2006年3月アーカイブ

寺山修司は自身の監督映画作品『田園に死す』で書きかえられない過去は無いと登場人物に言わせている。
編集可能な過去が物語であって、それ以外に編集不可能な過去が事実として残るとしたら、結局のところ、書きかえられる過去なんてなくなってしまう。
編集不可能な事実としての過去を避けて紡ぎ出された過去なんて、それは書き換えた過去ではなく、所詮はanother storyにすぎなくなるのではないだろうか。
ある過去が事実として書きかえられないと感じたとしたら、それはきっと過去ではなく、現在なのではないか。或は、現在を含む過去なのではないか。そして、現在を含まない過去なんて、書き換えるに値しないものであり、敢えて「書きかえられない過去なんてない」と俳優が白々しいスクリーンから叫ぶのは、現在を書き換えろと言っているのではあるまいか。
白塗りの顔をした高校生の私と将棋をさすということは、そういうことなのではないだろうか。
妄言だろうか。

まあ、話は『田園に死す』を観てからだ。
ツタヤでも探せばあるのではないか。

[21] 『ボブ・ディラン ノーディレクション・ホーム』 (監督:マーティン・スコセッシ) シアターイメージフォーラムにて 3/28
私はつい最近ボブ・ディランを聴き始めたような初心者で、"Like a Rolling Stone"が当時ブーイングでもって迎えられた程度のことは知っていたけれど、当時のフォークが、ロックが、どういうものだったかなんて、まるで知らない。それでも、私はこの作品を震えるくらいに味わったけれど、ボブ・ディランのことを全く知らないでも楽しめますなんて、したり顔で無恥に語るのだけはやめようと思う。おそらく私が味わうことの出来たこの映画の良さは、ごく限られた一部なのだと思う。語る資格はないのかもしれないとも思う。
ただ、この作品に出てくる、著名であるそうなシンガー達を全くといって良いほど知らない私でも、味わうことが出来たのは、私自身がボブ・ディランに興味を抱き始めているという、それだけの単純な理由ではないのだと思う。それだけの興味で、210分も観ていたら苦痛を少しは味わうだろう。それでも退屈しなかったのは、矢張りスコセッシの力量、と単純化したくはないけれど、構成の力は存在するように思う。ヒリヒリするような緊張感と、ボブ・ディランのナーバスさは、何より伝わってきた。かといって、ボブ・ディランの人生にだけ一人称的に焦点を合わせることをしておらず、 ケネディ暗殺などの当時のアメリカの映像や、当時の関係者の証言などを横糸に、ボブ自身の人生を縦糸に、そして、そのテクストの上に、現在のボブのインタビューをさらにレイヤーとして重ねている感じだ。それらが絶妙なバランスで作られているように思えるから、なんだかとても奇妙な気分にさせられる。奇妙な、全く奇妙な、そして、とんでもなく、感動するような。そんな気分だ。
ブーイングが溢れる観客に、you lierと呟いた後、仲間に「でっかくいこうぜ」といって唄い出す"Like a Rollling Stone"は、心をわしづかみにする。


Once upon a time you dressed so fine
You threw the bums a dime in your prime, didn't you?
People'd call, say, "Beware doll, you're bound to fall"
You thought they were all kiddin' you
You used to laugh about
Everybody that was hangin' out
Now you don't talk so loud
Now you don't seem so proud
About having to be scrounging for your next meal.

How does it feel
How does it feel
To be without a home
Like a complete unknown
Like a rolling stone?

You've gone to the finest school all right, Miss Lonely
But you know you only used to get juiced in it
And nobody has ever taught you how to live on the street
And now you find out you're gonna have to get used to it
You said you'd never compromise
With the mystery tramp, but now you realize
He's not selling any alibis
As you stare into the vacuum of his eyes
And ask him do you want to make a deal?

How does it feel
How does it feel
To be on your own
With no direction home
Like a complete unknown
Like a rolling stone?

You never turned around to see the frowns on the jugglers and the clowns
When they all come down and did tricks for you
You never understood that it ain't no good
You shouldn't let other people get your kicks for you
You used to ride on the chrome horse with your diplomat
Who carried on his shoulder a Siamese cat
Ain't it hard when you discover that
He really wasn't where it's at
After he took from you everything he could steal.

