2006年9月アーカイブ

トム・ヨークのインタビューがNEWS23にて放送されていたようだ。

イデオロギーを全面に押し出すこのメディアにて、

言葉が音楽を台無しにして
言葉がメロディを攻撃してしまったら、音楽は死んでしまう

と答えるトム・ヨークのインタビューを流すことが自己矛盾かどうかは措いても、中々印象深かった。
特に、子供の世代に対してどういう風に世界があって欲しいと思いますか、という質問に、

どんな未来でもいいよ
何かしら未来があれば

と云う答えは印象に残った。


インタビューの内容とは関係の無いところで、違和感を感じたところがあった。
それは、トム・ヨークを紹介するのに、「ロックのカリスマ」と言っていた点だ。
「ロックがもう死んだんなら、そりゃあロックの勝手だろう」みたいに、殊更ロックが死んだとかどうとか言いたい訳ではなくて、何とも違和感のある肩書きだ。
その余りに陳腐化した響き(カリスマ!)からくる違和感は別とすると、私が感じた違和感は音楽を聴く際のプライベートな態度に由来するように感じた。

私はにわかRadio Headファンだけれど、音楽を聴くときは何だかひっそりと、プライベートに聴いているように思う。
プライベートな態度で音楽を味わっているということ、それは、単に独りで聴くということだけではないように思う。
そのことは映画と比べてみるとよく解る。
私は映画を映画館で独りで観ていることが多いが、その時はこのプライベートさは感じない。それは、私以外の多くの観客が居るということが理由ではないだろう。実際、DVDなどで家で独りで観ているときも、そのプライベートさは感じないように思う。
思うに、このプライベートさは、映画と音楽という違いにあるのではないだろうか。
映画と音楽の違い、それは、語りやすさの違いでもある。
映画は語りやすい。台詞があるというだけではなく、映画はそれ自体説明的なものである。いや、私たちは映像に否が応でも説明を探してしまうと言うべきだろうか。全く同じ俳優の表情でも、その直前に来る映像の違いによって、私たちは異なった演技を俳優の表情に観るという実験結果があるが、たとえ説明が無くても、ドキュメンタリーであっても、映画は説明的なのだ。

それに対して、音楽は、説明以前の何かを多分に含んでいる。そのことは、映画と音楽をそれぞれ感想という形で説明する困難さを比較すれば明らかではないだろうか。

勿論、私自身、映画と音楽に対する経験量が絶対的に違うという点はある。しかし、それを差し引いても、音楽は説明以前の何かであるといえないだろうか。

そして、この説明の困難さによって、映画は比較的容易に開かれている印象を受ける。たとえ誰にも話すことが無くても、感じたことを言語化しやすいということ。そのことによって、どこか、共有可能性のある感想を抱くことが出来はしないだろうか。
一方で、音楽は、その感想を言語化することは難しい。説明以前の、何か生のもの。その生のままの一人称的な感想を抱く。勿論、音楽的素養が豊かな人や感性の鋭い人は共有可能性のある感想を抱くことも出来るだろう。しかし、それは映画に比べてとても難しいように思う。

勿論、映画だって言語化して説明できないような、生のものを与えうる。むしろ、それが映画の醍醐味でもある。全てを台詞で説明してしまうという指摘が最近の邦画に対してよくなされるが、そのような説明では回収できない、「映りこんでしまった」もののインパクトは、映画においても強い。

しかし、その比率が、映画と音楽とでは全く違うようにおもうのだ。

だからこそ、音楽を聴いて、感じた、生のものから、プライベートさを感じるのかもしれない。
そして、私が特にプライベートさを感じたのが、Radio Headだったから、「ロックのカリスマ」と云う価値観の共有を前提とした表現に、違和感を感じたのかもしれない。

そんな風に感じた。

そのプライベートさが、言語化されないまま共有される場所。それは或はライブやクラブであるかもしれない。
また、手軽なところでは、ヒットチャートへの同化であるかもしれない。
もしくは、その両者の折衷として、カラオケがあるのかもしれない。

そんな風に考えた。

Radio Headは良いよ。と、言語化できないまま、酷く曖昧に締めておく。

魔墓狼死

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久しぶりに『映画秘宝』を買ってみた。
というのも、町山智浩が『セブン』についての書いていたのと、石井聰互の『狂い咲きサンダーロード』の特集記事が載っていたからだ。
町山智浩の文章はやはり面白くて、内容が非常に充実していた。
『狂い咲きサンダーロード』の特集記事は、DVDボックス発売記念ということで、主演の山田辰夫のインタビュー掲載!だった。
『狂い咲きサンダーロード』は長らくDVD化されていなくて、全然観られなかった。私も、渋谷ツタヤでビデオをずっと借りたかったが、常に貸し出し中で、借りられるまでに2年ほどかかったのではないだろうか。
やっとDVD化ということで、非常に欲しいが、BOXのみでの販売らしい。
DVDBOXの中身の作品自体も非常に興味はあるが、ちょっとセットだと手が出しにくいのも事実。
また観たいなあ。
叶うならば爆音で。
「やってやろーじゃねーの!」
山田辰夫のインタビューによれば、ラストシーンの仁さんの最高の笑顔は、石井聰互が「加山雄三のように」と指示したらしい。まあ、確かに爽やか過ぎる。

