2005年12月アーカイブ

ふるさとは とおきにありて おもふもの
と云う句は、故郷に帰って、自分の思っていた故郷と目の前にある故郷とのギャップに直面した失意の句だと読取るのが一般的なようだ。
ということで、室生犀星の句でも口ずさむために、少しの間帰省するとしよう。
三が日が過ぎ去らぬうちに、「レッツゴーハワイ」とハイロウズを口ずさみながら、日本のハワイにでも向かうとしよう。

2005年読書量は大体40冊くらいか。イマイチ。

今年を一言で表すとしたら、「迷いと決断」の一年だった。
若干迷いにシフト気味だったものの。
いや、若干どころやないか。

では、よいお年を。

2005年鑑賞作品

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2005年の鑑賞作品のリスト。
全110本で、スクリーン観賞が104本。テレビ観賞作品は勘定に入れていない。
70本ほどだと思っていたのに、100本越えていたとは意外だった。
今年も映画との良い出会いが沢山あった。

年末駆け込みシネマその2
新文芸坐で『50回目のファーストキス』と『セルラー』。全幅の信頼を置く新文芸坐に「当館選出 2005年のハリウッド映画ベスト1&2」と言われれば観に行く他あるまい。

『50回目のファーストキス』
私だって恋愛映画観るんですよ。
ああ、いいなあ。凄く良い。最近増えてきた「記憶喪失もの」なのだけれど、それを重々しくではなく、アダム・サンドラーを使って、シモネタ混じりの軽いノリで作ったところがとても良い。勿論単純にコメディーなのではなく、泣かせても呉れる。本当に良い映画だよなあ。

『セルラー』
とても凡庸で、単純な感嘆符以上の言葉ではないのだが、この映画にはこの感想が相応しい。
「ああ面白かった!!」
とにかく退屈する暇もなく、頭を使う必要も無い。
この作品で一番輝いているのは何と言っても、
ウィリアム・H(変な顔)・メイシーだろう。
よもや、ウィリアム・H・メイシーがこんなにも輝いている映画が現れるなんて!ウィリアム・H・メイシーの横っ飛び銃撃があんなにかっこいいなんて!誰が想像できるだろう。
ジャック・ブラックは『スクール・オブ・ロック』で主役を張ったし、
フィリップ・シーモア・ホフマンは『25時』でオトコっぷりを上げたし、
ウィリアム・H・メイシーはこの作品で滅茶苦茶格好よかった。
残る変な顔俳優と言えば…やっぱりスティーブ・ブシェーミか。
ブシェーミもオトコを上げる瞬間が訪れるんだろうか、と思ったら、彼はもう911の時に元消防士の経歴を生かして、救出を手伝ってもう上げているのか。
しかも、なんともまあ、フィリップ・シーモア・ホフマンが『カポーティ』でオスカーを獲るかもしれないなんて話もあるようで。http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20051010
これはもう、変な顔俳優の時代なんだろうか。

だったら日本でも森下能幸あたりが人気がうなぎのぼりになったりするのだろうか。

年末駆け込みシネマ。
目黒シネマで『チャーリーとチョコレート工場』と『コープスブライド』のティム・バートン&ジョニーデップ二本立て。

『チャーリーとチョコレート工場』
面白い面白い。ただ、やっぱりただの子供向け映画ではなかった。というより、全く持って子供向けではない。拾った金で買ったチョコレートだしなあ。
とはいえ、冒頭のチョコレート工場の出荷のシーンに、『シザーハンズ』のクッキー工場を思い起こすのを初めとして、斜めに歪んだチャーリーの家、等々のティム・バートンらしきイメエジに溢れかえっているのを観るだけでも嬉しくなってしまう。

『コープス・ブライド』
どこがストップモーションで、どこがCGなのかが気になってしまった。
ヴィクターがエミリーと結婚する気になったのが女性からすると理解できないと云う話を聞いた。
果てさて、世の男性は一体どうだろうか。


あまり「引っかかり」が無かったけれど、愉しかったのは確かだ。

捨てても捨てても片付かない。

一体私は、一年間でどれほどのものを抱え込んでしまっていたんだろう。

捨てるか残すか迷うようなものは、全て捨ててしまったほうが良いのだ。

2005年に慣れてきたと思ったら、もう2006年になるんだってよ。
セチガラィ。

大江健三郎 『日常生活の冒険』

この人の文章は、とてもしっくりくる。この人の作品を読んでいると、不思議なことに、文字の上を視線だけが彷徨うと云うことがまずないのだ。奇妙だ。
私は今、1967年の大江健三郎とともにいるが、早く2005年の大江健三郎に追いつきたい。
21世紀の日常生活を冒険的に生きるには、一体どうしたらいいのだろう。


