鑑賞する行為は、独自の美的行為であり、真理であるかどうかを問うことはできない共感/反感にかかわる行為のはずである。このような真理性を価値判断の基礎におく考え方は、上記3と4の行為を混同しているのであって、本来両者はどちらが優れているとは言えないはずではないだろうか。

『世界の中心で愛をさけぶ』より『人間失格』の方が文学作品としての価値が高いということを、上記のような伝統的美学の観点から説明するとすれば、『人間失格』は人間にとって何が普遍的な真実であるかを描いており、それを通して読者は真実に到達しうるから価値があるのであって、セカチューにはそのような普遍的な真実を描いていないから価値が無い、ということになるのだろう。
もしくは、このように真/偽という観点からではなく、上記のような共感/反感という点からも説明できよう。つまり、『人間失格』は一人称の語り方を用いており、読者にごく近い距離感を感じさせ、多くの人に「自分のことだ」と思わせるようなドラマトゥルギーが巧みに用意されている。一方、セカチューはそのようなドラマトゥルギーがそれほど巧みではないから、共感できない、というように。もっとも、観客の側の共感の敷居が低ければ、また、共感の基準が文化により異なれば、その共感の多さも変わってくるだろうから、『人間失格』よりもセカチューのほうが共感できるという人が居たとしても、何ら不思議はない。その場合でも、あくまで両者は共感/反感という点での経験に過ぎず、どちらが価値的にすぐれているとは言えないのではないだろうか。
どの程度観客として共感できるかつまり、観客として感動できるという点と、作品を題材として批評・テクスト分析をどの程度作り出すことができるかという点は質的に異なるものであって、どちらか一方の基準が他の基準より優れているということはできないのではないか。

これで答えになっているかどうかは解らないが、最後に印象に残った文章を引用しておく。少し長いが、この文章で答えは足りるようにも思われる。やはり同じ本である。

たしかに、わたしがフィクションから、世界や人生や人間について、ときにまなび、自分の人生の指針をえることは、事実としてあるだろう。とりわけ、青春時代には、ひとはそのような経験をしたことがあるにちがいない。だからといって、それが読書経験の本質であるとか、芸術の価値であるとかいえるものではない。そのようなことが生じないばあいでも、他のどの場合よりもふかい共感と感動に満たされた読書経験をすることは、やはりおなじようにあるのである。共感や感動、感興、あるいはこれをなんと呼んでもかまわないが、このような美的経験の実質は、読者にのみわりあてられた観客席に身をあずけて小説を読む行為からしか、われわれにあたえられないものである。読者にとっての、小説を読むという芸術経験の価値は、さしあたり、このようなものである。これを「快楽」と呼ぶなら、それもよい。だが、この快楽の価値だけではものたりず、これを読書行為とはべつの文脈において、「有用の快」をいいたてるのは、議論をいたずらに混乱させる。われわれとしては「読書の快楽」だけで満足しよう。だが、わたしの人生に、読書からしかえられない快楽があるということ、このことだけでも、それがない人生の貧しさにくらべれば、この快楽はわたしにとって、ひとつの贈与なのではあるまいか。 (西村清和 同書 pp.84-85)

近況

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そういえば今シーズン浴衣を着ていない。
私は純日本人体型なので洋服が似合わない代わりに浴衣はそれなりにしっくりくるのである。
残ったチャンスは東京湾と多摩川くらいか。
今から誰か誘って間に合うだろうか…。

リンチオールナイトですっきりしなかった『エレファントマン』について調べていたら、すっかり更新が滞っている。
もう少し調べて、きちんと書こうと思う。
その際に、フィルムアート社のリンチインタビューを読んでいるのだが、素晴らしい。
彼自身の考え方をかなり明瞭に述べているところがあるかと思えば、やっぱりこの人変だ!と思わせる部分もよく出てくる。
例えば、次の様な応答。

―当時、ほかには何をしていたんですか?書くこと以外には。
小屋を建てていたね。小屋を建てられるときはいつでも、作ってしまわないと。
―それは多分非常に個人的な問題ですね。僕にはよくわからない!
つまり、それは小さな家で、倉庫にも使えるし、ちょっとした居場所にもなる。場所を確保して、どんな形にするかが決まり次第、気分が盛り上がってきていて、壁の上で光が踊り、だんだん出来上がっていくのを見ている楽しさといったら、もう信じられないぐらいだよ!


小屋を建てるって抽象的な意味合いで何かの比喩だと思っていたら、本当に木材を調達して小屋を作っていたらしい。そりゃインタビュアーも「僕にはよくわからない!」って言うよな。

とまあ、そんな話。

子供の心の動きは75%の夢と25%の現実で出来ているとこの本のインタビューで答えているが、大人になってもその割合が変わっていないのがリンチなんじゃないかな。

リンチといえば、最近交通事故に遭ったのだけれど、マルホランドドライブの事故を思い起こした。
あたまのなかがリンチに侵食されつつあるのかもしれない。

ブレーキもハンドルも感じる暇なくふわりと身体が浮いた一瞬後に衝撃が来て、車内はもうもうとした白い煙につつまれた。プラスチックの焦げた匂いがすると思いながら、ドアを開けて外に出ると、擦り傷一つなく、ただ白い煙が立ちこめる様子が非現実的であった。
自転車で接触されるのを除いて初めての自動車事故に遭って、まず思ったのは、数日前からの私の腰痛と首痛が賠償額に影響するかと云う法律的なことでは毛頭無く、脳震盪でふらつきながらハイウェイから獣道を下っていくローラ・エレナ・ハリングだった。もっとも、私はその後リタ・ヘイワースのポスターを見てリタと名乗ることもなかったし、私の事を想う元恋人の妄想のなかで庇護される役回りを演じることもなかった、というのはここがMulholland Driveではなかったからで、 敢えて言うならMoon-Night-Field Driveとでも言う他無い場所であったからだ。若干語呂は悪いものの、リンチ的な名前かとも思ったが、リンチ的と云うには綺麗過ぎる名前であるかもしれない。
数時間経って、東京に戻ってほろ酔いの私は、真赤なベルベットのカーテンがかかった個室で、強すぎる冷房に肌寒さを感じながらスカイブルーの得体の知れないカクテルを飲んでいた。真赤なベルベットに薄暗いランプの明かりが正にリンチ的と言う他なく、どうやら私はリンチ的世界に迷い込んでしまったらしいと観念した。

いや、リンチ的世界ではなく、世界がそもそもリンチ的なのか。

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