2005年11月アーカイブ

米国外国史の講義後、私は機嫌が良かったのでK氏に話しかけた。そう、私はいつだって機嫌が良くないと人と上手く話せないのだ。そんな私にSIONの「わかってのか。優しいってことは機嫌の良いこととは違うぜ。」と云う問いかけはとても響く。そんな私の事情はさて措き。兎に角私は機嫌が良く、K氏に話しかけたのだ。
「チェコの政変をもっと詳しくしりたかったよ。」
K氏は何か閃いたような表情で、こう答えた。
「チェコだけに、チェコっとだけでしたね。」
私は、一瞬うろたえたが、ここが正念場だとばかりに、思考を巡らせた。

これは、駄洒落だ。チェコとちょこっとをかけているんだ。駄洒落とは、かけ離れた二つのシニフィエを、シニフィアンの発音上の類似性でつなぎ合わせる、一つの知性的戯れなのだ。シニフィアンが極めて類似しているのにも関わらず、シニフィエには何の類似性もないと云う点において、我々に言葉と云うシニフィアンの不条理さを突きつける、一つの抜き差しなら無い知性的な挑戦を含むユーモアなのだ。そこでは、一般的に、二つのシニフィエがよりかけ離れていて、二つのシニフィアンがより近い方がより可笑しみを提起する。では、私が今直面している、一つの不条理は一体どうだろうか。チェコとちょこっと、一つは国名で、もう一方は名詞ですらない、何とかけ離れたシニフィエであることか!では、シニフィアンの類似性はどうだろうか。チェコとチョコット、少し難はある。しかし、シニフィエの隔たりの大きさが多少はそれをカバーしてくれるだろう。だとすれば、この戯れは、素晴らしいとまでは言わなくても、一定程度の知性的水準は充たしていると云えるだろう。だとしたら、そう、私はこの知性を、一つの知性体として評価すべきなのだ。それなりに、褒めろ。
(この間0.8秒)

私は結論を実行に移すために、微笑を浮かべることにした。駄洒落を評価すべき微笑を浮べ、私はK氏を見た。しかし、その微笑を見たK氏は、何故か怯えた様子で、「すみません…。」と謝り、銀杏並木を走り去ってしまった。その一瞬後に、私は自らの過ちに気が付いた。そう、私は微笑を浮かべると、それがどのような感情の発露であっても、殆どの人からは冷笑と受け取られるようなのだ。実際、大概の場合の私の微笑は冷笑なので、大きな過ちはないのだが、時折冷笑ではない微笑を浮かべても、誤解されると云うことを完全に忘れてしまっていた。そう、私は彼に冷笑を浴びせかけてしまったのだ。
ひらひらと黄色い葉が舞い落ちる銀杏並木で、私はこう呟いた。

「いったい、私はどうスロベキァだったんだ。」

お粗末。

「もし今ぼくが君に"親しき仲にも礼儀あり"って言ったら、どう云う意味か解るかい?」

「ぼくと君の間柄だけど、礼儀を意識しろってことでしょ。」

「親しい仲にも礼儀があるんだから、親しくない間柄だったら言うまでもないってことだよ。」

マギー・ブイヨンを知っているだろうか。小さな立方体をした固形スープの素である。
あれピカソなどのキュビストたちと密接に結びつくものだと云うことを知って驚いた。
ピカソとマギー・ブイヨン。

私には、キュビスムと云えば20世紀最大の芸術革命と云われるように、前衛の最たるもの、伝統との隔絶という印象が強かった。ところが、同時代の人々にも、また、キュビスト達の間でも、伝統というものとキュビスムという芸術運動とは強い関わりがあるという考えは共有されていたらしい。