おれはマヤコーフスキイのような詩をかきはしないが、しかし自分がズボンをはいた雲だということは信じているんだ。おれはいつかきっとなにか新しいことを、いかにもおれらしくやるだろうという予感をもっているんだよ。そのおれが夜警をしながら、《俺自身の時》をまっていてなぜ悪いんだ? しかも、おれは怠けてはいない。つねに自分のモラルについて瞑想しては、カードやノートをつくっているんだぜ、そうじゃないか? おれはやがて、すばらしい冒険をするだろう! もし、そのときまで、この世界が滅びなければの話なんだが!
(大江健三郎 『日常生活の冒険』)

まあ、平たい話がヒキコモリですよ。

HTMLのコーディングとかしてた。

クリスマスのパーティーでのプレゼント交換なる宗教上の儀式で、手触りの良い熊のぬいぐるみと交換に、『きょうの猫村さん』(ほしよりこ)の一巻を頂いたので、早速読む。
お、お、面白い。和む。

檀一雄 『檀流クッキング』を衝動買いする。
腹が減る。

なまの映画

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ダルデンヌ兄弟の新作を恵比寿に観に行く。
劇場は、クリスマスイブだからか、カップルで鮨詰めだった。よりによってクリスマスイブにカップルでダルデンヌ兄弟を観に来る物好きがこんなにも居ることに少々面食らったが、同じ劇場で上映していた『ポビーとディンガン』に入れなかった人々が流れてきたと考えれば納得も行くだろうか。

『ある子供』
どんどん純度が上がってきている。夾雑物の入り込む余地がまるでない、実に静謐な作品だった。『ロゼッタ』を観たときにとても印象に残ったのが水と道路が煽る不安感だった。どこの街にもあるはずのありふれた川や池や水溜りの水がとても不穏なものに感じられ、また、道路を横切る車の速度がとても早く、途轍もない轟音を立てて向こう側の歩道との間の途方も無い崖のように感じられるのだ。それはおそらく、この作品がBGMや効果音というものを一切拒絶しているところによるものでもあるのだろうが、単なる音響上の効果以上のものが、そこには潜んでいるように思われた。
その水と道路はこの作品でも顕著であり、ロゼッタが歩いたぬかるみや、瓶の罠を投げた池を思わせる、ブリュノの「小屋」近くの川や、彼がスニーカーを浸す水溜りがとても印象的である。また、乳母車を押しながら横断する道路の絶望的なまでの恐ろしさも、ロゼッタのワッフル店の前の騒々しい排気音をさらに純化したような印象を受ける。そこに観えるものは、単なる「川」や「道路」といった言葉には収まりきれないもののように思われる。言葉のコード化を拒絶するようなものがそこにはあるのだ。単純に聴覚的な体験に限って言っても、それは、車の轟音であり、水面に遺書と石が詰まった箱を投げ入れる音であり、ブリュノが針金で水面を叩く音であり、スニーカーを水溜りに浸す音である。それは単なるリアリティや演出と言った効果を超えていて、無理に表現するならば、それらは殆ど「なま」なのである。ヘレン・ケラーがそれがwaterだと気が付く以前の状態にも対応するかのような「なま」の状態がただただ提示されているのである。これは、コード化を伴っている映画の中で、凄まじいことではあるまいか。
ドグマ映画が「映画の純潔」を目指しながら、演劇化せざるをえなくなった、或いは、ジャンルに収束されることを嫌いながら、一つの前衛と云う形でのジャンルに陥らずにはいられなかったなか、ダルデンヌ兄弟は「映画の純潔」を軽やかに、そして、実に慎ましげに達成させてしまった。ラース・フォン・トリアーの尊大な表情が歪むのを観たいと云うサディスティックな好奇心に駆られるほどである。
劇場の掲示板に張られていた雑誌の切り抜きのタイトルに「ダルデンヌ兄弟、あなた方は天才ですか?」とあったが、まさにそう問いたくもなる。
過剰であるとか、控えめであるとか、そのような次元とは無縁であるような「なま」の映画。こんな映画を観られることが幸福でなくて、一体何が幸福であろうか。


慎ましいスタッフロールが終わった直後、「もう終わり?」と連れ合いの女性に言っている男性が居た。恐らくは映画好きの恋人に連れてこられて、この映画を愉しむことが出来なかった彼に同情したが、それもまた迷惑な話だ。

確か一年前のクリスマスイブにも映画を観ていて、その時は新文芸坐で『らくだの涙』と『アフガン零年』を観た。この時も二本とも当りだった。クリスマスイブに映画を観ると、良い映画体験が出来ると云う厄介なジンクスが出来上がってしまったようだ。

