2006年10月アーカイブ

NHKの芸術劇場で平成中村座の公演を見た。
テレビジョンが壊れていると私が言っていたのを覚えている人は、奇特な人だと思うけれど、世の中には私の家以外にもテレビジョンはあるのである。

十八代目中村勘三郎の襲名披露だったこの公演の内容は、『義経千本桜』の「木の実・小金吾討死・すし屋」という演目らしい。
『義経千本桜』といえば有名で、落語にもしばしば出てくるので名前ぐらいは知っていたが、恥ずかしながら粗筋すら全く知らなかったのである。

このページ(http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp3/index.jsp すごい完成度だ…)によると、『義経千本桜』は一段目から五段目までで成り、「木の実・小金吾討死・すし屋」は三段目だそうだ。

冒頭で少し人物関係についての説明があったが、それが無くても人物関係はすぐに見えてきた。

歌舞伎というものを観たのは、実は二度目で、一度目は美学の講義でセンセイがビデオで観せてくれた『夏祭浪花鑑』の「長町裏の殺し場」だった。これを観て、歌舞伎って面白いじゃないか。と今更ながらに気がついて、今後は機会があれば観に行こうと思っていたのだけれど、結局観ないまま、今回のテレビ観賞となってしまった。

そんな『義経千本桜』の三段目だが、これはもう、滅茶苦茶面白かった。
有名な作品を初めて観るということで、全く粗筋などの知識がなかったけれど、それだけにプロットが非常に新鮮に感じた。
伏線の張り方とその回収が非常に面白い。
特に、生首と銭とを入れた二つの寿司桶が二つ並んで取り違えられる場面など、クライム・サスペンスのような盛り上がりを見せるし、何より肝心の奥方と子供のすり替えも、歌舞伎というミニマルな演出のなかでこそ成立する仕掛けで、非常によくできている。

ラストの権太がすべてを白状するシーンの迫力は、もう、凄いものがあった。
妻と子供を縛る紐がどうしても緩んで何度も何度も結び直し、血を吐く。
たまらんなあ。

歌舞伎面白い。
今度こそ生で観るぞと再び緩く決意するのであった。

tiffの協賛企画の一つ、ニッポン・シネマ・クラシックにて『鴛鴦歌合戦』が上映されると知ったので、観て来た。同じ場所で続いて上映される『決闘高田馬場』とともに。

『鴛鴦歌合戦』
「おしどりうたがっせん」と読むこの映画の英語題は、"Samurai Musical"。いかす。
Samurai Musicalというタイトルが全てを物語っているこの映画は、登場人物が唄う。とにかく唄う。志村喬も唄う。
いいキャラクターをしていたのが、ディック・ミネが演じる若い殿様。なにしろ、常に能天気なへらへらした表情で、見るからに軽そうなのが良い。冒頭で、「ぼっくは わかい とのさまぁ〜」と唄いながら登場するシーンでは心をわしづかみにされた。「ぼっくは おしゃれな とのさまぁ〜」というバージョンもあった。
ディック・ミネはどうやら本業はジャズ・ブルース歌手だったそうで、唄が上手かったのも頷ける。
この作品の主役は一応、片岡知恵蔵ということになっているが、本人の体調が悪く短時間での撮影だったらしく、出番は驚くほど少ない。
その分かどうかはわからないが、画面に多く登場して、強烈なインパクトを残しているのが志村喬だ。
「シムラさん」という役名で出ている彼の役どころは、ヒロインの父親で、骨董キチガイ。
このキャラクターが余りにもエキセントリックで、壮絶だ。
買った骨董が贋物だといわれれば、シムラはシムラでも、まるで志村けんのように、ずっこけ芸まで見せるし、秘蔵の品々が二束三文だと言われても、これが贋物とはなあ、なんて暢気に言ってる。揚句は、夜逃げを言い出して、娘が、思いを寄せる隣人の浪人片岡知恵蔵との別れを思い涙していると、親父は急に笑い出したりする始末。何故笑ったのか意味も解らず、娘も途方に暮れる。かと思えば、只管に誤り続けたりもして、全く意味が解らないエキセントリックな親父だ。
こんなエキセントリックなキャラクターが突出しているとはいえ、浮き上がっていないのは、それだけこの世界観がそもそも浮き立ったものだからだろう。
冒頭からラストまで、何かにつけて唄うし、その唄がまた良い。
途中から、「あ、唄がくるぞ」と思うとワクワクし、伴奏が始まると、「お、きたきた」と喜ぶ。
そんな愉快な映画だ。
この映画が作られたのは1939年で、時代背景は決して明るくない、というより、果てしなく暗いと言ってもいい。
こんな暗い時代にこんな明るい映画を、という表現があったけれど、意外と、時代が暗かったからこそ、こんな映画が出来たのかもしれない。
というくらいに、底抜けに明るい映画。
とても楽しい。
片岡知恵蔵を観たのは『赤西蠣太』以来二作目だが、『赤西蠣太』はメイクが濃かったので、顔がよくわからなかった。
関係ないけれど、「赤西」と聞くと、タレントよりも、「赤西蠣太…」と心で思ってしまうのを何とかしなくてはいけないと思っていたけれど、これからは「赤西」ということばを聞く機会も少なくなりそうだ。

