2006年1月アーカイブ

著作権法の判例と学説の態度に疑問を感じる。
と云うと、全く持って傲岸不遜な態度に思えるが、実際、奇妙に思えるのだからしようがない。勿論、概説をさっと読んだ初学者なので、何となくおかしいように感じたというだけのことなのだが。
詳細に書く知識も時間もないので、雑に「感想」のみを書く。
純粋美術だとか、高度な美的表現が見られるとか、そういうものでじつに曖昧に表現しているように思われるのだ。所謂fine artと、キッチュとの区別は現代に於いては消失しているし、現代アートにいたっては、オリジナリティとコピーと云う概念区別すら消滅してしまっているものが殆どだ。19世紀や20世紀初期ならばまだしも、今の時代に純粋芸術だの高度な美的表現だなどは、少々「文化の発展に寄与する」とうたっている法律にしては、そぐわないのではないだろうか。そして、何が創作性が認められるかや、ひいては著作物性が認められるかについても、中々統一的な判断論理があるようには思えなかった(私の学習が足りないということが大部分あるのだろうが。)勿論、美学や現象学の論理をそのまま法的思考にあてはめろと言いたい訳ではない。美学の最新学説は先鋭的でもあり、凡そ社会一般の認識とまでは言えないだろう。ココ・シャネルは、「芸術とは初めは醜いが美しくなるものであり、モードは初めは美しいものが醜くなる」(うろおぼえなので同異はあるだろうが)という至言を残している。何も、ウォーホールが登場してきた直後に学説や法解釈を充実させろといっているわけではなく、つまり、まだ芸術が醜い段階で解釈の充実を図る先鋭性は美学の分野に任せておけばいいものの、それがもはや可也の程度広まり、美しく判断されるようになったならば、その判断を基礎付ける芸術理論の導入は検討されて然るべきではないだろうか。勿論、法学と、哲学系は大きくその対象と姿勢を異にするものなのかもしれないが、現象学と云う見地からは、可也有為なアプローチのヒントが得られるように思えるのであるが。
実際、純粋芸術などと云う概念は、現象学としてみると、まだデュシャンらが登場した20世紀当初は、辛うじてキッチュとfine artの対立構図というものは存在した。まだこの時点では、高度な芸術性の判断も比較的容易であっただろう。その対立構図を象徴的に、挑発的に表現したのが《泉》なのであるし、その他の当時のアヴァンギャルドな作品群であった。しかし、これが、同じく自己言及的なモダンアートのアヴァンギャルド性が更に進むと、具体的には、アンディ・ウォーホールらの世代まで進むと、それはもはやデュシャンの世代の、それこそ古典古代から続くfine artとキッチュの対立というものは、そもそも複製イメージの、キッチュの大量反乱によって、(ボードリヤール的に云えば、広告こそ芸術ということになるのだろうか)、もはや、オリジナルとコピー、fine artとキッチュの区別事態が溶解してしまっている。勿論、この状況に法学が無関心だとは云わない。法解釈も判例も、デジタル技術による複製の容易さに、対処しようとはしているが、それ以前に、何か確たる概念(この辺はうまく表現できない実に直感的な表現であるのだが)が確立されていないように思うのだ。
結局のところ、私が感じる違和感は、著作権法では「美とは何か」と云う問いが避けられ続けているように思えるからかもしれない。それを問うこと無しに、何を保護するかと云う点は確たるものにならないように思うのだが。実際、著作物性などの判例を見ても、カズイスティックと言っても良いような状況に思える。もっとも、それは私が不勉強によって判例理論や学説を理解していないということに尽きるのかもしれないが。
兎に角、美学的、もしくは、現象学的アプローチを試みる余地は充分にあると思うのだが。