水が漏れるようにじわりじわりと頭にアルコールの酔いが滲んできた夜更け、テーブルの丁度真ん中あたりに座っていた私は、左側の人々の会話と右側の人々の会話を、ステレオでも聴くかのようにぼんやりと流していた。たまたま頭が向いた方に向かって曖昧な相槌をうっていると、ふと、
「ほら、なんだっけ、食通の作家」
と言っているのが左のテーブルで聞こえたものだから、私はついつい
「開高健?」
と言ってしまった。
場の空気が停滞するのを感じながら、私はまた何度目かの学習しない後悔を味わった。その人が求めていた答えは開高健ではなかったし、それまでの流れていた会話の流れから、それは明らかのはずだったのに。赤川次郎、村上龍、村上春樹、"ロマンチックな"宮沢賢治。その流れの中から、どうして開高健が求められているだろう。もし私が、すんでのところで飲み込んだ「それとも檀一雄?」と云う言葉を吐き出していたら、夜更けのmisfitさはもっとチクチクと私を刺しただろう。こういう過ちを犯さないように気をつけなくてはならないなとは思うのだが、染み出てきたアルコールばかりは如何ともしがたいようだ。こんなmisfitを感じたとき、私はいつも自分の嗜好がまるで教養であるかのように振舞っているようで、吐き気がする。些細なずれに、彼我の嗜好の差以上のものが見え隠れするようで、私はいつだって震える。「これじゃあまるでスノッブじゃないか!」と大降りな身振りで見せているようで、その身振りそれ自体がスノッブのようで、逃れられぬ吐き気のメビウス行き一直線である。
酔いを含んだたゆたう夜更けの空気に救われたものの、
「凄く本読んでるんだね」
とでも言われようものなら、私は脳髄をどっぷりと純度の高いアルコールに浸してしまいたいと思ったことだろう。

新文芸坐で見逃していた『マシニスト』

『マシニスト』
シェイクスピアのアダプテーションの講義のセンセイが『マシニスト』は『罪と罰』のアダプテーションです。と言っているのを聞いて、私は一体この人はどれだけ映画を観ているのだろう、とソンケーの念を抱いたのである。
そんな『マシニスト』であるが、結局この映画はパンチラインが売りの一連のサスペンスではないらしい、と云うことに気が付いた。筋を追っていくにつれ、どう考えても筋の捩れが存在しないのだ。主人公の周りも客観的に映しこんでいるため、彼以外にとって(観客にとっても)、現実は何ら不条理ではないのだ。周りに起こる出来事が不条理なのか、主人公が病んでいるのか、を往復する余地はもはや存在せず、徹頭徹尾病んだ主人公が映し出されているに過ぎない。ラストのパンチラインは添え物に過ぎず、大して重要ではないのではなかろうか。
恐らく、パンチラインだけを期待して、プロットの巧みさだけを追っているなら、この映画は出来損ないの『ファイトクラブ』程度にしか見えないだろう。しかし、この映画はもっと異質な何かを含んでいるように思うのだ。
シュールレアリスティックな不条理劇でも「どんでん返し」が見もののサスペンスでもないとしたら、私は一体この映画の何処に魅力を感じたのだろうか。それはこの映画に漂うダルトーンの冷たさの映像だ。季節感も生活感もまるで感じられない無彩色の世界。無国籍な雰囲気も漂っており、時間の流れも感じられない、独特の映像世界だった。ダルトーンの世界の中、「男」の乗る赤いスポーツカーと、「例の」交差点だけが妙に違和感があり、実際結末からするとそれはさもありなん、と云う違和感であった。どの人物が住んでいる部屋も明度と彩度は低く、遊園地ですら薄暗く、全く楽しくなさそうなのだ。この実に奇妙な、「沈鬱な」とだけでは表現できない不思議な映像世界は中々気に入った。
その映像世界にさらに凄みを与えているのは、言うまでも無くクリスチャン・ベールの命を懸けた役作りだろう。クリスチャン・ベールも、しかし、よくもまあ、こんな地味な映画にこれだけ身体を張ったものだ。

この映画がパンチラインが肝のサスペンスでも、シュルレアリスティックな不条理劇でもないと云うことは、例えば、全く同じ題材を、M・ナイト・シャラマンやデヴィッド・リンチがメガホンを取っていたら、と想像したら理解できるのではないだろうか。
私は、途中から、リンチの新作が観たくてたまらなくなってしまった。