『決闘高田馬場』
高田馬場の江戸っ子の正しい発音は「たかたのばば」と言って濁らない、というのが、古今亭志ん朝の『高田馬場』のCDの解説に載っていた気がする。
実際、古今亭志ん朝は濁っていなかったけれど、この作中ではどうだったか、よくわからなかった。
50分という短いこの作品、テンポがよくて清清しい。
堀部(まだ中山のころ)安兵衛が走るシーンは、「ラン・安兵衛・ラン」といった感じの疾走感が心地いい。
それに至るまでのグダグダした酔いどれてる場面の阪東妻三郎も、いい具合にぐだぐだだった。長屋のかみさんの話を聞くでもなく聞きながら、説教するようすの話し方は、「ああ、こういう酔っ払いうざい…」と過去の思い出が蘇ったりしたりしなかったりするほどだった。
酔いどれながら「一番星消えた」と言ってやくざを斬る場面も渋い。
何といっても一番の見所は、クライマックスの18人斬り。
会場では笑いが起こっていたが、私はめちゃくちゃかっこいいと思った。
走るシーンの疾走感そのまま、流れるような殺陣なのだが、これは凄い。
酔っ払った動きそのままのような、少しふらふらした動きで、進んでいきながら、周りの7、8人を斬っていく。しかも、要所要所で見得を切るのだけれど、驚くべきことにその時も流れは止まっていない。
A会で「多人数掛」というものがあって、技の流れを決めた演武をしたことがあるが、5人でよどみなくまわすことだけでも尋常ではない困難さがある。
勿論、稀代の名優の殺陣と比べるのもおこがましいが、この流れのある殺陣は本当にかっこいい。
また、見得を切るポーズが痺れるほど決まっている。
どこで笑っていたのだろう、と純粋に不思議だった。
私に解らない笑いどころでもあるのだろうか、と少し弱気になったのは、映画祭だったからか。

ちなみに、この作品の前に、「斬られ役」で有名な福本清三氏のトークショーがあった。氏とつけたくなるほど、物腰の低い人で、滲み出る良い人感が尋常じゃなかった。時代劇ではあんなに悪そうなのに。
トークも面白い。
「綺麗な死に方というものはどういうものですか?」
「いや、綺麗に死んではいけないのですよ。私達はいかに綺麗じゃなく死ぬかを目指していますから。綺麗じゃない死に方が、綺麗な死に方です。」


スポンサーに納豆業者が入っていたらしく、何故か土産に納豆を貰った。
2パック。
ニ作品観たので、4パック。
初めての映画祭で、納豆を貰う。
人生は不思議だ。

太宰のユーモア

| コメント(0) | トラックバック(0)

