2006年5月アーカイブ

モルドヴァ産のワインを貰った。
モルドヴァ自体何処にあるのかよくわからないけれど、どうやらワインが特産品らしい。(http://www.moldova-wine.net/index.php)
86年と88年と、ヴィンテージものを二本貰ったので、暑くなって劣化する前に飲まないといけない。
さてさて楽しみでならない。
86年生まれで夏までに誕生日を迎える人が居たら、その人と飲もうかなと思ったけれど、私にはこんなに楽しみなワインを共に飲みたいと思うほど親しい86年生まれは居ないので、一安心なのであった。
自分の誕生日にでも飲もうかな。
でも、フルボトル二本も一度に開けてしまうのは勿体無いような気がしないでもないが、人を呼ぶのも惜しい気がする、所詮酒飲みは酒飲みなのである。


どうやら、モルドヴァは現在、ロシアからワインの輸入禁止措置をとられているらしい。モルドヴァは85%のワインの輸出先がロシアだそうで、こんな措置を取られたら、たまったものではないだろう。(http://zarya.blog6.fc2.com/blog-entry-401.htmlとかhttp://zarya.blog6.fc2.com/blog-entry-399.htmlとか)
エリザベス2世が定期的に注文することから「英国女王のワイン」と呼ばれるワインも造っているそうで、良いワインも造っているのだろう。
現在まともに稼動している農業部門はワインだけらしいこの国は、最大手の買い手を失って一体どうなってしまうのだろう。
勿論良いワインが失われるのはとても忌むべきことだが、それだけではないものが、ここにはあるのだろう。

問題は、IMFがワイン製造に投資しないことだ。そのかわり、ロシアの大手ディストリビューターがモルドヴァのワイナリーを近代化するための投資を行なっている。2002年には、ビールとソフトドリンクのオチャコヴォグループがワインとブランデーを製造するカロラシ(Calorasi)を買い、アロマ貿易会社(アロマティック・ワールド[アルマトヌィ・ミール]ストアチェーンのオーナー)はスパークリングワインを製造するVISMOSを買った。モルドヴァの製造者の意見によれば、最高の投資家とは民営化オークションで最高価格をつける者ではない。販売市場を持っている者のことなのだ。(http://zarya.blog6.fc2.com/blog-entry-401.html#article-2)

「最高の投資家とは民営化オークションで最高価格をつける者ではない。販売市場を持っている者のことなのだ。」と云う言葉が心に残った。

とりあえず、モルドヴァワインが美味しい事を願って、そして、美味しいワインがよき市場を得えられる事を願って、コルクを抜く日を待つとしよう。

http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20060525&a=20060525-00000182-kyodo-spo
徳山昌守が亀田興毅か長谷川穂積との対戦を条件に、引退を延ばしても良いと言ったらしい。
おお。
徳山と亀田興毅とでははっきり言って勝負にはならないと思うけれど、引っ込みがつかなくなってるんだから、どうせならば華々しく散ったらどうだろうか。
それにしても、
「本物と試合をしていないので、本物のボクシングを教えたいというのはある」
って格闘技ファンの気持ちを代弁してくれてるあたりが気持ちいい。
客寄せパンダのまま散るのは不憫ではあるのだけれど。

とはいえ、ボクシング好きとしては、徳山昌守と長谷川穂積との試合が実現したら非常に嬉しい。もっとも、徳山のモチベーションの問題もあるだろうし、これだけのビッグマッチだと実現は難しいのかもしれないけれど。

さてさて、どうなっても楽しみだ。

五月雨と云う言葉はそもそも旧暦のものなので、今で言えば、何の事はない、梅雨のことなのだ。
しかし、五月雨と云う言葉を聞くと、どこか爽やかな、涼しげな印象を受ける。梅雨のじめじめした蒸し暑さよりは、むしろ、心地よい肌寒さを連想させる。
何だか、不思議だ。
もうすぐ、本物の五月雨がやってくる。うんざりだ。
しかしまあ、雷は良い。
成瀬巳喜男の『稲妻』ではやけに印象的に光ってたっけ。
とても綺麗なシーンだった。


SIONのアルバム『東京ノクターン』を買った。
やっぱりええね。
あの声であんな詩を歌うんやもんな。
気分ががたがたになっても聴ける音楽ってのはそうはない。
幸い今はがたがたじゃないけど。

youtubeに春夏秋冬のPVがあって驚いた。
こんな昔のものもあるんだな。
tp://www.youtube.com/watch?v=--mm2NRinUo&search=sion
若い頃はちょっと顔が怖い。

