2006年11月アーカイブ

蠍か蟻か

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『ゲッタウェイ』を返して、『ワイルドバンチ』を借りるというサム・ペキンパーリレーを行った。

『ワイルドバンチ』
冒頭の蠍が蟻にたかられる場面は実に扇情的で、其処にこの映画を凝縮させた象徴的な意味を捉えたくなる。
「ワイルドバンチ」達が滅び行く蠍で、其処にたかる蟻は賞金稼ぎたちか、或は、マパッチ将軍一味なのか。
鉄道メジャーが蠍だとしたら、そこにたかる蟻は「ワイルドバンチ」とマパッチ将軍だろうか。
マパッチ将軍が蠍で、蟻はインディオたち。
しかし、それらのどの「見立て」もすっきりとはいかない。

ウィリアム・ホールデンたち無法者は、どれも一筋縄ではいかないのだから。
無法者たちは序盤で仲間を見捨てて行ったり、「エンジェル」に対して恋人を忘れてその仇のマパッチ将軍のために働けと言う。
何より序盤で唐突に始まる無差別な銃撃戦を見ても、彼らが無条件に正義で、観客の傍らに親身になって立ってくれると無邪気に信じられる人がいるだろうか。

無法者を追うもう一人、ロバート・ライアンもそうだ。
彼は常に後手後手に回り、活躍しそうでしない。
彼もまた、無条件な正義の味方でもない。

確たる正義の味方が居て、勧善懲悪の西部劇ではない、そんな当然なこと以上のことをこの作品は含んでいるように思う。
というのも、善悪の基準が曖昧で、そこに明確な勧善懲悪のプロットがなくても、依然として観客は無法者たちに惹かれざるをえないからだ。

一見不可解に見える彼らの行動の理由は詳らかには明らかにならない。いや、より正しく言えば、明らかではあるが、説明はされない。
行動の理由を一々垂れ流すような説明的な台詞で述べないし、時には観客を置いてけぼりにするような描写もあるが、それでも観客は彼らを追わずには居られない。
なぜなら、そこに、ヒーロー・アンチヒーロー・トリックスター・等々の一般的な役割付けを超えた、彼ら独自の動機があるということが、そこに見えなくても手触りで解るからだ。
ヒーロー(アンチヒーロー)等々の一般的なキャラクターから動いているのならば、彼らの行動はある種のパターンの選択であり、理解も容易く、その行動から受ける印象はある程度単純な選択肢に限られるのではないだろうか。
しかし、この作品の無法者達は、そういう一般的な意味づけを排除したところに居る。
それをリアリティと呼ぶかどうかは別としても、文字通り「型破り」な無法者であることは確かだといえる。

そのような無法者が暴れるこの作品が、蠍対蟻という単純な構図に収めきれないことは当然なのだろう。

私達がある映画について、出来が良い悪いと言い合う時、前提としてその映画を理解しているということがある。
面白い面白くないという評価も或は、そうかもしれない。
しかし、この映画は、理解を前提とした映画体験ではない。
この経験は『ゲッタウェイ』『ガルシアの首』の他のサム・ペキンパー作品でも感じたことだが、彼の作品は理解を前提とした出来の良さ悪さ以前に、豊かなのだ。

冒頭の蠍と蟻の場面は、何が起こっているかは明確に理解できる。そしてまた、その下に(或はメタなレベルで)何かがあることも感じ取れる。
しかし、そこにシンプルで一般的なプロットを与えることは出来ない。
その部分に如何なる解釈を与えるか、何を感じるか、何を探り出すか、それは全く観客に委ねられている。そういう豊かさなのである。
そしてまた、何かを探り出さなくてはいけないという義務すらそこにはない。
何かがあると手触りで解っているだけでも、無法者の魅力に浸ることは充分可能なのだ。

それを可能にしているのは、緻密なサム・ペキンパーの演出によるのだろう。
出来が良い悪い、以前に、豊かである。
そんな映画だった。

売春宿で、身体を拭く女性、貰いが少ないと罵る女性の声、赤ん坊、それらを見て何故ウィリアム・ホールデンが"Let's go!"と言ったのか。そして、それに対して何故ウォーレン・オーツは"Why not?"と応えたのか。