少し暇が出来たら(いつだって暇だけれど)、一寸著作権法を勉強してみることに決めた。

■プロローグから第一幕まで

真っ白な何も映し出されていないスクリーンの前に、男が立っている。男は後にホレーショーとして登場するが、この時点では、ホレーショーとしてなのか、ホレーショーを演じた役者としての台詞なのかは、不明な状態である。男はスクリーンを眺めているであろう観客席に向かって、「私はまだ何も知らぬ世間に、ことの顛末を語って聞かせましょう。」と言う。カメラは白いスクリーンに近づき、ホワイトアウトするとともに、場面転換。
場面が変わり、大勢で食事中の様子が映される。テーブルを囲み、談笑しながら食事をしているのは、ガートルード、ハムレットSr.、クローディアス、ハムレット.、ホレーショー、ポローニアス、オフィーリア、レアティーズ。この集まりは、兄弟映画監督のハムレットSr.とクローディアスとが監督し、ガートルードが出資者である映画のヒットを祝って開かれた、身内の会食であった。ガートルードはハムレットSr.と恋人関係であり、ハムレットはガートルードと直接血の繋がりは無い。ポローニアスはハムレットSr.とクローディアスのマネージャー、ホレーショーは映画監督志望で、ハムレットSr.に師事しており、年齢が近いハムレットと仲が良い。彼は、常にビデオカメラを持ち歩き、身の回りの風景や人物を撮っている。この時の会食でも、彼は食事中でもビデオを頻繁に手にするが、周りは彼の癖或いは習慣として、受け入れている。ハムレットは大学生であり、ホレーショーより少し年下で、彼を兄の様に尊敬している。オフィーリア、レアティーズとも歳が近く、ポローニアスとハムレットSr.が家族ぐるみの付き合いをしていることから、仲も良い。談笑の中、和やかな雰囲気の会食である。
続いて、記者会見の場面となる。ハムレットSr.が兼ねてからの持病の心臓発作の為に急逝したことと、これからはガートルード出資の下で、クローディアスが独りで映画を撮っていくことの発表である。ハムレットは父の死に打ち沈みつつ、ビジネスライクに新作の発表をするガートルードとクローディアスに対し嫉妬にも憎しみにも似た複雑な感情を抱く。会見の直後、ホレーショーがハムレットに、いつも彼が持ち歩いているビデオカメラの映像を見せる。それは、ハムレットSr.が弟によって殺されたと無念に訴えながら死にゆく姿であった。ホレーショーは、いつものようにスタジオに向かうハムレットSr.を迎えに彼の部屋に向かい、ドアを開けると、倒れて苦しんでいるハムレットSr.を見つけたのである。救急車を呼んだが、ハムレットSr.は帰らぬ人となったという経緯の中、その時に偶然いつものようにカメラを回していたホレーショーが捉えた映像であると、ホレーショーはハムレットに語る。彼は、この疑いを公にすることで、彼の師匠とも言える二人の巨匠がスキャンダラスな視線に晒されることが耐えられなかったので今まで誰にも言わず、ハムレットのみに見せたのである。ハムレットはその映像を見て、父を殺したクローディアスに対して、憎しみを抱き、復讐を心に誓うとともに、この映像をこれからも誰にも見せぬように、ホレーショーに頼んだ。

・第三幕
第一場
原作通り
第二場
ハムレット原作、ホレーショー監督の短篇映画の上映。
クローディアスらの反応は原作通り。
第三場
王の告白。殺したかどうかは敢えてぼかしておく。
第四場
ハムレットとクローディアス。
ハムレットの狂気が際立つように。
ナイフを向けながら、カメラに向かって証言するようにクローディアスに迫る。
それを陰から見ていたポローニアスが、ハムレットともみ合いになって、ハムレットがポローニアスを刺してしまう。

・第四幕
第一場
ガートルードとクローディアスの対話。基本的には原作通り。クローディアスの憎しみは消す。
第二場
原作通りか、省略
第三場
ハムレット高飛びのためのイギリス行き。
第四場
フォーティンブラスは不要か。
第五場
オフィーリア発狂。
レアティーズ帰国。
クローディアスはレアティーズに事情を話す。
激昂するレアティーズと、それをなだめようとするクローディアス。
第六場
ホレーショーのメールによって、高飛び先で殺されるという情報を得たハムレット。
帰国してホレーショーに感謝する。
第七場
オフィーリア自殺の報が届き、レアティーズさらに激昂し、部屋を飛び出していく。
それを負うクローディアスとガートルード

・第五幕
第一場と第二場を一つに。
オフィーリアの葬式に現れるハムレット。
それを撃つレアティーズ。
ハムレットをかばい、レアティーズの弾に倒れるガートルード。
レアティーズを撃ち合いになり、負傷しながらもレアティーズを撃ち殺す。
重症ながら、最期の力でクローディアスを撃つ。
それを淡々とカメラに収めているホレーショー。

・エピローグ
場面変わり、編集室に居るホレーショー。
再生している場面は、ハムレットに見せた、先ハムレットが殺された場面。
殺された後、立ち上がり笑顔の先ハムレット。
ここで、この映像が、二人で戯れに、或いは、テストショットとして撮ったものだったと明らかになる。
ホレーショーの見ている編集の画面切り替わり、
冒頭のスクリーンの前のホレーショーの映像が映り、同じ台詞を言う。
「私はまだ何も知らぬ世間に、事の顛末をお見せしましょう。何もかも、ありのままにお見せいたしましょう。」

うーむ、どうにもはっきりしないか。ホレーショーが犯人だったとして組み立てて、それにラスメニーナス的な自己言及的映像として作りたいのだが。
試しにあらすじだけでも書いてみるか。

盲腸コアラ

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060129_2202~001.jpg盲腸コアラが出た。

盲腸コアラを知らない人に先日出会って、カルチャーギャップと云うものは難しいものだと感じたのであった。

flower.jpgある日の地下鉄に捨てられていた、まだ美しい花束。


ヒキコモリコウモリ。

夜しか泳げない 魚は 影をつれて歩かない
だけど 光だけが光じゃない ことだけは 太陽より知っている
(SION "夜しか泳げない")


