恵比寿ガーデンプレイスで、毎年開催されているスターライトシネマが今年も行われているらしい。
星など毛頭見えないにしても、野外のスクリーンにて無料で映画を上映するイベントは中々良いと思うのだが、今年はラインナップの中に、『ジャズ大名』があって驚いた。
岡本喜八と、恵比寿辺りのプチブルたちのイメージとが結びつきにくかったからなのであるが、どうやら今年のラインナップは主に音楽を扱った映画らしく、その中の一本のようだ。
邦画は『ジャズ大名』一本みたいだが、音楽が印象深い邦画、といえば、これはもう、黒澤明の『どん底』だろう。ニヒルな三井弘次、悪意の塊の中村鷹治郎、たまらぬ。ゴーリキーを時代劇にアレンジしたこの映画のグルーヴ感溢れるセッションを「こんこんちきしょーこんちきしょー」と高級住宅地に響くぐらいの大音響で流して、プチブルたちを震え上がらせていただきたいものである。
もしくは、岡本喜八の作品はどれも音楽が印象的であるが、あえて『独立愚連隊』なんてチョイスもどうだろう。時事的にナイーヴな話題にあっさり触れてしまう、劇中歌「イキな大尉」なんてすばらしい。あれは『独立愚連隊 西へ』の方だったっけか。「ヤボな曹長が帳簿をめくる/貴様らとっくに死んでいる/ハイ!曹長どの残念でした/靖国神社が満員で ハイ!/イキな大尉が青筋立てた/貴様らどうして帰ってきた?/ハイ!大尉どの白木の箱は〜大の男にゃ狭すぎて〜ハイ!」ってね。
「イキな大尉」が佐藤勝の手によるものだということは知っていたけれど、『どん底』のあれは誰なのだろうと思って調べたら、これも佐藤勝なのだそうだ。岡本喜八の映画音楽の印象が強いけれど、『椿三十郎』も『用心棒』もこの人なのか。あの印象的な三船敏郎の登場シーンのテーマもこの人か。まあ、なんというか、ものすごい数を手がけているなあ。http://movie.goo.ne.jp/cast/86216/index.html
音楽映画といえば、『鴛鴦歌合戦』なんてのも、志村喬の歌声が聴けるそうで、見逃したのが大変痛いのであることだなあ。と思い出したことをもって、この狭いエントリーを締めくくりましょう。
2006年7月アーカイブ
ずっと思ってたこと。
似てるよねえ。
「誰を読むの?」
と云う質問を、ブンガクの嗜好を話題にする時にすることは別段不自然ではない、と云うよりは、殆ど必然の様に思うのだが、それに平然と実に自然な形でさらりとノオと言う人に会って、新鮮な驚きがあった。
その人が言うには、誰だから読むのではなく、作品毎に面白そうだから読むのであって、私は作家毎に読むような読書の方法は取らないし、テクストを通して向こう側に居る作者を読取ろうとすることもないのだと。それを聞いて早急な私は、ははあ、作者の死ですな、などと知ったか振りをしたのであるが、その人はロラン・バルトに拘ることなく、それが自然だからそうしていると云った風であった。そのような読書は、作者毎に体系立てた読書によって得られるものの幾つかは欠けるかもしれないが、それでしか得られないものも有るように思えたし、何より、その自由な羽ばたきは、確かに側で聞いていて幾分魅力的ではあった。そしてまた、ちなみに今読んでいるのは?と云う私の質問に対する、初めての三島由紀夫で、『行動学入門』と云う答えに、爽やかさを感じ、その自由さにある種の憧憬を禁じえなかった。一体幾ばくの人が、初めての三島由紀夫に『潮騒』『金閣寺』『仮面の告白』等ではなく、無造作に『行動学入門』を取ることが可能であろうか。
また、話は流れて、「文体」と云うことに及んだ。よく誰々の文章が美しいとか、巧い、とか言うことについてである。例えば、三島由紀夫の文章はとても美しい、安部公房の文章はとても硬質だ、など。少なくとも今の私は、漠然と文章の美醜は感じることが出来るが(単なる嗜好以上であるかどうかは怪しいが)、例えば小学生の頃などは、星新一の文章と芥川龍之介の文章とを比べた場合(両方とも当時読んでいたので例にした)、書いている内容、モチーフが全く違ったものであることぐらいは、明らかに理解はしていたし、使われている語彙が違うということは解ったが、「文体」と云うものにたいする認識があったかというと、ちょっと怪しい。というより、理解していなかったように思う。作品の個性とは即ちモチーフであり、作家はそれらのモチーフを束ねる共通の特色でしかなかった。だから、星新一が好きだと云うことは、ショートショートのSFが好きだということであり、芥川龍之介が好きだと云うのは、(星新一ほど一貫した解りやすいモチーフを容易に小学生が導き出せるほど甘くはないのは勿論であるが)、王朝物や自嘲と云うモチーフ、であった。しかしいつしか、それらの作品には文体と呼ばれる、作家固有の表現上の特色があることを知った。文体と云う概念はそれ以前にも知っていたし、おおよそ作文の稚拙と云うことが体験として知っている以上、理解はしていたのかもしれないが、それが小学生の作文の稚拙と云う低レベルのものではなく、プロの作家達の間でもそれらの特色があるのだということを、体験として理解したのである。今となっては、自明のことの様に、誰々の文体は、等と言うことはあるが、実はそれを理解したのは、それほど早くはないのかもしれないと思ったのである。