蛇足
前エントリは太宰治の第一作としての作品集『晩年』の一番最初に収録されている『葉』の冒頭の一節をもじったものだったのだけれど、強引過ぎて無理があったのかもしれない。

撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり
           ヴェルレエヌ

 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

 ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。

 私がわるいことをしないで帰ったら、妻は笑顔をもって迎えた。
(太宰治 『葉』http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2288.html)

冒頭に引用されたヴェルレエヌの一節は、随分と太宰寄りに解釈されたものであって、実質、引用と云う形をとった太宰自身の詩に近いと言われている。
確か、ヴェルレエヌの選ばれてあることの不安と恍惚というのは、基本的に恋人からのそれでなかったかと思うのだけれど、定かではない。太宰の場合は、何か超越的な存在に選ばれてあることの不安と恍惚が常につきまとっているというような意味に取れ、その点で考えれば、随分傲慢だと言えないこともない。

そんな太宰の夏まで生きていようと思ったという点に、自らの命を人質に取っているかのような甘ったれた傲慢さを見ることは容易いが、私は、麻の着物を貰ったから夏まで生きようという点に、どこか自己を戯画化したようなユーモアを見たいと思う。

確かに太宰はある時期、この戯画化された自己と、戯画化した自己との分別がつかなくなったかのように、懸命に「太宰治」であろうとしたのかもしれないが、根本には、戯画化しようとするユーモアの精神が流れているのだ。

そこには、しばしば言われるような青春の麻疹としての病んだ自意識よりも、麻の爽やかさのような、ユーモアが流れていると考えるのは、幼い頃に太宰に感銘を受けた「麻疹」のキャリアとしての自己正当化に過ぎないのであろうか。

最近知った太宰の文章に、次の様なものがある。

 大井広介というのは、実にわがままな人である。これを書きながら、腹が立って仕様が無い。十九字二十四行、つまり、きっちり四百五十六字の文章を一つ書いてみろというのである。思い上った思いつきだ。僕は大井広介とは、遊んだ事もあまり無いし、今日まで二人の間には、何の恩怨も無かった筈だが、どういうわけか、このような難題を吹きかける。実に、困るのだ。大井君、僕は野暮な男なんだよ。見損っているらしい。きっちり四百五十六字の文章なんて、そんな気のきいた事が出来る男じゃないんだ。「とても書けない」と言って、お断りしたら、「それは困る。こっちの面目丸つぶしです」と言って来た。「丸つぶれ」でなく、「丸つぶし」と言っているのも妙である。これでは僕が、大井広介の面目を踏みつぶした事になる。ものの考えかたが、既に常人とちがっている。実に、不可解な人である。僕は、いったい、なんの因果で、四百五十六字という文章を書かなければいけないのか。原稿用紙を三十枚も破った。稿料六十円を請求する。バカ。いま払えなかったら貸して置く。(太宰治 無題)http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/45690_21628.html

この文章自体がきっちり456字なのだが、問題はその点だけではない。この数字が実際に大井広介によって指定されたという根拠もこの文章自体の中にしかないのであって、単なる後付の数字であるという可能性もあるのである。文章自体きっちり456字であり、まるで計ったかのように書かれているのか、それとも、適当に書いて数えた数字を後から入れて456字と記したのか、それは解らない。それを、ひょっとしたらきっちり予め与えられていた456字という制限に造作もなく収めたという風に魅せてしまいながら、一方で、後付かもしれないという尻尾の端をきっちりと見せているあたりに、卓抜なユーモアを感じる。

自己言及的に見えて、実際は456字という以上の事を何も言っていないこの文章。自己回帰の果てにあったのは、軽やかなユーモアだけだったのかもしれない。

 死のうと思っていた。今日、よそで映画を一つ知った。予告篇としてである。映画の監督はロドリゲスとタランティーノであった。血と硝煙の匂いが織りこめられていた。これは来年に観る映画であろう。来年まで生きていようと思った。

待ってました!