他に、ちょっと驚いた記事が。
著作権が切れた映画をgoogle videoで公開しているページがある。
http://www.jonhs.net/freemovies/
『モダンタイムズ』とか『戦艦ポチョムキン』とか『カリガリ博士』とかが観られるんだけれど、このリストの中に元祖ゾンビ映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』がある。
http://www.jonhs.net/freemovies/night_of_the_living_dead.htm
以前初めてこのページを見たときに、どうして1968年の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』があるのだろうと思った。海外の違法ページなのかとも思ったけれど、public domainと銘打ったページに敢えて入れているのが不思議だった。
その謎が、映画秘宝の記事でわかった。

50〜70年前の古い作品が並ぶ中、なぜか『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が! アメリカが89年にベルヌ条約に加盟する以前は、適切なコピーライト表示をしないと著作権が認められなかったそうで、本作も表記を忘れたらしい。うっかりさんのロメロ、バンザイ!

そうだったのか。知らなかった。

kame氏経由で人がまた流れてきたのに、こんなマニアックなエントリを書いてもた。

「身近にこういう文章を書く人がいるんだと思うと、気が遠くなりまする。」って。
「身近にこういう文章を書く人がいるんだと思うと、身の毛がよだつ」じゃなくて?

まあ、そんなこんな。
ようこそストレンジャー。

やっぱり、どんな人間関係もメンテナンス無しには壊れてしまうよな、と雨の所為で呟いてみたのである。

かつてどんな強度の「私たち」であったかに関わり無く、ある程度の期間会わないと、案外脆く風解するものだと思う。
私は訳あって(訳なんてないけど)現在人付き合いのリソース不足からセーフモードの人間関係で生きている。
こうやっていると、かつて結構な強度の「私たち」であっても、そのうち「私たちだった」関係しか持たなくなるのだろうな、と実感を持ってわかる。まあ、セーフモードでなくても、こんなことは自明のことだったのだけれど。

維持したいと思う人間関係は、「メンテ」しなくては維持できないのだ。
"ギブ-アンド-テーク"でも考えたけれど、「私」と「君」の個別性のジレンマを解消して、「私たち」の強度を上げるには、「メンテ」という努力による他ないのだろう。
たとえ恋人の「私たち」でも。

その点で、嘗て私が反吐が出るほど嫌悪した「貴方は人脈という財産をメンテしてますか?」と云うキャッチコピーも、「メンテ」の必要という点で核心を突いているのではないだろうか。
しかし、このキャッチコピーの過ちは、「人材という財産」というところにある。
財産と云う表現が定量可能な経済的価値を前提としていると、プラトニック的に批判したいのではない。人は人間関係によって、様々なモノを得る。経済的価値であったりするし、権力へのコネクションであったりもする。また、承認欲求の充足であったり、「愛」であったり、「友情」であったり、「一緒に遊んでいて楽しい」という感情であったりするかもしれない。
そのような、人間関係から得られるものが経済的価値であるか精神的価値であるかによって、「人脈という財産をメンテ」することが批難されるかそうでないかが区別されるものではないだろう。(勿論、大学という同窓の場を経済的価値で計るという態度に抵抗を覚えるのは理解できるが、あれだけ多い人数を輩出する大学では、それこそ"ギブ-アンド-テーク"の関係を積極的に構築しようとする態度と、旧交を温めなおそうという「ヒューマンな」態度とは矛盾しないだろう。)

「人脈という財産」という表現は、それが経済的価値であるという以上に、それが処分可能だという意味を含んでいる。
そこにあるのは、求めるものが精神的価値であるか経済的価値であるかを問わず、処分可能なモノを吐き出してくれる機能を持った人脈である。
カント風に言えば、「他者を手段として」扱っているということだろうか。
「人脈という財産」という同格の表現には、人材は財産であり、処分可能な何か、精神的な価値や経済的な価値を吐き出す何か、であるという意味がある。
そこでは、人脈・他者は手段に過ぎない。
しかし、この態度が「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」という道徳法則に反しているから批難されるべきだといいたいのではない。私は「人脈という財産」という物の見方を道徳的に批難したいのではないからだ。

では、何が言いたいのか、それは、この見方の貧しさだ。
処分可能な人脈という考え方は、他者の持つ手に負えない他者性を見落としている。
私たちが他者と関わって人脈を築くのは、勿論生存を可能にするためでもあるが、それ以上に他者との境界にしか主体が現れないからだ。
私たちは何かを得るために他者と人脈を築くだけではなく、そうせざるを得ないから、他者と付き合うことを宿命付けられているからこそ、他者と人脈を築くという側面もあるだろう。
この側面を「人脈とい財産」という見方は見落としている。

