2006年8月アーカイブ

『国家の品格』を読んだ。

論理は悪いものらしくて、情緒は素晴らしいものらしいので、この文章も情緒的に書こう。

読後感はただ一つ、醜い。

文章の切れの悪さ、切り口の斬新さの欠如、ステレオタイプ、女性関連の卑近なユーモア。醜い。
こんな文章で美を語られてもねえ。

生理的嫌悪感はこのくらいにしておくとして、それこそ論証に耐えうるものではないし、それを意図したものでもないだろうから、一々批判はしない。

言葉の定義が曖昧すぎるし、恣意的に過ぎる。
この人の言う「論理」は一体何のことだったのだろうか。
イデオロギーのことだろうか。
だとしたら、「或るイデオロギーを批判するには、それ自体一つのイデオロギーとならざるを得ない。そうでなければ問題にならない程度の反論にしかならない」とヒビノ先生が言っていたっけ。

結局のところ、現在の様々な問題を論理の欠陥であると指摘して、論理が悪いと言う。そして、それに対して曖昧な言葉をもってきて、曖昧に武士道らしきものとつなげる。それだけじゃないのか。

私は、市場万能主義にも反対だし、小学生の英語教育にも反対だ。金にならない基礎学問が重要だとも思っているし、役に立たない教養も大切だと思っている。
けれど、この本を読んでいて嫌悪以外の感情を抱かなかった。

その理由は、結局、不寛容への嫌悪ということなのだろう。
この文章中でしばしば用いられるレトリックは、日本の素晴らしさを語るのに、他のものをけなすという形をとっている。日本人には解る○○が外国人には解らない、等。しかし、外国人には解る○○が日本人には解らない、という美は無いのだろうか。結局この人が言いたいことは、自分と同じ価値観で埋め尽くされれば良いということではないのだろうか。21世紀はローカリズムの時代だといっておきながら、日本人の伝統的価値観は普遍的なものだから、世界に広げるべきだ、と言っている。この根本的な不寛容に虫唾が走ったのだろう。
日本は美しい。しかし、カナダだってアメリカだってイギリスだってインドだって、別なあり方で美しいじゃないか。私はそう思う。
この人の文章を読んでいると、日本酒を飲んで「ああ、日本人でよかったあ」なんて言ってるオヤジを見ているようで、嫌なのだ。ロシア人だってウォッカを飲んで「ロシア人でよかったあ」と思うだろうし、フランス人だってワインを飲んで「ああ、フランス人でよかったあ」と思うだろう。
四季だってそうだ。
最近読んで感心した文章に次の様なものがある。
http://diary.nttdata.co.jp/diary2006/08/20060821.html

 職人も客も、四季があるのは世界で日本だけであると、なかば本気で思っている。考えるまでもなく、北半球の中緯度に属する国はどこにでもはっきりと四季があり、陸地の総面積は少ないものの、それは南半球の国にもあてはまる。アメリカ人は鮮やかな紅葉に秋の到来と、やがて来るクリスマスのことを想い、フランス人であれば焼き栗の香りに冬を抱きしめる。

「日本には四季がある」という定型のような言い方は、けっこう怖いことなのではないか。そしてそのイメージだけの季節の背後には、必ずといっていいほど、消費活動が貼りついている。


私は、アメリカの紅葉が単色だから美しくないとか、フランスの栗が美味しくないとか、そんな風に見たくはない。自分の美的感覚が唯一のものであるとするのは、想像力の欠如に他ならず、美とは程遠いものではないだろうか。私は美とは生活を豊かにするものだと思う。
この本で述べられているようなステレオタイプの美的感覚が席巻した価値観は豊かだろうか。

周りが皆この著者のような価値観を押し付けてくる社会は、私は生きにくいと思う。
それは私が、この本で無価値で張り倒すべきといわれている「根無し草」に深く共感する価値観の持ち主だからだろう。
しかし、「根無し草」がなければ、ランボーは生まれただろうか。故郷を憎んだ大江健三郎は?故郷の南部の悲惨さを描き続けたフォークナーは?
彼らは無価値な根無し草だったのだろうか。

駄目なものは駄目、ということが必要だと著者は言う。
確かにそれはその通りだろう。
しかし、何故駄目なのか、を問うことを止めてはいけない、と私は思う。
何故自殺してはいけないの、と問う人に、駄目だから駄目だ、と言えるだろうか。
駄目なものは駄目、と解っていながらそれでも駄目に堕さざるを得ない人。
その人々を犠牲にするよりは、駄目でもいいじゃん、と言いながら、何故駄目なのか、を問い続ける社会の方が、私は暮らしやすそうだな、と思うのだけれど。

想像力を排して、周りを貶して、得られるものが本当に祖国愛なのだろうか。

最近聞いた名言に次の様なものがある。

自分と対等で、give and takeで居たいと思っているうちは恋なのかな。恋しているうちは相手より自分の方が大事。愛に変わると相手の方が大事になるんだよね。

本当の祖国愛とは一体なんだろうか。

ちなみに、この名言の主は、前田健である。

公共貸与権

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司書講習を受けている人と少し話していて、公共貸与権のことを少し考えた。

公共貸与権とは、図書館での貸し出し回数に応じた補償金の支払いを受ける著作者の権利のことだ。日本では導入されていないが、ドイツ、イギリス、フランスなどでは導入されている。アメリカは導入していないが、EU諸国では導入の動きが強いのだそうだ。
とはいっても、財源や根拠法など、そのシステムの在り方は国により様々で、対象となる著作物も一様に決まっているとは言えない状況にある。

日本では、出版業界が不況であることや、著作権意識の高まりから、作家や出版業界から導入が望まれている。
一方図書館側は、補償金の財源が図書館財政から賄われるのであれば、図書館財政を逼迫させることが確実であるとして、早急な導入には消極的である。

作家では、楡周平や馳星周などが積極的に発言しているようで、著作者側からの意見の中にはこのままでは図書館は「無料貸本屋」では無いかとの批判もある。
この批判の背後には、図書館がベストセラーを多く購入し、そこに予約が殺到しているとの事情があるようだ。

