間隙を埋めるように、過剰な投稿。
最近読み終わった本
ミシェル・オンフレ 『<反>哲学教科書』
確かに高校生向け入門書と云うことで、挑発的な話題を扱ってはいるが、浅く広くと云った感じ。それでも、楽しめた。経済学部のある教授は、日本の大卒はアメリカの短大卒程度だとオッシャッタらしいから、短大卒にも満たない留年生には、差し詰めフランスの高校生向けの教科書が相応しいのだろう。
沢木耕太郎 『無名』
『檀』の時も思ったが、この人は本当に上手い小説を書く。とても巧みに出来ていながら、嫌味がなくて、とてもさらりとしているのだ。この軽みは、中期の太宰の傑作にも通じるようでいて、やはりどこか違う。太宰のそれが透明だとしたら、極々薄い暖色がかった白、とでも言おうか。そのようなフシギな感触だった。なんともまあ、上手いなあ、と思う。それ以上に、なんともまあ、いい小説だなあ、と思う。
纏まった感想は今度読み返す機会があったら、その時にでも。
深沢七郎 『言わなければよかったのに日記』
やっぱり変だよ。この人。「変っていると云われるとボクは首をうなだれて心細くなってしまう」なんてあるけど、やっぱり変だ。この人の文章には、とても好きだけれど、好きと言って本当にいいんだろうか、と思わせるようなところが、どこかにある。確かに面白いのだけれど、腹をかかえて笑うのだけれど、どこかヒヤリとするところがあるのだ。そのヒヤリとするところが、いささかも面白さを損なわず、同時に感じてしまうところにまた、奇妙な恐ろしさがある。
加藤典洋は『僕が批評家になったわけ』の中で、この本について次のように述べている。
ふつうの人の平明さは、難しいと平明と二つをもったうちの平明の領域なのだが、この人は難しいという部分を最初から、ギロチンで捨ててしまっている。パリにサン・ドニという通りがあって、これはひところは売春街として名高いところだったのだが、その名前の起源になった聖ドニというお坊さんは、首を切られた後、その首を手に抱えて寺院まで戻ってきたとかいう人である。この平明な人は、首をなくしたお坊さんと似ている。自分の首をポーンと捨ててしまっていて、首無しで歩いている。そういう平明さ、いってみれば夜のない白夜のような平明さである。
(加藤典洋 『僕が批評家になったわけ』)
さすが批評家と云うものは、実に上手く切り出す。この平明な恐ろしさというものは、味わったことがなくて、とても奇妙だ。
不条理劇を見て、笑うというのはよくあることだと思う。例えば、デヴィッド・リンチのイレイザーヘッドなんかでも、ついついニヤリとしてしまうように、不条理さの中に笑いを感じることはよくあることだと思う。しかし、平明で、とても面白いものを読んでいる時に、ふと不条理さを感じるというのは、そうは無いように思う。この体験自体が何か化かされたような、フシギな感覚なのだ。
買った本
深沢七郎 『言わなければよかったのに日記』 (『楢山節考』が凄い作品だったので)
大江健三郎 『日常生活の冒険』 (太宰、安部公房に続いて新潮文庫版読破を目指す 5/20)
谷川俊太郎 『谷川俊太郎詩選集1』 (最近詩を読んでいないので)
ポール・オースター 『鍵のかかった部屋』 (ニューヨーク三部作でこれだけ未読だったので)
読みかけの本
ジョージ・F・ケナン 『アメリカ外交50年』
半分くらいまで読んだ。電車の中など徐々に読み進めている。とても面白い。
パトリシア・ウォレス 『インターネットの心理学』
少しだけ読んだ。時代が古すぎる。少し寝かせてみる。
最近少し固めな本が続いているように思ったので、小説をメインに買ってみた。果たして大江健三郎とポール・オースターが柔らかいのかどうかはわからないが。
ボクはロカビリーも賛美するけど、それと同じように、義太夫や長唄も大好きだ。とにかく、なんでもいい、自分の好きなものは映画女優ブリジット・バルドオでもシナ料理のギョウザでもボクは神様だと思っている。
(深沢七郎 『ささやき記』)