How does it feel
How does it feel
To be on your own
With no direction home
Like a complete unknown
Like a rolling stone?

Princess on the steeple and all the pretty people
They're drinkin', thinkin' that they got it made
Exchanging all kinds of precious gifts and things
But you'd better lift your diamond ring, you'd better pawn it babe
You used to be so amused
At Napoleon in rags and the language that he used
Go to him now, he calls you, you can't refuse
When you got nothing, you got nothing to lose
You're invisible now, you got no secrets to conceal.

How does it feel
How does it feel
To be on your own
With no direction home
Like a complete unknown
Like a rolling stone?
(Bon Dylan "Like a Rolling Stone")

映画化

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http://www.kaerucafe.co.jp/fugakuhyakkei/
えらく快活そうな津島修治だなあ。

電車なんかで袴姿の「ハイカラさん」を見かけることが多くなって、もう卒業式シーズンかなんて思ったりするわけだけれど、卒業式といえば、思い出すエピソードがある。
それは、デーモン小暮閣下が早稲田大学を卒業する時のエピソードで、閣下はなんと、あの悪魔の扮装で卒業式に出席しようとした。当然大学当局と揉めたのだが、その時に、
「あいつらはスーツで社会に出るからあれが正装なんだ。俺は、この服装で社会に出るのだから、これが正装なのだ。」
と押し通して、そのまま出席したそうだ。
かっこいいなあ。
なんとなく、「ハイカラさん」を見ると、閣下を思い出す。
そんなアンバランスなわたくしのシナプスでございます。

桜が咲いたようで。
桜もいつか咲くけれど、散らない桜もないように、散らない恋もないのです。とか誰かが言ったとか言わないとか。
散ろうと散るまいと桜は美しいと思うけれど、「永遠にずっと変わらないなんて燃えないゴミと一緒じゃないか」というのもまた、真実なのではないかと思ったりしないこともないような気がしないでもない。
散りつつある桜を見ながら、若干の寂しさとともにその美しさに胸打たれながら、来年の桜を期待する思いの中に、また来年の桜吹雪散る景色が浮んでいるとして、その思いを不純だと責めることが可能なのか不可能なのか一体どっちなのでしょうかなんて考えてみたり。

まあ、そんな気がしたりしなかったりする、って言ってたよ。

やっぱり胃が壊れていた。

以前梅を見に行ったとき、初老の男性がしみじみと、「矢張り花が咲いている枝は細いな」と呟いていた。

物の見方は人様々だ。

胃が壊れて一日中家にいた。

僕は、陽気を春と感じるかな…。
実にこの人らしい答え方で、素敵な答えだと思った。

相国寺の観音菩薩像は全て法華経の経文の文字によって描かれており、細い線に至るまで微細な文字によってえがかれているので、全体的に少しぼやけたような独特の質感ではあるが、近づいて見るとやはりそれが漢字の集合であることがわかる。
複製ではあるがそれを見て私は呟いた。
元祖アスキーアートではないか、と。

「……というわけで、此処には1001体の観音像があるわけでして、どこからみても観音様が放射状に見えるわけです。そのような中で、一体だけ自分に微笑んでくれる観音様があり、それが自分のご先祖だと云う風に言われております……」
隣に居た観光客の団体のガイドの説明を聞きながら、いつしか私も自分に微笑んでくる観音像を探していた。きっと自分に微笑んで呉れる観音像が居るとすれば、後段か端の方に居るだろうと思いながら。そして実際、端のほうに居た観音像が笑っているように思えたのだが、一体一体表情や装飾が異なるこの観音像たちのなかで、たまたまそれがそういう表情に作られているだけなのか、それとも実際私に微笑みかけているのか、私にははっきりとした自信を持って判断することが困難なように感じられた。それを判断するのはおそらく簡単なことで、隣で同じように観音像を見ている友人に聞けば、それが私の主観的な印象なのかどうかははっきりしたことだろう。しかし、私は、それを聞くのも躊躇われた。そしてまた、其処を出たあと、友人に「笑ってくれた観音様おった?」と聞かれたときも、私は、「うーん、わからんかったなあ」と言った。私は何を、隠そうとしたのだろうか。