まずもってアングルやプッサンからセザンヌまで脈々と続くフランス伝統絵画の系譜というものがあって、それと前衛というものを融合させた、という意図でのキュビスムというものがあったそうだ。このことからして意外なのだが、マネも嘗ての巨匠に自らをなぞらえるように自画像を描くことによって自らの正統性を主張したこともあるとすれば、伝統と融合することによってマニフェストとしての自らの正統性を確保しようとするのはマネやクールベ以降の前衛たちにとっては珍しいことではなかったのかもしれない。だが、興味深いのは、マネが同時代の人々から変わり者と思われ、おおよそ伝統から乖離した異端者と思われていたのとは違って、キュビスト達は伝統を引き継ぐものだという印象がそれなりに受け取られながら、かつ、同時に全くの正統な継承者というほどでもなく全く異端者という印象でもない、という複雑さである。そこにはフランスの文化的伝統には二つの系譜があるということに密接に絡んでいるらしい。
グレコ・ローマンの伝統とケルト的な伝統の二つである。この両者の文化的背景の対立構造がフランスとドイツとの緊張関係によって顕著になってきたようで、キュビスムは自らをフランスの正統な伝統に融合させようとした自らの意図とはまた別に、このような巨視的な文化政治学的視点からも絡めとられるように、ケルト的な伝統との関わりを意識されるに至ったようだ。つまり、ドイツの文化的侵略の手先のように見られていた側面も確かに支配的にあったということだそうだ。

さて、このような文化政治学的背景を前提として、どのようにマギー・ブイヨンとキュビスムが結びつくのか。もちろん真っ先に思いつくのは、両者ともキューブと云う点で共通しているということだが、それだけでは駄洒落にすぎない。マギー・ブイヨンがフランスに入ってきたのもこの時期で、フランスの食文化を破壊するものだとして、これも文化的侵略と受け取られていたという背景があったらしい。それに加えて、キュビスムの綴りがフランス語ではCから始まるのに対して、ドイツ語ではKubから始まるということ、そして、このKubと云う言葉が立方体形をしていたマギー・ブイヨンのパッケージやポスターに記されていたという共通性があるらしい。いくつかのカリカチュアが存在していて、キュビスムをドイツからの文化的侵略と見る人々は、CではなくKubから始まるキュビスムの綴りを用いていたようだ。それらの事情を背景として、キュビスムの象徴としてマギー・ブイヨンが見られていた、ということだそうだ。面白い。
ピカソがある時期、アトリエの近くに沢山のマギー・ブイヨンのポスターが沢山貼られているので、これは自分に対する嫌がらせだと思い込んで、片っ端から剥がしていったというエピソードまであるそうだ。

キュビスムと同時代の前衛であるイタリア未来派からはキュビスムに対して次の様な批判がなされていたらしい。
「物体を動きのない、凍りついたものとして頑固に描き続けており、自然のあらゆる静的な側面をとらえている。彼らはプッサンやアングル、コローの伝統を崇拝し、過去に固執して、彼らの作品に古ぼけた感じを与え、石化させている。我々にすれば、まったく理解不能に見える。」
これは前衛性を競い合っていた相手側からなされていた批判なので無条件に同時代の印象とは重ならないのだろうが、それでも伝統に固執してそれを極端にしたもの、という印象は強かったようだ。

いやはや、面白い。

ピカソもマギー・ブイヨンを飲んだんだろうか。

益々キュビスム建築がみたくなった。

書籍部で本を沢山買った。
国書刊行会の本が割り引き期間だったので、
『シュヴァンクマイエルの世界』を購入。
以前シュヴァンクマイエル映画祭で買おうかどうか悩んでいた一冊だ。まあ、葉山のシュヴァンクマイエル展には行きそびれたし、安いし、いいよね、ということで買った。満足。チェコアニメーション作家がOLにお洒落なものとして以前から人気があるそうで、シュヴァンクマイエルもそのようなものとして捉えられることもあるらしい。個人的には、何か勘違いをなさtっちゃいませんか、と思う。シュヴァンクマイエルなんて大いなる変態芸術家だと思う(褒めている)。触覚の芸術を掲げて作った『悦楽共犯者』なんて最高に面白いけれども、「哀しい目明きさんたち、貴方達にはこの世界がわからないのね」とヒロインに言わしめたこれまた大いなる変態作家の江戸川乱歩の傑作『盲獣』と言ってる事は同じじゃないか。
でも、きっと、『盲獣』が面白いと語るのと、シュヴァンクマイエルが面白いと語るのは全く別種の行為だと捉えられてしまうのだろうな。前者が「中野系」だとしたら後者は「丸の内系」か。悲しいパッケージングの世の中だ。

