新文芸坐の勝新太郎特集には『悪名』を観に行こうと決めていたのに、気がついたら終わっていた。
悔やみつつも、もう一つ観に行こうと決めていた『燃えつきた地図』には間に合った。
『燃えつきた地図』
安部公房の同名小説を原作とした映画で、同じく安部公房の『砂の女』などの映画化も手がけている勅使河原宏が監督。『砂の女』や『他人の顔』などの映画化作品はいつか観たいのだが、こればかりはスクリーンで上映されるのを執念深く待ち望もうと思うのである。
安部公房の遺族からの上映許可がおりにくいらしく、なかなか上映されない、という噂を聞いたのだが、本当なのだろうか。
とにもかくにも、これで『燃えつきた地図』は観られた。
極彩色の縞柄がうねった模様が画面にアップにして映し出され、インダストリアルノイズのような音楽が流れる。やがてその極彩色の縞柄が、彩られた等高線であることに気が付き、ノイズも徐々に音楽のような形を取り始める。そして画面に現れる"A Man Without A Map"の文字。かっこよすぎる。
音楽は武満徹だったらしい。
今までオープニングタイトルが痺れるくらいかっこいいというのは、岡本喜八の諸作品だったのだけれど、この作品はかっこよかった。
すごい。
そして、本編が始まってまず驚いたのが、冒頭の団地の場面で強烈な既視感を覚えたことだ。この団地は観たことがある、というより、この場面そのものを観たことがある!と感じたのだが、その観たのはいつだったか思い出すとそれは驚くことに、原作を読んだときだったのだ。
クラッチを踏んで、ギヤを低速に入れかえる。二十馬力の軽自動車には、この勾配は、いささか負担が大きすぎた。
道の表面は、アスファルトではなく、目の粗いコンクリートで固められ、スリップ防止の目的だろう、十センチほどの間隔で細いみぞが刻んである。しかし、歩行者のためには、さほど役に立ってくれそうにない。せっかくざらつかせたコンクリートの面も、ほこりや、タイヤの削り屑などで、すっかり目をつぶされてしまい、雨の日にゴム底の古靴だったりしたら、さぞかし歩きにくいことだろう。これは多分、自動車のためを考慮しての舗装なのだ。十センチごとの目地の刻みも、車のためになら、あんがい役にたつのかもしれない。融けかかった、雪やみぞれが、道路の水はけを悪くしているようなとき、水分を側溝に誘導してやるのになら、なんとか効果も期待できそうである。
《許可なく団地内に車の乗り入れを禁ず》
つくりの頑丈さといい、わざわざ職人を雇って書かせたらしい自体といい、牙をむき出さんばかりのその意思表示を、ぼくは無視して、一気に坂の残りを駆けのぼる。
するとたちまち、風景が一変した。白く濁った空に、そのままつづいているような、白い直線の道。幅は目測で約十メートル。その両脇の歩道との間に、ちょうど膝くらいの高さの柵でかこまれた、古芝の帯がつづいていて、その枯れ方が一様でないせいだろう、妙に遠近法が誇張され、じっさいには各界六戸、四階建ての棟が、左右にそれぞれ六棟ずつ並んでいるだけなのに、まるで模型にした無限大を見ているような錯覚におそわれる。建物の、道に面した部分だけが白く塗られ、わきをくすんだ緑で殺した、その色分けが、さらに風景の幾何学的な特徴をきわだたせているのかもしれない。その色分けが、さらに風景の幾何学的な特徴をきわだたせているのかもしれない。この通りを軸に、団地は大きく両翼をひろげ、奥行きよりもむしろ幅の方が広いらしいのだが、採光のためだろう、たがい違いにずらして建ててあるので、左右の見透しは、ただ乳色の天蓋を支える、白い壁面があるだけだ。
こうして原作『燃えつきた地図』の冒頭から団地の描写を抜き出してみると、フェティッシュなまでに緻密な描写に驚く。しかし、私が覚えた既視感はこの緻密な描写からではないような気がした。
何かが足りないと思って、『燃えつきた地図』の原型となった『カーブの向う』を見て、その理由について納得した。