確かに、予約が殺到するからといって、ハリーポッターばかり何十セットも購入されて無料で貸し出し続けられたのでは、確かに著作者の損失も相当なものだろう。
だからといって、早急に公共貸与権を導入すればよいというものでもない。何より、図書館の予算が限られている中で、それを導入すれば、図書館制度自体の死活問題に関わる。小さな政府を目指す現在の流れの中で、公共貸与権の導入がどのような結果をもたらすかは想像に難くない。特に地方などでは、図書館への予算さえ充分にさけていない状況で、果たして、直接に図書館への予算とは別に、国や地方公共団体が公共貸与権への補償金を支出するだろうか。図書館は、文化的な生活の質を保証するものとして、必要不可欠のものと言ってもよい存在だ。現在の図書館制度が果たして公共貸与権への導入に耐えうるものか、それを考えなくてはいけない。
さらに、著作者側の利益を得られないのは、図書館制度の所為だというのにも疑問が残る。楡周平は、図書館での予約数を基準に損失を計算しているようだが、無料だから予約をしている人々を全て購買可能性のある者と見るのは少しおかしいのではないだろうか。本当にそこまで図書館制度による損失は大きいのだろうか。例えば、ブックオフの存在や、再販制度の問題、様々な理由は考えうるはずだ。
そもそも、出版業界や作家が経済的に苦しいということと、著作権の保護は直接にはつながらないだろう。出版業界が不況だから、その利益を害している図書館から利益を得れば良い、というのは些か短絡に過ぎないだろうか。それで図書館制度自体が衰退した場合、結局は文化レベルの低下を招き、角を矯めて牛を殺すということになるのではないだろうか。


とは言っても、図書館制度が現状のままで良いわけではない。どう考えても、ベストセラーばかり幾つも購入するのはおかしい。
予約が殺到するから、図書館側も購入に至るのだろうが、どうもおかしいような気がする。私が違和感を感じるのは、図書館というと書架を連想するからで、本屋の書架と図書館の書架は必然的に異なるものだという印象を持っているからだろう。本屋は比較的短期的な視野の書架を、図書館は比較的長期的な視野の書架を、という風に捉えているのだが、どうやら最近はそうでもないようだ。図書館とベストセラーが繋がりにくいと会話の相手に話すと、それは、最近の本は予約で回ることが多い為、開架に並ぶことが無いためらしい。つまり、ベストセラーを図書館で求める人は、書架を見て本を決めるのではなく、予め読みたい本が決まっていて、それを予約する、と云う形で回っているということだ。
もしこの予約数が図書館の利用数の相当数を占めているとすれば、矢張り違和感を感じる。なぜなら、図書館は既に書架という「場」ではなく、「機能」として見られているからだ。機能供給型の行政の在り方が過剰に進んだ一例と見ることが出来ないだろうか。この辺は論じられるだけの確信もまだないので、これからも考えておこう。

ともかく、ベストセラーを多く購入するというのは、利用者の声を反映したものらしい。だとすると、利用者の期待に応じられるように、という図書館の方針はそれとして在り得るだろう。しかし、本当にそれだけで良いだろうか。行政はサービスであるとは思うが、単純なサービスだけで良いのだろうか。
中山間地での図書館の実情は酷いもので、人々がその酷さすら認識していないところに問題があると野田知佑が確か書いていた。都市部の図書館も、中山間地の図書館とはまた違った意味での酷さが存在しているとは言えないだろうか。
教養の意味が見直されている中で、知的インフラとして図書館の持つ意味は大きい。その図書館が、単純なサービスという機能のみに捉えられている現状に甘んじていて良いのだろうか。場として機能していく図書館であるということが必要なように思う。それがどのような具体的方策をとるべきかということは考え付かないのであるのだけれど。

ベストセラーばかり購入しているという現状へは、著作者の利益を損なっているという視点からの批判ではなく、図書館制度の在り方、つまり、人々の知的インフラへのアクセスの在り方という視点から考えられるべきではないかと私は思う。
この視点から見ると、結局のところ、出版業界が不況だといわれるのも、教養の危機が叫ばれるのも、根本は同じなのではないだろうか。

人々の知的インフラへの捉え方、教養の捉え方、書物への捉え方、それらの現状と行く末を考えなくてはいけないだろう。余りに大袈裟に大上段に構えているようだが、それくらいの巨視的な視点で見ないと、公共貸与権の導入というのは危険を伴うように思う。

じゃあどうすればいいんだよ、と言われると、困る。

困るけれど、このまま小さな政府で貫き通せば、文化的なレベルが危ういということは、考えられる気がする。

難しいね。

http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060616102155
先日プライスコレクションに行ったおり、『麦雀図小襖』と云う絵があったのだが、それを観て
―この雀は死ぬぞ―なんて嘯いてみた。『抜け雀』を気取ったところで、所詮は『やかん』の私。

『抜け雀』は古典落語の演目で、漂泊の絵師が衝立に描いた雀が抜け出ると云う話だ。その終盤で絵師の師匠が、籠を描き加える、と云う筋で、その時に云うのが―この雀が死ぬぞ―なのである。
なぜ死ぬかというと、それは飛び回ったままで停まるところがないからだそうで、―飛び出るほどの力を持った雀じゃ、力が尽きるといずれ死ぬ―ということだそうだ。

それで、この『麦雀図小襖』はフラットな照明で照らされていたのだけれど、これがひょっとして、それこそ『抜け雀』の宿屋のように朝の雨戸の隙間から漏れる光に照らされたりしたら、飛び出るように見えるのかもしれないな、などとも思いもした。
尤も、『抜け雀』の衝立の雀は、墨で描かれているのだから、白黒であるのに対して、この『麦雀図小襖』は金箔の貼られた障子なのだから、自ずと性格は異なるだろう。それでも、白黒の日本画であっても、プライスコレクションの照明では色々な表情を示していたように、飛び出るように見えるということは、全くの荒唐無稽ということでもないのかもしれない。

というように考えて、―この雀は死ぬぞ―なんて嘯いてみたのだけれど、よく観ると裏側にはきちんと麦の穂が描いてある。ああ、これだと死なないねえ。なんて思って、これじゃあ『やかん』だね。