■ハムレットアダプテーションの為の断章

・第二幕

第一場
オフィーリアの報告。ハムレットの狂気。そのままで良いか。

第二場
ハムレットの真意を探る算段をするポローニアス、クローディアス、ガートルード。
オフィーリアと会うハムレット。
ローゼンクランツとギルデンスターン。
以上は原作通り
劇中劇は、ホレーショーの作る映像。ホレーショーとハムレットの共謀による劇。

■ハムレットアダプテーションの為の断章
設定
時代:現代(少なくともハンディカメラがある時代)
ホレーショーに重点を置く。彼は映画監督志望。常にハンディカメラを持ち歩く。
先王とクローディアスは兄弟の映画監督。ダルデンヌ兄弟やコーエン兄弟のような具合。
ガートルードは彼らの出資者。
ハムレットは先王の息子。
ホレーショーは先王ハムレットと師弟関係のような関係。
ホレーショーとハムレットは年齢が近く、仲が良い。

ポローニアスはクローディアスと先ハムレットとのマネージャー。

・第一幕以前
開始はスクリーン前でのホレーショーの台詞「私はまだ何も知らぬ世間に……」
次、ビデオカメラを持つホレーショーとハムレットとの食事。(先王ハムレット、ガートルード、クローディアスを含めた会食としてもよし。)

・第一幕 

第一場
亡霊をホレーショーがいつも持ち歩くカメラに映りこんだ映像として。

第二場
結婚式の場面を記者会見に。
出資者のガートルードとクローディアスの会見。これからは独りで撮っていく会見。
カメラの映像をホレーショーがハムレットに見せる。

第三場
レアティーズ留学のために出立。

第四場
ハムレットと先ハムレットが出会う場面。
第一場の映像をここにもってくるか。

第五場
ハムレット、独りで映像を見て、独白の場面。


まず第一幕。破綻無く作るのは難しそうだ。

私が南北線の座席に座っている時だった。
麻布十番で、スーツ姿の若い男性二人組が乗ってきて、座ってる私の前に立った。
少々茶色がかって長い髪の毛は、あまり堅い仕事ではないのかもしれない。
話し始めた二人の声は少々大きめで、少し疲れていた私は、(なんだか嫌だなあ)と思っていた。
ほどなく、電車のアナウンスが「次は〜白金高輪〜白金高輪〜」と言った。
すると、それを聞いた例の二人組の片方がおもむろに、
「白金高輪ッ!」
と何故かビートたけしの物真似の声で言った。その声は、全く似ていなかった。
それを聞いたもう片方は、
「かける2ッ!」
と同じくビートたけしの物真似で言った。
「白金高輪ッ!」
「かける2!」
と、なぜか再び同じやりとりをした後、"白金高輪"の男が、
「『かける2』ってなんだよ!」
と突っ込んだ。
私は、(だったら白金高輪は何だよ。)と思いながらも、なぜ「かける2」なのか、その答えが気になって仕様が無かった。
すると、"かける2"の男は、
「ジョルトコーラだよ!」
と自信満々に語った。
"白金高輪"の男は、
「マニアック〜。」と言いながら、満足そうに笑っていた。
私はといえば、笑いを堪えるのに必死だった。ジョルトコーラ!しかも、敢えて商品名を言わない!なぜ今頃20年近く昔のテレビCMの物真似を!
笑いを堪えるために私は、まるでコンタクトがずれたとでもいった素振りで、手で顔を覆った。
すると、"かける2"の男は追い討ちをかけるように、
「あんたも北野さんか」と再びビートたけしの物真似で言った。
もう、限界だった。私には噴出したのを誤魔化すために、咳をするほかなかった。
(『TAKESHIS'』あるならそれをやるだろ普通。しかも、「北野さん」て、台詞微妙に間違えてるし。)

すると電車は目黒に着いた。
私は降りたが、一体この後どういう会話が繰り広げられたのであろうか。

1/26 R・ホーフスタッター 『アメリカの反知性主義』
アメリカ実業家像の変遷に伴う彼らの知性観の変化と、レヴィナスの逃走論との類似性を論じようと思ったら、なぜか話はイシグローリーの方に流れて、ニュージーランドまで飛んでいった。ここからどうやってもブロークバックマウンテンがゴールデングローブ賞を撮ったことを初めとする、性を扱った問題が表出していることまでたどり着けそうになかった。
こんなことを論理の破綻なく論じるのは、少なくとも今は無理だ。
いつかできるようになるだろうか。
いや、ならないかんのだ。