これらの問いは無数に存在する。
そして、それらの問いに答えることこそが、映画を評論するということなのだろう。

豊かな映画が少ない中で、優れた評論が少ないのも、不思議ではないのかもしれない。

私という穴

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町田康の『告白』を読み始めたら、一気呵成に六時間かけて読みきってしまった。

「自分」なんてものは、巨大な穴のようなものなのかもしれない。
そこには何か吸引力のようなものがあって、其処に何かを放り込まずには生きていけない。
何をインプットするかは人によってそれぞれ異なり、そこから何をアウトプットするかも人によって異なる。
「性格」とは外的刺激に反応する人間の反応パターンだと云うような事を言った学者もいるようだけれど、その穴に何をインプットしたかを個別に見定めることで、「自分」を探ろうとしてもそこには巷にありふれたものと変わらないものが入っているだけだ。
「自分探し」と称してその穴を見定めようとしたところで、そもそも穴というものは、其処に何もないという否定の表現でしかない以上、其処に何か実態的なものを探ろうとすることは不可能だ。
穴というものを知ろうと思えば、その縁を探るほか無いように、結局「自分」なんてものは、その外縁を探るか、何かで埋め尽くそうと無謀な試みをする他ないのかもしれない。

町田康は『告白』以外の小説では、外縁を探ることによって、この穴の吸引力から逃れようとしていた。一人称的に構成された世界で、外的な刺激に対する反応を逐一、身体的描写や感覚的描写によって描くことによって、この穴に迷い込むことを逃れていたように思う。そこでは、穴の否定性は、自分自身がパンク歌手をはじめとする社会のラクゴシャであるという自意識を外部の否定として規定してしまうことによって、置き換えることが出来ていたのではないだろうか。言わば、穴が何であるかであるかを示すのではなく、何でないかを決めてしまうことによって規定した後に、身体的反応や感覚的描写によって、外縁を探っているようである。自分という穴を極端に狭めてしまい、そして其処から何が出てくるか、を外縁を探ることによって描こうとしている、ある種のニヒリスティックな態度とも言えるかもしれない。ニヒリストは大抵過度のロマンチストであるが、この場合のニヒリスティックな態度は、虚無の対象が外部ではなく内部に向けているという形の、反転したニヒリズムと言ってもいい。
町田康はいしいしんじとの対談で、次のように語っている。

町田 小説ってそもそも、書いてる自分は安全なところにいて、自意識を作品のなかであっちへこっちへころがしたり、あいつへぶつけたりこいつへぶつけたり、さも深刻なことをやってるみたいなのありますけど、太宰は、それを結局、最後には自分に返してしまうっていうところが、信頼できますね。
いしい その点、安心して読めます。
町田 さんざ他人をばかにしておいて、最後、俺がいちばんあほやった、みたいな。
(町田康 いしいしんじ 『人生を救え!』)


町田康も、彼が語る太宰治と同じように、自意識を自分に返しているとしたら、なぜその自意識という一つの問いは、自分の寸前で止まりえるのか。
或は、なぜ自意識が自分に返ってきたら、反転したニヒリズムによって、その問いを回避出来るのか。
余りにも乱暴な物言いが許されるとしたら、太宰治は、返ってきた自意識に忠実であろうとして、自縄自縛に陥ったと言ってみよう。町田康がこのような自縄自縛から無縁でいられるのは、反転したニヒリズムを、当為ではなく、存在として捉えているからではなかろうか。太宰にとって、否定的な自意識は、そうあるべきものであるのに対して、町田康にとって、否定的な自意識は、現にそうあるものではなかろうか。