『やかん』も古典落語の題目で、知ったかぶりをする無学者の話で、寄席なんかじゃ知ったかぶりの客のことを「やかん」と言ったりするのだとか。

まあ、それもこれも含めて、「やかん」の私。

若冲の黒

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プライスコレクションを観て来た。
目的は矢張り目玉の伊藤若冲だったわけだけれども、実際観てみると驚いたことが色々とあった。

実物を観るまでは、若冲と云えば鶏、ということで、エネルギー溢れる鶏の印象から、鮮やかな色遣いという印象があった。喩えるなら、鶏の鶏冠のような。

しかし、実際に観てみると、印象が強いのは黒だった。
何と云うか、黒がとても深いのだ。
例えばこの作品、http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060515100355
鮮やかな赤の色遣いが美しいが、それ以上に黒が際立っているように感じた。
赤や茶色や白の細やかな色遣いと線は、写実的ではあるのだが、その構図の妙と背景の松の枝などの大胆なデフォルメとによって、同時にどこか独特の造形的な面白さが感じられる。細やかな描写と大胆なデフォルメ、その両者が同時に迫ってくるのだが、その架け橋になっているのが、黒の深さのように感じた。墨によるグラデーションだからかは解らないが、黒によって、すっと背景よりも向こう側、どこか深くに図像そのものが潜りこんでいくような、そんな感覚を持った。
この黒は、濃いというよりも、深いという色合いだったように思う。濃いというと、どこか厚塗りのような感覚があるが、これは、どこか深く深くに浸透していくような、そんな黒だった。
それが最も印象的だったのは、黒一色で描かれていた、『花鳥人物図屏風』(http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060509100321)と『鶴図屏風』(http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060510095359)だ。
『花鳥人物図屏風』は、墨のグラデーションが美しく、深い黒が斯くも鮮やかであってよいのだろうか、と驚いた。
『鶴図屏風』は、その線の迷いの無い美しさが凄い。時に細く繊細に、時に太く大胆に、それらのつなぎ目が全くないように、自由闊達に線が走っている。その疾走感はどこか涼やかさすら感じた。そして、鶴の羽の端の方の深い黒が、大胆なデフォルメの図像的な味わいを、浮き上がらせること無く、静かさをもたらしているように感じる。
若冲の黒、凄いよ。

他に非常に印象的だったのは、『雪中松に兎・梅に鴉図』(http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060627095340)だ。
このかっこよさは一体なんだろうね。驚くばかり。とんでもねえや。

また、興味深い展示方法だったのが、照明だ。移ろい行く光の下で観賞するというコンセプトのもとで、光源の色と方向が徐々に移ろいゆく。
その中で、金泥や金箔は驚く程に多彩な光を見せる。今まで金屏風の金箔や金泥の部分は、どこか平坦なものだと思っていた。しかし、絵の具との光の反射の仕方の違いによって、とても豊かな情感を作りだすということに驚いた。
以前森美術館で観た、『杉本博司 時間の終わり』展で、平安貴族が観た光を再現する、と云うコンセプトのもとで、自然光に照らされる三十三間堂の写真があった。また、能の舞台も、自然光で観賞するというコンセプトから、日中は窓から日光を採りこんでいたようだが、フラットな光との比較と云う点では、時間がかかりすぎ、解りにくかった。
今回、自然光ではないにしても、多彩な光で作品を照らすことによって、驚く程にその表情を変えて見せたのは非常に新鮮だった。昔の人々は、フラットな蛍光灯では物を見ていなかったのだなと、しみじみと思った。

そこで、はたと思い浮かんだのが、数年前の京都観光での体験である。妙心寺法堂の雲竜図、八方睨みの龍の迫力に私は感動したのだが、それと比較して、建仁寺法堂の双龍図は少々迫力に欠けるように感じた。妙心寺の雲竜図は狩野探幽の作、建仁寺の双龍図は創建800年を記念して現代の日本画家小泉淳作が描いたものだ。勿論、現代に作られた双龍図の方が、色も綺麗だし、デザインも優れているように感じた。しかし、どこか、八方睨みの龍とは違うのだ。それが何かがとても不思議だったのだが、今考えると、それは光の違いだったのかもしれない。
確かな記憶ではないのだが、私はNHKで小泉淳作が龍の絵を描いているのを見たように思う。確か下書きだったが、あれだけ大きな天井画を描くために、紙をつなぎ合わせて体育館で描いていた。勿論その照明は煌々と輝くフラットな水銀灯なわけである。しかし、実際の法堂は勿論、フラットな光源ではない。蝋燭の光や自然光などの光源に照らされて見られる。勿論、そのことを全く計算せずに描いたわけではないだろうし意図して彩色もしていると思う。しかし、案外現代の我々に染み付いた光の感覚は根が深いもので、それが二つの龍の天井画の違いに表れたのかもしれないと、ふと思ったのである。
龍の天井画と云えば相国寺の蟠竜図が「啼き龍」として有名だが、妙心寺の八方睨みの龍の迫力は、凄まじいものが在る。確か公開期間は限られていたと思うが、機会があれば観るのを強くお奨めする。

今回のプライスコレクションは色々と収穫の多い経験だった。

しかし改めて考えると、これだけの作品の価値を見出したのが、日本人じゃないというのは複雑だな。
でも、オフィシャルブログで全展示作品の画像を公開して、斬新な展示方法をしてくれたプライスさんは偉い!


http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060628095933
この子犬が可愛いすぎた。
http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060616102156
この唐獅子も可愛い。
http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060507135533
この犬もやらしくていいね。

まあ、そんなこんな。

ラヂオ頭

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テレビジョンが壊れているので、ジャンクが欲しくなったらラヂオを聴いている。
ジャンクとは云っても、FMを聴いていると突如として余りにも不快な音楽なぞが流れてきたりして困ることがある。余りに酷いと、ちょっと喰えないのでスイッチを切るか、チューナーを捻ることになる。
そのような場合に、時折NHKFMなぞを聴くのであるが、これまたテレビでは味わえない趣きがあってよい。

例えば、昨日のことだが、進行役の女性が葉書だかメールだかを読んでいて、その投稿者は自分のペンネームを二つのうちから一つに決めてくれということだった。その候補の二つの一つ目を読み上げる女性、続いて彼女は二つ目を「テスタ…」と云ったところで、言い澱んだ。
「えっと、これは車の名前なので、NHKでは言えません。ですから、一つ目でお願いします」とのことだった。
そうかテスタロッサは駄目なのか。というより、敢えてそんな内容を取り上げなくても。
それとも、敢えてか。