『ロゼッタ』に引き続き『ある子供』で二度目のカンヌ映画祭パルムドールを受賞した映画監督、ダルデンヌ兄弟は、「孤独な人間は、単純なようだけれど、他人と出会うしかないんだ」とインタビューで答えていた。孤独な人間は、その孤独を癒すために、他人と出会うのではない。そうする他ないから、他人と出会わざるを得ないのだ。

この、否が応でも他者と出会い、個別性のジレンマを解消すべく動かざるをえない宿命、これを見落としているのだ。この衝動は、フロイトが死の欲動と名付けたもの、或は、木村敏によれば、両者は同一の根源であるエロスとタナトスの衝動であるかもしれない。私たちは、そのような思いを、制御して、何かの為に、例えば、個別性を解消しようとして、他者と関わることは出来ない。認識不可能な何かによって、他者と関わらざるをえないのだ。

だからこそ、他者は恐ろしいし、魅力的でもある。

「人脈という財産」という表現が見落としているもの、それは、他者の訳のわからない魅力そのものではないだろうか。
私たちは人脈を、「何かのため」に「メンテ」することもあるだろうが、それ以前に、「そうせざるを得ない」から、或は「そうしたいと思う」から、「メンテ」するのではないだろうか。

カントの道徳法則に違反するという以上に、他者を手段としてしか見られない、「人脈という財産」という見方は、「どうしてかわからないけど、あの人に惹かれる、馬が合う」という目的としての他者との人間関係を見落としている。そして、その人間関係が持つ豊かさもまた。

寺山修司の詩に次のようなものがある。

果物屋の店先には かならず傷のついたリンゴがまじっています
同じ一房の葡萄のなかにも 一粒か二粒の痛んだものがかならずある
人生も同じことです
同じ日に同じ町で生まれても
すべて順調に行く人と 何をやってもうまくいかない人とがある
ここにおさめた傷ついた果実たちを
運がわるかったと言うのは 当っていないでしょう
彼女たちは より深く人生を見つめ
その裏側にあるものまで見てしまったのです
そして
そんな詩を書ける人こそ
ほんとの友だちになれる人なのではなかろうか
(寺山修司 『流れ星のノート』)

「人脈という財産」をメンテしようとする人びとは、さぞかし強固な自己を持っているのだろう。そして、それに基づく強固な操作可能な人脈を構成するのだろう。
しかし、私は、そのような人脈よりも、「その裏側にあるものまで見てしまった」人びとに魅力を感じる。結局は「他人と出会わざるを得ない」と気がついた『ある子供』の主人公のような、脆弱な自己しか持たぬ人物でも、魅力を感じる。

私が「人脈という財産」という表現に嫌悪感を抱いたのは、多分にラクゴシャとしての僻みもあるのだろう。また、デラシネとしてのメンタリティも大きいかもしれない。
私は生理的な欠陥でもあるのではないかと思うほどに、集団に対する帰属意識というものを持てない。そんな自分自身を「傷ついた果実」と言うような自己憐憫のナルシズムは断固拒否したいところではあるが、「傷ついた果実」に魅力を感じることは確かだ。(それでよく「しくじり」もするけれど。)心のどこかにデラシネのメンタリティを持っている人は、同種の人にどこか気がつく。デラシネはデラシネであるがゆえに、「他人と出会わざるを得ない」と知っているのかもしれない。

私は、ラクゴシャとして、デラシネとして、どんな人脈を「メンテ」するべきだろう。

まあ、会いたい人には会うさ、と気楽に考えた秋の夜長の出来事であった。

そういえば古今亭志ん生は「人間には縁というものがある。縁と命があればきっと会える。そのどっちかが無いと会えないんですな。」と言っていたっけ。

テレビジョンが壊れて三ヶ月以上経つので解らないけれど、まだNHKでサラリーマンNEOと云う番組はやっているのだろうか。
この番組を初めて見たのは、毎週放送されるようになった二回目か三回目だった。
まあ、NHKにしては頑張っているのではないかと云うくらいの内容だったと思うが、何故今更この番組の話をしたかというと、この番組のOP映像をネットで久しぶりに観たからだ。

そのOP映像の内容は、警備員姿の宝田明が、Fatboy Slimの"Weapon of Choice"にあわせて踊ると云うものなのだが、どうしてこの映像にしたかの意図がちょっとわかりにくいのだ。

この映像の元ネタとでも言うべきものは、ここで使われている曲、Fatboy Slimの"Weapon of Choice"のPVそのものなのだ。
スパイク・ジョーンズ製作のこのPVは、クリストファー・ウォーケンがスーツ姿で踊りまくるという映像なのだが、そのダンスの振り付けといい、クリストファー・ウォーケンの表情といい、曲調といい、えもいわれぬ不思議さに満ちていて、妙に惹きつけられるのだ。どうやら、2001年のMTVビデオ・ミュージックアワードとグラミー賞ミュージックビデオ部門を受賞したらしいのだが、それも頷ける映像だ。
(参考http://www.astralwerks.com/fbs/woc/)