しかし、『告白』はそのような態度とは異質なものになっている。主人公城戸熊太郎は自らを「思弁的」であるとしており、他者にその「思弁」を語る言葉を持たぬもどかしさにとらわれている。彼は他の町田作品の主人公のような、低温のニヒリズムを持たず、不安定な状態にいる。内面の穴で蠢く「思弁」が言葉というアウトプットをとることが出来ない以上、「思弁」は内部に止まり続ける。そこでは、最早外縁を探っているだけでは、穴の全貌を把握したとは言えなくなり、穴の内部に如何なる「思弁」が存在するかに目を向けざるを得なくなる。
かくして、『告白』はそれまでの町田作品には無縁であった、語る私と語られる私のような自我の分裂を始めとした、穴の否定性の仕掛けた罠に嵌り始めるのである。
この脱出不可能な罠に町田康は如何に抗ったのか。
大江健三郎は内部に蠢く運動を、過剰なまでに微細に描くことによって、この穴を捉えようとした。
安部公房は過剰な論理性をレンガのように積み重ねていくことによって、この穴の中にミクロコスモスを構成しようとした。
町田康はこの両者の間に近いのではないだろうか。
今までの作品のように、「思弁」の動きを一人称的に微細に描きながら、その動きは安部公房の過剰な論理性のように描いている。
安部公房は自作『S・カルマ氏の犯罪』についてこう語っている。

市川氏が説明的と言っておられる部分は、実は説明ではない。形式的には説明だが、内容的には、単なる前文の繰り返しにすぎないのである。分かりきったことを、もっともらしく、あるいは驚きをもって反復しているにすぎないのである。
  空腹のせいかもしれないと思って、食堂に行き(そうでなくても行ったのでしょうが)……
 こうした発想は、市川氏がいわれるように、「理屈っぽい傾向」というより、むしろぎこちない思考というほうがふさわしい。「ので」「から」等の接続助詞の他出も、同様に理屈よりはぎこちないものだ。関節の単純さのために、すべての行動をたやすく予見でき、予見できすぎることによってかえって謎めいてくる、あのマリオネットのとぼけたおかしさに近いものだ。あるいは即物性から飛躍できない、子供の「理由さがし」のこっけいさに似たものだ。
(安部公房『S・カルマ氏の素性』)


城戸熊太郎の「思弁」はS・カルマ氏の考えに似ており、過剰に説明的である。その過剰さは、彼自身は周りがもたない「思弁」を持っているという優位として捉えているのに対して、実はかえってぎこちないものであることを示している。
そして、このぎこちない「思弁」を究極まで突き詰めていった結果、つまり、この過剰な「思弁」というレンガを自分という穴のなかにぎっちりと詰めていった結果、中心に何が残るか、それがこのクライマックスで示されるのである。
「まだ、ほんまのこと言うてへん気がする」という言葉に示されるように、この小説は執拗に、ぎっちりと過剰な「思弁」のレンガを積み重ねていく。まだ隙間が、まだ隙間が。
この、執拗なまでの執念は、従来の町田康作品にはなかった、返ってきた自意識を受け止めた結果であるといえよう。
その結末がどうなるか、ここでは詳しくは書かないが、この作品を統括するような「あかんかった」という台詞が、意味するのは、返ってきた自意識を受け止めることの困難さであり、穴を「思弁」で埋め尽くすことの困難さであり、「私」の罠の不可避性である。

町田康は全力で私という穴に立ち向かい、そして、『告白』を書いた。
このような壮絶な作品を作ってしまった後で、彼は一体何を書くのだろうか。何を書けるのだろうか。
そのような不安を感じずにはいられない、傑作と呼ぶのが陳腐に響くような、恐ろしさを持った作品だった。


勢いにまかせてざっとメモ程度に書いた。
これから後々二度三度と読み返すことになると思うが、考えがよりまとまってから書き直したいと考えている。

なんとなく『笑の大学』を観た。
ビデオ鑑賞。

ビール飲みながら適当に観ていたせいもあるのかもしれないけれど、少し乗り損ねたか。
私のだらしない観賞態度以外にその理由があるとしたら、役所広司のキャラクターの見せ方だろうか。
役所広司の力の入った顔はまさに熱演だったが、厳格な検閲官が笑いの魅力に惹かれていくという流れが所々滞っているようで、イマイチ乗り切れなかったのかもしれない。
例えば、初めて笑いを堪えたり、チャーチルの寿司を思い浮かべたり、笑いに惹かれる描写が挿入されるのは思ったよりも早いし、最後の場面は少し冗長に感じた。
台詞で語りすぎるのが好きではないということもあるが、もう少し間やカットで見せることもできたのではないだろうかと感じた。
端的に言えば、テンポが合わなかったということなのかもしれない。

三谷幸喜は脚本のみで、監督はしていない。
テンポや間が少し悪いように感じたのは、そのせいにしたくもなるが、どうだろうか。

とは言っても、結構楽しめる作品であることは確かだし、観て損はなかったか。

one more coffee

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カプチーノってなに?という話。

カプチーノと言えば、勿論コーヒーの上にふわふわのミルクが乗っかっているものだけれど、そのコーヒーって、エスプレッソなの?それとも、普通のドリップコーヒーなの?