中途半端な時間に 中途半端な用事で
電車を降りた俺は なのに急いでる
その昔君は白か黒で 灰色は持ってなかったな
後ろから俺の声がして ちょっと振り返る
(SION "バッカス")
わかってほしいから
振り絞っているけど
わかってもらう為だけに
生きてない
(SION "道があるなら")

真鍋圭太の復帰戦を見てきた。
先日の日本タイトルマッチで悪夢のようなKO負けを喫した後の復帰戦。
結果としては、3RのKO勝ちだったが、何となく満腹感が足りなかった。
勿論復帰戦で、勝つことが重要なのは理解しているが、それでも期待してしまうのがファンの身勝手さであって、また、真鍋圭太がそれを期待させてしまうだけの才能の持ち主なのだろう。
ともあれ、良かった。

この日の試合は、何となくイマイチな試合が多かった。
イマイチ、というより、侘しさすら感じてしまった。
十歳以上年下でデビュー戦の若手と戦う、負け越している三十路のボクサー。
日本ランクに入りそうで入れず、タイ人と胡散臭い試合をせざるを得ない東大生ボクサー。
それでも、リングの中で打ち合う筋肉の躍動は美しく、我々は、ホールならではの拳が肌に当るどこか乾いた音に熱狂する。
そして、勝った者でも負けた者でも、何処か胸に迫るものを感じた折には、惜しみない拍手を送るのだ。

しかし、矢張り、目の覚めるような、才能がそのまま形をとったような、鋭いパンチを見たいものである。

圭太の次の試合に期待しよう。

色々迷うと、この詩を読む。

わが魂よ、なぜ悲しんだりしているのか、
死ぬほどまでに、悲しんだりしているのか?
努力(ふんばり)がそなたに呼びかけているのに、
最後のひと努力が
そこに来てあなたに呼びかけているというのに?

ああ、当為を果たすかわりに
ねじりっぱなしのそなたの手、
噛みしめたそなたの唇
締りのない唇の沈黙、
死んだように無気力なそなたの目!

入信への希望を
そなたは失ったのか?
より確実に
安心立命を得ようとの
あがきは失(なく)したのか?

ますその睡気(ねむけ)を追っぱらうがよい
めそめそした夢見心地も一緒に。
夜は明けて日がかがやいている!
見るがよい、今が決行の時だ、
天は紅潮してわなないている、

まばゆい光が、
見えて来た一切のものを
黒い一線で浮き上らせ
「当為」とそのきびしい
姿をそなたに見せてくれる。

「当為」に向って堂々と進むがよい、
そなたは気づくはずだ
なおざりにしていた間じゅう
一見きびしそうに見えていた
「当為」の在り方がやわらぐのに。

「当為」だけがそなたのために
黄金よりも尊く
地上の何ものよりも確実な
愛と神秘の宝物を
保管してくれる、

「当為」だけが保管してくれる
不可視の財産を、未曾有の歓喜を、
神の平和へのふんばりを、
法悦の恍惚感を、
現実世界の忘却を、
―特に現実世界の忘却を!
(ポール・ヴェルレーヌ 『知恵』より 堀口大學訳)

まあ、現実世界は忘却しちゃいかんけど。

五月雨

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身体に黴が生えそうだ。湿度が高いのは苦手だ。梅雨生まれだが、梅雨は不快で気が狂いそうになる。


ブログのデザインを変えた。一寸は爽やかになったろうか。
明度差が少ないから読みにくいかもしれないが。あんまりだったらちょっと黒くしようか。

『間宮兄弟』の主演二人の熱意に感じ入ったので、少々長い感想を書いてみた。まだ文章勘戻らず。いやいや、そんなもの元からありませんて。

唐突に感心した話。
所謂「お妾さん」の事を、関西では「こなから」なんて呼んでいたことがあるらしい。「こなから」とは、「小半」と書き、「半分の半分」ということだ。「半」とは五合枡のことであり、つまり、「こなから」とは一升の四分の一のことである。では、なぜ「お妾さん」を「こなから」と言うか。

それは、「にごうはん」であるからだそうだ。

雑学だ。

Hey,Brother

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前日に観た『アンジェラ』があんまりだったので、急遽違う映画を再び観ることにした。無難で少し気になっていたところの『間宮兄弟』を恵比寿ガーデンシネマに観に行った。