この映像で何が凄いかと言えば、それはもう矢張りクリストファー・ウォーケンの魅力に尽きる。
あのコワモテのクリストファー・ウォーケンが無表情のまま微妙な踊りを踊り続けるのだから、かなり異様だ。クリストファー・ウォーケンからは黙っていても滲み出てくる狂気が漂っているし、歳にしては意外とダンス上手いし。曲が終わった後に眉間を押さえて座り込む姿のえもいわれぬおかしさは、彼でないとちょっと出ないのだろう。

一応蛇足までにクリストファー・ウォーケンについて説明すると、彼はハリウッドの映画俳優で、マフィア役などのコワモテの役が多い名バイプレイヤーである。個人的に印象が強い役は、『トゥルー・ロマンス』のマフィア役だ。デニス・ホッパーを尋問するシーンは両者の競演がもう鳥肌ものだ。
あとは、『スリーピー・ホロウ』の生首役もこの人だっけ。

そんなクリストファー・ウォーケンの存在感によるところが大きい"Weapon of Choice"のPVなのだけれど、NHKのOP映像は、それを宝田明が演じている。
まあ、なんというか、宝田明と云うのは良いチョイスだとは思うけれど、ちょっと負けてるように思う。何となく親しみやすさが出てしまっているし、クリストファー・ウォーケンの滲み出てくる狂気みたいなものが感じられない。しかも最後に「踊らない?」とか言ってしまっているために、楽しんで踊っているという非常に解りやすい「筋」が見えてしまっていて、訳のわからない魅力が損なわれてしまっている。

この映像をOPに持ってきたのが不思議なのは、なぜ"Weapon of Choice"をそのまま使ったのか、ということ。
似せるのが目的ならば、別に違う曲でも良かったわけで、敢えて和製クリストファー・ウォーケンを強調しなくてもよかったようにも思えてくる。
リメイクですよ、と敢えて言っているということなんだろうか。
微妙な完成度の映像を見せられて、何とも微妙な印象を受ける。ひょっとしたら、このメタな笑いが意図しているところなんだろうか。
だったら素材としてそれ自体面白い"Weapon of Choice"はちょっとハードルが高すぎたんじゃないかな。

と思いながらも、敢えてこれを作ったNHKの気概は結構なものがあると思う。
冒頭の鍵束のイメージはオリジナルだと思うけれど、中々インパクトもある。
まあ、結構頑張ってるよね。
番組自体が今どうなっているのかはわからないけれど。

以上のようなことを思って、色々とFatboy SlimのPVを探して観ていたら、どれも面白い。
ベスト版が6月に出ていたけれど、どうやらDVDも出ているみたいで、そこに色々PVが収録されているようだ。ちょっと欲しいな。

面白かったのは、"Don't Let The Man Get You Down"のPVで、ラストが6パターンくらいあるらしい。
モノクロの映像で、一人の男が釣りに行くシーンから始まる。
"THIS IS DON"
"DON LIKES TO FISH"
というだけのシンプルな文字が出て、続いて
"DON IS A RACIST"
と出る。そして、暫くDONのracistな状況が幾つか映し出される。
そして唐突に、車に跳ねられてDONは死ぬ。
画面には、
"ALWAYS LOOK BOTH WAYS BEFORE CROSSING THE STREET"
の文字。
そしてDonの死体が映ったままで、数秒後にまた文字が出る。
"AND DON'T BE A RACIST"
締めには、
"OR ELSE"
と出て、先ほどのDONが死ぬ瞬間の映像のリプレイ。

これが一つのバージョンで、他のバージョンは何処が違うかというと、DONの死に方だけ。
或る時は、マスクをした不審者に刺されて、画面には
"DON'T TALK TO STRANGERS"
の文字。

或る時は青年に刺されて、
"ALYWAYS PAY YOUR DEBTS"

或る時は馬に乗った甲冑の騎士に跳ね飛ばされて、
"THIS IS HOLLYWOOD, ANYTHING IS POSSIBLE"

或る時は食後すぐにプールに入って心臓麻痺を起こして、
"ALWAYS WAIT 30 MINUTES AFTER YOU EAT BEFORE SWIMMING"

或る時は食べ物を喉に詰まらせて
"ALWAYS TAKE SMALL BITES"

そして、全てその後に、
"AND DON'T BE A RACIST"
"OR ELSE"
で締めくくる。

この監督はスパイク・ジョーンズではなく、Brian Releticと云う人らしい。
まあ、確かにスパイク・ジョーンズみたいな「この人の頭の中どうなってんの」というほどの突飛さはないかもしれないけれど、中々ユーモアがあって面白い。
『マルコヴィッチの穴』を観たときは驚いたなあ。ジョン・マルコヴィッチの頭の中よりも、スパイク・ジョーンズの頭の中が観たいよ。

