2007年2月アーカイブ

映画に誘われたので、珍しく複数人で映画を観に行った。
観る作品は『それでもボクはやってない』だったのだが、監督にインタビューしたことの有る方や司法修習生の方と共に観て、話を聞くことができたという点では、理想的な環境での観賞ということになるだろう。

そして私はこれから『それでもボクはやってない』の感想を書こうとしているわけだが、私は法律よりも映画についての方が詳しいので、映画として観た感想を書こうと思う。

鉛か愛か

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オンデマンド配信でCSIを観ていたら、被害者の死因が驚くべきものだった。
なんと、チョコレートの食べすぎ。
チョコレート(カカオか)の生産量の7割を占めるアフリカでは、まだ鉛を含有したガソリンが使われているため、大気中に鉛の化合物が多く、それらが雨となってカカオにも降り注ぐ。そして、それらを吸い上げたカカオはその実の中にも鉛を含む、ということらしい。
被害者はカジノのポーカーのキングで、キャンディマンと呼ばれるぐらいに験かつぎの意味でもチョコレートを良く食べていたそうだ。m&mみたいな。
で、食べすぎで鉛中毒で脳ヘルニアになって、目薬の中に含まれた血管収縮効果のある薬品によって血圧があがり、脳卒中で死亡に至った、というメカニズムだった。
まあ、ドラマだし、このキャンディマンは一日に500グラムチョコレートを食べるという設定だったので、鉛中毒以前に糖尿病にでもなりそうだけれど、昨日がチョコレートと縁がある日だったので、少しく面白く感じた。

鉛といえば、ダンテの神曲では、偽善の罪を犯したものは鉛の着物を着せられて歩かされるらしい。
ヴァレンタイン・デイに鉛入りのチョコレートを大量に貰うものは、現世での鉛の着物を着せられているのでしょうか。偽善の罪?貰うほうが?渡すほうが?
チョコレートには鉛よりも愛が入っていて欲しいとは言わないけれど、地獄よりはせめて煉獄に行きたいものだ。

オンデマンド配信で『ハンナとその姉妹』を観た。
ウディ・アレンつづきだ。

『ハンナとその姉妹』
三姉妹を中心とした人間模様が交錯する様は確かに非常によく出来ているし、解りやすい。かつ笑えるコメディでもある。
テンポもよく進んでいくし、よくこれだけの話を100分ちょっとで収められたなあと、感心する。
関係ないけど、ウディ・アレンの同僚役で、一瞬だけフィリップ・シーモア・ホフマンが映ったようなきがする。
1986年だから、全然俳優として有名になる前だろうし、勿論名前も無い役だから、キャストにも載っていなかった。
しかし、あれはきっとフィリップ・シーモア・ホフマンだ。
三秒ぐらいしか映ってなかったけど、多分そうだ。
気持ち悪い長髪と太りっぷりは多分。
imdbには載っていなかったけど、気になる。

今年の冬が暖冬だといっても、二月の寒空へ窓という窓が開け放たれた室内に、肌に柔道着一枚で寒くないどころか暑いくらいである理由は、周りで数を大声で勘定しながらゴロリゴロリと転がっている人たちが何十人も居て、そこから熱気が発せられているからである。
なぜ私がこのような場所に、慣れない柔道着を着て突っ立っているかと言えば、それは数週間前に届いた一通の封書による。
それは、私が大学に居たころに所属していた武道のサークルからの封書であり、この日に行われる4年生の卒業稽古のお知らせだった。
つまり、この封書は私に、卒業稽古へ来いという勧誘なのであった。
大学においても、また、サークル活動においても、落第生であった私の下にこのような封書が来ること自体驚きであるのだが、久しぶりに見たサークルの名前を見て、ノスタルジックな思いが蘇ったかといえば、そんなことは全く無かったのである。
では、なぜ、この封書を見て私が、箪笥の奥から引っ張り出した埃まみれのゴワゴワの柔道着を着て、阿呆のように突っ立っていることになったかと言えば、それは具体的な懐かしさのためである。
私が畳で転げていた「あの頃」という漠然とした思い出のようなノスタルジイではなく、具体的に数人の顔が頭に浮かび、久々に彼らに会ってみようと思ったのである。私のような落第生のもとへもこのような案内が来ているということは、私が浮かべている数人の人のもとへも同じような封書が届けられていることであるだろうし、そしてまた、卒業稽古を受ける4年生の中にも、少しく顔を見たいと思う人も居たのである。