上映時間を調べるために検索をかけると、公式HPに舞台挨拶の情報が載っていた。
そこで驚いたのだが、もの凄い数の舞台挨拶を主演の二人がこなしているのだ。一日目は恵比寿ガーデンシネマで全ての回で舞台挨拶。さらに池袋や新宿でも行っている。そのうちの何回かは予定になかったものを急遽決まったものらしく、しかも、この日にも舞台挨拶をガーデンシネマで行うことが決定したと載っている。公開初日の舞台挨拶は珍しいことではないが、それにしたって、数が凄い。全ての回で舞台挨拶をするなんて、ちょっと聞いたことがないように思う。それに加えて、二日目も行うというではないか。その心意気に嬉しくなり、ガーデンシネマに足を運んだ。

15時過ぎにガーデンシネマに着くと、16時30分からの回は既に満席。19時からの回は空席ありだったので、購入すると、それでも整理番号70番台。中々の客の入りのようだ。
19時になり、舞台挨拶が始まった。劇場後部の入り口から、ベイスターズの野球帽にパジャマ姿で登場する佐々木蔵之介と塚地武雅。そして舞台挨拶。
正直な所、舞台挨拶をあれだけの数をこなしているのは凄いとは思っていたが、その内容自体は、配給会社か劇場スタッフの司会による進行がメインで、あくまで「ゲスト」としてのものだろうと思っていた。しかし、パジャマ姿で現れた二人は、「ゲスト」ではなく「ホスト」として、我々観客をもてなしてくれた。司会の人が殆ど話すことはなく、佐々木蔵之介と塚地武雅はお互いに「蔵さん」「塚ちゃん」と呼び合う軽妙な掛け合いで進行させていき、質問を募集すると、質問をした観客の席まで彼ら自身がマイクを持って向かうなど、とても熱意を感じる素晴らしいものだった。当然場内は盛り上がり、これから上映される本編への期待は高まった。

この作品を愛していて、ヒットさせたいと云う心意気がひしひしと伝わってきて、感動したといっても大袈裟ではない。どうやらこの日も、他の劇場も回ったり、また、月曜日にもプライベートで何回か舞台に立ったらしい。一映画ファンとして、映画を愛する姿勢は、見ていてとても嬉しいものだった。