えっと、何の話だっけ。
そうそう、Fatboy Slimの話。
"YA MAMA"のPVも何だか楽しそうでいいね。
気になったらテキトーに検索すりゃどっかで見れるよ。

今度ベスト盤買ってこましたろかしらん。

Sicilians are great liars. The best in the world. I'm a Sicilian. And my old man was the world heavyweight champion of Sicilian liars. And from growin' up with him I learned the pantomime. Now there are seventeen different things a guy can do when he lies to give him away. A guy has seventeen pantomimes. A woman's got twenty, but a guy's got seventeen. ("True Romance")

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060923-00000004-san-soci

何だかなあ。
この記事は基本的に「大阪オリエンタリズム」に陥っているような気がしてならない。

大阪は振り込み詐欺の被害額が少ない。
その理由は
曰く

大阪人、とくにおばちゃんは、自分のイヤなことはイヤ、とはっきり主張する。話がおかしいと思ったり、疑わしい場合は躊躇(ちゅうちょ)することなく電話の相手に『怪しい』と意思表示できる

曰く
大阪人は日常会話でボケ・ツッコミを楽しんでいるが、実は『ボケ』るには頭の機転が求められる。大阪人はふだんからボケを鍛えているので、予期しない電話にもとっさに対応できる

曰く
商人の街として商売人が厳しい競争を生き抜いてきた大阪では、近所とのコミュニケーションが今でも濃密

被害に遭った人は、疑わしいと思ったけれど、「怪しい」と意思表示できなかったから払ったのではないだろう。疑わしいと思わなかったからこそ、詐欺なのでしょう。

ボケを鍛えているから、予期しない電話に対応できる?テレアポとか苦情処理係とかは大阪人枠でも作った方がよさそうだね。

近所とのコミュニケーションが今も濃密?人口の中心が昔からの長屋街のような下町から、郊外に流れ始めてもうどれくらい経つと思っているんだろう。大阪の住宅地は結構均質化されてきていると少なくとも私は肌で感じる。

これは推測でしかないけれど、結局大阪で被害額が少ないのは、方言の問題に過ぎないのではないだろうか。
東京ではある程度長く東京に住んでいれば、標準語のイントネーションで話すことはそう難しいことではないし、緊張した風の声では誤魔化しやすいかもしれない。
しかし、大阪弁はそうはいかない。東京に出てきた人でも、実家などの故郷に電話する時は可也の確率で大阪弁を話す。これは大阪に限ったことではなく、方言全てに言えるかもしれないが、大阪では特に、大阪出身の相手に対して標準語を話すことは、どこか異質な不自然さを醸し出す(これも倒錯した大阪オリエンタリズムだとは思うのだが)。そのため、大阪出身以外の人が大阪人相手に振込み詐欺を試みることは非常に難しい。
それに加えて、大阪には少々特異な状況がある。それは、「関西弁」と一括りにされる中でも微妙な差異があることである。現在テレビなどで目にしたり、一般的に「関西弁」と認識されている訛りは、主に河内など大阪の南の方の言葉に近い。これは、芸人言葉が河内訛りであったことによって、「吉本」を大きな契機として大々的に発信されたのだろうという分析もあるようだ。
それに対して、大阪の昔からの中心地、例えば船場などでは船場ことばと言われる訛りがある。これは、桂米朝などの上方落語に見られるような言葉であり、河内言葉に比べて少し優雅さを感じさせる。これは、船場が商業の中心地であったことから、京都などとも交流があったことによって、失礼のない丁寧な言葉が形成されたのではないかと言われている。また、他にも、奈良の言葉や神戸(兵庫とはまた違ったりする)の言葉、和歌山の言葉もそれぞれ微妙に違う。
ずっと大阪弁に慣れ親しんできたものは、この違いを肌で感じる。河内言葉だな、とか、船場言葉だな、とか感じるのではなく、どこか違う、と感じるのだ。
私は大阪の下町で小学校の六年間を過ごし、その後中学高校と奈良の郊外に通っていたから、この違和感を肌で感じた。友人と話しても、この違いを感じるという人は何人かいた。どこか違うな、というのは結構繊細に感じるものなのだ。
結局、このような微妙な差異が大阪弁の中に存在するから、家族の声かどうかを聞き分けやすいというだけの話ではないだろうか。