別の話。
ラヂオで流れていた、非常に低い声の男性が気だるく唄っている曲が何となく気になった。非常に低く良い声でゴロゴロと囁くように唄う様は、ゴダールの『アルファヴィル』のコンピューターの声のようだった。ゴロゴロ。
調べてみたら、その曲はLeonard Cohenの"Tower of Song"と云う曲だった。試聴として使うなら、例のサイトは使える。使える管。watch?v=vDhb0DRc0SQ
番組のHPを見たら、なぜかU2のクレジットも。と云うことは、カバーなのか。まさかあのゴロゴロ声がボノってこともあるまいに。

あと、井上陽水の"海へ来なさい"がかっこよすぎた。

太陽に敗けない肌を持ちなさい
潮風にとけあう髪を持ちなさい
どこまでも 泳げる力と
いつまでも 唄える心と
魚に触れる様な
しなやかな指を持ちなさい
海へ来なさい 海へ来なさい
そして心から 幸福になりなさい

風上へ向かえる足を持ちなさい
貝がらと話せる耳を持ちなさい
暗闇をさえぎるまぶたと
星屑を数える瞳と
涙をぬぐえる様な
しなやかな指を持ちなさい
海へ来なさい 海へ来なさい
そして心から 幸福になりなさい
(井上陽水 『海へ来なさい』)

二人の天使

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色々へたってきたので、映画でも観てしゃきっとせんと、と思い立ってツタヤに行った。

このような時は大抵ニューシネマ、『スケアクロウ』だとか、『真夜中のカーボーイ』だとかを観るのだけれど、ふと思い立って『醉いどれ天使』を借りた。48年の作品でありながら、ニューシネマ色が漂っている。何より、『酔いどれ天使』と云うタイトルからしてかっこよすぎる。英語題は、"Drunken Angel"、何てロックなんだろう。

で、改めて観たら、結局は余計に弱ったような気もする。

この作品は考えて見れば、随分と変わった映画だ。
ラストシーンの志村喬の台詞に、「人間に一番必要な薬は、理性なんだよ」とあるように、本来この作品は、当時のアプレゲールへのアンチテーゼの意味を込めて作られたのだと思う。
青少年に対して、アプレゲールの悲惨な末路を見せるという教育的な理念を示す作品だったのだろう。本来は。
しかし、この作品から受ける印象はそのような教育的な効果とは程遠い、まるでアメリカンニューシネマのような印象すら受けるものとなっている。
その理由は、三船敏郎の魅力に尽きる。
この作品が出世作となった三船敏郎は、兎に角格好いい。
髪を撫で付けて、スーツをぱりっと着こなす様は、闇市の如き戦後のマーケットの中で独り浮き上がって見えるほどに洗練されて美しい。しかも、その一方で、ぎらぎらとした眼差しは、野性味溢れており、物語が進むに従って鬼気迫るものとなっていく表情の強さは、凄まじいばかりだ。
この野性味と洗練を併せ持った三船敏郎の存在によって、本来悲惨な末路を辿るアプレゲールの典型であった松永は、かくも魅力的なアンチヒーローとなってしまった。ラストで、ペンキにまみれて真っ白になり、ベランダから天を見上げるように仰向けで死に行く三船敏郎は、もう一人の天使であるかのようだ。
本来は松永と対比させる形で描かれるであったはずの、女学生役の久我美子も、圧倒的な三船敏郎の存在感の前では、アクセントとしての効果でしかない。しかし、そのアクセントが、最後に絶妙な爽やかさと希望をもたらしているという点では、松永と比肩し得るほどの存在感を持たなかったことは、かえって良かったとも言える。
また、三船敏郎と共にこの作品では、志村喬の魅力も素晴らしい。ぎらぎらした三船に真っ向から対抗しうるほどの存在感を持つ、医師を見事に競演している志村喬の存在があるからこそ、このような素晴らしい印象を残すに至ったのだろう。
恐らくは製作当初は思いもしなかった方向に作品が進んで行き、それでいて傑作となっている。絶妙なバランスの作品だ。

しかし、松永の零落っぷりは、いつ観てもつらい。

『スケアクロウ』のジーン・ハックマンの往復切符の希望に浸った方が良かっただろうか。


三船敏郎は海外の空港で、
"Do you have any spirits?"と訊かれて、
"Yes, I have YAMATO DAMASHII"と答えたのだそうだ。
侍。

目黒シネマでオゾン。

『ぼくを葬る』
前作『ふたりの5つの分かれ路』にも通じるように、繊細に丁寧に、一人の男性の死に行く様を描いている。抑制されたトーンで捉えられた映像は、静謐な美しさに満ちていた。
オゾンの作品は時に「すれ違い」が大きな印象を残すように思う。前作では男女のすれ違いそのものがテーマだったし、『8人の女たち』や『焼け石に水』で描いたコメディタッチの恋愛での行き違い。『まぼろし』では世間との「ずれ」を「ずれ」として美しく描いていた。監督のセクシュアリティもあるのだろうが、オゾン作品を観ていると、「すれ違い」があって、それがあるからこそ、相互理解も美しくなりうるものだと感じることが多い。
近作でもまた、そのすれ違い、は描かれていた。
近作でメルヴィル・プポーが対面するのは、「私」と「他人」とのすれ違いという孤独と言えるのではないだろうか。「私」も「あなた」や「彼」から観れば「他人」に過ぎないということ、その絶対的に超えられない壁を前提に、孤独と愛を描いていく。メルヴィル・プポーは、余命三ヶ月と宣告されるが、そのことを祖母以外には告げない。それは、そのことを告げたところで、自分自身は他人から見て「他人」が「死に行く他人」に変わるに過ぎず、そのレッテルの変更によって、結局は溝がさらに深まるように感じたのではないだろうか。「死ぬのは常に他人」であるが、「死にゆくもの」は「他人」より特別な存在であるが故に、従来どおりの「他人」ではありえない。
メルヴィル・プポーは祖母のジャンヌ・モローにだけ、「ぼくらは似てる、もうすぐ死ぬから」という理由でその死を打ち明ける。それは、彼女がもはや「他人」ではなく「死に行く他人」であったからではないだろうか。それを示すように、喫茶店でヴァレリア・ブルーニ=テデスキに祖母に会いに行くと言ったメルヴィル・プポーは、「ご病気なの?」と聞かれ、「ぴんぴんしてるよ。普通は会いに行くのはそういう場合だけど」と答える。祖母に会いに行く行為は、大抵「死に行く他人」に会いに行く行為だと言っているように。そして、何より、彼自身が「死に行く他人」であるメルヴィル・プポーは、哀しみを帯びた美しい目で「愛していると言い行く」と答えるのだ。
しかし、その「死に行く他人」の2人の関係は、メルヴィル・プポーが車に乗って去らんとする場面で少し崩れる。恐らくは彼の方が先に死すという事実の前で、ジャンヌ・モローは彼への視線を「死に行く他人」として見て、涙ぐむ。メルヴィル・プポーは、泣かないで、と言いながら、手持ちのデジタルカメラで、祖母を写す。この場面の感情の推移の繊細な描写は本当に美しい。それを支えているのは、何といってもジャンヌ・モローの存在感と、儚さまで丁寧に演じている演技だろう。