このことは、他の分野でも言えるのではないか。例えば、映画。私は幼い頃から映画が好きであったが、それは即ち、映画と云う物語が全てであり、内容が全てであった。だから、脚本を兼ねていない監督作品は、はっきり言って監督の個性が現れていないものだと思っていた節があるし、監督で映画を観るということをしていなかったように思う。キョンシーが観たいからキョンシーの映画を観て、ジェイソンが観たいからジェイソンを観て、ロボコップを観たいからロボコップを3まで観た。そこには、監督は居らず、キョンシー、ジェイソン、ロボコップだけが居た。小学校低学年の頃の話である。しかし、今でもはっきりと覚えているが、監督というものはとても大きな個性を作品に与えているのだ、と云うことを知ったのは、スタンリー・キューブリックの作品を観たときだった。当時はレンタルビデオ店では、もっぱらジャンル別の棚から選んでおり、監督別の棚には余り興味がなかった。勿論見ては居たが、それはジャンル別と云う選別よりも意味の乏しい、もっぱら形式にしかすぎない分類、殆どアトランダムに並んでいる棚のように思っていたのだ。そんな私が、キューブリックの作品を手に取ったのは、手塚治の『時計仕掛けのりんご』と云う少々不気味な雰囲気の短篇集のタイトルが、『時計仕掛けのオレンジ』をもじったものであると知って興味が湧いたからだ。12,3歳の少年が手に取るものとして、その両者が相応しいかどうかはさておき。その、『時計仕掛けのオレンジ』を借りてきて早速観た私は、衝撃を受けた。何せ、全く意味が解らないのである。漠然と、こういう感じと云うことは感じ取れるが、それは、明確な形で表現できないものであった。何より、こんな映画が存在すると云うことが衝撃だった。そして、その次にレンタルビデオ店に行ったとき、私は、その隣にある『2001年宇宙の旅』を借りた。タイトルだけは知っていたその作品を、私は普通のSF映画、例えば、タイムコップだとか、バック・トゥ・ザ・フューチャーだとか、と同じようなものだと思っていた。しかし、これまた、意味が解らなかった。しかし、そこには矢張り、言葉に出来ない何か漠然としたものを感じ取れた。そして、それは、『時計仕掛けのオレンジ』を観た時と同じものだったのである。そしてそれは矢張り、次に借りた『シャイニング』にもあった。こうして私は、監督による何か、がある事を知ったのであり、その後徐々に、表現と云う点にも目が行くようにもなり、カットのテンポ、カメラワーク、などに明確に監督の特徴を見て取れる、或は、見て取れると思い込むようになったのである。
また、音楽、についてもそうかもしれない。文学や映画と比べて、これは未だよくわかっていないのであるが、私はずっと、ピアノが巧いと云う意味が解らなかった。
なぜなら、楽譜がある以上、誰が弾いたって同じなはずではないか、と。同じ理由で、この人のギターサウンドは凄い、とか、パワフルなドラムだとか、そういうことがイマイチよく解らなかった。
しかし、今は、漠然と解ってきたような気がする。しかしこれはまだ、漠然と、であって、例えばジャズなんかも、メロディに聴き入ってしまって、コルトレーンのサックスのここが凄いとか、そういうことははっきりとはいえないのである。少なくとも、小津映画の静寂さが凄い、と云うのと同じようには。
以上の様に長々と書いて思うのは、要するに、文体だとか、カットだとか、演奏技法だとか、そういう表現技法については自明のことの様に書いてある言説が溢れかえっているから、あたかも一次的に直感的に感じ取れるような気がしているものの、じつはそれは経験を積むことによってしか得られないものなのだと云うことなのである。そんなこと貴様に言われなくても解っていると言われればそれまでなのであるが、結構安易に文書の技法を褒めたり、監督を褒めたり、演奏を褒めたりしていないだろうか、とも私は思うのだ。
果たして君は、それを語りうる程に、目があるのか、と問うのも、時には必要ではないだろうか、と自戒を込めて思うのである。
http://www.setabun.or.jp/publish.htm#goods
http://www.page-ya.com/goods/index.html
安吾Tシャツがちょっと欲しい。
と思ったけど、まあ、そうでもないかな。
今日書店に行って、店内の検索マシンを使おうと思って、液晶を見ると、前の人が入力を消さずに残していた。
タイトル:ぜんまいざむらい
俺も好きだ、ぜんまいざむらい。
テレビジョン(町田康風に書いてみた)が壊れてから久しく見てないけど。
確かについ今しがた私は死んだはずだ。
ズクズクと疼く頭で、ぐっしょりと濡れた汗を感じながら、そう思った。
他の人がどうなのか私にはちょっと解らぬが、私はしばしば夢の中で死を味わうことがある。それが例えば、パンと云う乾いた銃声と共に即座に終わってくれるような、記号としての死ならば、それは楽なのだが、弱ったことにそれは、外傷の瞬間からじっとりと続く、主観的なものなので、実に始末が悪い。そしてまた、これも余人がどうなのか判じかねる特徴として、しばしば私の夢は、痛みを感じるのというものがあるので、輪をかけて困ることになる。とは言っても、勿論目覚めているときと全く同じ痛みを感じると云うのでは勿論無くて、膜のようなものの上から感じるような、まるで神経がウェットスーツを着込んでいるかのような、そんな少し遠い痛みではあるのだが。