nothing but love

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http://www.walkerplus.com/tokyo/latestmovie/8MABH001.html
渋谷の映画館、シネマ・アンジェリカ(渋谷シネマソサイエティがあった場所らしい)でクシシュトフ・キェシロフスキの特集上映があるそうだ。
覚えにくいことこの上ない名前のこの監督は、ポーランドの巨匠である。今回上映されるトリコロール三部作を含めて、どれを観ても傑作間違いなしの名作ぞろいである。
聞いたことないから、なんていわずに、試しに観に行ってみるのもいいのではないだろうか。
今までに味わったことのない種類の感動で打ちひしがれることは請け負おう。
キェシロフスキの映画には、キェシロフスキの映画でしか味わえない圧倒的な、しかも、静かな力がある。
個人的に好きな作品は、『トリコロール 白の愛』で、この映画は私のマイ・ベスト10には必ず入れたい作品である(そんなことに興味はないだろうけれど)。
『殺人に関する短いフィルム』はそこらのホラーでは太刀打ちできないほどの力で我我を打ちのめし、深みに引きずり込む。
『愛に関する短いフィルム』の愛の形は或る意味究極の形であるのかもしれないが、この映画もとても好きだ。

気が向いたら、行ってみるのをお奨めしておくとしよう。

何より、自分が忘れないようにこの文章を書いているのだから、私も向かうとしよう。
トリコロール三部作の映像美はスクリーンで堪能しなきゃね。

私はモラルには興味がない。
興味があるのは美と感情だ。
しかし、もっとも大事なのは愛だと思う。
愛を失ったら、
生活は指の間からこぼれ落ちてしまう。
――クシシュトフ・キェシロフスキ

「春はいつ来るのか」、いや、これからの話の流れでより正確に言えば、「春が来たと思うきっかけは何か」と云う話をすることがここ最近妙に多い。奇妙なのは、その殆どが私から言い出した話ではなく、会話が不意に飛んでそのような話になることが多いのであって、殆ど会話の主導権が私に無いような場合が多いということだ。尤も、それを他の話題と比べて特別多いと感じるのは、私の関心がそこに向いているからそう感じるだけなのかもしれない。
「春が来たと思うきっかけは何か」その問いに或る人は節分だと答えるし、それは旧暦と新暦の違いを無視していると批判する人も居る。寒がりで桜が咲くまでは春と認めないと云う人も居るし、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」を引いて春の季語の梅が咲けば春だと云う教養人も居た。そんな中、「風に春の匂いが乗れば春だよね」と言った人が居た。その言い方が実にさりげなく、当然のことのようにサラリとした、ワザとらしさを微塵も含まないものだったので、その発言が「リリカルさ」を狙った意図的な仮面の如き発言ではないことは明らかだった。そして、この人にとって風に春の匂いがすることは、桜が咲くとか、梅が咲くとか、節分が過ぎるとか、そういうことと全く同じ次元で語っているのだということが私にとっては、少々大袈裟に言えば感動的ですらあった。春の匂いを五感ではっきりと掴めるほどにはっきりと感じているのである。果たして私は、抽象的な次元ではなく、具体的に春の匂いを感じているだろうか。そういう人は、とても素敵だと思った。
ちなみに私自身は、沈丁花の香りを感じると、春を感じる。

思い出すままに考えを巡らす。

時を遡ること数日、私は初めて成田空港へと行った。空港第2ビルだとか云う場所だったそうだが、私は其処から何処かへ旅立つと云うわけでもなく、ただ手ぶらでその奇妙な場所を見て回っていた。実際そこはとても奇妙な場所で、4階ほどある建物のはずなのに、妙に平べったい印象を受けた。それは恐らく、フロア毎の天井が高かったり、吹き抜けになっていたり、仕切られていない空間が広いということに起因するのだろうが、その平べったさはそれ以上に独特の印象だった。その平べったい印象は、妙に温度が高く設定されているらしき空調と、南国に行くかそこから帰ってきたのかで半袖の人とコートを着た人が混在していること、様々な国籍の人が存在することなどから、非現実的な空間のように私には思えた。非-日常という以上に、非-現実。このパーティションで区切られた向こう側へと行くと、航空機が遥か遠くの国へと連れて行ってくれると云うことが、とても信じがたいように感じられた。ここには線路もないし、高速道路も接続していない。あるのは、アスファルトの滑走路だ。途中で途切れているアスファルトの滑走路。そこから外国へ飛び立てると生々しく実感するには、東京駅のホームや、高速道路に乗る瞬間に感じるのと同じくらいの生々しさで実感するには、果たしてどのくらいの想像力が必要なのだろうか。それとも、単なる経験値の問題なのだろうか。