その後メルヴィル・プポーは、周囲の人々に「死に行く他人」としてではなく、「他人」として、再び関係を結びなおそうとする。
恋人とは別れ、姉とは和解する。
しかし、別れた恋人との最期の肌の触れ合いは拒まれ、そして、彼自身姉には会おうとしない。ただ、写真を撮るだけだ。それはまるで、「私」と「他人」は本来触れられないものであると示しているかのようだ。
未来への希望として描かれる、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキとその夫とメルヴィル・プポーとの三人の性関係の場面も、余りにもギクシャクとした様で描かれている。ベッドの前の彼らの会話も、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキとメルヴィル・プポーの会話、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキとその夫の会話はあるが、それらの内緒話はお互いに聞こえない。遺言の手続きを済ませた後の夫婦の会話も、何を言っているかは聞き取れない。「死に行く他人」として見られることを拒否したメルヴィル・プポーが真摯に対峙しているのは、死そのものではなく、「私」と「他人」との間に現れる溝、すなわち「孤独」そのものだ。
「私」と「他人」との間に現れる溝、メルヴィル・プポーはそれに向き合うために、写真を撮る。眠った恋人を、公園での姉とその子供を撮る。「私」と「他人」との間の溝を埋めるのではなく、向き合うために。そもそも、埋めることなど不可能であるかのように。その視線は限りなく優しい。木陰から、姉と子供に向ける視線、眠った恋人に向ける視線、それらの隔たりを経た視線は、愛そのものと言っていいだろう。

「死に行く他人」として見られることを拒絶した彼の物語は、過度なセンチメンタルを抑制するトーンで描かれている。そしてそのことによって、「私」と「他人」との間の「孤独」がとても繊細に描かれているように思う。そして、その両者の関係を結びなおすことによって、メルヴィル・プポーは独り死へと向かう。ラストシーンで、大勢の海水浴を楽しむ人々が帰っていく中、海に向かって横たわり、静かに独り死に行くメルヴィル・プポーの横顔のシルエットはとても美しい。

主人公の恋人役のクリスチャン・セングワルトがまたしても、リュディヴィーヌ・サニエ顔。やっぱりこういう顔が好きなんだな。
主演のメルヴィル・プポーも凄かったけど、もう、ジャンヌ・モローの持つ雰囲気といったら。凄いね。父親役のダニエル・デュヴァルも味があってよかった。ヴァレリア・ブルーニ=テデスキも相変わらずの美しさ。

しみじみといい作品だった。

同時上映は『ナイロビの蜂』。
『ナイロビの蜂』
『シティ・オブ・ゴッド』とはまた一変したスタイル。とは言っても、ブラジルスラム街のザラザラした質感を感じさせるような映像は、カットの短い映像スタイルに変わっても、アフリカの様子を矢張りザラザラとした質感を感じさせていた。
骨太の社会派サスペンスと云う面と、夫婦の愛情と云う面の二つを破綻無く交えて描いているのは凄い。
『シティ・オブ・ゴッド』とは大きく違うスタイルながらも、同じような力強さを感じる作品だった。
グローバリズムの弊害という社会的な視点から観ても、この映画の提起する問題は非常に大きなものであると思う。
いい作品だった。

公式HPのBBSが「感動度」が投稿できるシステムなのだが、その表示が1から3つの蜂のマークなのだ。三つなら、蜂が三つならんだ模様。これは、劇中で出てくる、アフリカの人々に治験をしてる悪徳会社のロゴなのだけれど、いいのだろうか。何で。

心臓に悪い

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後楽園ホールで真鍋圭太の試合を見てきた。

復帰第二戦にも関わらず、対戦相手が見つかりにくいようだ。
格下が相手なのかと思って安心していたら、それはそれは心臓に悪い試合だった。
第1(2だっけ?)ラウンドでいいパンチをもらってふらつく真鍋。タイトルマッチのダウンが目に浮び、肝を冷やすも、真鍋は強打で相手をねじ伏せてダウンを奪った。心臓に悪い。
中盤、激しい打ち合いになり、優勢に攻めているように見えたが、今度は逆に相手のいいパンチを貰い、ダウン。立ち上がったものの、心臓に悪い。
最終ラウンド、またしても打ち合いになり、圧倒的に相手が優勢。いいパンチを何度も貰い、ふらつく真鍋。勿論相手も効いているが、どうみても相手の方が優勢だった。なぜクリンチに逃げて判定を待たない!という悲鳴にも似た叫びが出るが、ダウン寸前になりながらも、”KOセンセーション”はクリンチに行かなかった。そして、そこからまさかのダウンを奪い、残り14秒でのKOで幕となった。そのKOは確かに後楽園ホールを揺らしたが、ギリギリのところで勝ちを拾ったという印象も拭えない。
優勢に攻めていながら、ふとした拍子にいいパンチを貰うという詰めの甘さは以前からあったようにも思うが、今回はそれが余りにも頻繁に出て、非常に心臓に悪い試合だった。
この詰めの甘さを治しさえすれば、日本チャンプどころか、世界の器だと思うのだけれど。