浅い眠りに落ちている時に訪れる、そのような死の瞬間には、またそのウェットスーツの痛みを伴うのが大概であるので、実に後味の悪いものとなる。そしてまた、その間中、「夢であってくれればいいけれど、これは決して夢ではないのだから、困る」と云う意識が続いているのである。
この手の死の夢は大抵次の様なプロセスを辿る。
まず、怪我をする。
それは、時には生きたまま獣に内臓を食われるものであったり、直径40センチ、高さ5メートル程の円柱の上から落下した私の胸から下が、ぐしゃぐしゃに潰れてしまって、足があらぬ方向を向いているのをながめるというものであったり、ドアの魚眼レンズの覗き穴を覗いているときに、向こうから針の様なもので貫かれるものであったり、包丁で腹を刺されるものであったり、この日の様に、伏せている時に背中を自動小銃で撃たれるというものであったりする。
そして次に、怪我を見ながら、ウェットスーツの痛みを感じて、酷い怪我だと唸るのだ。これはきっと治る可能性は無い怪我であるし、きっと後遺症が残るに違いない、いや、そんなことを考える必要は最早無い、この怪我は絶対に致命傷であるし、現にこうして薄れつつある意識を考えると、私はじきに死に至るに違いない。だったらいっそ早くその瞬間を迎えたいものだが、それにしたって酷い痛みだ。と感じ、その日は、背中にズンズンと痛む剥き出しの肉を感じながら、私はただ伏せっているばかりだ。そして、ああ、これが夢であってくれればどんなに良いことか、と考え、そういえば、この手の夢を見たことがあると気がつくのだが、その後すぐに、いや、この前は夢だったけれど、今度こそ夢ではありえないんだ。こんなに背中の肉と痛みを生々しく感じることが出来るし、3メートルほど向こうに自動小銃を構えて立っている男の不愉快さが、夢であるなんてことがありえないのだ、との結論に至る。同じように隣で背中を撃たれて伏せている男の、一足先に絶命したらしき表情を眺めながら、私は、ああ、早くその瞬間を、といつしか待ち焦がれるようになる。そして、徐々に薄くなっていく感覚のなかで、この感覚がこのまま透明になってしまえば、つまり私は死ぬと云うことになるのだな、誰だったか、作家が、死の後には絶対的な無が待っている、それだけが唯一頼れる事実だと述べていたのを思い出しながら、私はその瞬間の後は、決定的な無、虚無、になってしまうのだなあ、と詠嘆と諦めが混じった気持ちになって納得していくのである。それにしたって、酷い痛みだなあと人事のように感じながら。その瞬間の後は、きっと、この男が射殺されたり、様々のセレモニイがあったりして、色々と大変に回っていくのだろうなあ、しかし、そんなことは、あと数秒後に虚無になってしまう自分には関係のないことだし、自分にとっては、映画館のthe end若しくはfinの文字の後の真っ白なスクリーンのようなものでしかないのだと、いや、そのような意味すら持たないのだと云う事をぼんやりと諦め混じりの詠嘆で考えるのである。そして、めでたくカウントダウンが始まり、キューサインが出た瞬間に私は目覚めることになる。
不意に現れた、空間と時間を跳び越えた「世界」に私は混乱し、暫くベッドの上で放心することになる。そして、呟くのだ、ああ、確かについ今しがた私は死んだはずだと。
この日も、その死に至る直前のプロセスを何度か頭の中でリプレイしながら、眉をひそめていた。冷たい汗と、ズクズクと痛み続けることによって、血液の流れを確認しているかのような頭を感じながら。
外では、燃えるゴミの日の通例どおり、カラスが啼いている。奇妙に粘液がかった啼き声で。くわぁ、くわぁ、くるる、くわぁ。私も同じように粘液がかった声で呟く「朝にカラスが啼く時は/夜に必ず人が死ぬ」。くわぁ、くるる、くわぁ。
今日も素晴らしい一日が始まった。
恥ずかしながら今まで未読だった町田康を読んだ。
一気呵成に三冊、『きれぎれ』『夫婦茶碗』『へらへれぼっちゃん』。
いやまあ、これは間違いなく天才なのだなあ、と思うほか無い。
こう書いている間にも、町田文体に侵されぬようにするのに必死になってしまうほどに中毒性が高いように思う。町田康以前は新人文学賞応募作がエセ・春樹で溢れていたのに対して、町田康以降はエセ・町田康で溢れたというのも頷ける。しかし、これだけの文体が真似出来ないのは、その語彙のチョイス、リズム、時には単語でしかない一文の短さの切れ、どれをとっても才気立っていることからも明らかなのであって、そこがまた恐ろしい。全く、この人については、「惹かれる」よりも「憑かれる」とでも言った方がいいような引力がある。
勿論、その独特の文体と不可分な形での鬱屈した魂も凄まじい。そもそもこの人の小説を呼んでいると、そのような区別すら無意味なものだと感じられるのだが。パンクっぽさと安易に表現することに抵抗を覚えざるを得ない、その鬱屈した魂は、現在のデカダンス、蘇った無頼派と表現するだけでは収集できない、低温の狂気を含んでいるのであった。
しかも、まったく抽象の表現を含まぬのであって、全てが具象だけで表現されているというのも恐ろしい。そう、まったくこの人の小説は恐ろしいのではあるまいか。恐ろしいほどに魅力的。憑かれる小説。町田康。