この記事の根底にあるのは、東京の異界としての大阪である。そこでは、ボケとツッコミ、緊密な人間関係、治安の悪さ、等々。確かにそれらは一面としてはある。しかし、往々にしてそれらの側面は、異界としての性質を引き出すために、誇張されたオリエンタリズムとしての一面を持っている。
そして更に厄介なのは、このオリエンタリズムに、東京に出てきた関西出身者も加担しやすいということだ。大学に入って特に多いと感じたのは、東京に出てきてアイデンティティを確保するために、より「関西人」となるという傾向に陥っている人びとだ。そこでは認知されやすい「関西人」としての記号が必要になる。当然、話す言葉は河内弁を中心とした「関西弁」のイントネーションに無意識のうちに近づいてくる。関西に居る時はマクドナルドを何て呼ぶかなんて大して拘ったこともないのに、東京ではことさら「マクド」と言うのが譲れないポリシーだと言ったりする。書き言葉では特に顕著で、メールやブログなどで、ずっと関西に居る人が比較的自然な話し言葉をそのまま文字にしたような文章をかけるのに対して、オリエンタリズムに陥った「関西人」はある種の型に嵌った「関西弁」を記述する。私自身、なぜ大阪弁で文章を書けないかと云うと、「関西弁」に陥ってしまうことが怖いからでもある。例えば、町田康は軽々と「なっちゃなあ」(夏であることよのう)と記したが、多くの「関西人」はこれを「夏やなあ」と書くだろう。ここに町田康の言語感覚の鋭さがあると私は思うのだが、これはここでは措こう。
兎に角、何が発端なのかは解らないが、大阪にことさらに異界を見ようとする動きが強いように思う。そしてそれは無意識のうちに、「関西人」のアイデンティティ確立の為に利用された「関西」のイメージの普及によって一層強化される。

関西は確かに文化的に東京とは違う。しかし、長野や沖縄や青森や色々な土地も文化的な違いはあるだろう。それを、ことさらに大阪の異界性だけを際立たせて見ているようでは、どうにも偏狭な態度のように思えてならないのであるが。

みんなもっと、桂米朝の落語を聞いて、船場言葉の優美さを知ればいいのに、とイイカゲンに結んでおくことにする。

居酒屋の話

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http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060916k0000e040059000c.html
「いせや」なくなっちゃうのか。
結構好きだったけれど、老朽化じゃしょうがないな。

居酒屋繋がりで、
http://www.cafs.jp/web/shopinf/umetsubaki_ginza.php
此処行ってみたい。
梅酒居酒屋。
新宿にもあるのか。

個人的には、梅酒は食事中と云うよりは、食後に飲みたい。
ある程度腹が満足して、酔いも少し回り始めたくらいに、じっくりと腰を据えて飲みたい。
となると、ちょっとほの暗いバーのような所が良いのだけれど、こう云う店も意外と良いのかもしれない。

まあ、銀座とか六本木とか新宿とかにあるし、女性受けもよさそうなので、「切り札」として使い得る店かもしれない。

the sun is sinking

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060918_1803~002.jpg

空が良い色をしておった。
嵐の後は、燃えるのだろうか。

太陽が実際に時々刻々と動いているのを目撃したのは、確か小学校の高学年の放課後だった。
それまで太陽は、いつの間にか動いているものであって、動いている姿そのものに気がつくなんて無いと思っていた。しかし、その時は、何かで放課後まで教室に残っていて、丁度夕日が沈むのを見たのだ。太陽は確かにゆっくりと沈んで行き、ビルの陰に隠れていった。ゆっくりと、ゆっくりと、ただし、確かに見て取れる現在進行形の動きで。私はそれを見て、思ったよりもその速さが速いのに驚いた。

教訓は二つ。
一つ。太陽は沈むまでその速さを見せない。
一つ。その速さは思ったよりも速い。

Tired of lying in the sunshine
Staying home to watch the rain
And you are young and life is long
And there is time to kill today
And then one day you find
Ten years have got behind you
No one told you when to run
You missed the starting gun

And you run, and you run to catch up with the sun, but it's sinking
Racing around to come up behind you again
The sun is the same in a relative way, but you're older
Shorter of breath and one day closer to death

Every year is getting shorter
Never seem to find the time
Plans that either come to nought
Or half a page of scribbled lines
Hanging on in quiet desparation is the English way
The time is gone
The song is over
Thought I'd something more to say
(Pink Floyd "Time")

人情と紙風船

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何やかんや言いながら、またもや新文芸坐へ駆けつけてしまった。

『赤西蠣太』
片岡千恵蔵が二役やっていることに気がつかなかった。
凄い役の幅だ。
リズムカルな映像は観ていて楽しく、テンポもとてもよい。
予想もつかないストーリーだけれど、ああ、何となくとてもいいなあ、とそんな具合。

