今日もシネマヴェーラに行ったら、柳下毅一郎が居た。江戸木純も居た。
ハスミンも来ていたし、関係者が多いらしい。
東宝版はあと一作を残すのみになってしまった。ほんと面白いなあ。
森繁の石松が死ぬ場面はもうたまらん。
こんな良い映画をやっているのに、観に行かないなんてもったいないと思うのだけれどなあ。
時間とお金を別にすれば、古いから、とか、マニアックだから、とか、邦画だから、とか、そういう理由で観ないのだろうか。
もったいないなあ。
ま、人様のことは知ったことじゃねえや。
今日もシネマヴェーラに行ったら、柳下毅一郎が居た。江戸木純も居た。
ハスミンも来ていたし、関係者が多いらしい。
東宝版はあと一作を残すのみになってしまった。ほんと面白いなあ。
森繁の石松が死ぬ場面はもうたまらん。
こんな良い映画をやっているのに、観に行かないなんてもったいないと思うのだけれどなあ。
時間とお金を別にすれば、古いから、とか、マニアックだから、とか、邦画だから、とか、そういう理由で観ないのだろうか。
もったいないなあ。
ま、人様のことは知ったことじゃねえや。
興味ないって?ごめん。
連日シネマヴェーラに通って、『次郎長三国志』シリーズを観ている。連日、と言ったがまだ二日目であるのだが、二日観てこれからも全て観ることにしたのだから、過言でもあるまい。
様々なところで評判になっているし、蓮實重彦が「緊急アッピール」(http://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20060214/p1#seemore)をしたらしいが、実際滅茶苦茶面白い。
こんな素晴らしいシリーズがあることに対して、連日垂涎しているのである。
そういえば、月曜日にシネマヴェーラに行ったら、蓮實重彦が居ておどろいた。真っ赤なマフラーして、渋くていらっしゃった。
シネマヴェーラは今年1月にオープンしたらしく、初めて行ったのだが、非常に良い映画館だ。上映が始まると、誘導等も、非常出口の灯も全て消して、真っ暗にしてくれる。こういう映画館はまずない。消防法上どうなのかはわからないが。映画は暗闇で観てこそ映画なのだから。「真昼間ビルの壁に映し出される映画なんて想像できるかよ」(映画『書を捨てよ町へ出よう』)であるが、実際我我は、映画のフィルムのうち、構造上1/2は真っ暗闇を見ていることになるのだから、暗闇を観に映画館に通っているといっても半分くらいは正しいのである。
渋谷の名画坐、要注目である。
近況といいつつ映画の話だった。
明日もツンデレの越路吹雪(柳下毅一郎がそう書いていた)を観に映画館へ行くぜ。
[9] 『次郎長三国志 第一部 次郎長売出す』 (監督:マキノ雅弘) シネマヴェーラにて
冒頭の居酒屋での浪曲に聞き惚れていると、喧嘩が始まり、そこから転がる転がる。あれよあれよと云う間に鬼吉が仲間になって、綱五郎や大政も加わり、喧嘩の仲裁。もう、話が瞬く間に進んでいくものだから、とても面白い。しかも、鬼吉の棺桶を担いで喧嘩の使者に行くエピソードや、綱五郎が鮮やかに敵から味方につく場面、大政の真剣勝負など、見所は満載で飽きさせない。テンポも良いが、印象的だったのは、大政と、大政を追いかけてきたその妻とのエピソード。月光に照らされた大政の涙の顔の視線の変化だけで、妻の姿勢の変化を表して、両者のすれ違いを描くのは、凄い。その後の大政の酔った歌の切なさよ。「酒は呑め呑め呑むならば」
[10] 『次郎長三国志 第二部 次郎長初旅』 (監督:マキノ雅弘) シネマヴェーラにて
次郎長の兄弟分を演じる堺左千夫とその妻の様子が実に良い。単に夫に献身的に尽くしているから微笑ましいと言っているわけではなくて、堺左千夫もその妻もお互いにぞっこん惚れこんでいて、夫はロクデナシで、妻にうだつがあがっていないところがまた上手くバランスをとっているように思う。もちろん、そういうフェミニズム対策的な思惑があったわけはないとは思うけれど、隅田恵子が封建的家制度の犠牲者だなんていう考えは見当違いなんだろうな。これもこれで、男女の一つの形、か。今風に言えば、「もえる」のですか。そうですか。
博打で負けて、身包み剥がされる次郎長一家。身包み剥がされりゃ、裸で行けばいいのです。わっしょい。