また、『きれぎれ』に芥川賞を獲らせた英断は素晴らしいと思うが、だったらなぜ中原昌也には一票も入らないのだろうかと思ったりもした。勿論、ロックという要素だけで二人を括るような乱暴なことをするわけではないし、何より彼らは文体においても大きく違う。しかし、恐ろしいまでに平易な文章で、それこそ"きれぎれ"に断片的に書かれた中原昌也の短篇群も才気だっていることは明らかなのに。同じく同時代の鬱屈を表現していることは明らかなのに、審査員のお偉方には理解できないのであろうか。
第一回大江健三郎賞なんて獲ってみて欲しいなあと思うけれど、多分無理なのだろうなあ。
ここしばらく続いていた気鬱を散じることが出来たのは、アレのお陰だった。
アレは素晴らしい。
少し摂取するだけで、頭が冴え冴えとするような、まるでコンタクトレンズを始めて着けた時のような、世界が色づくような感覚にいつも驚く。
なんて書くと、アレはアレのようだけれど、実際はアレだ。
男がそのような急な変化を経た時に周りで囁かれるのは、クスリ、宗教、女、気病み、などだそうだが、私にとってのアレはそのような根っこから変えうる程の力はもたないものだ。褐色の液体、珈琲だ。
100グラム400円程度の豆を、安売りのミルで挽いて飲む。それだけでも幾分かは、周りが色づくような感覚を味わうことが出来るように思う。
ただのカフェイン中毒か、プラシーボかだろうがね。
コーヒー・ルンバもラリってるみたいな唱だし。
いい唱だ。
まだまだ雨はこれでもかとまだまだ
とにかく雨だどこまでもいつまでも続く
そのうち空がもち上がる あきらめる 消える
明日晴れたら釣だ
(奥田民生 "コーヒー")

足四教
うちのテレビはブラウン管が壊れてて、映りもしないし、音も立てない訳だけど、
世の中はあれこれ動いているみたいで。
忌野清志郎が喉頭がんなんだってね。
私は、忌野清志郎の名前を聞くと、懐かしくも気恥ずかしい気がする。というのも、中学や高校時代、周りがブルハとかグリーンデイとかハイスタとか聴いてるなか、R.C.サクセションや忌野清志郎のソロアルバムを聴いてたりしていたからだった。今思えば、周りと同じものを聴くと云うことに対する、単なる青い反発でもあったのだろうけど、実際、50近くになっても、政治的なメッセージを唄ったりと、ロックな面が格好よく感じられたのも事実だ。
そして、東京に出てきた一年目に、私は待ち望んだ忌野清志郎のライブへに行った。間近に見る「夢持ってるかい」と叫ぶ彼の姿は、少なくとも私にとっては紛れも無くスターそのもので、マジカル・ミステリー・ツアーをもじった、マジカ・デ・ミル・スターツアーの名に恥じぬものだったと思っている。そして、その後、その前年のツアーを扱ったロードムービーを観た時、私は少し不思議に思った。
あれだけ観客に訴えかけていたように思えた清志郎は、インタビューで「(観客には)伝わらないと思って唄っている」とはっきりと言っていたからだ。それでも、ボブ・ディランのプロテストソングに通じるような社会的なテーマの歌、清志郎はそれを「怒りの歌」と名付けていたが、をその後も幾つかはリリースしていたように思う。しかし、しばらくして出されたアルバム『KING』も、『GOD』も、正直に感じたのは物足りなさだった。
そしてまた、それが許せなかったのも、清志郎は懐メロになって欲しくなかったからだ。清志郎の歌を聴いていて、古い歌知ってるねなんて、言って欲しくなかったからだ。いつまでも『トランジスタ・ラジオ』とか『スロー・バラード』とかの過去の名曲(確かに名曲だ!)ばっかり懐かしんでるファンより、新しい曲を、もっといい曲(例えば『Sweet Lovin’』みたいな)を、聴きたかったからだ。そして、それが出来ると信じていたからだ。
先日、ボブ・ディランのドキュメンタリー映画、『ノー・ディレクション・ホーム』を観た時に、プロテスト・ソングの看板として担ぎ出されることにうんざりしたボブ・ディランの姿が映し出されていたけれど、ひょっとしたら、清志郎も、ちょっと疲れたのかもしれない。
ガンだろうと何だろうと、きっと治してくれよ、清志郎。
何だかんだ言っても、やっぱり新曲が楽しみだったりするから。
灰色の自意識の塊のようだった私を、幾分かでも軽くしてくれた、あの、独特の歌声に、また震えることとを期待したいから。
だって、ラフでタフなんだろ、清志郎。
うちのテレビはブラウン管が壊れてて、映りもしないし、音も立てない訳だけど、
世の中はあれこれ動いているみたいで。
シド・バレットが死んだんだってね。
(……野暮を承知で言えば、シド・バレットは、ピンク・フロイドの初期メンバーで、その溢れる才能で、初期の彼らの音楽性を先導したと言われる人物。その後、彼は精神を病み、メンバーを脱退。以後隠遁生活を送っていた。他のアルバムと少し毛色の違ったアルバム、『炎』(Shine on You Crazy Diamond)はロジャー・ウォーターズを始め、メンバーが彼に捧げる意味で作られた。Crazy Diamondとはシド・バレットである。ギターサウンドも詩も哀切きわまる。……と云うことぐらいしか私も知らないのだが。Crazy Diamondは、何でも物を治す超能力じゃないんだ。)
まだ浅い浅いピンク・フロイドファンだから偉そうなことは言えないけれど。
シド・ヴィシャスよりシド・バレットだと思うし、
『Wish You Were Here』は、哀切と云う名詞が音になったらこんな音楽なのではないかと云う位に感動した。
Shine on You Crazy Diamond.