http://www.iklipz.com/Movies.aspx?MovieID=12c73641-68ad-4092-bab7-ca0306bcf698

もう随分と映画を観ていないくせに、映画を語りたがる害悪以外の何ものでもない私。

http://eiga.com/buzz/060929/06.shtml
マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の「沈黙」を映画化するらしい。
え?『酔いどれ天使』リメイクの話はどうなったの?
まあ、ほっとしたというか何というか。

http://eiga.com/buzz/061006/13.shtml
『アイズ・ワイド・シャット』が駄作だなんてことは、当時高校生でキューブリックファンになり始めだった私の眼にも明らかだったわけで。
しかしまあ、面白いのは、完璧主義者のキューブリック自身が駄作だったと認めたということ。しかも相手がリー・アーメイだったということだろうか。
まあ、リー・アーメイの証言が事実なら、と云う留保つきではあるけれど。
『アイズ・ワイド・シャット』は個人的に非常に思い出深い映画だ。
アクションとホラーを重点的に観ていた私に、監督という存在の大きさと、映画の奥深さを知らせてくれたのがキューブリック作品だった。そして、その衝撃を受けた頃に、丁度『アイズ・ワイド・シャット』が公開された。
性描写が多く含まれていることから、確かR18での公開だったと思うが、当時から老けていた私にとって、数歳歳を誤魔化すことなんて、たいした事ではなかった。と云うより、確かうっかり高校の学生証を提示して学割で入ってしまったのではなかっただろうか…。この辺は確かではないけれど。
可也期待して観た『アイズ・ワイド・シャット』は端的に言って退屈な映画で、しかしそれでも、映画館ではアクション映画しか観たことの無かった私に、その独特の映像美は強烈なインパクトを残した。
その後、関西ローカルの映画番組で、私の高校の教師数人が、路上インタビューを受けた映像が流れていた。インタビューの内容は、『アイズ・ワイド・シャット』の過激な性描写についてで、彼らはにやけた表情で期待通りの答えを返していた。それがある種のサーヴィス精神によるものであることは、今となってはわかるのだが、当時は軽蔑していたように思う。思えば、私も青かったのである。
今だってまだまだ真っ青なのであるのだけれど。
「キューブリックの遺作が昼ドラだというのは皮肉だ」と誰もが思ったことだろうけれど、まあ、実際、ニコール・キッドマンは美人だよね。
『アイズ・ワイド・シャット』に足りないものは、リー・アーメイの刺激だったのか。
結局、『アイズ・ワイド・シャット』が成り損ねたのは、『ブルー・ベルベット』なのかもしれない、とふと思った。

そういえば先日、ふと「泣いたり笑ったり出来なくしてやる」というフレーズが頭に浮かんで、これの出典が思い出せなくて悩んだ。
暫く考えていて、ああ、ハートマン軍曹だったっけ。と思い出した。
そんなアハ体験。

今日は冗長に語りたい気分なので、冗長に語るから、忍耐力のある人は読めばいいのではないでしょうか。とは言っても、冗長なのはいつものことなので、結局いつものエントリと変わらないのでありましょう。

私はちょっとおかしいのではないか、と自分で思うことが時々ある。

おかしいのではないか、と自分で思うと云うことはつまり、自覚している限りにおいておかしくないということなのだけれど、そう考えておかしくないと自分で思ってしまうと、結局自覚していないことになるので、おかしいのかおかしくないのか解らなくなってしまう。

その「ちょっとおかしいのではないか」という一端が例えば、掃除に於いて見られたりする。

私は家事は嫌いではないが、ここで敢えて「私は綺麗好きです」と言うことは差し控えたいと思う。「俺って(私って)綺麗好きでさあ」と人が言っているのを聞いても私は余り良い気はしない。「綺麗好きだから、マニキュア落としから、ガム剥がしのヘラまで持ち歩いています」とでも言うならまだしも、大概はさして興味をひかず、「そうですか」程度の印象だ。それに、その人が綺麗好きかどうかなんて、家にでも行かない限り大した関わりはないのであって、余程親密な関係ならまだしも、大して親しくもない人に綺麗好きアピールをされても困ってしまう。というより、「綺麗好き」というキャラクター付けをしようとする意図が露に見えてしまったりして、少し幻滅してしまう。そもそも、綺麗好きと綺麗好きでない人とは、両方自分の快適なように過ごしているだけなのであって、その環境が綺麗か綺麗でないかは、他人が決めることであるのだから、自分から「綺麗好きで」と言い出すのはおかしい。潔癖症に悩んでいるのでもない限りは。