石松登場。只者ではない気配で喧嘩の前に登場してから、ラストでデコをパチンと叩いてからの流れるような啖呵。まったくもって、粋なヤクザでございます。
雪上滑走楽しかったぜ。
田舎は素晴らしいなと思ったけれど、それは所詮都会人の郷愁に過ぎなくて、中山間部に住む人々は、様々な格差に苦しんでいるし、農業一つとってもそこはユートピアではないはずだ。
田舎は逃げ込む場所じゃない。
だけど、目指すに値する場所であるべきだ。
コワイコワイと人からよく言われる。私は暴力を振るうわけでもないし、血相を変えて罵ったこともないと記憶している。
落語みたいに、糊のききすぎた浴衣を着ていてコワイということでもなさそうだ。
どうやら、私がコワイと言われるのは、時に全く興味が無さそうに思わせる表情で人の話を聞いているかららしい。全く興味が無くて聞き流していることだって勿論あるが、大抵の時は聞きながら頭の中でぼんやりとそのことについて考え事をしていることが多いように思う。私は幼少からの癖で、時折物思いに耽ると、世界から隔たった小さな部屋の壁の小さな穴から世界を覗いているような、そんな隔世感を持ちがちなのだ。そんな時は人の話を聞きながら、意識は内側に居るから、表情にまで手が回っていない、そんな風に思う。
自分に都合の良い自分語りの言い訳はこの程度にすると、要は、コワイというのは、コミュニケーションが拒絶される不快さのことなのだろうなと気が付いたということである。
全く、人間関係は複雑怪奇であります。
「孤独な人間が回復するには、単純なようだけれど人と会うしかないのです。」とダルデンヌ兄弟は言っていたっけ。
ヒキコモリコウモリだったので、新文芸坐には行けず。
まあ、そういうこともあるさ。
人間は考える葦であるそうだが、
私は考えることによってしか足を得られない。
今はやっと立てるかどうかだが、じきに走って、しまいにゃ跳ぶさ。
思考停止は死だ。
[7] 『侠骨一代』 (監督:マキノ雅弘) 新文芸坐にて
除隊した高倉健が亡き母そっくりの女性、藤純子に出会う。この二人の関係が実にスリリングだ。「だるま(布団の上で寝たり起きたりすると云う意味だそうだ)」である藤純子は、惚れた高倉健と添い遂げたいと思うが、やがて、高倉健が自分に見ているのは、亡き母の面影だったと知る。いかにもエディプス・コンプレックスだが、高倉健は指一本藤純子に触れず、結局彼らの線は交わりそうで交わらない。この絶妙な緊張感(何より、藤純子の飲む牛乳の印象的なこと)と、快活な荒事とのバランスが正に素晴らしい。志村喬の貫禄も流石であるし、浮浪者たちも印象的だ。藤純子の作った着物を着て、長ドス一本握り締めた高倉健の周りを囲むように、物陰から次々と敵が現れる。それを俯瞰で撮ったショットの痺れることといったらない。
やつらは下町の人たちのことなんて、小指の先ほども考えてないですよ。やつらの頭ん中にあんのはゼニと縄張りのことだけです。
[8] 『侠客列伝』 (監督:マキノ雅弘) 新文芸坐にて
忠臣蔵のアダプテーションと見てもいいのだろう。因縁をつけられる親分、親分の死に不在の高倉健、謹慎、次々と抜けていく子分、共闘して本懐を遂げる子分たち。侘しく耐え忍ぶ謹慎期間も、若山富三郎を投入したり、長門裕之や藤純子のエピソードを挿入させることで、飽きさせないと同時に、独特の味わいが出ている。それにしたって、お盆の灯篭や海岸の映像の美しいこと。クライマックスが敵役を殺す所に重点が置かれていなかったのが新鮮だった。
弱いやくざで死んだとお伝えください
マキノ雅弘
○シネマヴェーラ
『次郎長三国志』全13部
http://www.cinemavera.com/timetable.html
〜3/10
○新文芸坐
マキノ雅弘監督傑作選
http://www.shin-bungeiza.com/schedule.html
〜2/17
○ユーロスペース
鴛鴦歌合戦
レイトショー
今日地下鉄で考えたこと
ダイヤモンドの原石って重量計量物なのか体積計量物なのか、それとも、研磨後と同じく個数物なのだろうか。
磨かなければ類似のものがあるけど、磨けば類似のものがないとしたら、なんだか面白い価値判断だな。