もしこの作品を、クリスチャン・ベールの鬼気迫る役者魂とともに、リンチが撮っていたら、間違いなく映画史に残る作品になっただろう。なんて想像してしまうのも、リンチファンの哀しいサガである。映画史は映画史でも、カルト映画史なのだが。

ああ、早く観たい。
http://www.eiga.com/buzz/050517/07.shtml

間隙を埋めるように、過剰な投稿。


最近読み終わった本


ミシェル・オンフレ 『<反>哲学教科書』
確かに高校生向け入門書と云うことで、挑発的な話題を扱ってはいるが、浅く広くと云った感じ。それでも、楽しめた。経済学部のある教授は、日本の大卒はアメリカの短大卒程度だとオッシャッタらしいから、短大卒にも満たない留年生には、差し詰めフランスの高校生向けの教科書が相応しいのだろう。


沢木耕太郎 『無名』
『檀』の時も思ったが、この人は本当に上手い小説を書く。とても巧みに出来ていながら、嫌味がなくて、とてもさらりとしているのだ。この軽みは、中期の太宰の傑作にも通じるようでいて、やはりどこか違う。太宰のそれが透明だとしたら、極々薄い暖色がかった白、とでも言おうか。そのようなフシギな感触だった。なんともまあ、上手いなあ、と思う。それ以上に、なんともまあ、いい小説だなあ、と思う。
纏まった感想は今度読み返す機会があったら、その時にでも。


深沢七郎 『言わなければよかったのに日記』
やっぱり変だよ。この人。「変っていると云われるとボクは首をうなだれて心細くなってしまう」なんてあるけど、やっぱり変だ。この人の文章には、とても好きだけれど、好きと言って本当にいいんだろうか、と思わせるようなところが、どこかにある。確かに面白いのだけれど、腹をかかえて笑うのだけれど、どこかヒヤリとするところがあるのだ。そのヒヤリとするところが、いささかも面白さを損なわず、同時に感じてしまうところにまた、奇妙な恐ろしさがある。
加藤典洋は『僕が批評家になったわけ』の中で、この本について次のように述べている。

ふつうの人の平明さは、難しいと平明と二つをもったうちの平明の領域なのだが、この人は難しいという部分を最初から、ギロチンで捨ててしまっている。パリにサン・ドニという通りがあって、これはひところは売春街として名高いところだったのだが、その名前の起源になった聖ドニというお坊さんは、首を切られた後、その首を手に抱えて寺院まで戻ってきたとかいう人である。この平明な人は、首をなくしたお坊さんと似ている。自分の首をポーンと捨ててしまっていて、首無しで歩いている。そういう平明さ、いってみれば夜のない白夜のような平明さである。
(加藤典洋 『僕が批評家になったわけ』)

さすが批評家と云うものは、実に上手く切り出す。この平明な恐ろしさというものは、味わったことがなくて、とても奇妙だ。
不条理劇を見て、笑うというのはよくあることだと思う。例えば、デヴィッド・リンチのイレイザーヘッドなんかでも、ついついニヤリとしてしまうように、不条理さの中に笑いを感じることはよくあることだと思う。しかし、平明で、とても面白いものを読んでいる時に、ふと不条理さを感じるというのは、そうは無いように思う。この体験自体が何か化かされたような、フシギな感覚なのだ。


買った本
深沢七郎 『言わなければよかったのに日記』 (『楢山節考』が凄い作品だったので)
大江健三郎 『日常生活の冒険』 (太宰、安部公房に続いて新潮文庫版読破を目指す 5/20)
谷川俊太郎 『谷川俊太郎詩選集1』 (最近詩を読んでいないので)
ポール・オースター 『鍵のかかった部屋』 (ニューヨーク三部作でこれだけ未読だったので)

読みかけの本
ジョージ・F・ケナン 『アメリカ外交50年』
   半分くらいまで読んだ。電車の中など徐々に読み進めている。とても面白い。
パトリシア・ウォレス 『インターネットの心理学』
   少しだけ読んだ。時代が古すぎる。少し寝かせてみる。

最近少し固めな本が続いているように思ったので、小説をメインに買ってみた。果たして大江健三郎とポール・オースターが柔らかいのかどうかはわからないが。

ボクはロカビリーも賛美するけど、それと同じように、義太夫や長唄も大好きだ。とにかく、なんでもいい、自分の好きなものは映画女優ブリジット・バルドオでもシナ料理のギョウザでもボクは神様だと思っている。
(深沢七郎 『ささやき記』)

人生悲喜交々

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あれまあ、気が付いたら随分と隙間だらけの日記もあったもので。