だから、私は別に「綺麗好きアピール」をしたいわけではなくて、ここで書いてみたいのは、時折顔を出すファナティックとしか言いようのない掃除への意欲だ。
少しばかり汚れが見えても、(綺麗かどうかは他人が決めることだとしたら、自分において少し気がかりは感じる程度ではあっても、と言ってもいい)放置しているような状態に対して、突如としてファナティックな情熱がわきあがる。
こうなるともう、薬局に走って洗剤やらを買い込んで、掃除を始めてしまうのである。
この日はひょっとしたら、二時間以上も風呂掃除をしていたのではないだろうか。
普段はさして気にならないはずの汚れを、親の敵のように、磨き倒す。そして、明らかにバランスを欠いて清潔にされた風呂場を見ながら、満足感の片隅にちらりと「ひょっとしたら私はおかしいのではないか」という思いがよぎるのである。
完全主義と云う言葉はそもそも誤りで、不完全恐怖とでも言うべきネガティブさがそこにはあると、美学芸術学の先生が言っていたが、まさに、不完全恐怖に駆られたファナティックな衝動である。
一心不乱に風呂場を磨く姿は、まるで丸一日洗車を続ける覚醒剤中毒者の病んだ集中力にも通じるが、ファナティックな衝動に駆り立てる正体が薬物のように定まっていないだけに、少し気味が悪い。

思えばこの不完全恐怖に駆られたファナティックな衝動は、私が幼いころから持ち合わせていたように思う。小学生くらいだった頃、洗い物を手伝っていた私は、鉄のフライパンを洗っていた。その鉄のフライパンは、長年使い続けていたもので、「育て」られたそれは、黒光りしていた。使い込んで「育て」られた鉄のフライパンがそういうものだと知らなかった私は、それを、鉄の銀色が出るまで磨こうとしていたのである。まるで狂人だが、金属タワシで必死に「汚れ」を落とそうと磨き続けていた私は、銀色にしなくてはいけないのだという、ファナティックな衝動に駆られていた。黒いフライパンを銀色にしようとする少年の姿は、滑稽というより、むしろ哀れですらある。

この衝動を思い通りに操れるならあるいは、「几帳面」という特長に転化できるのかもしれないが、この衝動が現れる状況には非常に「むら」がある上に、この衝動が役に立つような分野に現れたことが殆ど無い。

矢張り私はちょっとおかしいのだろうか。と思い、この偏執的なエントリを書いてみた。

これを読んで、自分の特異性をことさらに強調してアイデンティティを確立しようとする屈折した意図を見出そうとするなら、それは誤りであると言っておきたい。

何を言いたいのかおぼつかなくなった、このエントリを読んで、貴方はこうでも言えばいいのだ。
「変な奴。きもちわりーよ。」と。

何だこれ。

コメントが付いたので、パブリック・ドメインの映画ページに対する補足。
http://www.jonhs.net/freemovies/

補足、ってほどでもないけどね。
バスター・キートンの短篇4つが観られた。
http://www.jonhs.net/freemovies/buster_keaton_shorts.htm
まだ『The Blacksmith』しか観ていないけれど、やっぱり笑わない喜劇役者はいいなあ。
ニヒルさが良い。
バスター・キートンは全くスタントないんだってね。
面白いからお奨め。
おお、ブログっぽし。