他に買った本。
西村清和 『現代アートの哲学』
センセイ、買いましたよ。ちょっと読んでみたら面白い。この人の本三冊目だ。

マックス・ウェーバー 『プロテンタティズムの倫理と資本主義の精神』
必読書らしいからね。

嗚呼散財散財。


書籍部に、『知の構造化』のサイン本が平積みされていた。サイン本て。
以前巣鴨の本屋に行ったら、その日がえなりかずきのサイン会だったらしく、そのサイン入り著作がレジに平積みされていた。友人と二人で、「えなりかずきのサイン本なんて誰が買うねん」と哂っていた。そして、翌日また同じ本屋に寄ったら、綺麗さっぱり売り切れていた。その時私は巣鴨の底力を垣間見たように思った。
恐るべし巣鴨。おそるべしえなりかずき。

だから、ひょっとしたら小宮山先生のサインも明日には綺麗さっぱり掃けているのかもしれないね。

いらねー。

「久しぶり。変わったね。」って何だよ。
「私が思っている通りの君で居てくれた方が安心だ」って言えよ。

「死ぬまで生きる」って何だよ。
「電車を降りるまで電車に乗り続ける」とか言うのかよ。

「お奨めの映画何?」って何だよ。
「色鉛筆でお奨めの色は?」って聞くのかよ。

「久しぶり。変わらないね。」って何だよ。
「私が思っている通りの君で居てくれるから安心だ」って言えよ。

weblogと云う媒体が注目されだしたのは、日本でも確か2003年頃からだったと思うが、未だにその頃と同じく、「草の根ジャーナリズム」への過剰な期待或いは不安をしている人たちが多くて、時折苦笑する。
二週間ほど前だったろうか、テレビでどこぞの専門家が筑紫哲也の番組でweblogの可能性について語っていた。その論点が全て、草の根ジャーナリズムとしての役割が前提としてあって、それが与える影響の多寡を語るものだった。ナショナリズムと親和的になりやすいだとか、色々な呆れるような問題点が提起されて終わっていたのだが、もうそろそろweblogの草の根ジャーナリズム論を修正してもいいのではないか。
そもそもweblogが一躍脚光を浴びたのは、911で現地のbloggerたちが発信する生の情報がとても貴重だったから、という背景があり、その後アメリカでは草の根ジャーナリズムへの期待を込めてweblogの可能性が一応の実績と共に考えられている、ということのようだ。このあたりは私はアメリカ人でもないし、研究者でもないから確かではないが。
それを引き合いに出して、日本でもweblogジャーナリズムが発達する可能性を秘めた素晴らしいツールとして、あるいは、暴走する危険性を指摘されたりする。しかし、どうもそれは実体とずれてはいないか。weblogを利用している人々の大半は日記やレビューを表現するツールとして使っている。日記ツールの延長としての意味合いが強く、このことはアメリカでの用いられ方と差異があるようだ(『ウェブログの心理学』にも記述があったように思う) このようなweblogの用いられ方の差異を無視して、同じく草の根ジャーナリズムなんてものの可能性を語るのは、もういい加減やめにしないか。
個人的に感じるのは、日本ではblogによる草の根ジャーナリズム(論者によって何を意味するかは実に様々なのだろうが)の実現は難しいように思う。なぜなら、正義というものに対する伝統的文化的に形成された意識が日本と西欧とでは随分と違うからだ。大きく変容を見せているとは云え、日本人にとって「正義」とは「公」から与えられるという意識が大きいのではないだろうか。「正義」を実現するのは「お上」である、という発想が、変容しているとはいえ、その影響は非常に大きいのではないか。「権利」というものへの意識が西欧と日本とでは大きく異なるということも良く言われるが、それと同じような理由で考えられるように思う。条約改正の必要性から、立憲国家概念を民主制後発国として受入れた日本、いわばその借り物の概念が、日本の中で独自に発展してきており、西欧との意識の差異を無視して語ることがおおよそ意味をなさないことは、若干法学を齧ったものからすると、自明であると言ってもいい。ある講義で引き合いに出されていた象徴的な例をあげると、標語にそれをみることが出来る。標語とは言うまでもなく、役所や電信柱や道路沿いなんかに貼ってある、おおよそレトリックのセンスが感じられない5・7・5の形式のスローガンである。それらの多くは、行動の規範を表したものが多いが、殆どと言ってもいいほどに、自治体などによって作られている。しかも、大抵我々はそれを違和感なく受入れている。そこにも「公」によって実現されるべき規範、正義という認識の一端を見ることができるのではないだろうか。
若干迂遠になってしまったが(いつものことだ)、何が言いたいかというと、weblogとは確かに海外では草の根ジャーナリズムとして期待されているかもしれないが、そもそも正義の実現が個々の人間に担われ実現されうものだと云う意識の低い日本において、そのような機能がどれほど果たされるかは、疑問ではないだろうか、ということである。