舞台挨拶によって、場内は温められ、上映中も多く笑いが漏れていた。二倍位面白く感じられたのではないだろうか。

傑作とまではいかないかもしれないけれど、プロモーションの姿勢がとても好感をもったこともあり、満足度は高かった。

それはそれとして、映画自体の感想を書こう。

[32] 『間宮兄弟』 (監督:森田芳光)
観る前は何と言うか、もっとベタベタした映画なのかと思っていたら、随分と印象が違った。
30過ぎて、とても仲が良くて、一緒に住んでいる間宮兄弟は、果たして「変」なのかどうか。その問いが出ている時点で、少なくとも疑問の余地無く「ありふれている」とは言えないわけである。リアリティとはリアルとは違うとよく言われることだが、このような兄弟が例えば親戚だとか例えばマンションの隣だとかに住んでいるかどうかが重要なのではなく、劇中世界に違和感が無いかどうかが重要なのではないだろうか。その間宮兄弟が果たして違和感なく受け入れられるか、その点が重要な問題のように思うが、その点に対してこの映画の出した答えとしての方法は、とても興味深い。
確かに始めは少し違和感があるこの兄弟だが、観ているうちに徐々にその違和感は薄れていき、劇中世界で次第に無理は感じなくなってくる。しかし、その距離が縮まるとは言っても、完全に感情移入するというところまでは行かない。この辺がベタベタしないと感じたところかもしれない。では、一定の距離を保って淡々と描かれているか、例えば、同じくガーデンシネマ公開で印象的だったアキ・カウリスマキの『過去のない男』のように描かれるかといえば、そうではない。『間宮兄弟』では、彼らへの距離が近づいたかと思うと、不意にまた離れるのだ。
例えば、佐々木蔵之介と塚地武雅の関係がとても微笑ましく時に理想的に思えるときもあれば、大きな波乱もなく同じような関係の時でも、何故か妙に異常なもののように感じたりもする。その揺れ幅があるから、観ているうちに、また、観終わったあとに、「間宮兄弟って変なのかな」という思いが浮ぶように感じる。このことは佐々木蔵之介と塚地武雅の二人の関係だけではなく、何だかふと、「この世界、何か変じゃない」と感じることがあるのだ。例えば、塚地武雅演じる弟の癖として、リスか何かのように、小刻みに食べ物を前歯で食べるというシーンがあるのだが、確かにそれは、ハッピーターンのようなお菓子を食べるシーンでは、微笑ましく思える。しかし、笹かまぼこを同じようにして食べるシーンでは、歯をビニルの上からかぶせて食べていて、かまぼこという少々粘度の高い食材のせいもあって、はっきり言ってグロテスクにも見える。とても似た場面なのに、受ける印象はまるで違う。しかも、後者の場面を気持ち悪い場面としてではなく、あくまで前者と同じような場面として描いているだけに、その奇妙な感覚をより一層感じるように思う。
他にも、佐々木蔵之介と塚地武雅が着ぐるみになる場面が、二度ほど出てくるが、それも不思議な印象を受ける。一つ目は、彼ら兄弟が映画を観ている場面で、ある瞬間に、二人が着ぐるみのように見え、また次の瞬間には元の佐々木蔵之介と塚地武雅に戻るという場面だ。これは、着替えている場面も写っていないので、ちょっとしたお遊びかメタファーのようなものだろうと感じていると、「浴衣パーティー」の場面では、実際に彼らが着ぐるみに着替えているところが、浴衣に着替えているところと重ねて映し出される。着ぐるみや浴衣を脱いでいる所も写っているところを見ると、この場面は、「浴衣パーティー」に浮かれて、「着ぐるみでも着てみたほうがいいだろうか」と考えて試行錯誤している場面だと取れるのだが、結局彼らは浴衣で女性達を出迎える。この場面だけだと、「犬か猫の写真でも貼っておかなくていいのか」と発言するのと同じように捉えられるが、前の映画を観ている場面で全く同じ着ぐるみが唐突に写っていただけに、矢張り少々奇妙な印象を感じざるを得ない。
他にも、銭湯でいつも波を立てて入る客が写っていないが、二人が脱衣場でビールとコーヒー牛乳を飲んでいる後には小さく、湯船近くで言い争っている客たちが映りこんでいる。前景のほのぼのとした印象とは違い、掴みあいの争いに見え、どうにも不思議な食い違いを感じる。
エンドロール後の「たらい」でその奇妙さは余りにも唐突で、そして、白目を剥いた塚地武雅は微笑ましさとは程遠い。
では、この『間宮兄弟』が全く奇妙な、全編そのような印象に満ちているかといえば無論そうではなく、とても微笑ましく、彼らへの距離は近づいていくのだ。しかし、近づいたかと思うと、ふとした瞬間に、上記のような奇妙な瞬間が映し出され、ふと立ち止まってしまうのだ。「何だか変じゃない?」と。しかし、その後、また彼らへの距離は近づいていき、時に妙に感じ入ったりする。そして観終わった後には、「何だかちょっと変だったけど、面白かったな。」と感じるのだ。「ちょっと変」も異物としてではなく、「面白かった」の中に含まれているような印象で。少々大袈裟な言い方をすれば、「案外日常もそんなものかもしれないな」なんて感じながら。


他に、感じたのは、コミュニケーションの断片というか、おそらくは双方向にコミュニケーションがなされているのだろうが、その片側が隠されている場面が多かったように思う。
例えば、「餃子じゃんけん」で携帯電話を使う場面(ここは普通か)などだが、一番印象的なのは、兄弟二人が自転車で走りながら、お互いにクイズを出し合う場面だ。とてもいい場面でありながら、彼らのクイズの答えが明かされることはない。
勿論私が個人的な関心から、このコミュニケーションの問題が特に目に付いたのかもしれないが、電話は総じてすぐに切られるようで余り重要な役割を演じない(ラストは違うが)ように思う。
それでも、彼らが孤立していると感じないのは、そこに描かれていないコミュニケーションを、その背後に何となく感じるからかもしれない。
自転車で二人で走る間宮兄弟にとって、クイズの答えが重要なのではなく、二人で他愛無いクイズを出し合える時間が重要であるように。