やっぱり輝いとるな。
あまりにも早く秘密を悟ったおまえは
狂気に焦がれて泣き叫んだ
輝け!クレイジー・ダイアモンド
夜の影に怯え 暗い光の中にさらされたおまえ
輝け!クレイジー・ダイアモンド
気まぐれな正確さで
”ウェルカム”の言葉を使い果たしたおまえは
鋼鉄の風に乗って行ってしまった
虚言しかいわない今のおまえ
おまえは幻視者
おまえは絵師
おまえは笛吹き おまえは捕われ人
いつまでも 輝きつづけるがいい!おまえがどこにいるのか誰も知らない
近くにいるのか 遠くにいるのか……
輝け! クレイジー・ダイアモンド
僕も狂気の襞を何層も重ねていけば
いつか きみに会えるだろう
それまで輝きつづけてほしい
その時 僕らは過去の栄光が
落とす影に身を浸して
鋼鉄の風に乗って旅立とう
少年の心のままに純真なおまえ
おまえは勝利者 そして 敗北者
真実と妄想の探求者よ
いつまでも 輝きつづけるがいい!
(Pink Floyd "Shine on you Crazy Diamond")
So, so you think you can tell
Heaven from Hell,
Blue skys from pain.
Can you tell a green field
From a cold steel rail?
A smile from a veil?
Do you think you can tell?And did they get you to trade
Your heros for ghosts?
Hot ashes for trees?
Hot air for a cool breeze?
Cold comfort for change?
And did you exchange
A walk on part in the war
For a lead role in a cage?How I wish, how I wish you were here.
We're just two lost souls
Swimming in a fish bowl,
Year after year,
Running over the same old ground.
What have we found?
The same old fears.
Wish you were here.
(Pink Floyd "Wish You Were Here")
ニュースのヘッドラインには、crazyの文字は無かった。
結局彼も、優しすぎたのだろうか。
私の流す涙に、札は附いているだろうか。
ふと、そんな事を考えた。
それは、過去のテレビ番組などが違法にアップロードされている、海外サーバのwebを見ている時のことだった。
broadcast yourselfと云う意味の取りづらい言葉が書いてあるそのページで、私がアクセスしたのは関西では有名なテレビ番組の一場面だった。
それは、探偵局と云う体裁を取った番組構成で、視聴者である「依頼者」からの依頼を、派遣された「探偵」が解決すると云う人気番組だ。
私が見たのは、子供と一緒に空手を習っている母親が、子供に対して、板を三十枚割ることなんて簡単だと言ってしまったので、何とかして欲しいという依頼のものだった。当初、板に仕掛けをすることで何とか解決をしようとしていた母親と探偵であったが、子供の一言で、方針を変えることになる。小学校低学年位の子供は、練習中だという母の言葉を信じ、あの母親ならいつかは成し遂げるだろうと、事も無げに言ってのけるのである。そこで、コーチとして、空手家が呼ばれた。
子安慎悟である。
私はこの空手家に見覚えがあるような気がした。
あれは確か高校生の時だったかと思うが、その頃から格闘技を見るのが好きだった私は、テレビで放送されていた空手の大会を見ていた。その決勝戦は、170センチ程の身長しかないであろう小柄な選手と、190センチ近い大柄な選手との試合だった。誰がどう見ても、無茶な試合でありながら、その小柄な選手は、果敢に大柄な選手の懐へと飛び込み、壮絶な正拳突きの連打をしていた。結果、勝利は小柄な方の選手のものとなり、優勝を収めることになった。その試合を見ていた私は、いたく感動し、その後、空手を習っている知人から、その選手が小さな巨人と呼ばれている、有名な選手であることを知った。
その記憶を辿ってみると、どうやらこの子安慎悟が私の記憶の中の小さな巨人ではないだろうか。と思ったのだ。
その彼が、母親に向かって空手を教え、子供が見守る中、母親は三十枚連続の試割りに挑む。
結果、母親は成功する。
それを見ていた子安は、30枚割った彼女は強いが、毎日子供の世話をし続けることの方がもっと強いことだと、今度は君がもっと空手も強くなって、母を守る番だと言いながら、涙ぐむ。
いかにも優しそうな、情け深そうな彼の言葉と表情が、私の中の小さな巨人のイメージと繋がった瞬間だった。
こんなことを書くと、いかにもハートウォーミングな話で感動する、という安易な話のように思えるが、私が特別なものを感じたのは、子供の反応だった。
子供は、母親の方を向いて、号泣する。そして、母親がどうしたの?と聞くと、ただ「わからない。なんで泣いたのかわからない」と言いながら、号泣するのだ。
それを見て、私は、はっとした。