プチ・ブルにおける自足は、しかしながら、不安で寸時もじっとしていられない資本主義の大胆な夢を培っている。それはまた、努力とイニシアヴと発見への資本主義的崇拝をも司っているのだが、このような発見は、人間と人間自身とを和解させることよりもむしろ、時間と諸事物という未知なるものを人間に対して確実なものたらしめることを目指している。ブルジョアはいかなる内面的分裂も打ち明けることはないし、自己への信頼を欠いていることを恥じている。しかるに、ブルジョアは現実と未来のことを憂慮している。なぜなら、彼に所有を保証している現在の、異論の余地なき均衡を、それが破ってしまうかもしれないからだ。ブルジョアは本質的に保守的であるが、不安な保守主義なるものも存在するのだ。ブルジョアは、事業や学問のことを気にかけているが、それは、事業や学問を、事物ならびに事物に秘められた予見不可能性への防御とみなしているからである。(エマニュエル・レヴィナス 『逃走論』)


全然分量が足りなくて、ダイジェスト的になってしまった。
きちんと書くには一万字でも足りまい。
読書感想文以下の代物でさぁ。

溶け残って凍り付いた、かつては雪だった氷を見ながら、男は呟いた。「小さい頃、セメダインをこぼしたりしたろ、それが固まって出来た透明の塊。あれみたいだな。俺はあの透明の塊の中の気泡が堪らなく好きだったんだ。」それを聞いてもう一方の男はこう答えた。「くだらぬ感傷だ。だが、路上に張り付いた氷が、何かを接着しそこなった名残りだと考えるのは、中々詩的でもある」と。二人は近々、アスファルトも氷も無い場所に行くことになっている。

(3) 福島聡 『機動旅団八福神』 2巻
(4) 福島聡 『機動旅団八福神』 3巻
なるほど。何をされても絶対に傷つくことが無い福神と云う設定は予想以上に面白い。それにしたって、布施は明らかに三島由紀夫がモデルだ。エヴァンゲリオンとのあからさまな類似性はあるものの、明らかに異なるのは、この作品の登場人物は、他者と上手く折り合いがつけられている点であるように思う。少なくとも表面上は。それにしても、恐ろしく低温の戦争漫画だ。

誰も知りたくないであろう私の体質を書くと、
乾燥肌でドライアイなのである。
それに加えて心も乾いていると言うかどうかは、私の預かる範疇にないので、勝手に判断していただきたい。
血も涙も無いと加えるかどうかも基本的には専ら他者に委ねることにしているが、一応物理的な所では血と涙は存在していると思われる。
何かの比喩としての"血"や"涙"は存在しているかどうかはお好きに判断していただくとしよう。
さて、乾燥肌なものだから、顔はカサカサで所謂「粉をふく」状態で、手もがさがさで、全く困ってしまう。冬は夏よりも好きなので、過ごしやすいのだが、肌だけは全く困ってしまう。ピリピリと痛むのには全く参る。なので、レモンの香りのハンドクリームを買ったという、身長1.8メートルの男性が書くには、少々気持ちが悪いと一般的にされることを記した、それだけのエントリーなのである。
私の手からは、レモンエロー(梶井基次郎)の、或いは、トパアズいろの香気(高村光太郎)が立っているので或る。私の意識も正常に戻るとよいのだけれど。

ハンドクリームと共に、マンガ購入。

(1) 福島聡 『機動旅団八福神』 1巻
まっすぐに面白い。

(2) 五十嵐大介 『リトル・フォレスト』 1巻
ああ、ダメだ。もう五十嵐大介に嵌るのが目に見えている。

『運命じゃない人』が再演されているらしい。

このブログを見ている人がどれほどいるのか正確にはわからないが、あまり多くないことだけは確かなようだ。
そんなところで何かを言って通じるかどうかは解らないが、とりあえず言ってみよう。

「この映画は観たほうがいいですよ。」と

以前のエントリーにも書いたが、
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2005/10/post_170.html
この映画は本当に素晴らしい。

難病も、戦争も、実は血が繋がっていた恋人も、死も、出てこないが、とても素晴らしい作品だ。
こういう映画こそヒットすべきだと私は思う。

カルト映画とか古い映画ばかり観ている人の趣味だから、と思われるかもしれないが、そういう「趣味は議論できない」と云う偏狭な言い分はとりあえず収めていただきたい。この映画は私の趣味を超えた素晴らしさがあると断言できるのだから。

もし気が向いたら、観に行ってみてください。
絶対に損はしません。
恋人同士でも、女性同士でも、男同士でも、独りでも、楽しめる作品だと断言できます。

1/21-1-27 下高井戸シネマにて 
1/30-2/4  シネマ高井戸シネマにてレイトショー
http://www.walkerplus.com/tokyo/latestmovie/mo3541.html