雨の銀座にて

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『丹下左膳餘話 百萬兩の壷』を観にフィルムセンターに行くものの、入り口に無情に立つ「満席」の文字。霧雨の銀座で、三度目の百万両の壷を見逃した私は、出来るだけ百万両の壷から遠い映画、この機会でなければ絶対に観ない映画を観ようと思い立った。
そして携帯を取り出し、ふと思いついたのは何故か、べッソン印であった。
なぜべッソン印だったのかはわからないし、それが例の如くべッソンプロデュースなのか、べッソン脚本なのか、それとも珍しくべッソン監督なのか、それすらも知らぬまま、新作『アンジェラ』を観に行くことにした。
私は『レオン』や『グランブルー』を引き摺っているべッソン好きではないが、監督作の文字を見たときに、「ひょっとしたらまともな作品を撮って呉れているかもしれない」と云う期待が僅かでもあったことは否定できない。ポスターの過去の監督作の中から、意図的に『フィフスエレメント』が消されている時点で気付くべきだったのだが。

言い訳が過ぎた。感想に移ろう。

今更べッソン印を観たくて劇場に行くなんて物好きはこれを読んでいる人には居ないだろうから、ネタばれで書こう。尤も、ばらすべきネタなんてありはしないが。

[31] 『アンジェラ』 (監督:リュック・べッソン) 5/13 丸の内ピカデリー1にて
「最悪の俺に、とびっきりの天使がやってきた」
と云うのは、『バッファロー'66』公開時のキャッチコピーだが、基本的には『アンジェラ』も似たようなストーリーになっている。上辺だけは。
何をやってもうまくいかないダメ男が、不意に現れた女性によって立ち直るストーリー。
身も蓋もない言い方をすれば、中学生男子の妄想のような話が、『バッファロー'66』で良い評価を受けたのは、斬新なカット割や色調や音楽と言った技術的な面もさることながら、クリスティーナ・リッチとヴィンセント・ギャロのキャラクターが良く出来ていたからではないだろうか。彼らの台詞や、身のこなし、会話の間など、きちんと作りこまれていたからこそ、「ありえない」と知りつつも、感情移入できたのではないだろうか。だからこそ、世のダメ男たちはこぞってこの映画を絶賛するのではないだろうか。自分が決してギャロほど男前でないことを自覚しつつも、ギャロに感情移入して涙するのではないだろうか。
しかし、『アンジェラ』では、主人公の男性に感情移入することは難しい。
髭もじゃで薄汚れていて醜男で背は低い、だけれど、劇中で言わせれば「中身はとても綺麗」、そんな男性だ。しかし、少なくとも、劇中で見ている限り、この男性の中身が天から評価されるほど綺麗だとは到底思えない。何でも言うことを聞くと言ったアンジェラが、男の借金を返すためにクラブで体を売ると言い出したとき、結局なすがままで、それを認める。その間、自分は飲んだ呉れているだけ。そして、その金も競馬でする。借金取りに囲まれれば、アンジェラに暴力をふるわせ、彼らを殴らせる。一番の大物のところへ乗り込むのも、アンジェラが護衛をこれまた暴力でなぎ倒した後。しかも、その一々がこれでもかとヒロイックに描かれたりするものだから、うんざりする。
『バッファロー'66』のギャロがあれだけ感情移入しやすかったのは、二枚目だが、内面の繊細さが感じられるからこそ、自分もこのギャロと同じだと感じさせてくれるからであり、ある一面ではギャロに重ね合わせることで容姿端麗のギャロに距離が近いという望みをさりげなく充たしてくれるからではないだろうか。しかし、『アンジェラ』では、誰がこの男性に近づきたいだろうか。喩えもし、自分自身がこの男性のようであったとしても、内面が繊細に描かれていない以上、同感することは困難でないだろうか。

勿論、主人公に感情移入するだけが映画の鑑賞法ではない。結局は物語を楽しめるかどうかは、物語の中にどれだけ巧に観客のための椅子を用意するかだと思う。
その点で考えても、『アンジェラ』はイマイチといわざるを得ない。結局アンジェラが物事を解決する手段は、暴力に過ぎないのだし、主人公の内面を変えることが使命だと言いながら、結局それほど変わったようには感じられない。アンジェラが天使だとするなら、本当に天使かどうかはクライマックスまで曖昧にしておくべきだと思うし(松永豊和の漫画『天使迷妄』ANGEL MARKに収録にそういう話があり、その作品の方が比較にならないほど良くできている)、天使であることの証拠が、灰皿を浮かしたり、煙草の灰を元に戻したりといったことでは余りに安すぎる。
そして何より、落ちてきた鳩の羽を持って、