それを踏まえたうえで、weblogという形態が果たす役割を、知りたくて、そのような内容の著作を探しているのだが、中々いいものが見つからない。草の根ジャーナリズムなんて荒唐無稽でキャッチーなものに飛びつくよりも、日本人の現代の自意識というものに深く関係しながら、コミュニケーションにもたらす効果を論じたりしたものがほしいのだが。自分で考えるしかないのだろうか。

一月の通話料が3桁の私の携帯電話に、珍しくメールが入っていた。

「せ、せつこ、それフリスクやないか。」

彼は何が言いたかったのであろうか。

君に会いに行こうとしたら、
中央線は止まっているし、
ボブ・ディランでも聴きながらゆっくり待とうかと思ったら、
オーディオは左胸でブツブツと音とびしているし、
本でも読んでいようかと思ったら、
ブックマークには、
…青いリボンの両端に銀細工の猫のチャームがついてるちょっとしたやつさ…
片方しか銀猫が居なくなっているし、
耳の中では相変わらず、
何かがボソボソとモールス信号を打っているし、
駅員さんは何かに追われているし、
何だか、てんでなっちゃいねえ。
そうか、思い出した。
中央線を止めたのは俺だった。
あんまりなっちゃいなかったからね。

鼓膜が不規則な変拍子を刻んでゐる。
いつから私の身体はこんなにjazzyになったんだろう。

杉村春子が米倉涼子かぁ…。
コーディングって凄い。

昨日から時折鼓膜が痙攣する。気持ち悪い。

祭らしい。
祭りたい。

本当はさほどでもない。

映画との幸福な出会いと云うものは本当に難しくて、奇跡のようなものなのだと思う。たとえ映画を何百本観ていても、必ず出会えるとは限らない。
私に関して云えば、私が映画を観ていて至福を感じる瞬間と云うのは、「映画が語りかけてくる瞬間」だ。感動、と云う漠然とした言葉は現在大安売り中であることだし、ミスリーディングなので、感興と表現すると、その感興は単なる没入感ではない。対象に完全に感情移入して、映画の登場人物と一体感を感じている状態、そんな没入感ではない。では、構成などの構造上の精妙さに感心している、批評者の視点であろうか。それも違う。では、私が感じる「映画が語りかけてくる瞬間」とは何か、私にとってこのアクチュアリティ溢れる感興をリアリティの次元の言葉で表現することは困難だが、その困難を承知で言うと、それは、没入感と精妙さへの感心とが同時に起こっており、しかも、その両者が矛盾することなく、どちらも中途半端でなく、完全に止揚されているような、そんな奇跡のような出会いである。半醒半睡と云うと、半と云う部分がミスリーディングだが、そう云う他ないような瞬間、私は感興と云う言葉すら生ぬるい恍惚感に充たされる。