たまには、こういう暑苦しいエントリーもいいってもんでしょう。

「今日、いつものように、携帯音楽プレーヤーで音楽を聴こうと思って電源を入れたんだ。僕はいつも外に出る時は音楽を必要としているからね。というのも、僕にとって、音楽は世界と僕とを緩やかに遮断して呉れる、薄い膜のような存在だからさ。この日聴くつもりだったのは、King Crimsonの"21st Century Schizoid man"だった。僕はいつもこの曲を聴くと、ベートーベンに聴かせてやりたくなるのさ。きっと、ベートーベンなら、地団太踏んでこの限りなく完璧に近い名曲に嫉妬するだろうね。話を戻そう。その日、そのように音楽を聴こうとしていたんだ。でも、再生ボタンを押したって、一向にあの痺れるイントロが流れてこないんだ。おかしいと思って、液晶画面を見ると、そこには、"hold !!"と云うメッセージが映っていたんだよ。僕はそれを見て、奇妙なメッセージだと思いながらも、この4センチ四方程度の金属の塊を、強く抱きしめてやったよ。といっても、この塊は僕の両手には少々小さすぎるようだから、掌で強く抱きしめてやったのだけれどね。するとどうだい、そいつはブツブツと彼の回路が接触しているような音を立てた後に、いつもの名曲を奏でて呉れるじゃないか。安心して、また歩き出そうとしたんだけれど、また音が止まるんだ。どうやら抱きしめ続けなければ、奏でないらしいね。それにしたって、"抱きしめて呉れ"だなんてメッセージを出す機械とはね、恐れ入ったよ。」

「中の回路の接触が悪くて壊れてるんだよ、それ。新しいの買えよ。」

「でも、抱きしめ続けてる限りは音を奏でてくれるんだ。」

[1] 『ハムレット』 (監督:ローレンス・オリヴィエ) 自宅にてVHS観賞
[2] 『ハムレット』 (監督:ケネス・ブラナー) 自宅にてVHS観賞
[3] 『ハムレット』 (監督:フランコ・ゼフィレッリ) 自宅にてVHS観賞
[4] 『ハムレット』 (監督:マイケル・アルメレイダ) 自宅にてDVD観賞
[5] 『ハムレット・ゴーズ・ビジネス』 (監督:アキ・カウリスマキ) 自宅にてVHS観賞
[6] 『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』 (監督:トム・ストッパード) 自宅にてVHS観賞

流石にハムレット映画を6本観たら、はなぢ出そう。

1/17 『ハムレット・ゴーズ・ビジネス』
1/17 『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』

コンクリと鉄とガラス剥き出しの建物が図書館だなんて、馬鹿にしてらあ。
そのくせ其処から見る夕日は馬鹿に綺麗でよ。
そういやいつだったかここから朝日を見たっけ。

一日が過ぎるのが早過ぎる。

1/16 ポール・オースター 『孤独の発明』
1/16 『ハムレット』(マイケル・アルメイダの)
1/16 『ハムレット』(フランコ・ゼッフェレリの)

MeMo

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色々せんならんわけで。

1/11 赤提灯
1/13 チチと食事
1/14 ボクシング(思い出したくも無い)
1/15 『ハムレット』(ケネス・ブラナーの)

「覚悟が全てだ」としみじみ思うのであります。

メモ

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メモ
1/9 町山智浩 『〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀』
1/10 シェイクスピア 『オセロウ』
1/11 シェイクスピア 『マクベス』
1/12 『ハムレット』(ローレンス・オリビエの)
まあ、そんなこんな。
暇人暇なし

<6> シェイクスピア作 木下順ニ訳 『マクベス』
運命と翻弄される人間を描いた不条理劇。そこにはカフカ的なものすら感じられる。無論、カフカの方が時代的には後だが、それでも、遡及的にカフカ的なものを感じさせるところにカフカのカフカたる所以があるように思うのだが、それはさておき、これは一遍の不条理劇である。悪漢の悲劇。イアーゴーとマクベスは実際に行っている行為の反倫理性は変わらないが、圧倒的にマクベスの方が感情移入しやすいと思われる。その理由はおそらく、主人公であるという実に自明なことによるのだろう。極単純な主人公であるということ、このことが悪漢の悲劇を考える際に重要なのだそうだ。

外から見ればまぎれもない悪党の首ではあっても、独白を通じてうかがい知ることのできたその内面には、外面的な善悪に還元できない情動、「このえたいの知れぬいざないの声、善とも悪ともいえぬ」とマクベス自身が告白する野心や欲望、恐怖や苦悩が脈打っていた。悪業に踏みだしては、そのつど苦悩し自分を責める、その内面を知らされているわれわれ観客にとって、かれは、道徳劇の単純な悪玉ではない。そして、古典悲劇の観客とはちがって、近代の観客をもっともつよくゆりうごかし、残念にもあわれにも思わせるのは、ブースもいうように、悪党とはいえ、観客がそのひととなりをよく知り、また気にかけているひとりの人間、「高度に個別化されたひとりの人格存在の破滅」なのである。(西村清和 『フィクションの美学』)

やったなら、やってしまえばおしまいになるのなら早くやってしまうことだ。この暗殺で総てが締め括れて、彼の息の根を止めてしまえばそれでよしというのなら、ただこの一撃がこの世での――永遠の時の流れの中の小さな浅瀬に過ぎんこの世での総てであってそれで総てが済むのなら、来世がどうなろうと構うものか。 だが――こういうことは、必ずこの世で裁きを受ける。血なまぐさい仕事をそそのかしてやらせてみても、結局は当人にはね返ってくるものだ。正義の神は公平で、こちらが毒を盛れば結局こちらの唇に毒杯をおしつけてくる。
ハムレットの「生きるか死ぬか」の件と似ている。
腹は決まった、全身の力を絞ってこの恐ろしい仕事に立ち向かおう。 さあ、はいろう。顔を明るく輝かして皆を欺くのだ。 偽りの心を隠すのは、偽りの顔しかないのだ。
息子  お父さまは裏切り者だったの?