そうだったかもしれない。子供の頃、泣く理由がはっきりしないことはしばしばあった、というより、殆どそうだったかもしれない。
いつからか、私の流す涙は、悔しさからだったり、怒りからだったり、同情からだったり、する。涙には糸がついていて、それを辿ると、「悔しさ」「怒り」「同情」「共感」「カタルシス」それら札の一つまたは複数が附いている。
子供のころは、様々な感情が入り混じって、判別不可能な混沌とした塊となっていたものから、溢れ出して来たものが涙ではなかったか。そこでは、札はついておらず、ただ、涙は、剥き出しの涙そのものではなかったか。
勿論、そのような剥き出しの混沌と常に接していては、大人は身が持たない。精神衛生上も、感情の理由を見つけ出すことは、それが事実であろうと無かろうと、良いものだと聞いたことがある。大人が、涙に札を附けるのは、その必要があるからだろう。
だが、時折、剥き出しの涙、あの自分の身体全体が熱っぽくなるような、あの剥き出しの涙を、懐かしむことがありはしないだろうか。
それを求めて大人は、「泣ける」と云うラベルが貼ってある安売りの目薬に手を伸ばしたりする。しかし、そこで得られるものは、「難病」「悲恋」などの目薬でしかなく、札が附いた涙しか得られない。
良くも悪くも、大人になるということは、そういうものなのかもしれない。
休日の朝にわくわくして早く目が覚めることが無いように、剥き出しの涙を流すことは、良くも悪くも、もう無いのかもしれない。
若干のノスタルジイと共に、そんなことを考えた。
私の流す涙に、札は附いているだろうか。
いつの間にか藤田嗣治展が終わってしまっていたので、京都まで行って観てきた。
とても良かった。裸婦の乳白色は本当に輝いていて、それでいてしっとりと湿っているような、えもいわれぬ恍惚とするような質感だった。
手触りまで想像できそうな感じ。
エロし。クリムトとはまた違ったエロさがあるね。
猫も可愛い。
裸婦と共に猫が描かれることが多いが、この場合の猫は、よくあるように女性性を模して描かれているような猫とはちょっと違うような気がした。
藤田自身は
可愛がるがおとなしくしているが、そうでなければ引っ掻いたりする。ご覧なさい、女にヒゲとシッポを附ければ、そのまま猫になるじゃないですか(『巴里の夜と昼』」)
なんて言ったそうだが、これは諧謔としても一種の実感がこもっているのかもしれないが、それでも裸婦像とともに描かれる猫から受ける印象は少々異なる。
それは、あまりに裸婦の乳白色の肌が印象的で、猫の持つ毛並みと、連想される爪とのイメージが結びつきにくいということなのかもしれないが、それだけではないような気がする。
一瞬、猫は藤田自身の投影として描かれているのかとも思ったが、少し怪しげな視線を投げかける猫は、時折矢張り裸婦と同様に艶かしくもあり、しかし、それでいて性的な肉感は伴っていない。なんともミステリアスな印象だった。それと同じような印象は、フランスに戻った晩年の子どもたちの絵からも受けた。藤田自身、この子どもたちはどこにも居ない子どもたちだと語ったそうだが、実際どこかミステリアスで、猫と同じく艶かしくもありながら、どこか聖性をまとったような、とても不思議な印象を受ける。猫は聖性などまとっては居ないが、女性を直截に連想させるようなしたたかさよりは、ミステリアスな、中世的な印象をまとっているような気がする。どちらかといえば、中世的な女性、ではなく、中世的な男性、といった感じだろうか。言葉にするのは少し難しいが、何とも不思議な印象だった。
もっとも、それは裸婦と一緒の猫について感じたことで、藤田と一緒にくつろぐ姿の猫は、もう、ただ愛らしかった。これはもう、女性なんだろうな。
また、場内で、藤田が監修したというフィルムが上映されていて、日本の風俗を紹介する映像の中の、子ども達の遊びを描いたものらしい。どうやら、日本を誇張して描いているとの非難がなされたそうだが、現在から見れば、さほど誇張に感じなかったのだが、当時ではそうだったのだろうか。
映像自体は、強めの光で照らし出されたコントラストのはっきりとした映像で、とても面白かった。さすがに本職の監督ではないからかもしれないが、一寸カットのつなぎに不自然なところもあるように思えたが、それでも「この人、映画撮ってもいけるんちゃうの」と思ったのは事実である。ちゃんばらをする子どもたちの衣装が、黒と白の市松模様で、中には同じ市松模様の鉢巻をしているものもあり、ちゃんばらの棒も白黒の縞々だったりする。それに加えてコントラストのはっきりとしたモノクロフィルムだったのだから、妙にモダンな印象を受けたちゃんばらシーンだった。これが洋行帰りと云うやつか。小津なんかが見ていたら、どう感じたんだろうなと、気になったりした。
また、このタッチで時代劇を撮ってたら、ひょっとしたら傑作が生まれたんじゃなかろうかと思ったけれど、どうなんだろうな。案外超重厚な『日本の一番長い日』みたいのが出来たりするのかな。『アッツ島玉砕』を映像にしたような。
何故かクレジットがTsuguji Fujitaだったのだけれど、監督の時だけ変名を使ったのかな。
だったら同名義で一杯とれば良かったのに。
あと、古かったけどトーキーだった。
戦争画は、全然作風が違ったけど、ドラクロアみたいな重厚さもあって、びっくりした。
mixiの新井英樹コミュニティで、『ザ・ワールド・イズ・マイン』復刊のニュースが!