そんな理由で、私は立っていた。ゴワゴワの柔道着を着て。
私は直径3.5メートルほどの円に並んだ人々の列の中に居り、その円の中心では、当の稽古を受けている四年生が立っている。そしてまた、その四年生と同じく、円の中にはもう一人、相手を務める人物が四年生に対峙すべく立ち、四年生に向けて殴りかかっている。

周りでは後輩や先輩が、しきりに、ファイトと声を掛けているが、中々中心の四年生は投げることが出来ずにいる。ファイト、ガンバレ、との檄が飛ぶ。また、962!などの延べ人数を勘定する声が、殴りかかる側のモーションに合わせて飛ぶ。
私は、中々数が進まないこの掛かり稽古を見ながら、漠然と考えていた。
ファイト、ファイト、ガンバレ、ガンバレ。
私は同じく叫ぶべきなのだろう。ファイト、ファイト、ガンバレ、ガンバレ。
しかし、この定型化された叫び声は、受付嬢やエレベーターガールの職業的な案内の声が、余りにルーティーン化されているために当人以外にとっては聞き取り難い独特のイントネーションと発声法を持つに至るように、やはり独特の叫び声となっていた。
ファイト、ファイト、ガンバレ、ガンバレ。
この当人以外には聞き取り難いこの叫び声は、果たして届いているのだろうか。
中心の四年生は、果たして、如何なる思いでこの叫び声を聞いているのであろうか。
周りで、叫んでいるということは、届いているだろう。そして、それが、激励の意味であるといういことも、経験から共通のコードとして知っているのであろう。
しかし、それだけで、良いのだろうか。
私はファイト、ファイト、ガンバレ、ガンバレ、と叫ぶことにどこか抵抗を感じ始めていた。
周りである種の声があがっていれば、それは激励の意味であるという共通のコードを介して、それは言葉としてよりも、音の量として、伝わっているようだ。
意味が省略された、コードのような、叫び声。
それは心身ともに相当程度は疲労しているであろう中心の四年生にとって、この叫び声はどの程度の激励になるのだろうか。
私は此処に、幾人かの顔を久方ぶりに見てみたいという具体的な懐かしさに端を発して立っているが、それに加えて、「枯れ木も山の賑わい」となるだろうと思って来ていた。
つまり、応援ぐらいは出来るだろうという意味で。
しかし、いざ立っていると、如何に声をかけるべきかが解らない。
そもそも、心身ともに疲労している人物に対して、如何なる声が届きうるだろう。そのような考えも、大袈裟な飛躍とは思えないほどに、その困難さに戸惑っていた。
ファイト、ファイト、ガンバレ、ガンバレ、と叫べば、私は一本の枯れ木、匿名の枯れ木、となれるだろうか。山を見つめる人物にとって、賑わい程度の意味はあるだろうか。
しかし、賑わい程度の意味が一体、どれほどの意味を持つだろう。
隣を見ると、余り話したことの無い人が立っている。彼はファイトーと叫んでいる。中心の四年生を目で追うことすらせずに。ファイトー。枯れ木だ。それは在るべき姿なのだろうか。
私の戸惑いの中にはただ、声をかけるということの困難さのみがあったのであったが、枯れ木よりも花を咲かせた彩りとして見られたいという自意識の過剰のせいでは、なかったのだと思う。
懸命に掛かり稽古に取り組んでいる四年生に、素朴な具合で、、ちょっとした通りがかりのような気安さで、声を掛けたかったのである。発言者としてではなく、言葉そのものだけが届くような、気安さで。

四年生はまだ、何度も殴りかかってくる相手を投げられずにいる。
962!という数は進まない。
ファイトー、ファイトー、ガンバレ、ガンバレ、という叫び声が響いている。
私は四年生の懸命な姿を眩しく見ながら、頑張れ、と呟き、立っていた。
ゴワゴワの着慣れない柔道着を着て、ただ阿呆のように立っていた。
発すべき言葉すら見つからず、叫び声と熱気に包まれながら。

久々の銀幕

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久しぶりに銀幕でキネマでも観ようか、と思って目黒シネマに行った。
とはいえ、上映作品はフィルムではないであろう『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』と『ストロベリーショートケイクス』なのだけれども。