もう一つ薦めておこう。
といっても、これを観るのは少々覚悟がいるかもしれない。
何せ、「映画史上一番恐ろしいシーン」の呼び声も高い場面が含まれる映画だからだ。
それは、『アンダルシアの犬』
http://www.jonhs.net/freemovies/un_chien_andalou.htm
シュルレアリスムの旗手、アンドレ・ブルトンとサルバドール・ダリが共同で作った15分ほどの短編映画。
まさに純度100パーセントの「シュールな」映画であるが、才能の塊のような二人が作った映像が、まっとうな映画であるわけがない。
冒頭いきなり始まる、例の「痛い」シーンは、呻き声にも似た悲鳴が漏れることだろう。
私はこれを、二度ほどツタヤで借りた。
時々観たくなるんだよなあ。
まあ、良かったら観てみてよ。

という、ブログっぽいエントリ。

たまには内輪ネタでも言うてこましたろ。

町山智浩のポッドキャスティング(http://tbs954.cocolog-nifty.com/st/)を聴いていたら、大学の新歓コンパはイニシエーションだと言っていた。

A会においては、新歓コンパは「一気飲み」はしないけれど、大抵潰れる新入生は居る。
まあ、大抵飲酒経験の乏しい新入生が、入学直後の舞い上がってる状況で飲み会に出れば、「一気飲み」のあるなしに関わらず、潰れるのも不思議ではない。

そうさせないようにするのが飲酒経験のある「先輩」の役目なのかもしれないけれど、恥をかかせるという意味で、イニシエーションの役割を負っているのかもしれない。

また、A会でイニシエーションとしての役割をより明確に負っているのは、夏合宿だろう。
夏合宿の最終日の打ち上げでは、新入生には何かしらの「芸」を披露することが強いられている。これは、任意だと誰もやらないからではない。せいぜい「皆やってきたから」という理由だけで、強制されているのは、これがイニシエーションとしての役割を担っているからなのだな、と思った。
勿論、合宿の厳しい練習自体が、「夏合宿が終わって残っている人が一人前」という認識があるように、イニシエーションとしての役割を帯びているのだろう。
その総まとめとして、「芸」の制度があると。

このイニシエーションを経て、新入生はサークルの成員になるのだろう。

と、此処で気がついた。

新歓コンパにも出ず、合宿は辛うじて出たけれど、「芸」を頑なに拒否し続けた私。
新歓コンパには出たけれど、合宿には行かず、当然「芸」もしなかったS。

イニシエーションを通過していないとしたら、4年間を通して私とSは果たしてサークルの成員だったのだろうか。

もう古ぼけてしまった、端の方はセピアがかっている、そんな感慨。

忘れ名日記

| コメント(0) | トラックバック(0)

前エントリを書いたときに、音楽は一次的なもので、背景知識が必要ないというような事を誰かが言っていたとぼんやりと思い出した。
それが誰だったかを思い出そうとしていたら、それに続く言葉が確か、絵画もそのような一次的なものであるべきだという意味だったように思った。
そこで、そうだ、これは確か、高階秀爾の『20世紀美術』で読んだのだと気がついた。
そして、確かこの一節は、ブラックだったか、と思ったけれど、どうにも確証がない。
調べてみようと、『20世紀美術』を探したけれど、書棚の美術関係の本を並べている所には何故か無い。
そういえば以前何かを調べたときに出したような気がするが、と思うものの、何処にあるか皆目見当もつかない。
なにやら本がごちゃごちゃと積んである箇所を横目で見ながら、きっと其処にあるのだろうなあなどと思いながら。
確かあれは、神保町で買って、ちくま学芸文庫なのになぜかパラフィン紙がついていたなあ。
あれは店主のサアビスだったのだろうか。
あれ、そういえばあの言葉はブラックじゃなかったかもしれない。
そもそもブラックは何ブラックだっただろうか。
ジャック・ブラック。いや、違う。
ジョルジュ。そう、確かジョルジュだ。
いや、しかし。
本当にジョルジュだっただろうか。
ジョルジュ・ブラック。と確かめるように呟きながら。
本が積んであるのを横目で見ながら。

このアーカイブについて

このページには、2006年10月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2006年9月です。

次のアーカイブは2006年11月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。