今日は冗長に語りたい気分なので、冗長に語るから、忍耐力のある人は読めばいいのではないでしょうか。とは言っても、冗長なのはいつものことなので、結局いつものエントリと変わらないのでありましょう。
私はちょっとおかしいのではないか、と自分で思うことが時々ある。
おかしいのではないか、と自分で思うと云うことはつまり、自覚している限りにおいておかしくないということなのだけれど、そう考えておかしくないと自分で思ってしまうと、結局自覚していないことになるので、おかしいのかおかしくないのか解らなくなってしまう。
その「ちょっとおかしいのではないか」という一端が例えば、掃除に於いて見られたりする。
私は家事は嫌いではないが、ここで敢えて「私は綺麗好きです」と言うことは差し控えたいと思う。「俺って(私って)綺麗好きでさあ」と人が言っているのを聞いても私は余り良い気はしない。「綺麗好きだから、マニキュア落としから、ガム剥がしのヘラまで持ち歩いています」とでも言うならまだしも、大概はさして興味をひかず、「そうですか」程度の印象だ。それに、その人が綺麗好きかどうかなんて、家にでも行かない限り大した関わりはないのであって、余程親密な関係ならまだしも、大して親しくもない人に綺麗好きアピールをされても困ってしまう。というより、「綺麗好き」というキャラクター付けをしようとする意図が露に見えてしまったりして、少し幻滅してしまう。そもそも、綺麗好きと綺麗好きでない人とは、両方自分の快適なように過ごしているだけなのであって、その環境が綺麗か綺麗でないかは、他人が決めることであるのだから、自分から「綺麗好きで」と言い出すのはおかしい。潔癖症に悩んでいるのでもない限りは。
だから、私は別に「綺麗好きアピール」をしたいわけではなくて、ここで書いてみたいのは、時折顔を出すファナティックとしか言いようのない掃除への意欲だ。
少しばかり汚れが見えても、(綺麗かどうかは他人が決めることだとしたら、自分において少し気がかりは感じる程度ではあっても、と言ってもいい)放置しているような状態に対して、突如としてファナティックな情熱がわきあがる。
こうなるともう、薬局に走って洗剤やらを買い込んで、掃除を始めてしまうのである。
この日はひょっとしたら、二時間以上も風呂掃除をしていたのではないだろうか。
普段はさして気にならないはずの汚れを、親の敵のように、磨き倒す。そして、明らかにバランスを欠いて清潔にされた風呂場を見ながら、満足感の片隅にちらりと「ひょっとしたら私はおかしいのではないか」という思いがよぎるのである。
完全主義と云う言葉はそもそも誤りで、不完全恐怖とでも言うべきネガティブさがそこにはあると、美学芸術学の先生が言っていたが、まさに、不完全恐怖に駆られたファナティックな衝動である。
一心不乱に風呂場を磨く姿は、まるで丸一日洗車を続ける覚醒剤中毒者の病んだ集中力にも通じるが、ファナティックな衝動に駆り立てる正体が薬物のように定まっていないだけに、少し気味が悪い。
思えばこの不完全恐怖に駆られたファナティックな衝動は、私が幼いころから持ち合わせていたように思う。小学生くらいだった頃、洗い物を手伝っていた私は、鉄のフライパンを洗っていた。その鉄のフライパンは、長年使い続けていたもので、「育て」られたそれは、黒光りしていた。使い込んで「育て」られた鉄のフライパンがそういうものだと知らなかった私は、それを、鉄の銀色が出るまで磨こうとしていたのである。まるで狂人だが、金属タワシで必死に「汚れ」を落とそうと磨き続けていた私は、銀色にしなくてはいけないのだという、ファナティックな衝動に駆られていた。黒いフライパンを銀色にしようとする少年の姿は、滑稽というより、むしろ哀れですらある。
この衝動を思い通りに操れるならあるいは、「几帳面」という特長に転化できるのかもしれないが、この衝動が現れる状況には非常に「むら」がある上に、この衝動が役に立つような分野に現れたことが殆ど無い。
矢張り私はちょっとおかしいのだろうか。と思い、この偏執的なエントリを書いてみた。
これを読んで、自分の特異性をことさらに強調してアイデンティティを確立しようとする屈折した意図を見出そうとするなら、それは誤りであると言っておきたい。
何を言いたいのかおぼつかなくなった、このエントリを読んで、貴方はこうでも言えばいいのだ。
「変な奴。きもちわりーよ。」と。
何だこれ。