他の試合について。
アテネ五輪の日本代表がプロデビューということで、注目されているらしかった。メインでもセミファイナルでもなかったテレビインタビュー付き。確かに、巧いとは思ったが、あまりにマッチメイクが露骨過ぎた。対戦者は本来ミニマム級の韓国人ボクサー。二階級、3キロ以上増量と云う余りにも無茶な増量に失敗したことが明らかな「ふくよかな」肉体をしていた。実際動きは鈍いし、本来ミニマム級での体格では、リーチの差も明らか。大手ジムからの期待されてのデビューということは解るが、これだけ露骨な試合は、観ていて気分のいいものではない。酷かった。
メインのミニマム級日本タイトルマッチは、判定にもつれ込み、ドロー。チャンピオン空位の王座決定戦なので、ドローということは、必然的に次の試合に持ち越し。こういうことって実際にあるんだな。
WBAミニマム級四位の人が、柳屋花緑に似てた。

何度行っても、眩いリングの中に立つボクサーたちは、想像よりも1.5倍ほど大きい。強い光線に照らされた彼らが交わす拳、肉のはぜる乾いた音、それらは本当に美しい。
テレビで見る滅菌済みの映像には無い、匂い立つような美しさが、そこには在る。

八月の光

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空が凄い色で燃えておった。
mixi見たら、どうやら京都も燃えておったようで。

と始めたところで、実は何を書こうか忘れてしまった。

前エントリーで何が言いたかったかと言えば、スポーツというある種異相の世界に、「我々」の「健全」を押し付けてしまうのは如何なものだろうか、ということだ。
ボクシング界といういわば内側から、礼節を求める声が上がるのは然るべきだとは思う。今回の騒動でも明らかなように、世間の人々は、ボクシングをレスリングや柔道などのアマチュア競技と同じようなフェアネスを持った競技だと考えているようだし、世界チャンピオンというステータスへの信頼も厚いように思う。K−1やPRIDEなどの捉え方と比較してみても明らかなように思う。それは、戦後のボクシング界の努力によるところなのだろうと思うし、歴代チャンプの紳士的な行動に依るところも大きいのだろう。
社会的認知を得るためのこの姿勢が、安易なsentimentalismに傾倒して、硬直をもたらすという危険は無いとは言えないだろうが、「我々」の「健全」の延長よりも危険性は低いと言えるのではないだろうか。頭部のみを集中的に打つ、格闘技の中でも死亡率の高い危険なスポーツ、そこに携わる人々は、それをいやと云うほど知っているだろうからだ。そしてまた、そういう人がジム運営やコミッショナーとして関わっていくことで、硬直化する危険はある程度は回避できるのではないかとも思う。彼らは、リングの中では、拳が全て、そして、それを保証するフェアネスの重要性について、きっとよく知っているだろうから。しかし、その期待を根本から覆すような行為が、今回の騒動だ。
そもそも、ボクシングの内側にも、様々な問題がある。今回問題とされているような、アジアや中南米からの「噛ませ犬」ボクサーを雇う行為、露骨なホームタウン・ディシジョン、ジムの規模による発言力の差、などなど。これらはボクシングが克服すべき課題として存在しているが、今回のボクシング関係者は、これらの問題を外部の人々と共に、試合の商品としての価値を高めるために、積極的に利用した。
これは本当に恥ずべき行為だ。
ボクシングがその地位の向上に努めてきたのは、より高く売り抜けるためだったのか。今までのチャンプは一体何だったのか、と感じてしまう。
今回のボクシング関係者は、責められるべきだ。そして、そのような、「ベルトを質に入れた」行為だけではなく、前編で述べた礼節という点からも、彼らには責任がある。
ボクサーはアスリートだ。スポーツという異相に生きている。しかし、トレイナー、ジムの会長、今回で言えばさらに父親、彼らは、純粋な意味でのアスリートではない。ボクサーを支える存在だ。本来、彼らは、ある種の社会性を欠くことすら許されるアスリートと、社会との架け橋となるべき存在ではないだろうか。そのような彼ら自身が、「我々」の側からの追求を受けるべきなのは当然だろう。それを、彼らは、ボクサーと一緒になって、対戦者サイドへ暴言を吐くなど、敬意の欠片も示さない。本来架け橋になるべき存在がこの有様では、ボクサーを孤立させることになってしまう。幾ら「我々」が異相への寛容さを示すべきだとは言っても、アスリートに群がる人々の一団全てにまで、その特権を与えるべきではないだろう。そうなってしまえば、そこは異相ではなく、単なる隔絶された異世界に過ぎなくなってしまう。
今回礼節を欠くと批難されるべきは、ボクサーではなく、その周りの人々なのだ。
ベルトを質に入れようとして行為についても、ボクサー個人にどれほどのことが出来たかは疑問だ。
本来責められるべきは、ベルトを質に入れようとした連中、そして、それを買おうとした連中、ボクサーへの架け橋を外した連中なのだ。
しかし、今回は余りにもボクサー個人の印象が強い。無礼なボクサー、疑惑のチャンプ。どうしたって、彼個人の人格への嫌悪感が表に出る形で、ボクサー個人への批難が集中する。悪いのはボクサー、礼節を欠くボクサー、ベルトに値しないボクサー。しかし、本当にそうだろうか。我々は、目の前にぶら下げられた燻製によって、そちらばかりを嗅いでいないだろうか。もっと匂う連中が居るはずだ。
私は、そのように思った。

前編を書いてから随分と時間が経ってしまったこともあって、論理的に書けていないし、つながりも酷い。感情的に書いた。
読むに耐えない文章だけれど、敢えて残しておくとしよう。読んでくださった方には目汚しになって申し訳ないと思っている。

おまけ
美しSUGUILLボクシング
"PRINCE" Naseem Hamed
http://video.google.com/videoplay?docid=-4895528102049973661

いささか食傷気味ではあるが、亀田騒動について、自分の考えを整理する意味でも、もう少し書いてみたい。考えがきちんとまとまっていないので、スケッチのような形で、書いていくことになってしまうだろう。
読みにくいだろうけれど、もし読んで反論や感想をいただけると嬉しいと思う。