時節柄、「君は今から僕にとってダインからアインに変わったよ」なんて台詞はどうだろう。
不敬として殺されるかな。
ダインとダインの取引は禁止されているのです。
ああ、マキノ雅弘観に行きたいなあ。
義理というものは、住み込みで雇ってもらった料亭を、懐に匕首を忍ばせてこっそり抜け出して、討ち入りに行くとか、単身乗り込む人に「おともしやす」と言って一緒に討ち入るとか、そういうものであって、チョコレートで買えるような安いものではないのではないだろうか。
またまた陳腐な話を。
マキノ雅弘観に行きたいなあ。
http://www.guerrillagirls.com/
ゲリラガールズかっこいい。
フェミニズムはその周縁部分が一寸苦手だけれど。
ここまでcoolな表現をされると心に訴えかけてくる。
芸術もイデオロギーとは無縁ではない。
風呂に入った猿なんかより、こっちの方が好きですよ。
例えば、その場で焙煎したての珈琲豆を買って家で挽いて飲むとか、駅前の花屋で一輪だけ花を買って帰るとか、一粒だけショコラティエが作ったチョコレートを買うとか、映画を観るとか、絵を観るとか、詩を読むとか、そういうことってとても大切なのだと思う。
こういう話をすると、とても気持ち悪がられるし、"ゲイ・カルチャー"か"ナルシスト"にカテゴライズされることがとても多いことは経験上知っているけれど、そういう外面とは別に、とても大切なのだと信じている。
カカオ100%のチョコレートがとても苦いけれど、砂糖を入れたらあれほど美味しいように、日々の生活もこういうものが無いと、とても苦くて困ってしまう。甘いものが嫌いな人も、カカオ100%のチョコレートが好きな人も居るけれど。少なくとも私は、砂糖なしのチョコレートはとてもじゃないが食べられない。
なんてことを新しく試したイタリアンブレンドを飲んで考えながら、時節がら不穏当なアナロジーだったなと気がついた。
気持ち悪いなんてことは概して本人が一番良く自覚しているものです。
人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無常の甘露味を感じなければならぬ。
人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。
(芥川龍之介 『侏儒の言葉 瑣事』)
「学問」が「科学」であろうとして「現実」から遊離せざるを得ない状況が、もし仮にあるならば、私個人としては躊躇なく「科学」であることを捨て、「現実」の中に「学問」を見出そうとするであろう(石黒一憲 『法と経済』)
そうなんだよなあ。法が予定している事実はバーチャルなリアリティ、法化された事実でしかなくて、アクチュアルなリアリティとの乖離が生まれてきたら、実践哲学的な目的論的思考に立ち返るのも必要なのだろう。ましてや、法をそれ自体純粋なバーチャルなリアリティとしてとらえて、サイコロジカルなリアリティをアクチュアルなリアリティへのタートではなく、バーチャルなリアリティの中で実現するような状況、たとえばライブドアだとか、新興宗教の問題であるとか、そのような問題が噴出しているような状況で、果たして法は独立の科学たれるのだろうか。法は如何に現実にタートするのだろうか。
結局、ヘゲモニーを握ったかのように見える市場原理主義も、バーチャルなリアリティを強引にアクチュアルなリアリティで実現しようとする、「変身の倫理」にとりつかれているのだろう。
私は一体、どうすればいいのだろうか。
1,000のこととか書いたほうがいいのか。措こう。
デヴィッド・リンチがPS2のテレビCMを作っていたらしい。
http://www.youtube.com/w/Ps2%3A-David-Lynch?v=u1HQkkVnV2c
http://www.youtube.com/w/David-Lynch-Ad-Playstation-2-%28color%29?v=ZRucDa5D7TM
二本目なんかは、インダストリアルノイズが、いかにもリンチで、ファンは満足だろうけれど、
アメリカのkidsはこれを見て、よし、PS2買おう!なんて思うんだろうか。だったらちょっとアメリカ人を好きになれるかもしれない。