マクダフ夫人  ええ、そうだったの。

息子  裏切り者ってなに?

マクダフ夫人  それはね、立てた誓いを破るひと。

息子  裏切り者って、みんなそうなの?

マクダフ夫人  そうする人を裏切り者というの、だから縛り首になるの。

息子  みんな縛り首になるの、立てた誓いを破った人は?

マクダフ夫人  誰でもよ。

息子  誰が首を締めるの?

マクダフ夫人 それはね、嘘をつかない人。

息子  じゃあ誓いを立てて破る人って馬鹿だね。だって誓いを立てて破る人は一杯いるんだから、嘘をつかない人をぶん殴って縛り首にすればいいのに。


シェイクスピアのこういうニヒルなユーモアがとても好きだ。

天使たちは常に輝いている、その長が悪魔となって地獄へ堕ちてもな。悪徳がみな美徳をよそおうと、美徳はやはり輝いている。
マルカムの台詞。
手なぞつかんぞおれは。青二才マルカムなどの足もとに額をすりつけて、有象無象の罵詈雑言を誰が黙って受ける。バーナムの森がダンシネインへ向かってこようと、女から生み落とされたのでない貴様がいかに刃向かおうと、闘うぞおれは、最後まで。この通り、頼みの盾も投げ捨てる。かかって来い、マクダフ。「待て、参った」とまず声をあげた奴が地獄に堕ちるのだ。

読み進めていると、どうしてもマクベスが三船敏郎に思えてしようがない。それほどまでに『蜘蛛巣城』の映像のインパクトは強い。
次の台詞を山田五十鈴が言っているのを想像すると、身の毛もよだつ凄まじさだ。

わたしだって乳を飲ませたことがあります、乳房に吸いつく赤ん坊がどんなにかわいいかは知っています。でも――わたしの顔を見て笑っている赤ん坊でも、わたしはそのやわらかい歯茎から乳首を引きもぎって脳みそを叩き出してみせる。

凄まじすぎる。

役者の木下順ニによる後書きが非常に解りやすく、面白かった。


明日、また明日、また明日と、小刻みに一日一日が過ぎ去って行き、
定められた時の最後の一行にたどりつく。
きのうという日々はいつも馬鹿者どもに、
塵泥の死への道を照らして来ただけだ。
消えろ、消えろ、束の間のともし火!
人生はただ影法師の歩みだ。
哀れな役者が短い持ち時間を舞台の上で派手に動いて声張り上げて、
あとは誰ひとり知る者もない。
それは白痴が語るただ一場の物語りだ、
あふれ返る雄叫びと狂乱、
だが何の意味もありはせん。

<5> シェイクスピア作 菅泰男訳 『オセロウ』
悪役イアーゴウの魅力に尽きる。私利私欲を追い求めて姦計を巡らす悪役だが、現実主義的で、ニヒリスティックな彼の魅力は明らかに、オセロウよりも優っているように思える。

あいつにつき従っていたって、実はおれのつき従っているのはおれ自身のほかにはないのさ。 神様も御存じ、おれのは愛だの義務だののためじゃない、 そう見せかけておいて、おれ自身のためにするのよ。 なぜなら、うわべの行いが、てめえの本心の 本当の動機や思わくを外面にあらわしてた日にゃあ、 てもなく、心臓を袖にぶらさげて 鳥につつかせるということになるじゃないか。 おれは見かけどおりのおれじゃないのさ。
なんともまあ、ロックな台詞じゃないか!
われわれがこうなるのもああなるのもみんな自分にあるこった。肉体ってやつが庭で、意志ってやつが庭師さ。そこで、いらくさを植えようがちさをまこうが、はっかを生やしといてじゃこうそうを引っこぬこうが、一種類にしとこうがたくさんばらまこうが、怠けてて枯らそうが、せっせとこやしをやろうが、はて、決め手はすべてわれわれの意志にあるんだ。われわれの生活の天びんの片っ方に理性のはかりがついてて、もう片っ方の色好みの方につりあいをとるんでなけりゃあ、本来いやらしい欲情がもちまえなんだから、およそとんでもないことになっちまう。だがまあ、理性ってものがあって冷やしてくれるんだ、この荒れ狂う衝動だのそそり立てる肉慾だの際限のない淫乱根性だのってやつを。お前さんが恋とか愛とか言ってるやつも、けっきょくそいつの芽生えか若芽ってとこさ。
ニヒリスティックな台詞だ。迷いの無い格好よさがある。
生きるも死ぬもそれ一つにかかるところ、 おれの命の流れが、そこからわき出るか、それとも涸れてしまうかという、 そのもとの泉――そこから追い出される! その泉を、けがらわしいひき蛙どもがつるんで子を生む 水たまりにする!忍耐よ、顔色を変えよ、 お前は若い、ばら色の唇の天使であったが、 もうこうなっては、地獄のすさまじい顔つきとなるほかはあるまい!
オセロウの台詞。イアーゴウの現実主義的な台詞と、このようなオセロウの詩情溢れる台詞の対比が実に上手い。

