『ゲッタウェイ』を返して、『ワイルドバンチ』を借りるというサム・ペキンパーリレーを行った。
『ワイルドバンチ』
冒頭の蠍が蟻にたかられる場面は実に扇情的で、其処にこの映画を凝縮させた象徴的な意味を捉えたくなる。
「ワイルドバンチ」達が滅び行く蠍で、其処にたかる蟻は賞金稼ぎたちか、或は、マパッチ将軍一味なのか。
鉄道メジャーが蠍だとしたら、そこにたかる蟻は「ワイルドバンチ」とマパッチ将軍だろうか。
マパッチ将軍が蠍で、蟻はインディオたち。
しかし、それらのどの「見立て」もすっきりとはいかない。
ウィリアム・ホールデンたち無法者は、どれも一筋縄ではいかないのだから。
無法者たちは序盤で仲間を見捨てて行ったり、「エンジェル」に対して恋人を忘れてその仇のマパッチ将軍のために働けと言う。
何より序盤で唐突に始まる無差別な銃撃戦を見ても、彼らが無条件に正義で、観客の傍らに親身になって立ってくれると無邪気に信じられる人がいるだろうか。
無法者を追うもう一人、ロバート・ライアンもそうだ。
彼は常に後手後手に回り、活躍しそうでしない。
彼もまた、無条件な正義の味方でもない。
確たる正義の味方が居て、勧善懲悪の西部劇ではない、そんな当然なこと以上のことをこの作品は含んでいるように思う。
というのも、善悪の基準が曖昧で、そこに明確な勧善懲悪のプロットがなくても、依然として観客は無法者たちに惹かれざるをえないからだ。
一見不可解に見える彼らの行動の理由は詳らかには明らかにならない。いや、より正しく言えば、明らかではあるが、説明はされない。
行動の理由を一々垂れ流すような説明的な台詞で述べないし、時には観客を置いてけぼりにするような描写もあるが、それでも観客は彼らを追わずには居られない。
なぜなら、そこに、ヒーロー・アンチヒーロー・トリックスター・等々の一般的な役割付けを超えた、彼ら独自の動機があるということが、そこに見えなくても手触りで解るからだ。
ヒーロー(アンチヒーロー)等々の一般的なキャラクターから動いているのならば、彼らの行動はある種のパターンの選択であり、理解も容易く、その行動から受ける印象はある程度単純な選択肢に限られるのではないだろうか。
しかし、この作品の無法者達は、そういう一般的な意味づけを排除したところに居る。
それをリアリティと呼ぶかどうかは別としても、文字通り「型破り」な無法者であることは確かだといえる。
そのような無法者が暴れるこの作品が、蠍対蟻という単純な構図に収めきれないことは当然なのだろう。
私達がある映画について、出来が良い悪いと言い合う時、前提としてその映画を理解しているということがある。
面白い面白くないという評価も或は、そうかもしれない。
しかし、この映画は、理解を前提とした映画体験ではない。
この経験は『ゲッタウェイ』『ガルシアの首』の他のサム・ペキンパー作品でも感じたことだが、彼の作品は理解を前提とした出来の良さ悪さ以前に、豊かなのだ。
冒頭の蠍と蟻の場面は、何が起こっているかは明確に理解できる。そしてまた、その下に(或はメタなレベルで)何かがあることも感じ取れる。
しかし、そこにシンプルで一般的なプロットを与えることは出来ない。
その部分に如何なる解釈を与えるか、何を感じるか、何を探り出すか、それは全く観客に委ねられている。そういう豊かさなのである。
そしてまた、何かを探り出さなくてはいけないという義務すらそこにはない。
何かがあると手触りで解っているだけでも、無法者の魅力に浸ることは充分可能なのだ。
それを可能にしているのは、緻密なサム・ペキンパーの演出によるのだろう。
出来が良い悪い、以前に、豊かである。
そんな映画だった。
売春宿で、身体を拭く女性、貰いが少ないと罵る女性の声、赤ん坊、それらを見て何故ウィリアム・ホールデンが"Let's go!"と言ったのか。そして、それに対して何故ウォーレン・オーツは"Why not?"と応えたのか。
これらの問いは無数に存在する。
そして、それらの問いに答えることこそが、映画を評論するということなのだろう。
豊かな映画が少ない中で、優れた評論が少ないのも、不思議ではないのかもしれない。