「私の羽が出てた?カルシウム不足かしら」

とか、

「貴方が拾ったのは、翼を無くした天使、堕天使なのよ!」

とか言う台詞はあんまりだ!
台詞の酷さは他にも全て喋りすぎだったりする点にもあるのだが、映像も何故白黒にするのか不明だし、「三人目の主役がパリの町並み」とか言ってるらしいが、物語に全く絡んでこない映像を延々と見せられても困る。

べッソン印満載の、どこを切ってもべッソンみたいな話だったから、べッソンファンは楽しめるのだろう。
私は無理だったが。

公開初日ながら、客席は1/5ほどの入り。観賞後それも納得。私が観た前の回でぴあの出口調査がされていたが、私が出る時には居なかった。聞かれなくて良かったと思いながら、得点を考えると5/100点くらいだろうか。女性が綺麗なので5点。カラーで女性が観られていたら10点あげてもよかった。

まあ、いい経験だったよ。金返せ。


『ベルリン・天使の詩』とは敢えて比べない。比べものにならない。

蔵出し

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書きかけていたのものを頑張って書いてみよう。
『マンダレイ』の感想。
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2006/04/post_326.html

いやさ、『マンダレイ』はもちろん、『ドッグヴィル』だけでも観ている人が少ないなんてことは知ってるけどさ、そんなことは重要じゃないんだよ。多分。
兎に角書こう。

ツタヤにてレンタル
フォービート・アルチザン・岡本喜八の映画音楽
サントラ盤!!書を捨てよ町へ出よう
キング・クリムゾン/ポセイドンのめざめ
ピンク・フロイド/ザ・ウォール
ブッカー・リトル/アウト・フロント
の5本のCDと
『ゆきゆきて、神軍』のDVD。

濃いんかね。どうなんかね。

実は全てのCDとDVDを私の一つ前に借りている人物が一人居て、その人物を突き止めようとしていたら、新幹線だか飛行機だかの隣の席に坐っていた人物が正にその人物だということで、運命だとか信じちゃう性質かどうかはおいても、とりあえず名前を聞いたら、「タイラー・ダーデン、石鹸を作っているんだ」と答えられた。めでたしめでたし。

kusamatrix

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http://www.uniqlo.com/L4/getitem.asp?hdnItemMngCD=u36347
実物も見てみたけれど、草間彌生なのにフツーだった。
荒木飛呂彦のもさほどでもなかったように思えた。

これだったら、森鷗外Tシャツの方が格好良い。
バックプリントに森鷗外の写真、胸には崩した書体で、「鷗外」の文字。
クール過ぎる。
プラド美術館展に行ったら、東京都美術館の前で商店街っぽい人々が売ってた。
買いそうになったけれど、ぐっと堪えたのである。

ボクシングを見ようと思ってテレビをつけたら、トランクス姿で歌っている人が写っていた。
ボクシングを見たかっただけなのに。

ともあれ、22日は真鍋圭太の試合がある。
まっとうなボクシングを見られそうだ。

石川ジムのエスパーサトルって誰…。

われに五月を

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書きたい事はいっぱいあるけど、まとまらんわ。
散文スイッチが入らんね。

『同時代ゲーム』を読んでて、『ビデオドローム』と『さらば箱舟』をDVDで観たら、頭がおかしくなりそうになった。
まあ、もともとおかしいけど。

http://www.momat.go.jp/FC/kyobashi-za.html
こんな企画があるらしい。

『丹下左膳餘話 百萬兩の壷』がスクリーンで観られるので、また行こうかと思う。
日本映画で一番好きな作品は、と言われたら、私は『丹下左膳餘話 百萬兩の壷』か『酔いどれ天使』か『用心棒』かで迷う、そんな作品だ。あ、小津も棄てがたい。
あなたがどんな映画を観てきたかはわからないけれど、今まで観た中で一番面白かった日本映画と同等かそれ以上に面白いと断言しても過言ではないかもしれない。
まあ、好みもあるから、過言やけど。