シェイクスピア作品は矢張りロックだ。

ヒキコモリコウモリ。

<4> 町山智浩 『〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀』
待ちに待った『映画の見方がわかる本』の続編。
80年代ということで、私が幼い頃に観た作品が多く、実に楽しめた。
『ビデオドローム』『グレムリン』『ターミネーター』『未来世紀ブラジル』『プラトーン』『ブルーベルベット』『ロボコップ』『ブレードランナー』
と云う(少なくとも私にとっては)珠玉のラインナップ。

少々過ぎた酒毒で、感覚はぐにゃぐにゃになって歩いていた。
こつこつと云う革靴の硬質な音だけが、世界と私とを隔てていた。
軟体動物の同僚達は、散り散りに自らの硬質を求めて帰っていった。

何がめでたいのかさっぱり解らんけど、
葱喰って酒呑んで。
一番めでたいのはそんな私自身のキキ。

20060106.jpg
ラーメン博物館にて。
ポストモダン的廃墟に埋もれるカップヌードル。
無駄に壮大なこういう模型は好きだ。

伊豆太郎

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izutaro.jpg
伊豆太郎さん伊豆太郎さん、お腰に付けたえぼ鯛の干物、一つ私に下さいな。

ゲッシモク

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カピバラが温泉に入る姿を見たかったのだが、叶わず。

踊る黒線

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新幹線のデッキに見知らぬ幼い姉妹と三人きりで座り込みながら、ぼんやりと窓の外の電線を見ていた。
透き通った青空に遊ぶように、リズミカルに上下する電線を見ながら、最近こうして電線をぼんやりと眺めることもなかったなと思っていた。小学生から高校生までずっと、電車に乗る機会にことかかなかった私は、まるで生きもののように、電車の速度に合わせて上下する、黒い線を眺めるのは嫌いではなかった。

そんなことを思い出しながら、故郷から凄いスピードで離れていく、私の中では「のぞみ」の「ひかり」は、富士が見える辺りに差し掛かった。

新幹線から初めて見る富士は、高さよりも膨大な質量が印象的だった。このふもとまで地続きの、眩暈がするほどの土くれの質量を考えると、何故だか私は吐き気がした。

国立天文台4次元デジタル宇宙プロジェクト(http://4d2u.nao.ac.jp/)と云う、何が何やらさっぱり解らぬ名前のページが、とても面白い。
各種ムービーも堪らないが、何といっても「4次元デジタル宇宙ビューワー "Mitaka"」が素敵だ。google earthの宇宙版と云った具合のスケール。ダウンロード以外でも、フラッシュの状態で見られるものもあり、宇宙の果てから三鷹までのなんともスケールの大きな移動を体験できる。

ああ、いいなあ。文系にとっては、こういう直感に訴えかける映像だと理解したような気になれるので、素敵だ。

明日の夜中には四分儀座流星群が見えるかもしれないのだそうだ。

それを見たら、私もくしゃみをするだろうか。

<1> ポールオースター 『鍵のかかった部屋』 1/1
ニューヨーク三部作を締めくくる一作。『シティ・オヴ・グラス』と『幽霊たち』がどこか同じ母から産まれた兄弟のような印象だとしたら、この作品は、その母のようだ。兄弟と顔は確かに似ているが、矢張り違った側面がそこにはある。云うまでもなくその横顔に居るのはソフィーであり、それを通して存在する帰路だ。それなのに、その横顔が掻き立てる気持ちが、より不穏なものなのは一体どういうわけなのだろう。不思議だ。

物語を聞くとき、われわれは幼かった頃の聞き方に戻る。言葉の内側にある真の物語を自分で思い描こうとするのだ。われわれは主人公の立場にわが身を置き、自分自身のことを理解できるのだから主人公のことだって理解できるはずだという思いを抱く。だがそれは欺瞞である。おそらくわれわれは自分自身のために存在しているのだろうし、ときには自分が誰なのか、一瞬垣間見えることさえある。だが結局のところ何ひとつ確信できはしない。人生が進んでゆくにつれて、われわれは自分自身にとってますます不透明になってゆく。自分という存在がいかに一貫性を欠いているか、ますます痛切に思い知るのだ。人と人とを隔てる壁を乗りこえ、他人の中に入っていける人間などいはしない。だがそれは単に、自分自身に到達できる人間などいないからなのだ。
だが僕の頭はいつも、ひとつの空白を浮かび上がらせるだけだった。せいぜい出てくるとしても、あるごく貧しい情景にすぎなかった―鍵のかかった部屋のドア、それだけだった。ファンショーは一人でその部屋の中にいて、神秘的な孤独に耐えている。おそらくは生きていて、おそらくは息をしていて、神のみぞ知る夢を夢みている。いまや僕は理解した。この部屋が僕の頭蓋骨の内側にあるのだということを。