この私にとってのアクチュアリティの感興が他の人にとっても同じように「映画が語りかけてくる瞬間」なのかは解らないが、私が「映画が語りかけている瞬間」または、「映画との幸福な出会い」と感じているであろうものを、受け取っているらしいということは、同じ映画を観た人などと会話していると、解る。私は、この感興を得るためにさながら映画中毒者(まだ初期症状であると信じるが)の様に映画館に通うのだが、それは感興を得られる確率が、映画をより沢山観ることによって上がるのだと思っているからだ。実際、経験上映画を以前より多少多く観るようになってから、そのような感興を得られる機会は上がったように思う。しかし、最近気が付いたことがある。映画を沢山観ているからといって、このような感興、「映画との幸福な出会い」は約束されていないのだ。映画を余り観ていなくても、いとも容易くこの出会いを果たす人々も確かに存在するのだ。一方、映画を沢山観ていても、このような出会いを果たしていない人々も存在するのだ。
少し本論(そもそもそんなもの存在しないが)からずれるが、映画を観ていると書いたのは、あくまで映画館でのことで、レンタルビデオやDVDで何百本映画を観ようと、「映画との幸福な出会い」の確率は上がらない。私の経験に根ざしたことなので普遍性はもとよりないかもしれないが、レンタルビデオ・DVDで沢山映画を見たときより、映画館に通いだした時期のほうが格段に得られる「出会い」の確率は上がった、と云うより、レンタルビデオ・DVDで観ていたときはそのような「出会い」は全くと言っていいほど存在しなかった。
閑話休題、さて、映画を観る本数が増えると、確かに「出会い」の確率は上がるようだが、映画を観る本数が比較的多くても、「出会い」を一向に果たせない人が居る一方で、いともたやすく「出会い」を果たしてしまう人々も居る。一体、この「出会い」とは何なのだろう。蓮実重彦はその著作、『映画狂人日記』で次のように記している。

問題は、この「映画が好き」という事態の始末に負えぬ曖昧さにある。
まあ、誰にも映画を好きになる権利ぐらいあるだろう。だが、あらゆる人が映画によって愛される幸運には恵まれていない。だから、「映画が好き」というだけの理由で、映画から見放されているとも知らずに監督になった連中の作品はしばしば潰滅的である。(ケビン・コスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の常軌を逸した退屈さを思い出そう)。自分は「映画が好き」だという確信だけで映画を論じようとする連中の文章も、ただはた迷惑なだけである。映画の愛を受けとめるにふさわしい言葉を発見するには、奇跡に近い何かを体験していなければならず、その奇跡を招き寄せるにあたって、「映画が好き」であることなど何の役にも立ちはしない。実際、それが善意から発したものであろうと、やたらな人間の呼び掛けに応えてはくれず、遥か昔に「大衆娯楽」であることをやめてしまった映画は、いま、いたるところで頑なに沈黙している。あらゆるものが「大衆化」の流れに従っているこの消費社会で、映画だけが反動的ともいえる排除の力学をあたりに波及させながら、「特権性」への道を歩んでいるからである。沈黙する映画は、もはや人間を満遍なく保護してくれたりはせず、ひたすら残酷に選別し、あっさりこれを見捨ててしまう。