新文芸坐で映画を観てきたことでも記すとしよう。

全く、私はウディ・アレンすら一作も観ていないのだから、随分な「映画好き」も居たものだ。そろそろ、「映画好き」の名札を外すとしよう。名札を外した所で、映画を観たい気持ちは変わらないので、シネマカーテンコールの機会にウディ・アレンの作品を二つ観てきた。

『メリンダとメリンダ』
悲劇篇と喜劇篇を巧みに交差させて描く二人のメリンダの様子は、とてもよく出来ているように思えた。喜劇と悲劇が入り混じったものは、喜劇になってしまうのだな、と漠然と思う。人生の本質が喜劇か悲劇かなんて、意味の無い問いなのだろう。ウディ・アレンの哲学のようなものが恐らく詰まった作品なのだろうが、残念ながら私はこれがウディ・アレン初見だ。全く、随分な「映画好き」だ…。
クロエ・セヴィニーとウィル・フェレルの脇が上手い。主演のラダ・ミッチェルの演じ分けも上手い。

『さよなら、さよなら、ハリウッド』
笑った笑った。『メリンダとメリンダ』しか観ていないものだから、この人はコジャレタコメディを作る人なのかと思ったら、バカバカしくて面白いんでやんの。序盤の、パラノイアックな喋り方が少々うるさく感じ始めたところに、例の盲目騒ぎが始まるのだから、タイミングが素晴らしい。
結局のところ、劇中映画の出来自体はどうだって良くて、さらに言えば、何故盲目になったかとか、どうして治ったかとかも重要ではないのだろう。ウディ・アレンは目が見えなくなる前から盲目で、ただ盲目になったことに気が付いたに過ぎないのかもしれない。そして、盲目のウディ・アレンが盲目であると気が付いてから周りとどう接するか、それを描いている作品のように思えた。そういった意味では『ビッグ・フィッシュ』以前の、大人になる前のティム・バートン作品にも共通点があるようにも思えた。
ヒロインの女優がトム・クルーズに似ている。
と思って調べたら、デヴィッド・ドゥカブニーの奥さんだった。なんだか顔の良く似た夫婦だ。


二本とも良い映画だった。映画は素敵だと思わせてくれるような、そんな作品だった。他のウディ・アレン作品も観たいけれど、映画館で観たい。


『さよなら、さよならハリウッド』で、ウディ・アレンはメガネ。まるでパラノイアで、独りでは何も出来ず、嫉妬屋で、てんでダメ男。しかし、最後ではヒロインに愛される。
世のメガネ男子がどうこう言っている人々は、この映画のウディ・アレンのような主人公のようなメガネ男を愛してこそ真のフェティシストではないだろうか。
もしそうなったら、世の中は少しは良くなるだろう。
なぜなら、世のダメ男達は、メガネをかけさえすれば、この映画のウディ・アレンのように愛されるのだから。

ただ一つ問題があるとすれば、世のダメ男達のなかで、この映画のウディ・アレンのように二度もオスカーを獲った過去を持った人はほぼ皆無だと云う事だ。

君らの苦しさは、きっと、私が味わったそれと違うはずだから、私には君らの苦しさがわからないのだと思う。だから、随分会っていない君らの前に突然姿を現して、「お疲れ様」なんてしたり顔で言いたくはないんだ。そんなことは傲慢なことだし、きっと君らを不快にさせてしまうから。くだらない冗談ばかり言ってその場に馴染んでしまうのも一つの手なんだろう。だけど、そんなことが出来る程私は愉快な人間じゃないから、その場所に参加しないでおこうと思った。でも、どうやらこんな不愉快な人間でも、居なけりゃ居ないで、不在から敵意を想像してがっかりする繊細な人も居るみたいだから、顔だけだしてみることにした。不在の否定と云うこと以上の意味は何もなかった出席だったし、君らの苦しさがどんなものであったかは想像できないけれど、そこに少なからぬ苦しみがあったことくらいは想像できるよ。だったら私は「お疲れ様」じゃなくて、何て言うべきなんだろう。やっぱり、何も言わないでおくとしよう。

只管停滞

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ネットの片隅で目にしたジョーク。

What is mind?――No matter.

What is matter?――Never mind.

