http://d.hatena.ne.jp/thinkingreed/20070114
コメント欄に書くには長くなりすぎそうなので、ここに書いて絡むことにする。
「見る前に跳べ」というタイトルのエントリなのだから、何かコメントを残しておこうと思う。
基本的には木村敏の著作を読んだ経験で感じたことを書くが、正確な引用をしない、曖昧な記述になるかもしれない。もしわかりにくければ、引用を示そうと思う。多分。出来れば。
このエントリの中で、私という存在は3つ出て来ている。
「物語を構築する『私』」、「生きている私」、「観念的な自分」である。
そして、この「物語を構築する『私』」というものは、「観念的な自分」に他ならないのだ、と言っている。
この点において、少し「私」という主体について混同が見られるようにおもう。
確かに、
「私はなぜ今の私であるか」という問いに答えを出すことなしに、人間は一瞬たりとも生きていくことができない。良かれ悪しかれ、フィクションとしての物語を構築しながら、前に進んでいく。
ということはあるだろう。
人は物語を構築しながら生きている。ポール・リクールは引かないけれど。
この「物語」という意味を如何に解釈するかは非常に広い意味を持つ言葉だけに難しくもあるが、ひとまずこのような場合を考えてみよう。
例えば、音楽を演奏する。
この場合、楽器を演奏する(指を動かす、息を吹き込む、等等)という行為そのものがある。そしてまた、その演奏されている音楽を聴きながら、次にどのような行為(指を動かす、息を吹き込む、等等)をとればいいかを考えるということがある。
この二つの次元のものは、お互いにフィードバックを繰り返すような状況であろう。自らが演奏する音楽を聴き、次にどのような行為をするかを指や気管に指令する行為、そして、その行為からまたフィードバックされ、次の行為を決定する、というように。
このような状況は人が生きている限り、続いていく果てしないフィードバックであり、このことを指して、「物語」を構築せずには生きていけない、と言うことが出来よう。
キッチンに行って、何をしに来たか忘れたような場合、このフィードバックがある時点で切れてしまったということであり、「物語」が途絶えた状況であると言えよう。このような場合は、他にも、気の乗らない読書で、眼は文字を追っているが、内容が入ってこないような状況にも見られる。
このようなフィードバックが物語を構築すると云うことなら(誤解ならすみません)、そのような「物語を構築する『私』」と「観念的な自分」とは根本的に異なった次元の話ではないだろうか。
「観念的な自分」というのは、http://blog.livedoor.jp/last_news/archives/50267200.htmlを読むと、いわゆる「近代的自我」が「本物の自分」とみなしているものだろう。
それならば、「物語を構築する『私』」とはまた別のものでるはずだ。なぜなら、人が生きている限り更新し続けられるフィードバックとしての物語を構築する「私」は、近代以降に見られるものではなく、人が存在しているはるか昔から存在しているから、いや、人の主体性そのものと言ってもよいものだからだ。
それこそ、飯を食い、恋をし、音楽を奏でる中にも更新し続けられるフィードバックとしての物語は続いているのである。むしろ、そのような「第一の私」そのものではないだろうか。
「物語」という言葉の意味は、もっと狭いものだ、より観念的で、思索的、端的に、近代的自意識の産物だと言うとすれば、それはトートロジーに他ならないし、また、そのようなものなら、人間は無しでも生きていけるだろう。
また、「観念的な自分」は「生きている私」に常に遅れて立ち現れると書かれてあるが、これは「観念的な自分」を「物語を構築する『私』」と読み替えるならば、確かにその通りだ。厳密に言えば、それは、立ち遅れるというよりも、ずれが生じると言えそうだが。
つまり、先程の音楽の例で言えば、「物語を構築する『私』」は自分が演奏する行為によって紡ぎ出される/紡ぎ出された音楽を感じているのであり、それによって演奏する行為を決定している。この過程では、常に演奏する行為自体と、紡ぎ出される/紡ぎ出された音楽を感じている私にはずれが生じるだろう。
これから何を演奏するか、という未来へ向けて見れば、それは常に演奏する行為自体に僅かに先立っているし、これまで何が演奏されたか、という過去を見れば、それは常に演奏する行為自体に僅かに遅れている。
「観念的な自分」を近代的自我のことだとすれば、「生きている私」に対して常に遅れて立ち現れるか、という問いは、どういう意味を持つだろうか。