http://www.manganomori.net/list.asp?listid=40
エンターブレインから「完全版」としての復刊だそうで、幾分かでも描き加えられていることを願ってやまない。いやまあ、復刊だけでも嬉しくてしようがないのだけれど。
どうして『ザ・ワールド・イズ・マイン』がコアなファンこそ居れ、絶版のままだったかというと、他の新井作品のように、ファン層が狭かったということもあるのかもしれないが、やはり911テロの影響が大きいのだろう。何せ、『ザ・ワールド・イズ・マイン』はテロリストが主人公なのだから。勿論、テロリストをヒロイックに描いているわけではないのだけれど、一部分だけ抜き出せば、そう受け取れる描写はいくらでもあげられるだろう。全体として見れば、そうでないことは明らかではあるのだが。
ともあれ、復刊万歳である。
長い間の休載も、許す。
ふと思ったのだけれど、『ザ・ワールド・イズ・マイン』は、ニューシネマ的なのかもしれないな。どういう意味でニューシネマ的かということはまだ纏まっていないので書けないのであるが。私はこの作品をとても好きなのだが、それは、『タクシードライバー』にピンとこない人が(信じられないことではあるが)居るように、この作品にもピンとこない人も居るのだろうな、と思った。
個人的には、この作品は、『AKIRA』や『火の鳥』と並んで衝撃を受けた作品なのだが、それは、ひょっとしたら、鬱屈していたあの灰色の中学高校時代にリアルタイムの連載で読んでいたからという個人的な事情が大きいのかもしれないな。そんな事情を差し置いても、傑作であるとは思うのだが。
ともあれ、楽しみだ。
池袋のジュンク堂へ行ったら、特設コーナーが大江健三郎書店になっていた。
http://www.junkudo.co.jp/sakkashoten/07oe/oe.htm
どうやら開設日に本人も来ていたらしく、近日中にも講演があるそうなのだが、もうとっくに申し込みは締め切られていて、こんなことならもっと早くmixiのコミュにでも入って情報仕入れておけば良かったなと後悔した次第である。
それにしても、自身で選んだという本の数はとても多く、分野も広く、さすがだなと感じられた。
書棚の所々に、本人の手書き文字のコピーのポップが貼ってあるのだが、大江健三郎と書店ポップと云う組み合わせが、中々面白いものであったが、それ以上に書かれている内容がとても良かった。
例えば、開設に向けて書かれた文章は、
私が書店をやるなら、若い人たちに自前の最初の文学(あるいは、もっと広く、文化)の良いコレクションが始められるだけの、文庫本を集めたい、と思っていました。さらに自分の生涯の師匠たちの本、優れた同時代者たちの本を、そして文学・文化の、時代を超える巨匠たちの本を示したい、とも考えました。それこそが伝えたいものですから。
実際に小さい規模ですが、何らかの手がかりとなりますように!
大江健三郎
と書いてあるのだが、「私が書店をやるなら」を「私が求めている書店は」に変えれば、私自身が求めている書店に他ならないものであったので、ちょっと驚いてしまった。
主に経済的な理由からではあるが、効率的に名作に当れるということもあって、私は小説を文庫で読むことが多い。というより、殆ど全てであると言ってもいい。それは、私が好む作家が、その作品が文庫になっていることが多いような作家であるということもあるのではあるが。そして、文庫本というあのサイズ、掌に収まりそうで収まらない、「つまりはこの重さなんだな」と気取って陳腐に言うかどうかは別としても、あのサイズと重さが好きなのである。荒俣宏は文庫本とソフトカバーは本じゃないと言ったそうだが、私は文庫本は紛れも無く本であるとは思うものの、所謂「蔵書」になりにくい、つまり、書物それ自体という客観的な骨董的な価値を持ちづらいという意味においては、「本じゃない」と言うことも出来ると思うのである。そして、その「本じゃない」が故の扱い方の気安さは、それゆえ、主観的な価値を生み出しやすいように思える。新宿東口で友人を待ちながら読んでいた『われらの時代』、鬱々とした思案を巡らせ、ジンをあおりながら赤線を引いた『中原中也詩集』、風呂に入りながらぼんやりと読んだ『ぼくの還る川』、等々本と共に行動する気安さは文庫本特有のものであるようにも思えるのだ。「書を持って町に出る」ことも、文庫本ならとても気安い。
しかし、その一方で、文庫本ばかりが並んだ本棚というものは、余り見栄えが良いものではない。気安く扱われた文庫本は、ところどころ背表紙のカバーが破れているものもあるし、ハードカバーと並べて置かれると、片身が狭そうだ。神保町でも、文庫本の居場所は大抵100円のワゴンの中だ。そのような見た目以上に、文庫と云う、いわば汎用版しか持っていないと云う漠然とした負い目もまた、あるような気がする。ハードカバーも複製メディアであることに変わりはないのだが、何となく、代用品を持っているような、そのような気がするのも、また事実であるように思う。
しかし、そのような負い目を、若い頃なら肯定しうるというように、大江健三郎の上記の文章を読んで、感じた。40歳になって、書棚に文庫本しか並んでいない人物には疑いの目を向けたくはなるが、10代20代ならば、許されるのではなかろうか。
青春と文庫本は、相性の良いものなのかもしれない。
案外、夏になればやる、文庫本のキャンペーンは、的外れなものではないのかもしれないな。
さて、上記の文章以外でも、大江氏のポップはとても面白いものが多かった。
若いころ、「みんなが読んでいる本」じゃなく、「信頼できる人が読んでいる本」を読もうとした。
と云う文章は、それこそそのまま文庫本のキャッチコピーに使えるほど魅力的であるし、何より、私自身をまだ「若い」と言っていいなら、とても共感できるものであった。
他にも、
ドストエフスキーだけでも20代は過ごせる
など面白いものが沢山あった。
そんな中、同時代の棚のポップが特に印象的で、
才能!町田康
と云うのを見て、大江健三郎と町田康と云う結びつきがちょっと連想しにくかったものだから、とても驚いた。
そして、個人的にとても惹かれたのが、安部公房の棚に貼られていた
私たちの国の天才、安部公房
というものだった。
安部公房は生前、ノーベル賞に最も近い作家、などと言われていたものだが、結局そのノーベル賞は安部公房の死後、大江健三郎に与えられた。
大江健三郎は安部公房の事をとても評価しているそうだが、ここまではっきりと、「天才」と表現しているのを見ると、やはり少なからず驚く。例えば、三島由紀夫だと、大江健三郎との間に感じる違和感は無いように感じる。それは彼らが「同時代的」であるということなのかもしれないが、「同時代的」と「普遍的」と云う余りに陳腐なカテゴライズで納得するのはやめようと思う。私は大人しく、二人の偉大な天才の比較文学をするには知が足りないことを自覚し、ただその感じる違和感を愉しむとしよう。ただ、一方は少年時代に「まっちゃま」の山村で、一方は少年から青年の境に満州で、敗戦と云う共に大きな影響を与えた体験をしていることは興味深いように思った。