秀逸。

此処には日付通りのことを書くのが日記としては正しいのかもしれないけれど、実際に此処を埋めているのは、日付とはかけ離れた日時に於いてであることだし、大体日時なんてものも、書かれた内容なんてものも、幾らでも書き換え可能なのだから、日付通りのことを書く必要なんて無いだろう。
大体、このブログと云う形態に於いて、事実に基づく部分なんて極僅かであるのだし、確たる私なんていうものはなく、ただその時々に移ろい行く「現象としての私」が現れてくるに過ぎないのだ。
「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」
とまあ、そんな按配だ。

だから何なのだと言うと、一日中ヒキコモッテいて、何も書くことなんてないのさ。

開催期間終了が近いプーシキン美術館展に行ってきた。

ミウラ先生、仕事してたんだね…。

今回の目玉のマティスの金魚は勿論、印象派からキュビスムまで、見所がちりばめられていて、豪華な展示だった。
中でも見所は、ミウラ先生自身も仰っていた、フランス近代版画のコーナーだろう。マネからピカソまでの版画が、可也の点数出ている。添え物ではなく、これだけの力を入れて展示されているのは、企画展にしては一寸珍しいのではないだろうか。

中々良かったが、個人的にはもっとキュビスムを観たかった。


人が溢れていたので、じっくり観られなかった。来週末なんかは、凄まじいのだろうな。

画を観に来たのか、後頭部を観に来たのか、わかりゃしない。
君もスノッブ、僕もスノッブ。みんなスノッブ。

ロゴスの枯渇

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自分が勝者だと云うことを自覚しながら、まるで敗者であるかのように振舞って、真の敗者を打ちのめすやり方は、お世辞にも美しいとはいえないな。

謙虚であれと叫ぶ敗者の声もまた、勝者からすれば傲慢なのであろうか。

ある者は「ぼくを愛して!」と叫ぶし、他のものは「ぼくを愛さないで!」とくる。しかし最悪で、もっとも不幸な人種は「ぼくを愛さないで、でもぼくに忠実でいてくれ!」と言うんです。
(カミュ 『転落』)

こんな言葉を思い出した。

対岸の火事を見守る、そんなこんなの身勝手な週末で御座います。

クアアイナは大変美味しゅう御座いました。

つまんねー日記で御座いますこと。

刹那sugill-roppongi

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久々のオールナイト上映参加に期待を高まらせ、ライトアップされているけやき坂を、コンビニの袋をシャカシャカいわせながら、オサレな人々の間を抜けてヴァージンシネマに辿りついた。
胸躍る私の目に映ったものは、「ゴッドファーザーNIGHT ×」の文字。×の意味が空席無しだと云うことは容易に想像はついたが、認めたくない私は、列に並び、チケットカウンターの女性に、「ゴッドファーザーNIGHTを一枚」と言った。帰ってきた返事は勿論「売り切れです」と云うにべも無い台詞。
前売りを買っておかなかったのが悪いのは十分わかっているが、まさか、9時間もゴッドファーザーを観続ける物好きがそんなに沢山居るとは思わないではないか。

一気に気分が落ち込んで、恋人達が睦まじく寄り添っているroppongi hillsを、ただ彷徨っていたが、薄汚い服装でウロウロするには、roppongiは余りにオサレすぎた。
逃げ込むようにしてABCに入り、思想コーナーを冷やかす。木村敏の新刊が出ていて、思わず「ここからここまで」とブルジョア買いをしたくなる衝動を必死に抑えた。
内田樹の著作を立ち読みしていたら、気分も落ち着き、折角だから展望台でも見て帰ることにした。
同じチケットで入ることが出来る森美術館の展示は、「杉本博司 時間の終わり」 この人については全く知らないが、なんともはや、面白かった。
写真に対しては全く造詣がないが、最近読んだバルトの『映像の修辞学』と西村センセイの『現代アートの哲学』とで、写真の特異性には何となく理解があった。それを踏まえて見ると、なんとまあ、挑発的な写真であることか。ジオラマでも一度写真に撮れば真実になる、と云う意図で撮られた一連の作品。自然光で撮った三十三間堂の写真に添えられている、平安貴族が見た光景を再現したかったと云うフレーズ。一切のコードを伴わない現実の断片そのものとしての写真の特性を生かした、なんとも面白いモダンアートだった。一番感心したのは、映画を一枚の写真に収める試みだった。二時間シャッターを開けっ放しで、映画を上演する。当然残るのは、白く輝くスクリーンのみ。一体、これは写真なのだろうか。
閉館時間が迫っていたので、半分くらいは流し見る程度しか出来なかったが、またもう一度くらいじっくりと観たい。1月初めまでか。

展望台は、薄暗く、カップルで溢れかえっていた。

「多くの男女は灯の下で顔を見つめあい、もうすぐ前に迫った、死のような行為の匂いを嗅いでいる。この無数の灯が、悉く邪な灯だと思うと、私の心は慰められる。
どうぞわが心の中の邪悪が、繁殖し、無数に殖え、きらめきを放って、この目の前のおびただしい灯と、ひとつひとつ照応を保ちますように!それを包む私の心の暗闇が、この無数の灯を包む夜の暗闇と等しくなりますように!」