ふと手元に目を落とすと、持っている文庫本がある。

大江健三郎『ピンチランナー調書』 これまた、この非-現実の空間で読むに相応しく、また、もっとも似つかわしくないものでもあった。

再び空港の話。

『ピンチランナー調書』とともに"Welcome to Japan! "と書かれたスケッチブックを抱えた私は、空港とはまた違った非-現実に足を浸しながら、所謂要人を迎えた。抱擁を交わしたその人物からはどこか鉄の様な匂いがし、それはこの空港にある非-現実を裏返しにしたところの現実の匂いのように感じた。その人物は私に、土産として、紫色の文庫本サイズのメモ帳を呉れた。それがその人物の出身国の英雄なのかどうかは知らぬが、二人の老人が仲良く酔っ払って写った写真があった。そしてその下には、次の様な文句が書かれてあった。
―Many people will walk in and out of your life, but only true friends will leave footprints in your heart.―
leave footprintsそれは去ってからしかその存在を理解出来ないのだろうか。

若干感傷が過ぎた。

結局のところ、この日記は出鱈目だ。

アヒル男

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男が席を立ってから一向に帰ってくる気配もないので、私はトイレを見に行った。半開きになったトイレのドアから見える男は、後生大事に陶器を抱え込んでトイレの床に力なく座り込んで、アヒルのようにガーガーと低い鳴き声をあげながら吐いていた。大丈夫かと私が聞くと、男は、アヒルの鳴き声の合間に、ああ、と応えた。
―わずかばかりの安ウイスキーと胃液以外は何も入っていないはずなんだ、俺の胃袋には。なのに、おれはこうして、何かを吐き出そうとしている。わずかばかりの安ウイスキーと胃液以外の何かを。実際それの存在を俺は生々しく感じてはいるのだが。それは、空っぽであるはずの俺の胃袋の中にぎっちり詰まっていて、それはまるで油粘土のように灰色で、油臭く、ベタベタしていやがる。俺はそれを吐き出そうと、こうしてこの陶器の便器を後生大事に抱え込んでアヒルの真似をしているという次第さ。
男は、一文節ごとにアヒルの鳴きまねを入れながら、途切れ途切れにそう言った。
―しかし、実際、いつまでたっても、わずかばかりの安ウイスキーと胃液しかでないじゃないか。それに、赤いものまで混じってきている。もう、よせよ。胃薬ぐらいなら持ってるぜ。
―胃薬、そんなもので俺の油粘土を取り除けるものかね。俺だって、何もないことぐらいわかっている。俺が吐き出そうとしている油粘土は、「からっぽ」そのものなんだ。この、油粘土のように醜い「からっぽ」を吐き出せるためなら、俺はなんだってやる。だが、いつまでたっても「からっぽ」は小指の先ほども出てきやしない。
―水でも飲んで酔いをさませよ。兎に角戻ろう。
私はアヒルの物真似を続けながら油粘土について語り続ける男を支えるようにして、もとの部屋に戻り、水を差し出した。男は、水には目もくれず、タンブラーに安ウイスキーを並々と注ぎ、それを一息に飲み干した。
―胃に油粘土を詰め込むくらいなら、この安ウイスキーで並々と充たす方が、幾分かましだね。
と男は言った。
―君はいつもこんなファナティックな飲み方をするのか?
―胃の中に油粘土を感じるときはいつもさ。顔が裏返って観葉植物になる男の小説を以前読んだが、俺も「中身」を全て裏返したいんだ。きっとそれは、観葉植物になった男がそうであるように、想像を絶する快感を伴うに違いない。
―しかし、顔と内臓じゃ少々具合が違うだろう。
―ああ、違うさ。俺は顔より「中身」を裏返したいんだからな。そうしてそっくりこの嫌な油粘土を吐き出してしまいたいんだ。
そういうと男は、再び席を立った。また、アヒルの真似をしにいくのだろう。

遺物

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朝目を覚まして、まだ霞がかかった頭でテレビでもめくろうとリモコンでスイッチを入れると、爽やかな休日の朝には似つかわしくない中曽根康弘の顔が映った。
隣に同じく爽やかとは言いがたい男性が坐っていて、その人が『国家の品格』の藤原正彦だというので、少し見ていたが、すぐに気持ちが悪くなって消してしまった。もっと耐久力をつけなくては。