屋根より高いこいのぼり
大きい真鯉はお父さん
小さい緋鯉は子供たち
面白そうに泳いでる
こいのぼりは父子家庭である。 と寺山修司が言ったかどうかは知らぬが、先日NHKの「こだわり人物伝」と云う番組で、美輪明宏が寺山修司について語っていた。よく作られていて、非常に興味深い内容だったのだが、中でも特に印象的だったのが、「実は寺山修司の母は寺山の死の時点で生きていた」と云うことだった。尤も是は公然たる事実であって、特に驚くに足りぬことかもしれないのだが、彼は作品の中で度々母親を殺し、或は、もはや亡きものとして扱っている。だから、作品から想像する寺山修司像では、母は死して色濃く影響を与えているものだと私には思えたものだから驚いたのである。しかし、番組中でも述べられていたが、彼は母親から逃れられないが故に、何度も何度も母親を作品中で殺し、そうして作品を作っていく上で皮肉にも必然的に母がある種の制作の原動力のようなものとなっていったようだ。映画『田園に死す』に於いて、半ばまでの劇中劇では、母は少年に棄てられるが、大人になった元・少年は、実際は殺せなかったとして「書きかえられない過去なんてない」と言いながら、再び母を殺すべく故郷へと立ち戻る。しかし、この作品でも確かに元・少年は、母を殺すことは出来なかったのではなかったか。寺山修司は、母を、殺せなかったのだ。だがしかし、彼は、母を殺し続けた。短歌で、映画で、随筆で、詩で、演劇で。そしてまた、母ハツは同じく彼女が死んでいたと思い込んでいた美輪明宏に向かって笑顔で「私は何度も殺されていますから。修ちゃんの為だったら私は死んだって構わないんです。」と言ったそうだ。そして、寺山の死の直後、彼の死が信じられないというテレビのインタビュアーに向かって、母ハツは、余りにもまっすぐな目で、「修ちゃんは死んでいません。今でも此処に居ます。」と答えている母子愛というには余りにも壮絶な、凄惨とも言える映像が流れていた。 「寺山修司は母を棄てられも殺されもせず、母ハツは寺山修司よりも長生きした」このことは果たして「書き換えられなかった過去」なのだろうか。 いや、おそらく、彼が母を殺すことによって、『田園に死す』を、『毛皮のマリー』を、『時には母のない子のように』を作ったように、彼が過去を書き換えたということは、書き換えようとする行為そのものによって生み出されたテクストによって、彼自身も変容していくということに他ならないのではなかろうか。「幸福とは幸福に向かう状態のことである」と寺山修司は好んで引用していたが、些か凡庸な結論を述べれば、過去を書き換えるということもまた、同様なのではないだろうか。


寺山修司は1983年5月4日、死んだ。
1983年はディズニーランドとファミコンが生まれた年だそうだ。
私はまだ一歳にもなっていなかった。

寺山修司はもう居ない。ディズニーランドとゲーム機はある。
私は、どうだろうか。

過剰/箇条

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今日の19時から21時のNHK教育。
トップランナーで向井秀徳。
NHK映像ファイルで安部公房。
新日曜美術館でゴヤ。

熱いね。

疑念:「ロックの若きカリスマ」と云う枕がついた人物に果たして本当のカリスマが居た/居るだろうか。
カリスマと感動と愛、それに涙も添えて大安売りか。

ブッカー・リトルやっと買えた。
聴いてみる。

ブッカー・リトルより年寄りになる前に買えてよかった。
ジェームス・ディーンよりも年寄りになりつつある。

明日は上野でベラスケスを観て来よう。ティツィアーノでもなく、ゴヤでもなく、グレコでもなく、ベラスケス。

四月の記録

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四月の記録

<本>
<22> 寺山修司 『さかさま恋愛講座 青女論』
<23> 深沢七郎 『庶民列伝』

[映画]
[22] 『サマータイムマシン・ブルース』 (監督:本広克行) 新文芸坐にて 4/1
[23] 『運命じゃない人』 (監督:内田けんじ) 新文芸坐にて 4/1
[24] 『マンダレイ』 (監督:ラース・フォン・トリアー) シャンテシネにて 4/20
[25] 『ロード・オブ・ザ・リング スペシャルエクステンデッド・エディション』 (監督:ピーター・ジャクソン) 新文芸坐にて 4/22
[26] 『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔 スペシャルエクステンデッド・エディション』 (監督:ピーター・ジャクソン) 新文芸坐にて 4/22
[27] 『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還 スペシャルエクステンデッド・エディション』 (監督:ピーター・ジャクソン) 新文芸坐にて 4/22

(漫画)
(14) さいとうたかを 『サバイバル』 7巻 (リイド文庫版)
(15) さいとうたかを 『サバイバル』 8巻 (リイド文庫版)

まあ、さぼったね。

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