「生きている私」を先程の音楽の例でいう演奏のような行為そのもの、字を眼で追ったり、足でキッチンに向かったりする行為そのものと云うように考えれば、それは当然ずれを含むだろう。
近代的自我とは、更新し続けるフィードバックという物語のような「第一の自分」とは別次元のものだからだ。
もっとも、これも緩やかなフィードバックの中にあるとはいえ、「第一の自分」とある程度切り離された、遊離したような存在なのだろう。
「生きている私」をそのような更新し続けるフィードバックという物語そのもの、つまり「第一の自分」そのものだとしたら、同様にそのような「第一の自分」と切り離されたところに近代的自我を定めている以上、やはり、フィードバックの中以上に大きなずれを含むと言える。
さて、そのように考えると、「見る前に跳べ」とはどういう意味なのか。
跳ぶ前に見るということを、まず文字通りに捉える、つまり、先程の音楽の例のように捉えると、それが可能なことは言うまでも無いだろう。
私達は、跳ぶ向こう側を見て、跳んだ自分を思い浮かべ、それに必要な行為を行う。
端的に、見て、跳ぶということそのものだ。
言うまでもなく、音楽でないようにピアノの鍵盤を出鱈目に叩くことが可能なように、見ないで跳ぶということも可能だ。
この場合は、見ている主体は、音楽の例で言うところの、演奏される/演奏された音楽を聴いている私と同じである。そして、跳ぶ主体は、演奏する行為そのものを行っている私である。
見ないで跳ぶのではなく、見てから跳びなさい、というそのものなのだから、当然すぎるくらいありふれた教訓である。
しかし、これを「見る前に跳べ」とすると、話は変わってくる。
ここで、「見る前に跳べ」という言葉について記しておく必要があるだろう。
「見る前に跳べ」という言葉そのものは、大江健三郎の若い頃の同名の短篇から来ている。
そして、この短篇は、W・H・オーデンの詩"Leap, before you look"から来ている。そして、大江健三郎の短篇のなかで「見る前に跳べ」と訳されているのは、この詩のタイトルではなく、この詩の冒頭、"Look if you like, but you will have to leap."である。
そのような言葉、「見る前に跳べ」はどういう意味を持つだろうか。
先程の様に、「見ないで跳ぶ」ことは可能だが、「見る前に跳べ」ということは果たして可能であろうか。
それは最早、突発的に鍵盤を叩く行為が音楽ではないように、何かに向けて跳ぶことではありえない。突発的に、衝動的に、跳ぶということそのものを意味するのだ。
これが、「見ないで跳ぶ」とは違って、「見る前に跳ぶ」のだとしたら、跳んだ後に見るということになる。しかし、それはもはや、「跳んで、それから見た」ということでしかない。跳ぶということと見るということの二つをなしているに過ぎないのだ。つまり、「見る"前"に跳ぶ」ということは「見ないで跳ぶ」か「跳んで、それから見る」ということのどちらかになってしまう、不可能な行為なのだ。
しかし、これを近代的自我、「観念的な自分」と捉えればどうだろう。
この捉え方こそ、このフレーズを印象深いものにしているのだ。
つまり、跳ぶと見るという別々の行為をつなぐ、「観念的な自分」の思索について語っているのだ。ここでは、「見る前に跳べ」という言葉に対置しているのは、「跳ぶ前に見る」ということではないのだ。
大江健三郎が"Look if you like, but you will have to leap,"を「見る前に跳べ」としているように、ここで対置されているのは、「跳ばないで見ていること」なのだ。
跳んでから見るか、見てから跳ぶか、ということが問われているのではなく、見ているか、跳ぶか、ということを問われているのだ。
つまり、"Look, before you leap."を"Leap, before you look."ともじった場合に現れてくるのは、見てばかりいる近代的自我=観念的な自分そのものへの命令なのだ。
"Look if you like, but you will have to leap"という囁きにも似た命令。
見てばかりいてもよいけれど、いつかは跳ばなくてはならないよ、という命令。
いつかは、見ている私・近代的自我・観念的な自分そのもの、から、跳ぶ私・「第一の私」としての役割を果たさなくてはならない、という命令なのだ。
大江健三郎作品の『見る前に跳べ』については、また稿を改めようとおもう。