亀田興毅の礼儀や態度を批難している人々は多いが、その態度はTBSを始めとする「親子感動物語」というストーリー込みで売り出そうとしている姿勢と共通している点があるのではないだろうか。
その点とは、ボクサーにある種の規範を求めていると云う点である。現代に珍しい親子愛を強調するストーリーは、ボクサーに、本来我々が「そうあるべき」親子像を見ている。もっと礼儀正しくあれ、と云う人々は、ボクサーに、本来我々が「そうあるべき」礼節を求めているのである。彼らは、ボクサーに対して、我々が「そうあるべき」姿を期待し、そのことによって感情移入したり、感動したりする。
しかし、そもそも、我々が「そうあるべき」と云う、我々とは一体何なのか。テレビを観ている42.4%の人々、それを些か安易ではあるが、「大衆」と呼んでみよう。「そうあるべき」姿を期待している「我々」の中には、大衆が含まれているだろう。しかし、ボクサーは、その「そうあるべき」姿という規範が適用される大衆の中に含まれているだろうか。
私は、否、と答えたい。ボクサーは大衆とは「違う」のである。ボクシングは大衆の側には無い。ボクシングとは、研ぎ澄まされた肉体と技術、そして何より才能、それらのみをもって四角いリングの中で戦うものだ。そこでは、自らの肉体のみが全てであり、そこからもたらされる勝敗は絶対的なものだ。このことはボクシングだけに関わらず、スポーツ全般についてそうだろう。結果は絶対であり、結果で判断される世界、そのような世界において、一握りの最高の才能を持つものは、絶対的な地位を占めることになる。その王者が許されていること、そのような絶対的な不平等さが存在しているのが、スポーツの世界だろう。「勝負の世界は非情だ」などと言われたりするが、そういう絶対的にシビアな世界と言えるだろう。
しかし、大衆の世界はどうだろうか。勿論、現実もスポーツの世界に劣らずシビアで不平等かもしれない。しかし、其処にはスポーツにおける才能のような、絶対的な基準は存在しない。経済力であったり、知性であったり、発言力であったり、様々な基準が入り組んだ複雑な世界が、大衆の世界だと大雑把ではあるが言ってもいいだろう。スポーツの世界と大衆の世界は全く異なったものなのだ。勿論、アスリートたちも、社会の一員である以上、経済力を始めとした社会性と無縁ではないだろう。しかし、アスリートは大衆である以前にアスリートなのだ。その逆ではない。スポーツは「我々」の世界とは全く異なったものだ。そこに、安易に我々の世界の道理を延長させてはいけない。スポーツはスポーツとして観賞すべきだ。スポーツはスポーツで、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
また、スポーツが「我々」の側に無いからといっても、それはいささかもスポーツの重要性が低いことにはならない。「我々」とは異なる、才能と努力を軸にした世界は、「我々」の世界からは見えてこないものを見せてくれるからだ。それは、高度に磨かれた技術の応酬の美しさであったり、また、運命のいたずらであったり、皮肉な結末であったりする。それらは、「我々」の世界とは全く異なった位相にあるからこそ見えてくるものではないだろうか。
私はこのことは、スポーツだけではなく、芸術においても同じことだと思っている。芸術は、異なった位相から見える異なった価値観を提示してくれるものではないだろうか。異なった位相とは、「偉大なる落伍者」として社会性を欠いたものからの視点であるかもしれないし、パトロンからの援助を得た余裕から生まれるものであるかもしれない。また、そのような大衆と反大衆というくくりだけではなく、大衆自身の中から生まれる、ポップアートのような形での価値転倒という異なった位相もあろう。そこに共通しているのは、「我々」が生きている上で気がつかないもの、見えてこないものを「我々」とは異なったパラダイムから提示するということである。これらの異なった位相がもたらしてくれるものが、如何に有益なのか、と云う点については、芸術に限って言っても大きな論点であると思われるので、深くは述べられない。しかし、芸術もスポーツも、「我々」を豊かにしてくれる、と云う点のみにおいても、我々にとって不可欠と言ってもいいほどの大きな存在理由があると言っていいだろう。「我々」は「我々」を豊かにするために、「我々」とは異なった位相の存在を欠いてはいけないのだ。「我々」は「我々」と異なった位相に対して寛容であるべきなのだ。王宮で唯一道化が王への風刺を許されていたように、火宅の作家が存在を許されていたように。
その点からすると、スポーツという「我々」と異なった位相の世界へ、「我々」の「そうあるべき」姿を持ち込もうという姿勢は妥当ではない。その姿勢は、異なった位相を、「我々」の世界へと強引に引き寄せようとするものである。それがたとえ「感動」「礼節」の美名のもとであっても、それらは、異なった位相への不寛容の姿勢であると言えないだろうか。異なった位相を、強引に「我々」の世界へと引き寄せようとする姿勢、それによって、実現されるものは何だろうか。果たして、その姿勢によって、「我々」は豊かになれるだろうか、と問うことは必要なのではないだろうか。「我々」の規範を適用させて、全ての位相を「健全
」にしようとする、その行為は不寛容以外の何ものでもないだろう。全てが「健全」に統一された世界、果たしてそこで「我々」は本当に豊かになれるだろうか。「健全」がしばしば「退屈」の同義で用いられることを考えれば、その答えは自ずと明らかなように思われる。
しかし、「我々」の規範を適用させないと、「我々」の世界に悪影響が出るという人々もいる。今回の例では、「強ければ何をしてもいいのかと青少年に思わせる」「礼節を欠いた態度が青少年に悪影響を与える」などの言説などだ。しかし、これらの言説はおかしい。スポーツという異なった位相のものを強引に「我々」の世界に引き寄せて考えようとするからこそ、「我々」の延長でスポーツを捉えようとするからこそ、そのような考え方が生まれてくるのだ。スポーツはスポーツなのだから、「我々」の規範からの批判は適当ではない。スポーツという異なった位相の世界では、極論すれば、「強ければ何をしても良い」と云うのはある程度は妥当するのではないかと思う。勿論、アスリートが大衆である以前にアスリートであるとは言っても、社会の一員であることは確かなのだから、制約は受けるだろう。しかし、何よりもまず、彼らはアスリートとして見られるべきであり、その発言にもある程度の寛容さをもって臨むべきではないか。スポーツは、「我々」とは位相が異なる世界なのだ。スポーツという極めて特殊な世界の人々を、まるで大衆の規範のように捉えることが間違っているのだ。素行が悪い一流のアスリート、彼が経済的に大きな成功を得ているのを見た青少年が、彼のようになりたいとその分野を目指すことは悪いことなのだろうか。悪影響なのだろうか。彼が成功しているのが、その悪い素行が理由であるとでも考えるならまだしも、その才能と努力が理由であると捉えていれば、彼の動機はスポーツを目指す青少年の動機として、悪影響と言い切れるものなのだろうか。それはしばしば、「青少年の行く末」を語る人々が肯定的に使う「ハングリーさ」そのものなのではないか。素行が悪い一流のアスリート、彼を「我々」の世界の規範と捉えるから、おかしなことになってくるのだ。アスリートはアスリートだ。スポーツはスポーツだ。それ以上でもそれ以下でもない。
スポーツはスポーツとして見ようではないか。「我々」を少しでも豊かにさせてくれる、それだけで十分ではないか。そこに、過剰に感動や物語といった「あるべき姿」を求める姿勢は、ある種の危うさを持っている。4年毎にしかサッカーを見ない人が、感動を求めてワールドカップを観る。ボクシングをろくに知らない人が、親子の美談を求めて世界タイトルマッチを観る。彼らが見ているものは、サッカーやボクシングという技術の応酬ではなく、フィクショナルな美談そのものである。
大江健三郎は、『人生の親戚』で、英米文学の専門家の女性の登場人物に次の様に語らせている。