『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』
―俺たちぶっさんが死ぬまでに面白いこと全部やっちゃったんだよ。
という台詞が途中にあって、案外これは製作陣の本音だったりするのかもしれないな、と思った。
一本の映画として観れば、展開もすっきりしないし、笑いに乗り切れないところも多く、持ち味のテンポの小気味よさも少なかったように思う。
2時間が長く感じた。
それでも、ファンにとっては、このキャラクターたちがお祭騒ぎをしているだけで、楽しめるということもあるのかもしれない。
そう考えると、私はファンではないということになるのだろうか。所々楽しめるところはあったけれど。
また、こういう混沌とした展開の中だと、劇中の雰囲気に馴染んでいるかどうかが如実にわかる。
その点で、実は岡田准一というのは結構凄かったのだな、と櫻井翔を見ていて思った。
それ以上に相変わらず古田新太と森下愛子の馴染みっぷりは相当なものだったのだけれど。


『ストロベリーショートケイクス』
謹んで告白するが、実は私は魚喃キリコの漫画が好きで、殆どの単行本を持っている。特に、この映画の原作となった『strawberry shotcakes』は好きな一冊である。
むくつけき男の私が、何故女性が主人公の「女性向け」と捉えられている漫画家の作品を好んで読むかと言えば、そこには行き過ぎたセンチメンタリズムを抑制しようとしている、何か、切実なものがあるように思えたからである。
陳腐にならないようにという自制を込めながら描かれたそれぞれの痛みの表現には、良いものがあると思ったからである。
しかし、映画を観て感じた感想は、原作に思い入れのある読者が映画化作品を気に入らないというありがちなもの以上の、違和感を伴ったものであった。
というのも、ここで描かれているもの、特に脚色されているのは、ありふれた記号のようなセンチメンタリズムであって、陳腐ですらあったからだ。
デリヘルの事務所は白を基調としたモダンなデザイン(店名はHeavens Gate!)、デリヘル嬢は棺桶の中で毎日眠る、等々。
こんな定型的な「女性的」なクリシェを描き続けられても、辟易するだけだ。
女性が見ればまた違うんでしょうかね。
イラストレーター役を演じていた岩瀬塔子という人で、名前を始めてみたので、新人かと思っていた。そして、その割に演技が非常に自然なので驚いていた。
帰って調べてみたら、魚喃キリコ本人なんだね。いやあ驚いた。
美人だったんだなあ。道理で演技に説得力があるわけだ。
地だったのか。


まあ、若干がっかりの、そんな2本ですよ。

『おいしい生活』をオンデマンド配信で観た。

愚行を語る老人は信用したくなってしまう。
ということを、『おいしい生活』を観ていて思った。

ウディ・アレンを観るのはこれが3作目で、他には『さよなら、さよならハリウッド』と『メリンダとメリンダ』を観た。
その皮肉っぽいユーモアが結構好きだと思ったのだけれど、考えてみれば、私は彼の若いころの作品を観ていない。
機会を見つけて観ていこう。

最近映画の感想が上手く書けない。それはオンデマンド配信で観ているから、集中力が低いということもあるのだろうし、端的に映画を観る本数が激減しているからということもある。
やはり映画館に行かないと、映画を観たことにはならない。

この作品についてもそうで、非常に面白くて、幾度となく声をあげて笑ったり、しみじみと良いなあと思わせられたりしたのだけれど、それも上手く書けない。
そこで、以前観た2本のウディ・アレン作品の自分の感想を見返すことにした。

『さよなら、さよならハリウッド』で、ウディ・アレンはメガネ。まるでパラノイアで、独りでは何も出来ず、嫉妬屋で、てんでダメ男。しかし、最後ではヒロインに愛される。
世のメガネ男子がどうこう言っている人々は、この映画のウディ・アレンのような主人公のようなメガネ男を愛してこそ真のフェティシストではないだろうか。
もしそうなったら、世の中は少しは良くなるだろう。
なぜなら、世のダメ男達は、メガネをかけさえすれば、この映画のウディ・アレンのように愛されるのだから。

ただ一つ問題があるとすれば、世のダメ男達のなかで、この映画のウディ・アレンのように二度もオスカーを獲った過去を持った人はほぼ皆無だと云う事だ。


と書いてあった。
私はこの映画を観て本当にこういうことを感じていたのだろうか。おそらくは筆が滑っただけだろうな。

次に、ネットでこの映画の感想を探した。映画を観た後はよく見る、CinemaScapeだ。
すると、こんな感想があった。

ウディ・アレンが年取るにつれ、家のおばあちゃんに似てきた気がする。

ああ、可笑しい。


なんにせよ、老いてもユーモアを忘れないというのは素晴らしい。
老人になれたとして、愚行の出来る老人になりたいものだ。

ガルシアと言えば、ガエル・ガルシア・ベルナルかもしれないし、『百年の孤独』と言えば焼酎かもしれない。
しかし、この場合はガルシア=マルケスのことだ。
ガルシア=マルケスの全小説が出版されるらしい。
http://www.shinchosha.co.jp/topics/marquez/
次はガルシア=マルケスを読もうかな。
フォークナーも気になっている。『八月の光』が凄かったものだからね。

