トム・ヨークのインタビューがNEWS23にて放送されていたようだ。
イデオロギーを全面に押し出すこのメディアにて、
言葉が音楽を台無しにして
言葉がメロディを攻撃してしまったら、音楽は死んでしまう
と答えるトム・ヨークのインタビューを流すことが自己矛盾かどうかは措いても、中々印象深かった。
特に、子供の世代に対してどういう風に世界があって欲しいと思いますか、という質問に、
どんな未来でもいいよ
何かしら未来があれば
と云う答えは印象に残った。
インタビューの内容とは関係の無いところで、違和感を感じたところがあった。
それは、トム・ヨークを紹介するのに、「ロックのカリスマ」と言っていた点だ。
「ロックがもう死んだんなら、そりゃあロックの勝手だろう」みたいに、殊更ロックが死んだとかどうとか言いたい訳ではなくて、何とも違和感のある肩書きだ。
その余りに陳腐化した響き(カリスマ!)からくる違和感は別とすると、私が感じた違和感は音楽を聴く際のプライベートな態度に由来するように感じた。
私はにわかRadio Headファンだけれど、音楽を聴くときは何だかひっそりと、プライベートに聴いているように思う。
プライベートな態度で音楽を味わっているということ、それは、単に独りで聴くということだけではないように思う。
そのことは映画と比べてみるとよく解る。
私は映画を映画館で独りで観ていることが多いが、その時はこのプライベートさは感じない。それは、私以外の多くの観客が居るということが理由ではないだろう。実際、DVDなどで家で独りで観ているときも、そのプライベートさは感じないように思う。
思うに、このプライベートさは、映画と音楽という違いにあるのではないだろうか。
映画と音楽の違い、それは、語りやすさの違いでもある。
映画は語りやすい。台詞があるというだけではなく、映画はそれ自体説明的なものである。いや、私たちは映像に否が応でも説明を探してしまうと言うべきだろうか。全く同じ俳優の表情でも、その直前に来る映像の違いによって、私たちは異なった演技を俳優の表情に観るという実験結果があるが、たとえ説明が無くても、ドキュメンタリーであっても、映画は説明的なのだ。
それに対して、音楽は、説明以前の何かを多分に含んでいる。そのことは、映画と音楽をそれぞれ感想という形で説明する困難さを比較すれば明らかではないだろうか。
勿論、私自身、映画と音楽に対する経験量が絶対的に違うという点はある。しかし、それを差し引いても、音楽は説明以前の何かであるといえないだろうか。
そして、この説明の困難さによって、映画は比較的容易に開かれている印象を受ける。たとえ誰にも話すことが無くても、感じたことを言語化しやすいということ。そのことによって、どこか、共有可能性のある感想を抱くことが出来はしないだろうか。
一方で、音楽は、その感想を言語化することは難しい。説明以前の、何か生のもの。その生のままの一人称的な感想を抱く。勿論、音楽的素養が豊かな人や感性の鋭い人は共有可能性のある感想を抱くことも出来るだろう。しかし、それは映画に比べてとても難しいように思う。
勿論、映画だって言語化して説明できないような、生のものを与えうる。むしろ、それが映画の醍醐味でもある。全てを台詞で説明してしまうという指摘が最近の邦画に対してよくなされるが、そのような説明では回収できない、「映りこんでしまった」もののインパクトは、映画においても強い。
しかし、その比率が、映画と音楽とでは全く違うようにおもうのだ。
だからこそ、音楽を聴いて、感じた、生のものから、プライベートさを感じるのかもしれない。
そして、私が特にプライベートさを感じたのが、Radio Headだったから、「ロックのカリスマ」と云う価値観の共有を前提とした表現に、違和感を感じたのかもしれない。
そんな風に感じた。
そのプライベートさが、言語化されないまま共有される場所。それは或はライブやクラブであるかもしれない。
また、手軽なところでは、ヒットチャートへの同化であるかもしれない。
もしくは、その両者の折衷として、カラオケがあるのかもしれない。
そんな風に考えた。
Radio Headは良いよ。と、言語化できないまま、酷く曖昧に締めておく。