と叫んでやった。

市ヶ谷の暗闇がやたらと眩しかった。

30万人の叫び

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ブラジル法の講師もまた、サムライであった。

其処此処に充満しているシニシズムに対して、一体どうすれば打ち克つことが出来るのだろう。ありとあらゆるものを低温化させるシニシズムに打ち克つ知を獲得したいが、残念ながら銀杏並木では、講師も生徒も、シニシズムにどっぷり浸かっているようだ。


「むしろ移住するのだ。未開で手のつけられていない地域の『支配者』、とりわけ自分自身の支配者になることだ。自分になんらかの奴隷の徴候が現れるたびに、場所を変えるのだ。冒険や戦争を避けようとせず、絶望的な場合には死すら辞さない。この不適切な隷属をこれ以上長く耐えなくてよいなら、あるいは、辛辣で悪意に満ちた陰謀家にならずにすむのならば!」(ニーチェ 『曙光』)


支配者になれる、手のつけられていない地域なんて、あるんかな。

久しぶりにクリスマスのroppongiのイルミネーションを見て、色々と考えるところはあったけれど、
酔いに任せて書くと翌朝後悔することは目に見えているので、慎んでおくとしよう。
ただ、一つ言えることは、書き換えられない過去なんて無いと云うこと。
たとえ書き換えるのに若干の痛みが伴っても。

K氏が誕生日だったらしい。私は他人の誕生日を簡単に忘れてしまうほど記憶力薄弱なのだけれど、
酔いに任せてメッセイジでも書いておこうか。
「少なくとも、君が生まれたことで少しは世界は良くなったと思う。それをもっと良くするかはこれからの君次第だろうけど。」

まあ、そんな感じだ。

http://www.nhk.or.jp/shiruraku/200512/tuesday.html
テレビをつけたら、NHKで大槻ケンヂが江戸川乱歩について語っていた。
今回は『屋根裏の散歩者』。『屋根裏の散歩者』は青春小説だ、と語っていた。
面白い。
次回は『パノラマ島綺譚』だそうだ。素晴らしい。
乱歩読み返したいなあ。
勿論少年も二十面相も出てこない、大人向けのやつを。

メモ
大江健三郎のロングインタビュー
http://web-davinci.jp/contents/interview/index.html

先日、パリ出張帰りのセンセイの土産話を聞いた。
秋の展覧会シーズンで、ルーブル美術館ではジロデの展覧会が行われているらしい。
ジロデって誰?と思ったのは私だけではないらしく、美術史の講義でも院生の方以外知っている人はいなかった。それくらいマイナーな画家らしい。
ジロデはデヴィッドの弟子らしく、一応は新古典派に位置する画家なのだが、その画風は可也異端なのだそうだ。少しネットで検索してみたところ、矢張り異端で、ダヴィッドの画風と大きく違う。
気に入ったのだが、展覧会日本では行われないのだろうか。観たい。
グラン・パレでは「メランコリー」をテーマに、テーマ展が行われているらしい。デューラーのメランコリアは勿論のこと、憂鬱質がネガティブなイメージから、芸術家の思索を意味するポジティブな気質と見られるまでの変遷は勿論、そこから精神医学との出会いや近現代美術にまで及ぶ広い範囲を、メランコリーと云う側面から見せているらしい。ああ、これが一番観たい。でも、これは日本には来られないのだろうな。

他にも、ダダやの展覧会(作品と云う形では現存しているものも少ないらしいが)、クリムトらのウィーン分離派展、19C後半のロシア美術など、珍しい展示が今シーズンは盛りだくさんだと嬉しそうに先生は語っていたが、暇はあっても金が無い学生には、少々酷というものだ。

ちなみに、ジロデにしても、メランコリーにしても、クリムトにしても、ダダにしても、何処か陰のある、頽廃的イメージがある展覧会が多い。これは、世情を反映しているのではないかと先生は言っていたが、中々興味深い。暴動を起こしている若者は、メランコリアではなさそうではあるが。

ブログの引用について書いていたけれど、収集がつかなくなったので、そのあたりは下書きに保存して、論理的よりも情緒的に記すことにしよう。

「本当に何かを感じたのなら、引用ではなく自分の言葉で書け」
と言った人が居たそうだが、それだけでは回収できない部分はあるように思う。人は、何かを語りたいけれど、出来る限り「私」を隠したい時もあるのではないだろうか。自分の言葉で語ると、「私」が全面に出てしまうので抵抗があるような場合。誰かの言葉を使って、モザイク画の様に文章を構成しておいて、「私」はその背後に隠れる、と云う方法も、あってもいいだろう。その形態は寺山修司の引用方法に似ているのかもしれない。論旨を補強するのではなく、つなぎ合わせたモザイク画を提示して、自らはその背後に隠れてしまうような文章。その繊細さに対して「自分の言葉で書け」と批判するだけでは、「私」の多様な存在の隙間を埋めることは出来ないのではなかろうか。