インターネットってすごいなあ、ともう何回目かわからないけれど、やっぱり唸ってしまった。
http://takamatsu.cool.ne.jp/azure2003/
『政治少年死す』も『風流夢譚』も読めてしまう。
少しすっきりしない気分も感じるけれど。

ちなみに、他にガルシアで思い出すのは、アンディ・ガルシアとガルシア・ロルカと後一つ。
勿論、アルフレッド・ガルシアさ。
Bring Me The Head of Alfredo Garcia!!

土産

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一年ぶりのスノーボードの置き土産は、捨て損ねた可燃ごみと、レンタルCDの延滞料金と、肩甲骨を中心とした筋肉痛だった。
コケ過ぎたな。

ガラスを隔てて、数十本の葱が腐っていた。
周りの壁には、うち棄てられた時代遅れのシルク・スクリーン。

私はガラスを隔てた向こう側に充満しているであろう、腐敗した葱の臭気を想像して、陰鬱に打ちのめされたような気分だった。
葱が腐っている、数十本というかたまりで、ダンボール箱に詰め込まれて。青い部分は茶色く変色している。部屋の奥の方は暗くて見えないが、まだ幾箱も置いてあるようだった。
私はショーウィンドーのガラスによってかえって強烈に感じられる葱の臭気を、道路側から、覗き込んでいた。
別荘街にある商店街の、メイン・ストリートに面したその店舗は、廃業した様子で、幾つか放置されたシルク・スクリーンの版画の他は、数十本の腐敗した葱が残されていた。
私はその陰鬱なショーウィンドーの前に立ちすくみ、その暴力的なショーに打ちのめされていた。
シルク・スクリーンの版画は、一時期バブルの頃に流行した画家のものであり、それが置き去りにされている様子もまた、私に追い討ちをかけるようであった。

―何を見てるの?と背後で声がした。
鼻腔の奥に青臭い泥のような臭気が残っているように感じながら振り返ると、20代半ばの女性が立っていた。
―葱が、あんなに腐ってる。
―あれは、腐ってないよ。確かに緑のところは茶色くなっているけれど、下の所はきっとまだ食べられるはずよ。
葱は、腐っていなかった!それは驚くべきことだった。彼女の言葉は、疑いの余地もないほど確信に満ちた響きで、何か実地の経験が裏打ちしているように感じた。
その言葉の確かさは、ガラスを隔てた向こう側の、想像の腐敗した葱の臭気を、まるで換気扇のように何処かへと運び去った。
―そうなの?と私は未練たらしく、かつ、安心して言った。
―ああやって保存することはよくあることだわ。
もうガラスの向こう側には悪臭はなかった。

―この画廊も冬の間は閉じるのね、4月までは群馬で営業しているそうよ。
彼女が見ている方向を見ると、確かに小さな張り紙が内側からしてあり、地図らしき図柄と文字が書かれていた。
―幾つか絵を残していくんだね。
―これらはシルク・スクリーンの複製だし、今は人気も余りないみたいだからね。私の大学の教授が自分の著作のなかで、この人の絵のことを、《この本を読もうと思うほど西洋美術に通じている人が、この絵を
部屋に掛けていたら、それはあまりいい趣味ではないと言いたくなるにしろ、個人的趣味のレベルで問題はない。しかし、これがアートだとするならば、紋切り型のイメージをそのまま用いてアートでありうる理由が必要だろう》と書いていたわ。
―アートでありうる理由、か。数十本の腐敗した葱の中に置かれていたとしたら、確かにこの版画はアートそのものであったように思うよ。ともあれ、個人的趣味のレベルでは、群馬にも店舗を持つ程度にはまだ人気があるようだね。
―そうね。信じがたいことだけれど。
私と彼女は僅かに微笑を共有した。

葱は腐っていなかった!そしてまた、この時代遅れのシルク・スクリーンも、その趣味の良し悪しは別にしても、商魂逞しい画商のもとで、売られ続けている。
私が見ていたショーウィンドーは、腐敗した葱と時代遅れのシルク・スクリーンが暗示する何かではなく、単に、季節外れの別荘外で閉店中の店舗に過ぎなかった。
ともあれ、葱は腐っていなかったのだ。