『人情紙風船』
「人情」は一体どこにあるのだ。と思った。
冒頭の騒動の描き方や会話が、落語の世界のようで、こういう軽妙なテンポで明るく話しが進んでいくのだろうと思った。
しかし、その冒頭の事件が、侍の首括りであり、それを決して映さず、しかも、それを人びとが日常の中に受け入れている状態、そこに潜んでいる異常さに気がつくべきだったのかもしれない。
嫌でもその暗さはじきにその姿をあらわにし、画面を覆いつくす。
全く救いもカタルシスもない。ニューシネマにはあった、アンチ・ヒロイズムと云うヒロイズムすら、此処にはない。黒澤明の『どん底』にあった三井弘次に象徴されるニヒリズムは、ネガとしてポジを暗示させていた。
しかし、『人情紙風船』には何があるだろう。
ただ、全ては河原崎長十郎演じる海野又十郎の曖昧な、空虚そのもののような、闇に吸い込まれていくかのようだ。
『浮雲』では、有無を言わさずぐいぐいと深みに引っ張り込まれる感覚が、どこか倒錯した快感を感じさせた。しかし、『人情紙風船』では、気がつけば、ぽっかりと闇に飲み込まれてしまっている。
いつのまにか起こった価値転倒に、ただただうろたえるばかりだ。
映像がまた、美しいだけに、ひたすらに救いようもない。
しかし、それだけに抗いがたい魅力がある。
なぜだろう。
この映画に比べれば、ラース・フォン・トリアーの描く「イヤな」世界が、可愛く見えるほどだ。

こんな映画と『百万両の壺』のような映画とを両方撮るような監督の才能がどれほどのものだったのかは三本しか残っていないフィルムからは想像を絶する。
「『人情紙風船』が遺作ではちと寂しい」と山中貞雄自身は出征中の病床で書き残したそうだ。
私たちは二重の意味で山中貞雄を失ってしまっている。一つは、『人情紙風船』以降のあったであろう名作を。もう一つは、山中貞雄の最高傑作とも言われる『街の入墨者』を始めとする、残り23本のフィルムだ。
小津安二郎の『突貫小僧』のようにフィルムが発見されることを願うのみだが、現在の山中貞雄の知名度では厳しいのかもしれない。


『人情紙風船』に打ちのめされて帰ってきてネットで情報を探していたおりに、ふとmixiにアクセスした。
そうすると、どうやら今日は私がかつて所属していたサークルのOBOG懇親稽古があったようだ。
全く知らなかった。
まあ、昨日観た『河内山宗俊』の金子市之丞の台詞を借りて、こう嘯いておこう。
「何となく生きておりますから、ご安心ください それではまた」
ただ問題は、金子市之丞のように、次のように言える日が来るかどうかだ。
「今まで無駄飯ばかり喰ってきたけれど、やっと一人前になれた気がするよ」
果てさて、原節子は何処に居るのだろうかね。

何やかんや言いながら、結局新文芸坐へ駆けつけてしまった。

『丹下左膳餘話 百万両の壷』
これを映画館で観るのは確か3度目だった。
何度観ても笑えて、何度観ても心温まる。
素晴らしい。
「そこもあるか」と云う台詞が出てくるけれど、今の人は「それもあるか」と言う。
言葉は変わって行くのだな。
そしてやっぱり、沢村国太郎の柳生源三郎が素晴らしい。憎めない三枚目。

『河内山宗俊』
これは二度目か。
やっぱり原節子は綺麗だった。
そして、加東大介は女衒役が似合いすぎる。このときは市川莚司と云う芸名だったらしい。
『百万両の壷』と同じく、プロットは予測もつかない方向へと流れていくのだが、どこか不思議な印象を受ける。
小柄のエピソードをメインに饐えれば、『百万両の壷』のような明るい話として、完成度の高いものは出来たのだろう。しかし、それをしないで、敢えて河内山宗俊と金子市之丞を死に向かわせたところに、意地のようなものを感じた。意地というと少し違うか。何か、ぞっとしないもの、安易と陳腐を期待する気持ちを裏切る、何か不穏なものを其処に感じた。
相変わらず、どぶを走る河内山宗俊を横から捕らえたショットが格好よすぎる。


少しく無茶をして観に行ったが、とてもよかった。
映画館の闇に身を浸すと、心の毛穴が開く。

最近あったこととか。

army.milドメインからのアクセスがあって驚いた。
アメリカ陸軍…。
多分日本のどこかの基地からのプライベートなアクセスなのだろうけれど。

涼しくて心地よい。
夏は嫌いではないが、苦手なので弱ってしまう。
一年で一番秋が好きだ。
これから寒くなるというのも良い。
春はこれから暑くなってしまうので、少々評価が下がるものとす。
ただ、花見での加点は有。

ネットで、私の実家近くの駅が、ゴキブリの密生地として話題になっていた。駆除オフ会なるものまで開催されたそうだ。
「なんだって、今日はお前が生まれた日かい おまえ、生まれたのかい」
「生まれたじゃあネエか」
「うそつけ。生まれる訳はねえや。裏のどぶから湧いたろ。」
と云うのは柳家小さんだったと思うけれど、私もこのどぶのような一帯を幼少のころからうろうろとしていたようなわけで。
色々と思うところはあるけれど、今度書こうかな。
私小説風になってしまいそうで、少々躊躇いがち。ガチ。