ただ、言うまでもなく、寺山修司がその引用方法を独自の表現となしえたのは、引用元が古典から刑務所の落書きにまで実に多様であるからである。

全体に対して大きすぎるタイルだけで作られたモザイク画に、魅力が無いのは当然ではないだろうか。

<休日の午後を読書をしながら過ごしていたら、ふと活字から意識が遊離して、思い出したこと>


以前テレビで、マキクロウドがこんなことを言っていた。
「海亀の産卵とか、イルカとか、クジラとか、そういうこと言う以前にさ、俺ら海辺で暮らしている人の生活のことを考えようよ。サーファーとかさ、フィッシャーとかさ、この海で暮らしてて、この海のこと誰よりも良く知ってるんだよ。」
もっともだ。


或る友人がこんなことを言っていた。
「《フシギちゃん》って、《ちゃん》なんてつける必要ないねん。《フシギな奴》で十分や。甘やかしすぎやねん。」
もっともだ。


別の友人がこんなことを言っていた。
「『ウザイ』って何やねん。カタカナじゃなくて、『鬱陶しい』って楷書の漢字でばしっと書いて突きつけるくらいのことしろいうねん。」
もっともだ。


まあ、そんなこんな。
また活字に戻るよ。

西村清和 『現代アートの哲学』 読み終わりましたよ。
おもしろい。
特に、デュシャンとウォーホルとの違いを論じるあたりは秀逸。
この人は、「有用の快だとか自我の二重分裂だとか、難しいことをごちゃごちゃ言わないで、面白いんだから、それでいいじゃん」と云うことを難しく言ってるんだと思う。勿論、精緻な議論はなされているのだけれど。この人の芸術に対するスタンスはとても好きだ。

新文芸坐のルノワールオールナイト行こうと思ったけれど、心がヒキコモリモオドだったので、家に居ることにした。ノベルティシーキングが低くなっている。
『アメリカ外交50年』でも読むかな。

そんなこんなの出来事日記でございますよ。

アレゴリヰ

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耳が気持ち悪いので、診てもらった。

「鼓膜が痙攣するような感覚なんです。」

「鼓 膜 は た だ の 膜 だ か ら 痙 攣 は し ま せ ん。」

「貴様は比喩と云うものを知らないのか?」

彼と私、やるかやられるか、緊張感漂うガチの瞬間だった。

泉と噴水

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眠いので簡略モオド。

かの有名なマルセル・デュシャンの《泉》と云う作品がある。
この《泉》が実は《噴水》と訳した方がいいのではないか、と主張し始めた学者が居るらしい。確かに元々の語では《泉》よりも《噴水》の方が適切なようにも思え、デュシャン自身もそう意図していたと思える部分がないこともないのだそうだ。
もし、《噴水》ということになれば、これはえらいことだと思う。何せ、《泉》は至るところに登場するのだから、書籍の全ての部分を改訂しようと思えば、大変な労力が必要になる。
現在はこの意見は大方無視されているようだが、もし《噴水》になったら面白い。

実際、《泉》と《噴水》では感じる印象があからさまに異なる。
しかも、作品自体は大量生産された便器なのだから、どういうシニフィアンを与えるのかは可也重要なことだろう。
《泉》と《噴水》、どちらが相応しいのだろうか。


(「泉」が出展拒否され、たんなる衛星器具屋の器具だと言われたことに対して)

アメリカがつくりだした芸術品といえば、衛星器具と橋だけではないか
(マルセル・デュシャン )

不実なる誘い

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君が余りにも魅力的だからいけないんだ。
悪いのは私じゃないんだ。
君に会うまで少しも感じなかった渇きが、君に会ってからは、もう耐えられないくらいで。
今となってはその渇きのお陰で生きてると言っても過言ではないかもしれない。
君に会わなければ、こんな渇きを感じることなく生きていけたのかもしれないけれど、
それだったら今の方がちょっといいかもしれないと、感じてしまうのもきっと、君の魅力のせいなんだろう。
そして、君がやっぱり魅力的なことばで、私に誘いかけるから、
しかも、返事は今日までしか待たないよ、なんて言うから、私はますます渇いてしまうんだ。
私のせいではないんだ。
私が正常な判断力を失っていたとしても、
傍から見れば信じられない行動を取っていたとしても、
悪いのは私じゃなくて君なんだよ。
多分。

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