<2> シェイクスピア作 野島秀勝訳 『ハムレット』 1/1
こんなに刺激的だとは思いもしなかった。
黴臭さはどこからも臭ってこない。

生きるか、死ぬか、それが問題だ。 どちらが立派な生き方か、 気まぐれな運命が放つ矢弾にじっと耐え忍ぶのと、 怒涛のように打ち寄せる苦難に刃向い、 勇敢に戦って相共に果てるのと。死ぬとは―眠ること、 それだけだ。そう、眠れば終る、心の痛みも、 この肉体が受けねばならぬ定めの数々の苦しみも。 死んで眠る、ただそれだけのことなら、 これほど幸せな終りもありはしない! 眠れば、たぶん夢を見る、そう、そこがやっかいなのだ。
ぶくぶくと太っただらしない今どきの世の中では、 美徳のほうがこともあろうに、悪徳の許しを乞い、いや、それどころか、 悪徳のためになることをしておきながら、すまないと頭を下げなければいけないのだから。
これは富と平和に倦んだ揚句の果ての吹き出物、 外目にはなんとも見えないが、中は膿みただれて、 命取りになる。
あいつは乳を吸うにも、まず乳首にうやうやしくお辞儀してから吸いつく、そんな赤ん坊だったにちがいない。ああいうのが――軽薄な世の中にうつつをぬかす数知れぬ同類のひよっこどもが――時代の流行言葉だけ覚え、始終、たがいに上っ面の挨拶を交わし合っては、泡立つ浮糟のような空疎な新知識を身につけ、それを鼻にかけて、深遠な選り抜かれた考えの持主たちの間を、厚かましくも肩で風を切りながら罷り通っているのだ。しかし、試しにちょっと吹いて見たまえ。所詮はみんな、あぶくさ。はじけて消える。
来るべきものは、いま来れば、あとには来ない――あとで来ないなら、いま来る――いま来なければ、いつか来る――覚悟がすべてだ。

<3> 三浦展 『下流社会 新たな階層集団の出現』 1/1
キャッチーで面白いが、パースペクティブに注意する必要はあるように思う。だが、少々刺激的な目薬としては、非常に有用に思う。だからこそのベストセラーなのだろう。

「上」の男性では、「最後は誰かが何とかしてくれるという気持ちがいつも自分の中にある」はゼロであり、逆に「決めたことは、即実行する」「自分の性格は明るい方だと思う」「人の好き嫌いはほとんどない」「周囲の人の態度や気持ちの動きには大変敏感である」が多めである。特に「性格は明るい方だ」に「そう思う」と答える傾向は「下」では非常に少ない。  つまり、「上」の男性は、性格が明るく、人の好き嫌いがあまりなく、人づきあいがよく、気配りができて、実行力があり、依存心が弱いということである。逆に「下」の男性は、性格が暗めで、優柔不断で、依存心が強めだと言える。
いやいや、  《「上」の男性は、性格が明るく、人の好き嫌いがあまりなく、人づきあいがよく、気配りができて、実行力があり、依存心が弱い》  と 思 っ て い る  《ということである。》 というのが正しいのではないか。

こういうことばかり引っかかるから、「屈折しすぎてますよ」と言われるのだろう。

上野千鶴子がイケメン医師と結婚して専業主婦になったら、きっと世間は嘲笑うだろう。それなのに、援助交際を煽った宮台がこんなに保守的な結婚をしても誰も何も言わないのは、なぜなのか?千石イエスのおっちゃんのように、宮台がリストカット常習援交女子高生を集めたキャバクラでも作ってくれれば、私は拍手喝采だったのだが。
もう、イジワルなんだから。

やっと解った。
つまり私は、ゼロにならなければいけないのだ。
マイナスの絶対値を増やしたところで、それは逃げているに過ぎない。
目指す場所はゼロ、現状はマイナス。
ゼロが目的地なのだと、私はそのように理解した。
私にはAngoの堕落の目的地が、無限のマイナスにあるのではなく、ゼロにあるのだと考えるに至った。
もう、足踏みは充分だ。
力強く、跳ぶのだ。
ゼロに向かって。


以上のことを気づかせてくれた故郷に、感謝しよう。そこはもはや、死臭と倦怠に満ちた、死すべき街でしか無かった。少なくとも、私にとっては。
だが、私はやはりこの街の枯れ果てた混沌の名残を胸に抱き続けるだろう。

つまりそれは、私自身に他ならないのだから。

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