憲法の下位規範の一つとして皇室典範を置いていることじたいそもそも誤りであるそうだ。
万世一系の天皇の血脈は、2000年以上も続いてきた伝統であり、それを平成の世で途絶えさせることは、有識者は愚か、国会、内閣、平成天皇自身に於いても、言語道断だそうだ。
エリートの定義は、役に立たない教養を山ほど抱え込んでいて、それに支えられた対極的なものの見方が出来る者のことだそうだ。
小学生に、詰め込みでも何でも構わないから、漢字を山ほど教え込めば、皆本を読むようになるんだそうだ。

誤りだと一蹴することには何の意味も無く、現在の法規範との整合性を初めとしたその根拠こそが重要なのではないだろうか。
伝統なんてものは、その時々の必要性に応じて創り出されるものではないのだろうか。
役に立たない教養は雑学にしか過ぎず、教養が必要なのは一握りのエリートだけなのだろうか。
漢字ドリルばかり山ほどやらされた子供は、如何にして太宰治を読むだろうか。

万世一系の伝統が無ければ、海外で日本の威信を保てないと元首相の中曽根康弘は言っていたが、貴方の元上司だったアメリカには如何なる遺跡があるというのか。

免疫力を高めるために『国家の品格』を読もうかしらん。
「役に立たない教養」を抱え込むために。

横浜市営地下鉄に乗りながら私は、センターは何処だろう、と考えていた。センター北という駅名が在り、次の駅はセンター南だ。センター北とセンター南の間にセンターは存在しない。一体何センターなのか。駅にはそれらしき表示は無く、外を見てもそれとわかる大きな建造物はない。規定の路線に乗っている限り、センターには決して到達することはないのだ。そこに私は『城』にも通じるカフカ的不条理を感じながら、漠然とした不安を感じていた。

なんてことを言いながら、カフカ的不条理なんてアナクロな言葉を使って、大江健三郎を読んで、プログレばかり聴いている私は一体、昭和何年を生きているんだろうか。線路の延長線上では決して到達しえないのは、「センター」ではなく、私自身の21世紀なのかもしれない。

大江健三郎がとりあえず『個人的な体験』で余りに圧倒されつつも一段落したので、以前から読みたかった赤瀬川源平の『超芸術トマソン』を息抜きがてら読んでいる。その中の、異様に恐ろしい写真。私は高所恐怖症ではないが、それでも足がすくむような写真である。
撮影:飯村昭彦

「じゃあさ、せっかくならこの魚眼レンズを一脚に付けてさ、手に持って上に上げて、自分の全身ごとエントツ撮ればいいのに」
私はヤケでふざけて言いました。
「ええ。僕もそれがいいと思って、いちおうやってみたんです」
飯村君はまた一枚写真を差し出しました。
「う…………」
見て下さい。じっくりと見て下さい。まぎれもなくエントツのてっぺんに立っている!飯村君が!
「こ、これ……」
「ええ。一脚に魚眼付けて、自動シャッターで」
「くわァーッ」

狂気だ。

地下鉄の狂気

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夢現の話

生徒「先生は何だかんだ言って成績が良い生徒の方が可愛いんでしょ。」
教師「そんなことはない。先生の右手には五本の指がある。中指が一番長いし、親指は太く、小指は短い。だけど、だからと言って、中指が一番大切というわけではないし、どの指も切り落としたくはない。君達もそういうものだよ。」
生徒「でもやくざだったら他ならぬ小指を真っ先に切るよ。それは小指だからでしょ。」
教師「先生はやくざじゃないし、この場合の喩えには適切な反論じゃないよ。」
生徒「だったら、僕だって先生の指じゃないよ。」
教師「わかった。じゃあ、こう訂正しよう。先生は、君以外の生徒は全て大切だ。これでいいかい?」
生徒「うん、それなら文句ないよ。」
教師「さようなら」
生徒「さようなら」

ホフマン

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まさか本当にフィリップ・シーモア・ホフマンがアカデミー賞獲るなんて。
なんか嬉しい。なんでだ。