あ、そうそう。唐突に映画の話をするけれど、明日(9/16)に新文芸坐で素晴らしい映画をやる。
此処でも以前触れたかもしれないが、『丹下左膳餘話 百万両の壷』だ。
餘話と云うのは、新字で書けば余話のことである。なぜ余話とついているかというと、山中貞雄がそれまでの丹下左膳のイメージを一新してしまうような、コメディ作品に仕上げたため、原作者の林不忘らからクレームがついたからである。そのため、正規のシリーズとは別の作品であるというような意味合いを込めて、「余話」とつけられたという経緯がある。
宮崎駿がルパン三世のTV版エピソードとして『死の翼アルバトロス』と『さらば愛しきルパンよ』を撮ったら、イメージが違いすぎるといってボツにされそうになったのと同じようなものだ。
宮崎駿のルパンもそうだったが、皮肉なことに、丹下左膳シリーズで一番有名になったのは、この山中貞雄の『丹下左膳餘話 百万両の壷』だったのである。
いや、この作品は、丹下左膳シリーズのみに止まらず、日本映画史にも燦然と輝く傑作なのである。
スタンダードの画面の中で所狭しとピョンピョン飛び回る大河内傳次郎は台詞が不明瞭でも兎に角おかしいし、ストーリーも予想もつかない方向に転がっていき、全く飽きさせない。逆手の手法による笑いは、現在でもなお面白いし、途中に心に迫るやさしさも、冷やりとする残酷さも、あったりする。
これを撮ったのが26歳というのだから、驚くばかりだ。
因みに、監督の山中貞雄は戦病死にて29歳で没している。現在フィルムが残っている作品は、『丹下左膳餘話 百万両の壷』と『河内山宗俊』と『人情紙風船』の三本のみ。
しかも、確かDVDやビデオはレンタルでは扱っていなかったように思う。
はっきりと断言しよう。あなたが今まで観てきたどの映画と比べても、この映画が見劣りすることはありえないと。
作品の性質こそまるで違えど、「おもしろさ」という曖昧な基準においては、私は『七人の侍』と比べても遜色はないと思っている。
ほんと面白いよ。
明日同時上映の『河内山宗俊』には、若き日の原節子が出ている。これがもう、絶世の美女過ぎて笑える。状態の余り良くないフィルムのなかで、何か光っておるんだから、凄い。
このとき16歳。
まあ、よかったら観に行ってみてよ。
私は行けなさそうだから、会う心配もないよ。
http://www.shin-bungeiza.com/index.html

まあ、そんなこんな。

”ギブ‐アンド‐テーク”の続きを書きました。

誰も読んでないんじゃないかと思うことしきりでございます。

それでも構わないのです。これこそが私のタートの在りかたなのですから。

タート万歳。

明日の夜にアップすると言いながら、お前は自転周期何時間の惑星に住んでいるんだ、という感じですが、とりあえずある程度までは書いてみました。色々と話が飛んでいる気もしますが、無い知恵絞って書いてみました。
よかったら読んでみてください。

”ギブ‐アンド‐テーク”を日本語で言うと何に当るのか、まで書いたのですが、そこから肝心の「愛」まではまだ書けていません。この”ギブ‐アンド‐テーク”考を踏まえて、書きたいと思うので、コメントの返信もそれまでお待ち願います。例のごとく「乞わず、ご期待」にて。

只今無い知恵振り絞って"give and take"について考えております。
少し書き始めたところ、長くなりそうなので、もうちょっと待って下さい。
コメントくださったかたへの返信も、その時に致します。

明日の夜までには書き上げられると思うので、「乞わず、ご期待」ということにしておきます。

kame氏の所から多く人が流れてきて驚いた。

リピーター率の少ないwwwへようこそ。
此処は、極少数のリピーターと、「清末法制」「モルドヴァワイン」「アヘン戦争 万国公法」「イコノロジー 歴史画」などの検索フレーズで迷い込んだストレンジャーが訪れる、boring wwwです。

さて、国家の品格関連に付け足そうとしていた文章を引いておく。

 理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らし出す。
(中略)
 それゆえ、世間にひろく流布している経済学批判の多くは、まったくの的外れである。それらはたんにひとびとの日常的な経験をそのままくり返すだけの批判でしかない。いわく、現実の人間は経済学が想定しているほど合理的ではない。いわく、現実の人間は経済学が想定しているほど利己的ではない。いわく、現実の市場における価格は経済学が想定しているほど自由には上下しない。いわく、現実の市場における資本や労働は経済学が想定しているほど自由には移動しえない。いわく、……。それらは、真の理論とはなにかということを理解しておらず、したがって、アダム・スミスの偉大さも理解していない。
 理論の批判は、理論によってしか可能ではない。そしてそれは、それまでの理論が「思考せずに済ませていたこと」を思考することによってのみ可能なのである。
(岩井克人 『二十一世紀の資本主義論』)

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