という疑問が浮かんだ。

調べてみたら、どうやら、エスプレッソの上にホイップミルクを乗せたものをカプチーノと言うけれど、それほどエスプレッソが一般的ではなかったころは、ドリップコーヒーの上にホイップミルクを載せたものもカプチーノと言っていたのだそうだ。

つまり、私が最近安物のミルクホイッパーを購入して以来、時折作る、ドリップコーヒーの上にホイップミルクが乗ったものは、似非カプチーノということになる。

イタリア人は朝食以外でカプチーノって飲まんねんて。

エスプレッソと云えば、『マルホランドドライブ』で登場した、エスプレッソの味が気に入らないとそのまま吐き出すイタリア人が印象深い。
レストランでエスプレッソが登場すると、毎回あのオヤジを思い出してしまい、エスプレッソを吐き出したい衝動に駆られるが、大抵美味しいので、残念ながら未だ嘗てその機会に恵まれた事はない。

そういえば、スタバの本日のコーヒーってどうやって淹れてんの?
ペーパーでもネルでもないだろうし。エスプレッソが独立メニューであるということは、エスプレッソでもなさそうだし。
こんな基本的なこともようわからんくせに、家で珈琲淹れて飲んどるわけですよ。

今日も珈琲が美味い。

『ゲッタウェイ』観たった。
サム・ペキンパー作品を観るのは、『ガルシアの首』で痺れて以来二作目だ。
本来なら全てをスクリーンで観たいが、その機会が訪れることは望み薄かもしれない。
DVD観賞。

『ガルシアの首』でもそうだったが、ロマンチックなものを描くのに、血まみれ埃塗れなバイオレンスにしっかりとまぶしてくれているのが嬉しい。
難病?実は血縁?
へ、ゴミ収集車に押しつぶされそうになった後で、埃っぽい道をゴミまみれで肩を組んで歩く二人の方が余程よく出来てる。

じりじりと不安を掻き立てる描写と、ちょっとずらして起こるアクシデントが緊張感を持続させて目が離せなくなっている。しかも、所々に不思議なおかしさもあって、たまらん。

滅茶苦茶いい味を出している脇役がいて、演じているのが誰だろうと思ったら、『ゴッドファーザー』でソロッツォを演じていた人だった。
一瞬オーレン・ウォーツかと思ったけれど、よく見たら全然違った。メキシコ系というだけで同じに見えた自分の眼が不信。
主人公に撃たれて、獣医に見てもらって、その妻とねんごろになって、其処に居た黒猫が気に入って、リブを車内で投げ合ってるうちにマジ切れしちゃって、獣医が首括っても見向きもせずにトイレで用を足して、揚句あっさりと死んじゃうあいつ、最高。

とてもいい映画だったなあ。

薄型テレビとか、ポータブルオーディオとか、ノートパソコンとか、小さくて薄い先端技術の塊のようなものを見て、こんなに小さくて動くのが信じられないという人が居る。特に年配の方に多いように思うが、その気持ちが感覚的には理解できないでいた。

というのも、中がどうなっているのかなんて、そもそもリモコンがついていない昔ながらのガチャガチャ言うテレビでも解らないし、クラシックカーだってどうなっているかなんて知らないじゃないか、そんな風に思っていたのだ。

しかし、最近この気持ちが感覚的に理解できた。
というのも、クリップ型のiPod Shuffleを購入したからだ。

今までもシリコンオーディオを使っていたし、小型のものに対しても、操作して音が出るということに対して、一度も違和感を感じたことはなかった。
しかし、これは違う。
圧倒的な違和感だ。
余りに小さく、軽い。恐らくはシンプルなデザインのためもあるのだろうが、普通の消しゴム程度の重さと大きさのものにCDが何枚も入るという事実に感覚がついていかない。