文化庁メディア芸術祭最終日に行ってきた。
時間の都合上で少し覗いただけになってしまった。去年より出展作品数が少なくなっているようではあっても、それでも全ての作品を観るには一日では足りぬほどのボリュームなのである。
見たのは、アート部門、エンターテイメント部門の一部、アニメーション部門の一部、マンガ部門、などであり、映像作品の上映は、アート部門とSIGRAPH(アメリカのメディア芸術イベント)の映像作品集である。
初めて行った去年も感動したのだが、今年も圧倒されるほどの鮮烈なアイデアとイメージの洪水である。ただ、若干去年と比べて作品数が減ったようにも思えた。
アート部門のインタラクティブな作品群は全て面白かったのだが、殆ど悪趣味な悪戯のようなものとして強烈に印象に残ったのは、『Conspilatio』http://plaza.bunka.go.jp/festival/sakuhin/sakuhin/art06.htmlだった。モニタとストローの差込口のついた装置からなるこの作品を文字通り味わうには、ストローを受け取り、差込口に差し込む。そして、モニターに映し出された食べ物を指でタッチした後は、ストローを吸い込む。すると、実際にその食べ物をストローで吸って得たデータから、ストローの吸うべき圧力、振動、音が再現され、まさにその食べ物をストローで吸っている感触が思った以上に生々しく再現される。その再現されるべき食べ物は、コーラから始まり、なめこ、納豆、ラーメン、果ては隠しメニューとして蛙(!)まで存在する。なめこがちょっとストローに引っかかってからズルリと吸い込まれる感触までが可也リアルで、蛙の気持ち悪さにいたっては、数時間後まで雨蛙が口の中に入ったような感触を引きずるほどショッキングであった。
他にも、天体望遠鏡のような形をした『SPYGLASS』http://plaza.bunka.go.jp/festival/sakuhin/sakuhin/art03.htmlも面白い。これを覗くと、あたり一面360度回転するのにしたがって動く海面の映像が見ることができ、ズームも可能である。そして、レンズの近くにはどこからか潮風のような空気がうっすらと噴出しているようで、単純なようでありながら、驚く程その世界を手近に感じることが出来る。それを可能にしているのは、文字通り全天見渡すことが出来る再現度であるのだろうが、こうも簡単に海を感じられるだろうかと驚かずにはいられない。
大賞を獲った『Khronos Projector』http://plaza.bunka.go.jp/festival/sakuhin/sakuhin/art01.htmlも素晴らしかった。正に時を指先で自在に操る感覚である。
どれもこれも、インタラクティブなものは、視覚はもちろんのこと、触覚、嗅覚、『CONSPIRATIO』に至っては味覚に近い口腔内の感覚、に訴えかけてくるもので、とても刺激的だった。

映像作品もどれもここに書ききれぬほど面白く、愉快で、とても楽しめた。
とても素晴らしい展示だと思うのだが、どうしてもっと宣伝しないのであろうか。折角こんなに素晴らしい活動をしているのに、知られていないのでは余りにも勿体無い。渋谷駅に大きなポスターは貼られていたが、その程度の露出しか私は少なくとも触れなかったし、『メディア芸術』という新しい分野なのだから、もっと文字通りメディアを活用してアッピールして然るべきだと云うのが、この展示を観に行って感じた唯一の不満点だった。

SIGGRAPHの映像作品を観ていて、気になったのが、去年に比べて妙にブラックな、毒を含んだテーマの作品が多かったように思う。世相が反映されているのだろうか。
その中でも秀逸で笑わせてもらったのが、"Learn Self Defense"だった。
http://www.atomfilms.com/af/content/learn_self_defense
いやあ、面白い。
"Cubic Tragedy"http://video.google.com/videoplay?docid=104061516152793028&q=cubic+tragedyも面白かったが、ctrl+Zがそこまで一般的ではないと思うので、画像や映像を触ったことがある人しかわからないのかもしれない。これもやはり、毒がある。