私はこの女性に感謝しようではないか。

片栗粉のような雪面を滑り、転ぶ。


私は驚くほどモノを知らない。
大江健三郎を読んでいるのに、杉と檜と樅の区別もつかない。
飛行機の灯りかと見まごうばかりの星空を見て、宮沢賢治を思い出しても、青白く輝くその星がシリウスかどうかの確証すら持てない。
その肝心の宮沢賢治すら、暗誦できるというのでなし。
正確に覚えていないことは、全く知らないことよりも悪い、と大江健三郎が言っていたが、このフレーズ自体が正確に覚えていない。
私は驚くほどモノを知らない。
知っているのは曖昧な僅かなコトだけだ。

月が明るい日には、森に月光で影が出来るという話を聞きながら、そのモノの感覚を羨ましくも感じた。

Oriol Balagueのチョコレートを買った。
一番ベーシックという説明があった、へーゼルナッツをキャラメルで炒めたものを買ったのだが、まあ、美味しい。
そりゃ美味しいよ。
4個入りで、ダースが1ダース以上買えるんだから。

自動車と音楽の話。
私が知っているつもりで選んだ選曲は、まるで役に立たなかった。
今回学んだことは、こういう場合の音楽が果たす役割は、音楽を鑑賞するということそのものよりも、コミュニケーションの手段だということだ。
つまり、第一に重要なのが、その音楽を聴いたことがあるということで、その曲を観賞するということはその次に来るということだ。

例えば、皆が知らない曲で、ドライブに良さそうな曲があったとして、ウーファーを積んでいるような音楽に特化した環境ならまだしも、また、音楽が特別好きそうな人ならまだしも、そうでない一般的な場合には、そのような曲を流すことは控えたほうがよさそうだ。
それは、聞かれもしない自分の専門分野の話を延々とし続ける人のようなもので、聞く人がそれに特別興味があったり、話の内容が特別面白かったり、それが期待されるような環境ならまだしも、そうでなければ座が白けるようなものではないだろうか。

どうやら当分、音楽を介したコミュニケーションは出来そうに無い。

私には運転免許がないので、自らの五感がとんでもない大きさと重さを持った鉄の塊にまで延長されるという身体感覚が理解できない。
それはきっと、ロードレーサーに乗ったことが無い人が、アスファルトの路面を走るというより、滑走するといった方が感覚に会うという身体感覚を理解できないのと同じことだろう。
だから、私には、運転中にどのような音楽を車内で流せば、快適に運転が出来るのか、ということに関しては、畳水練のような、想像と手探りで行うほかないのだ。

なぜそのようなことを考えているかというと、それは今週末に友人達とスキーに行くからで、運転免許の無い私は、友人に運転してもらうということになる。
そこで、私にせめて出来ることは何かと考えたら、HDを圧迫しつつある音楽から、運転に快適そうなCDを選んでいくと云う程度のことしか思い浮かばなかったのである。

しかし、ここで困ったことは、私には運転中の身体感覚が解らないということに加えて、私は音楽を誰かと共有して聴くという経験が殆どないということだ。

それは、私がカラオケで困るのと同じ理由で、音楽を複数一人称的に味わう場合の選曲センスというものに対する想像力に乏しいということだ。

例えば、私が今ドライブ中の音楽ということで真っ先に頭に浮かんだ曲は、そのタイトルから、KraftwerkのAutobahnなのだけれど、一曲20分を超える1トラック目が車内に流れた場合、音楽の嗜好について殆ど話したことの無い友人との間に、「あ、こいつめんどくさい」という気まずい雰囲気が流れる可能性は高いように思う。

では、どのような曲を選べばよいのだろうか。
それはおそらく、カラオケで盛り上がりそうな唄、つまり、人口に膾炙したポップソングということになるのだろうが、生憎私のHDには、ポップソングよりもジャズとプログレの方が多く入っているようだ。
その少ない中から、ポップソング、或は、 ロックのベスト盤を探せばそれでよいか、と言えば、Pink FloydのEchoesは確かに世界中で大ヒットしており、全世界的に人口に膾炙しているが、安部公房の『カンガルー・ノート』に出てくるような気さくさで、このアルバムについて話が盛り上がるとは思えない。
プログレはお嫌いですか。

さて、そんなことは言っておきながらも、大体どういう選曲が受け入れられるかぐらいは、はっきりとその境界を定められなくても、大体のところは想像できるので、私のプレイリストから、精一杯の人口に膾炙したアルバムを探すと致しましょう。
number girlのベストが「アリ」か「ナシ」か、なんてことは実際よく解らなかったりもするのだけれども。

それよりも大きな心配は、雪が「アリ」か「ナシ」かってことだね、実際。

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