無垢(イノセンス)は強調されすぎると、その反対の極のものになる、とオコナーはいってるわ。もともと、私たちは無垢(イノセンス)を失っているのに。キリストの罪の贖い(リダンプション)をつうじて、一挙にじゃなく、ゆるゆると時間をかけて、私たちは無垢(イノセンス)に戻るのだとも、彼女はいっているわ。現実までの過程をとばして、安易にニセの無垢(イノセンス)に戻ることが、つまりsentimentalityだというわけね。……私はなによりそれがいやなんだわ。

安易にニセの無垢に戻るsentimentality、これを求める姿勢が、現在のスポーツや芸術といった異なった位相を取り巻く状況に無いだろうか。現実の競技や芸術を観賞する過程をとばして、安易にニセの無垢の感動に戻ろうとするsentimentality、その姿勢は、一面で、全てを「我々」の延長として捉える、極めて不寛容な姿勢ではないだろうか。異なった位相を「我々」の延長として捉える、その行く先は、豊かさとは程遠い、画一化された「健全」と云う名の退屈と停滞ではないだろうか。

ボクサーに親子の美談を見る姿勢、
4年に一度のサッカーに感動を見る姿勢、
解りやすい悲劇や悲恋ばかり求める姿勢、
「不健全」とレッテルを貼った雑誌をビニールでくるむ姿勢、
全てのコンテンツは健全であるべきだとする姿勢、

それらから私が感じるのは、豊かさとは程遠い、貧困な感性でしかない。

冗長に語りすぎただろうか。
続きはまた次のエントリーに書きたい。
読む人が居るか居ないかは別として。

5×2

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結局『ジャズ大名』は、より明瞭な音響環境で観たいということで、スターライトシネマは諦め、目黒シネマで『ふたりの5つの分かれ路』と『ロシアン・ドールズ』
『ふたりの5つの分かれ路』は、原題は5×2であることが示すように、あるカップルの5つのエピソードを丁寧に描いている。奇抜な構成も、特別な起伏もない、地味な構成。けれど、要所要所の感情の機微を丁寧に、時に意地悪く描いている様は、まさにオゾン作品と云う具合で、オゾンファンには楽しめる。たしかに、『まぼろし』ほど静謐な美しさに満ちているわけでもなく、『焼け石に水』のようなはっちゃけ具合もなく、『スイミング・プール』のような緻密な構成もないかもしれない。それらの作品を期待して観れば少し満足度は低いかもしれないが、それでも、初期の短篇のような煌きが、感情の煌きと揺らぎを捉えようとする眼差しが、とても魅力的だった。
オゾンやアルモドバルの作品を劇場で観ていて、必ずと言っていいほど在るのが、ゲイ描写に対する低音の笑いである。ゲイ描写そのものが陳腐なもののように笑う彼らは、一体何を見ているのだろうかと思う。彼らの作品を観ていれば、滑稽なのは、ゲイなのではなく、恋愛そのものが滑稽さの混じったペーソスであるからだと云うことは明らかなのに。自分が馬鹿になれない恋愛なんて、興味が無いといったのは、誰だったっけ。
主演女優のヴァレリア・ブルーニ・トデッシが魅力的に撮られていた。42歳らしく、ボディラインはちょっと崩れていたりするのだけれど、憂いを含んだ表情がとても美しい。リュディヴィーヌ・サニエとちょっと顔が似ている。オゾンはこういう顔の女性がすきなのかもしれない。ゲイはちょっと力強いディーヴァ的な女性に弱いと、英米文学で聞いたけれど、確かに芯が強い魅力はありそうだ。赤いマニキュアと口紅が非常に艶やかだった。
『ロシアン・ドールズ』
ちゃかちゃかしすぎだ。前作とは打って変わって青臭くも期待に満ちたエネルギーはもう無い。各エピソードの関係は明確でないし、薄っぺらい笑いも寒々しい。前作が佳作だっただけに、残念だ。これだけの数のエピソードと人を配するなら、もっと構成を練るべきなのではないだろうか。それっぽい映像効果と、音楽と、ギャグとでつぎはぎをしようとしても、さけめは明らかだった。

目黒シネマでは、続いて『ぼくを葬る』を流してくれるそうだ。
二作続けて見逃している怠け者のファンには、嬉しい限り。

貧すりゃ鈍する。
藁打ちゃ手打つ。

幾ら貧しくったって、売っちゃいけないものがある。
腰の大小を質に入れて、竹光で何を斬るのだろう。

そのベルトは、売っちゃいけない。
そのベルトは、買っちゃいけない。

うんざりだ。

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