少しだけしか見られなかったが、とても面白かった。来年も行けたらいいな。

最後に、コネタっぽく。
バカバカしいけど気に入った小品。
『コタツネコ』
http://www.aokijun.net/movie.html

たまには普通の出来事日記風にかきましょう。

夜通し呑んでいるうちに、いつしか桃の節句になっていた。0時を回った瞬間だったのか、それとも一番鶏が鳴いたときだったのか、日の出とともになのかはわからないが、いずれにせよ、私が通勤客で溢れんばかりの地下鉄の中で数時間前の焼酎の名残りで喉をひりひりさせていた時には、桃の節句であった。人の数からすると奇妙に静まり返って線路の音だけがこだましている車内で、私はアルコールの薄い霧がかかった頭で、桃の節句についてぼんやりと思い出していた。私には二つ違いの姉が居るので、実家では3月3日には雛壇がこしらえられていた。お内裏様にお雛様、左大臣に右大臣、三人官女に五人ばやし、牛車や菱餅など、数々のミニチュアはとても魅力的だった。そんな中、幼い私がどうしても理解出来なかった人形が、泣き上戸と怒り上戸だった。澄ましきった顔をしている他の人形と比べて、妙に感情をあらわにしているこの二人は、一体何物なのかを私はよく祖母や母に聞いたものだった。そのたびに、この人たちは、泣き上戸と怒り上戸で、お酒を飲んで酔っ払うと泣く人と怒る人なのだと教わったのだが、私にはその説明が理解できなかった。彼らが泣き、怒っているのは、悲しいことや腹立たしいことのためより、酒のためだということが、理解できなかったのである。酒を飲んでいようと飲んでいまいと、泣くほど悲しいことは悲しいだろうし、怒るほど腹立たしいことは腹立たしいはずだと、そう思っていたのだ。そして、どうしてもこの二人を理解出来なかった私は、いつしかこの二つの人形が、何か私の理解の範疇を超えた存在のように思え、彼らの泣き顔、怒り顔がとてもグロテスクなもののように思えた。暗闇で見る雛人形はどれも気味が悪いものだったが、とりわけ泣き上戸と怒り上戸は、どこか狂気すら感じるようで、私はとても恐ろしく、忌み嫌っていた。
そして、20年近く経って、胃の中にアルコールを溜め込んで地下鉄に揺られている私は、もう、すっかり、泣き上戸、怒り上戸の心境も理解できるようになっている。むしろ、澄まして鼓を打っている五人ばやしやお内裏様にお雛様より、彼ら二人に親しみすら感じるだろう。
そんなことを考えている私と云う異物を載せながら、通勤地下鉄は寡黙に線路の音を立てながら走っていた。

二月のまとめ

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二月終わったのか。
最悪の二月も、年々短くなるよ。
これを6回繰り返せば年は明けるんだってよ。6回だぜ、6回。たった6回。
12ヶ月も6回も、何の意味もねえんだ。
ただの記号だ。

二月の記録
<本>
<9> 大江健三郎 『空の怪物アグイー』 2/24
<10> 大江健三郎 『見るまえに跳べ』 2/27

[映画]
[7] 『侠骨一代』 (監督:マキノ雅弘) 新文芸坐にて 2/16
[8] 『侠客列伝』 (監督:マキノ雅弘) 新文芸坐にて 2/16
[9] 『次郎長三国志 第一部 次郎長売出す』 (監督:マキノ雅弘) シネマヴェーラにて 2/20
[10] 『次郎長三国志 第二部 次郎長初旅』 (監督:マキノ雅弘) シネマヴェーラにて 2/20
[11] 『次郎長三国志 第三部 次郎長と石松』 (監督:マキノ雅弘) シネマヴェーラにて 2/21
[12] 『次郎長三国志 第四部 勢揃い清水港』 (監督:マキノ雅弘) シネマヴェーラにて 2/21
[13] 『次郎長三国志 第五部 殴込み甲州路』 (監督:マキノ雅弘) シネマヴェーラにて 2/22
[14] 『次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家』 (監督:マキノ雅弘) シネマヴェーラにて 2/22
[15] 『次郎長三国志 第七部 初祝い清水港』 (監督:マキノ雅弘) シネマヴェーラにて 2/23
[16] 『次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊』 (監督:マキノ雅弘) シネマヴェーラにて 2/23
[17] 『ばかのハコ船』 (監督:山下敦弘) 自宅にてDVD観賞 2/28

(漫画)
(5) 長友健篩 城アラキ原作 『バーテンダー』 4巻 2/20
(6) 五十嵐大介 『はなしっぱなし』 上巻 2/20
(7) 五十嵐大介 『はなしっぱなし』 下巻 2/20
(8) 田島昭宇 大塚英志原作 『多重人格探偵 サイコ』 11巻 2/24

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