チェコ人とかは大好きだろうけど。
どういう理屈で購買意欲を煽ろうとしているのかさっぱりわからない。
おまけ
http://www.youtube.com/w/Eraserhead---In-Heaven?v=anw9W_gKYEw
『イレイザーヘッド』の"IN HEAVEN"の部分の映像もあった。やっぱり気持ち悪いなあ。レイトショーなんかで、この映像をスクリーンで初めて観たりした時には、どの程度の衝撃を受けるのか、想像もつかない。腕にリンチの名前を刺青しようとは思わないけれど(『セシル・B・ザ・シネマウォーズ』)、やっぱり大好きな監督だ。
それにしても、リンチにCMを撮らせながら、リンチだとかバーホーベンだとかの監督が新作を撮りにくいってのも、アメリカはよくわからない国だ。
[追記]
どうやらこのCMは、2001年にイギリスで放送されたもののようだ。
http://www.lynchnet.com/ads/
リンチ結構CM作っているんだなあ。
…と、益々リピーターを減らしそうなエントリーを書いた午前六時であった。
http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?index=00620800&dname=0na&stype=1&dtype=0&ref=1
即自的且つ対自的ってそういう意味だったのか。
国家は即自的且つ対自的に存在する歩みを続ける人間社会の理性のあらわれ、それ自体として正当化される
という意味がやっと解った。
全く、ヘーゲル弁証法をすべての学生が理解しているとでも思ってたんだろうかこの人は。
恐ろしい。
中国の法制史について。
図書館で文献を探していたら、ことごとくマルクス主義史観によるもので、全く使えなかった。
今時唯物論史観なんてはやんねーよ。
中国史の専門家が書いた文章を批判的に継承できるほどのスキルはもっていないわけですよ。
歴史に物語を構築することに、その人の歴史的な知性が現れるように、「私」に物語を構築することに、その人の人間的な知性が現れる。そういう気がする。(http://d.hatena.ne.jp/thinkingreed/20060204)
先に引用した評論家の人は、歴史を学ぶことの意義を、歴史が英語・パソコンと同様に、自己表現のツールとして重要だからだ、と指摘しています。歴史を学ぶとは、過去との連続性において、個人レベルであれ国家レベルであれ、自己を表現することだというのです。 なるほどそうかもしれません。このことは次のようにいい換えることができます。私たちは、現在を解釈する時、意識的にあるいは無意識のうちに、過去を参照しています。今どこにいて、これからどこへいくのかを、過去との連続の延長線上で考えているのです。そうだとすると、歴史とは、不確実な現在を未来に向けて方向づける社会的機能を持っているということになります。ここにこそ歴史を学ぶことの積極的な意義があります。現在の時点から未来を展望するために、過去にさかのぼる。過去・現在・未来を相互に結びつける。歴史を学ぶとは、このようなことをいうのです。 (井上寿一 『日本外交史講義』)
たまたま覗いたK氏のブログと、日本政治外交史のアンチョコを求めて買った本の序文とが、緩やかな関連を示す。
レヴィナスを頑張って読めという啓示と受け取ろうか。
一応完成。
アダプテーションとは難しいものだ。
もしハムレットが小津安二郎作品だったら、という仮定のもとで、家庭ものにしようかとも思ったが、そっちの方が面白いものが出来ただろうか。
ガートルードは男性にして、その妻に先立たれた男やもめの役を演じるのは、勿論笠智衆。
ハムレットは女性にして、それを演じるのは、勿論原節子。
そうなると、クローディアスは必然的に女性になって、笠智衆と結婚しようとする、笠智衆の亡き妻の妹を演じるのは、三宅邦子。
まんま『晩春』の設定だ。
舞台は勿論北鎌倉。劇中劇は、銀座に出てきて歌舞伎。
血なまぐさいものは一切登場せず、原節子の嫉妬と、笠智衆との危うい親子愛を中心に、とおもって気が付いた。
内容もまんま『晩春』じゃないか。
そうか、『晩春』はハムレット映画か!