年配の人が感じる違和感は、こういうものなのだろうな、と感覚的に解ると同時に、少し恐ろしくなった。
この感覚的な違和感は、おそらくデジタルに明るい暗いとは関係がないところから生じている。それが何なのか解らないから、どこか不気味だ。

恐らくiPod Shuffle以上に圧倒的な感覚的違和感を与えるものを見つけた。
この感覚は、ある種現代アートのレベルだ。
http://www.yawataya.co.jp/mp3/mp3.html

「街はもうクリスマス気分」と云う一節がSIONの唄にあって、実際もう街中はクリスマス気分だけれど、この曲のタイトルの12月は未だ来ていない。
随分と前倒しに飾りつけられる哀れなクリスマスツリー。奴らが街中に現れるのは、実際早いし、ハロウィンが終わればそろそろだと、実は気がついている。
だから、11月半ばにイルミネーションが現れようとも、別段驚くこともないはずだ。
何より、もう年末か、とか、もう何月か、とか、言う感性の鈍感さには自覚的で居たいと思う。
たとえ口にするとしても。

それでも、改めてイルミネーションやクリスマスツリーを見ると、感覚的に何か感じるものがある。
それらが現れてもおかしくない時期だと自覚していても感じる感覚。それはおそらく、12月半ばにそれらが現れても感じる感覚なのかもしれない。

肌寒さとか、空気の冬の感じとか、光の感じとか、暖色の感じとか。それらが綯い交ぜになって感じる、プリミティブな感覚。
是を感じてしまうと、抗おうとしても、詠嘆は禁じえない。

そういえば先日、『ジャッカス・ザ・ムービー』をDVDレンタルで観たのだった。
日付はたしか、11/1か。

内容は言わずもがな、ジャッカス。大の大人が、痛いこととか、危ないこととか、汚いこととか、という阿呆なことを身体を張って行うというだけのものだ。
無性に馬鹿馬鹿しいものを観たいと思って借りて、予想通り馬鹿馬鹿しかったので満足だった。ただ、内容自体のハードコアさよりも、私はカメラの手ぶれに弱いのだなあ、と実感した。

まあ、内容については語るほどのものでもないのだけれど、特典のコメンタリーに少し興味を惹かれた。
日本の芸人がジャッカスにコメントするという趣旨だったのだが、このすれ違いっぷりが凄い。
コメントの人選は、ケンドーコバヤシ、笑い飯、プラン9、キングコングだったと思うが、この中で笑い飯が内容と全く関係ないコメントをするというのは、まあ、何となく解るが、他の人々のコメントも、ジャッカスのパフォーマンスに言及していてもまるですれ違っているのだ。

このすれ違いっぷりは、おそらく、身体を張ったパフォーマンスというものに対する、ジャッカスと日本の芸人との違いなのだろうな、と感じた。

日本で身体を張ると言えば、熱いおでんを喰らうことだったり、熱湯に入ることだったり、高いところからプールに飛び込むことだったり、洗濯バサミを皮膚につけることだったりすることで、それ自体は地味だ。勿論、電撃ネットワークのようにハードコアなことをやる人々も居るだろうけれど、彼らの位置づけはあくまでキワモノ的なものだろう。
その理由は、ハードコアなパフォーマンスをテレビで放送できなくなってきたということがあるのだろう。過激なことをテレビで放送できなくなって、その結果生まれた、身体を張ったパフォーマンスというものが、リアクション芸というものではなかろうか。
それ自体地味な痛みを、オーバーに演じることで、解りやすく伝える芸としてのリアクション芸である。
そこでは、何を行うか、よりも、如何に行うか(伝えるか)が重要となってくる。

そもそもこのコメンタリーに採用された芸人が所謂身体を張るタイプではないということが、このすれ違いな大きな理由の一つではある。しかし、例えばダチョウ倶楽部や出川哲郎などの、リアクション芸人がこのコメンタリーに採用されていたとしても、このすれ違いは解消されなかったであろう。
彼らが如何に伝えるかが芸なのに対して、ジャッカスは何を行うか、が中核なのであるから。