左手には、わずかな勾配で切石を積み上げた、高い擁壁があった。右手は、小さな側溝一つへだてて、ほとんど垂直にちかい崖になっていた。正面も、同じような擁壁でさえぎられてはいたが、道はそこから左に大きくカーブして、間もなく丘の上の団地に行きつくはずである。あと五、六歩もすすめば、すぐに視界がひらけ、その台地の町が見えるにちがいない。それはもう、疑う余地のないことだった。この光景は、とくに意識でもしないかぎり、その存在さえ忘れて通り過ぎてしまうほど、通いなれた道であり……もう何百回も繰返して、すっかりなじみになったはずの道であり……いまも、その道を、いつものとおりに通り抜け、ただ自分の家に帰ろうとしているところなのだから。
しかしぼくは、思いがけなく立ちどまる。空気のバネに押しもどされたように、立ちどまる。ふだんは気にもとめなかった、この坂道の光景の、奇妙に鮮明な印象に、つい尻込みしたいような気持で、立ちどまる。立ちどまった理由は、ぼくなりに、むろん分ってはいたが、しかし信じがたいことだった。なにしろぼくは、このすぐ先の、カーブの向うにあるはずの風景を―いま目にしている、この坂の途中と、同じくらいよく見知っているはずの風景を―なぜかどうしても思い出すことが出来なかったのである。
この生々しい生理的と言っても良いような感覚が、先ほどのどこか無機質で、緻密な描写と相まって強烈な印象を残していたのだと思う。なにしろこの作品を読んだのは随分前のことなので、団地の細部まで覚えているはずはない。しかも、私の既視感の源であったのは、『カーブの向う』のはずであり、そこではカーブの向こうは描かれないのだから、一層この映像としてのカーブとカーブの向うを観たときに感じた既視感はとても不思議だ。
カーブの向うが思い出せない。もし観に行ったとして、全く見知らぬ光景が広がっていたら、と感じる不安。それらが妙に生々しく覚えてられていて、そして、その不安への滑走路であるカーブの描写も、細部までは覚えていなくても、どこか記憶に焼きついていたのだろう。
不思議な体験だった。
映画自体は、まあ、よくこういう映画を作ったという具合で、頭がクラクラしてくる映画だった。原作に忠実に作っているところもあるけれど、オリジナルも加えているようだ。ようだ、というのは、原作を可也忘れてしまっているからで、これは早急に読み直さなくてはならない。
ただ、これだけは言えるのは、失踪者の妻が市原悦子というのはきつすぎる。
レモン色のカーテンの部屋で、下着姿の市原悦子、かなりきつい。勝新太郎の傷口を舐める市原悦子の姿は、官能というには余りに濃すぎる、何かドロドロとした感情以前の何かの塊を見せ付けられたようで、胸焼けどころか内臓がひっくりかえるかと思うほどぐるぐると目が回りそうだった。
これは単なるミスキャストではなくて、監督の意向だったのだろうか…。
誰も付添い人のいない、赤い乳母車の中で、頭からシーツをかぶった赤ん坊が、金切声をあげて泣いている。銀色に光る変速機つきの軽合金自転車に乗った少年が、わざとらしい高笑いを投げつけながら、寒さに頬を染めてその傍を駆けぬける。見れば、けっこう人通りもあるのだが、あまりにも焦点のはるかなこの風景の中では、人間の方がかえって、架空の映像のようだ。もっとも、住み馴れてしまえば、立場は逆転してしまうのだろう。風景は、ますますはるかに、ほとんど存在しないほど透明になり、ネガから焼きつけられた画像のように、自分の姿だけが浮かび上る。自分で自分の見分けがつけば、それで沢山なのだ。そっくり同じ人生の整理棚が、何百世帯並んでいようと、いずれ自分の家族たちの肖像画をとりまく、ガラスの額縁にすぎないのだから……
都会―閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。
だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。