ふと思いついた。
「バトン」というものについては色々と考えたりして、それなりにどうしてあんなに流通したのかはわかったような気がしたのだけれど、
まあ、それはさておいて、こんなバトンは如何でしょう、という問題提起。
自己省察バトン1.あなた自身が持っていると思っている自分自身の性質、傾向、或は単純に性格のうち、望ましいと思っているものは何ですか?
2.あなた自身が持っていると思っている自分自身の性質、傾向、或は単純に性格のうち、望ましくないと思っているものは何ですか?
3.あなた自身が持っていないと思っている自分自身の性質、傾向、或は単純に性格のうち、望ましいと思っているものは何ですか?
4.あなた自身が持っていないと思っている自分自身の性質、傾向、或は単純に性格のうち、望ましくないと思っているものは何ですか?
5.あなた自身が持っていると周りに思われているとあなたが思っている自分自身の性質、傾向、或は単純に性格のうち、望ましいと思っているものは何ですか?
6.あなた自身が持っていると周りに思われているとあなたが思っている自分自身の性質、傾向、或は単純に性格のうち、望ましくないと思っているものは何ですか?
7.あなた自身が持っていないと周りに思われているとあなたが思っている自分自身の性質、傾向、或は単純に性格のうち、望ましいと思っているものは何ですか?
8.あなた自身が持っていないと周りに思われているとあなたが思っている自分自身の性質、傾向、或は単純に性格のうち、望ましくないと思っているものは何ですか?
どうだろうか。
要は、(自分が欲しい/欲しくない × 自分が持っていると思っている/持っていないと思っている × 他人に自分が持っていると思われている/思われていない) 特徴を考えましょうということ。
答えているうちに、他人に質問されているのか、自分に質問されているのか、わからなくなってくるような、そういう自己言及的なバトンになるかと思ったけれど、
考えてみれば、こんなにたいそうな問いは、バトンという簡便なコミュニケーションでは求められていないのだろう。
「少し焼きを入れてやろう。
心配いりませんよ。レアかミディアムですから。」
こういうウィットに効いた表現がすぐに出てくるとかっこいいと思うのです。
書くことないので、こんな具合にお茶を濁す。
書かれることは沢山あるけれど、書くに値することも少しはあるのかもしれないけれど、書きたいこと、書けることは殆どない。
もう1月が終わったなんて信じられんね。
まったく。
悪くない密度のひと月だったように思える。
悪くねえ。
一ヶ月前より私は、利口になれたんかな。
子供は一週間たてば
一週間ぶん利口になる
子供は一週間のうちに
新しいことばを五十おぼえる
子供は一週間で
自分を変えることができる
大人は一週間たっても
もとのまま
大人は一週間のあいだ
同じ週刊誌をひっくり返し
大人は一週間かかって
子供を叱ることができるだけ
(谷川俊太郎 『大人の時間』)