だらだらと書いたが、直筆のポップもとても面白いし、書棚の並びもとても興味深いものばかりだ。どれをとっても、確かに「自前の最初の文学・文化」の契機になりうる作品ばかりのようで、とても刺激を受ける。見に行く価値はあると思うので、一度行ってみては如何だろうか。
姉が部屋に来たので、少し話していると、義兄がテレビに出るのだそうだ。何でも流行の女性歌手のステージのエキストラだそうだ。それを聞いて、テレビの大手もイイカゲンなものなのだな、と思ったが、それと同時に私のシナプスが、姉の押す呼び鈴が鳴る直前まで読んでいた『取り替え子』の古義人と吾良のモデルとなった大江健三郎と伊丹十三との義兄弟を連想したのが可笑しかった。
随分安くしたなオイ。
SIONの"ガラクタ"と云う名曲があって、それを聴きたいと思って、CDを探しに行った。
アルバム『ALIVE ON ARRIVAL』に入っているだが、確か最寄のHMVに置いてあったような記憶があったので、そこへ行った。
すると、何だかセール中で、欲しいアルバムがセール中だといいなと思ったのだけれど、SIONでは『SION '98>'03』というアルバムのみがセール中であった。
言わばベスト版のようなものなので、収録曲の半分くらいは持っていたのだけれど、"ガラクタ"が入っていたので買って帰って、聴いた。
矢張り良い曲だった。
ついでに、いつの間にか出ていた加藤伸吉の新刊『乱漫』も買って帰った。傑作『愛読者』が入っていたのでそれだけでも満足だが、ストーリーとして良いと思ったのは後数編だった。勿論、独特の絵が見られれば嬉しいというファンも多いのだろうし、私も好きだけれど、やっぱりマンガという形態を取っている以上はストーリーと演出も伴っていないと、物足りない。
君の歌は独りよがり
わがままなガラクタさ
誰もが歌える歌を書けよ
もっとセンスある綺麗なやつをそのガラクタはそのガラクタは
なんとかやってるぜ
わがままで独りよがりな
歌を歌いながら
(SION "ガラクタ")
500ml×nの生ビール、ボトルキープの焼酎、ヴィンテージのワイン、それぞれの酔いと、それぞれの新生活の疲れが相まって、酔漢たちは今しがた飲んでいたワインの澱のように、ゆっくりと眠りの中に沈んでいった。会話もトーンダウンし、テレビはワールドカップのイングランド敗退を告げていた。
澱になるには少なすぎる酔いと、増して足りない疲れのために、目覚めていた私は、夜中のテレビをザッピングし始めた。すると、ここ、千葉でも映る、テレビ東京で、痩せたイワン・マクレガーがボロボロの部屋でサッカーボールを蹴っていた。レントンだ。
イングランドが敗退を決めたときに、『トレインスポッティング』を流せしめたものは、皮肉だったのか、偶然だったのかはわからないが、悪くない。まったく、悪くない。
「Scottish くそだと君が言ったから 7月2日は born slippy」
まったく酷い出来の戯れを口にしてから、朝までこの映画を観ていることにした。
きっと芳しいであろう眠りの中で、澱のように安心して沈んでいる彼らの中で、ただ沈むべき液体を持たず、澱ではなくscumとして、朝までこの映画を観ながら、東京行きの始発が出るのを待つことにした。
Choose your life!
Choose a job.
Choose a career.
Choose a family.
Choose a fucking big television.
Choose washing machines, cars, compact disc players and electrical tin openers.
Choose good health, low cholesterol, and dental insurance.
Choose fixed interest mortgage repayments.
Choose a starter home.
Choose your friends.
Choose leisurewear and matching luggage.
Choose a three-piece suit on hire purchase in a range of fucking fabrics.
Choose DIY and wondering who the fuck you are on a Sunday morning.
Choose sitting on that couch watching mind-numbing, spirit-crushing game shows, stuffing fucking junk food into your mouth.
Choose rotting away at the end of it all, pissing your last in a miserable home, nothing more than an embarrassment to the selfish, fucked up brats you spawned to replace yourselves.Choose your future.
Choose life...But why would I want to do a thing like that?
I chose not to choose life.
I chose something else. And the reasons?
There are no reasons.
Who needs reasons when you've got heroin?
(『トレインスポッティング』)
The truth is that I'm a bad person.
But, that's gonna change -- I'm going to chage.
This is the last of that sort of thing.
Now I'm cleaning up and I'm moving on, going straight and choosing life.
I'm looking forward to it already.
I'm gonna be just like you.
The job, the family, the fucking big television. The washing machine, the car, the compact disc and electric tin opener, good health, low cholesterol, dental insurance, mortgage, starter home, leisure wear, luggage, three piece suite, DIY, game shows, junk food, children, walks in the park, nine to five, good at golf, washing the car, choice of sweaters, family Christmas, indexed pension, tax exemption clearing gutters, getting by, looking ahead, the day you die.
(『トレインスポッティング』)