とはいえ、ジャッカスの連中もただ馬鹿をやってるだけではないのだな、とも感じた。
編集はかなり意図的になされているし、映像も思ったよりも作りこんでおり、如何に伝えるか、と云う点にも意識的であることがわかる。といっても、ハリウッドで公開されているのだから、当然ではあるのだが。
ただ、彼らの場合、何よりも根っこにありそうなのは、よりやばい事をする、という一点に尽きているのだろう。
中核として、何を行うか、があり、その派生として、それを如何に伝えるか、という技術が存在する。
何を行うか、について厳しい制約が課せられたテレビのリアクション芸と交わらないのは、当然であろう。


以上何かキモイ感想。

久々の日記も、程々にフィクションです。

いつの間にか出雲に集まっていたはずの神様連中が戻ってきていて神無月が終わり、霜月も半ば。
「すれちがう人 ニットのセータのふくらみが もうそんなキセツ 終わりの季節」と唐突にナンバーガールを引いたのは、この日も私は買ったばかりのデジタルオーディオからナンバーガールを聴きながら妄想都市を駆け抜けていたからで、実際、「終わりの季節」だ、と感じたのだった。俺も眼鏡をかけなおさな。

風を肌で感じて部屋へ帰ると、珍しく一通の封書が届いていた。
茶色の薄い封筒。この薄い少しつるつるした封筒の紙質を何と云うのかは知らないけれど、どこか油紙というものに似ていますね、といつも思う。油紙と云えば、高円寺純情商店街くらいにしか登場しないような、もう身の回りには皆無であるものだけれども、幼い頃に見た『択捉遥かなり』と云うNHKのドラマでは、防寒の役割を果たして、スパイの凍死を防いでいた。あれは面白いドラマで、油紙と云う名詞を私が知ったドラマだった。
そんな、油紙に似た、つるつるした、薄い、茶色の、封筒を開けると、そこには「リハビリのお知らせ」と書かれた紙が入っていた。

名宛の手書きの感じからしても、これはどうやらダイレクトメールの類とは異なるらしく、どうやら紛れもなく私自身に宛てられたものだ。
とすると、これは、私自身にリハビリを勧めているお知らせだ。

リハビリ。リハビリテーション。
正常への復帰。
この勧めを受けているということは、とどのつまり、私は異常であり、正常に復帰する必要があるということだ。訓練によって。

今までの生涯で、一度たりとも正常だと思うほどの図々しさは持ち合わせることは出来なかったが、これでめでたくヨソ様からも、訓練による正常への復帰の必要性を認められたことになる。

私は外套を脱ぎもせず、リハビリテーションへのお奨めを握り締めたまま立っていた。
耳元では相変わらず音洩れのナンバーガール。今更ナンバガ。
私は三角のボタンを何度か押して、『はいから狂い』を聴いて、再び街中へ。

「病気はどんどん進行」と軽やかに唄いながら、私は相変わらず都市中を走り抜けていると、久方ぶりに知己に会った。

リハビリの話を知己にすると、知己にもリハビリの通知が来ていると言っていた。
私は驚いた、というのも、知己は私とまるで違って、復帰するべき必要性など感じさせぬからであったからだ。
リハビリというのは、異常な状態から正常な状態に復帰しなくてはいけないということでしょう、だから私は現状では異常だとヨソ様に認められたわけで、私にもその点に異存はないのだけれども、君は復帰の必要などなさそうではないか。
というようなことを知己に言うと、このリハビリはそんな意味じゃないよ、と言われた。そんな意味じゃなくてどんな意味か私には解らなかった。知己は、そのように過剰に捉える君の考え方はどうやら紛れもなく異常で、先ごろのメールにあったリハビリとは違った意味でのリハビリが必要だね、と言った。

メールではなく封書だろう、と私が怪訝な顔をして訊ねると、いや、リハビリの通知は切手代の節約から、全てメールで行ったそうだよ、と知己は言った。
いや、私にメールでリハビリの通知が来るなんてことはないはずで、実際、先程まで握り締めていたあの油紙のような薄い感触を私の指は覚えている。
そう強く言い張ると、知己は気味悪そうな顔をして、兎に角、君にはリハビリが必要だね、と言った。

リハビリテーション。
どこに復帰させてくれんの?

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