著作権法の判例と学説の態度に疑問を感じる。
と云うと、全く持って傲岸不遜な態度に思えるが、実際、奇妙に思えるのだからしようがない。勿論、概説をさっと読んだ初学者なので、何となくおかしいように感じたというだけのことなのだが。
詳細に書く知識も時間もないので、雑に「感想」のみを書く。
純粋美術だとか、高度な美的表現が見られるとか、そういうものでじつに曖昧に表現しているように思われるのだ。所謂fine artと、キッチュとの区別は現代に於いては消失しているし、現代アートにいたっては、オリジナリティとコピーと云う概念区別すら消滅してしまっているものが殆どだ。19世紀や20世紀初期ならばまだしも、今の時代に純粋芸術だの高度な美的表現だなどは、少々「文化の発展に寄与する」とうたっている法律にしては、そぐわないのではないだろうか。そして、何が創作性が認められるかや、ひいては著作物性が認められるかについても、中々統一的な判断論理があるようには思えなかった(私の学習が足りないということが大部分あるのだろうが。)勿論、美学や現象学の論理をそのまま法的思考にあてはめろと言いたい訳ではない。美学の最新学説は先鋭的でもあり、凡そ社会一般の認識とまでは言えないだろう。ココ・シャネルは、「芸術とは初めは醜いが美しくなるものであり、モードは初めは美しいものが醜くなる」(うろおぼえなので同異はあるだろうが)という至言を残している。何も、ウォーホールが登場してきた直後に学説や法解釈を充実させろといっているわけではなく、つまり、まだ芸術が醜い段階で解釈の充実を図る先鋭性は美学の分野に任せておけばいいものの、それがもはや可也の程度広まり、美しく判断されるようになったならば、その判断を基礎付ける芸術理論の導入は検討されて然るべきではないだろうか。勿論、法学と、哲学系は大きくその対象と姿勢を異にするものなのかもしれないが、現象学と云う見地からは、可也有為なアプローチのヒントが得られるように思えるのであるが。
実際、純粋芸術などと云う概念は、現象学としてみると、まだデュシャンらが登場した20世紀当初は、辛うじてキッチュとfine artの対立構図というものは存在した。まだこの時点では、高度な芸術性の判断も比較的容易であっただろう。その対立構図を象徴的に、挑発的に表現したのが《泉》なのであるし、その他の当時のアヴァンギャルドな作品群であった。しかし、これが、同じく自己言及的なモダンアートのアヴァンギャルド性が更に進むと、具体的には、アンディ・ウォーホールらの世代まで進むと、それはもはやデュシャンの世代の、それこそ古典古代から続くfine artとキッチュの対立というものは、そもそも複製イメージの、キッチュの大量反乱によって、(ボードリヤール的に云えば、広告こそ芸術ということになるのだろうか)、もはや、オリジナルとコピー、fine artとキッチュの区別事態が溶解してしまっている。勿論、この状況に法学が無関心だとは云わない。法解釈も判例も、デジタル技術による複製の容易さに、対処しようとはしているが、それ以前に、何か確たる概念(この辺はうまく表現できない実に直感的な表現であるのだが)が確立されていないように思うのだ。
結局のところ、私が感じる違和感は、著作権法では「美とは何か」と云う問いが避けられ続けているように思えるからかもしれない。それを問うこと無しに、何を保護するかと云う点は確たるものにならないように思うのだが。実際、著作物性などの判例を見ても、カズイスティックと言っても良いような状況に思える。もっとも、それは私が不勉強によって判例理論や学説を理解していないということに尽きるのかもしれないが。
兎に角、美学的、もしくは、現象学的アプローチを試みる余地は充分にあると思うのだが。
少し暇が出来たら(いつだって暇だけれど)、一寸著作権法を勉強してみることに決めた。
盲腸コアラが出た。
ある日の地下鉄に捨てられていた、まだ美しい花束。