この文章が書かれたのは1992年だが、13年経った現在でも、映画の特権性は依然として存在しているように思う。シネコンによって大きくその存在形態を変えた現在でも、シネコンによって公開の場を奪われた大量消費の流れに乗る事を多少なりとも拒否した作品、また、シネコンによる公開であっても、特権性を維持している作品、それらの作品を観て、それらの作品から「奇跡に近い何か」を体験することは、実際とても困難なことなのだ。では、一体どうすればこの「奇跡に近い何か」、「映画との幸福な出会い」を果たせるのか。それは私にも解らないが、少なくとも「映画が好き」「映画をそれなりに観ている」と云うだけで映画について何か映画からの愛に応えうるほどのものを語りうる資格があると信じている、ある種の盲目の人々には、決して訪れないのではあるまいか。
蓮実重彦は上記の文章の後で、批評家の傲慢と無能さをあげ、観客の質の向上を指摘している。確かに、92年当時はそうだったのだろう。そう、と云うのは、観客の方が遥かに映画に対して謙虚であり、その愛に対して敏感であるということだ。それはまた、批評家の方が映画体験に恵まれ、映画について語る機会にも恵まれ、それに対する観客は映画との付き合いかた、映画への関わり方、だけで映画への愛を表現するしかない、と云う状況でもある。しかし、現在はそうではない。インターネットによる普及により、ネットには膨大な数の素人自称批評家が溢れかえっている。もはや、観客は映画についての関わり方だけで映画への愛を表現する段階にはいないのだ。意図するとせざるとを問わず、観客は映画についての愛を、「映画との幸福な出会い」を、その身振りではなく、その言葉で表現せざるを得ないのだ。身振りで表現するには、かつては沈黙にまかせるだけでよかったが、現在は、饒舌の流れの中、沈黙することは積極的な関わりとしてでなければ、実現しえないのだ。「黙っているのは卑怯なことだとおしゃべり男の声がする」ではないが、観客は沈黙を無条件に許されてはいないのである。そのことに無自覚なまま、映画からの愛に応ええない言葉を傲慢にも語り、何かを評価したような気になっている観客に、果たして映画がどれほどのものを語ってくれるだろうか。かつて蓮実重彦が批評家に対して言った<自分は「映画が好き」だという確信だけで映画を論じようとする連中>と云う評価は、現在では多くの無自覚に饒舌な観客に対しても、該当することなのではあるまいか。
では、奇跡に近い「映画との幸福な出会い」を果たすために観客は、我々は、どうすれば良いのだろうか。私は依然として応えられないが、少なくとも<映画が好き>と云うだけで映画の愛に応える資格があると饒舌に思い込まないこと、その謙虚さから出発する他ないのではなかろうか。
映画に対峙する慎ましい姿勢。それに自覚的である観客が「自称映画好き」の中にどれほど居るだろうか。


何の役にも立たない批評家が、観客に向かって、この作品は良いだの悪いだのと身勝手な判断を披露してみせるのは、いまや救いがたく時代遅れの振る舞いとなっている。批評家に残された唯一の仕草は、現在にふさわしい映画とのつきあい方を実践してみせることにある。(蓮実重彦 『映画狂人日記』)


批評家、を観客、あるいは、映画好き、と読み替えた途端に、この文章が我々に何かを語りかけてくるように思うのは、私だけであろうか。

本県主義

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051125-00000018-nks-spo

トミタ君すげぇ、って何だか嬉しくなるけど、同郷ってだけで喜ぶのも、何だかとても哀しいことだな。

K氏のブログから続々と人が流れてきているようで、驚いた。
まあ、私はブログがA会の人々にばれたから不安になる、なんて繊維さは持ち合わせていないわけで、ここも「来るものは拒まず、去るものは追わず」と云うわけである。もし私がテキストをある人々から隠すことがあるとすれば、それは自己弁護ではなく、一種の思いやりであるかもしれない。彼らが私に対して抱いているペルソナを壊す、と云うことに対する躊躇、とでも言おうか。私にもそのようなペルソナを構成させた責任の一端はあるわけで、「どうせ騙すなら最後まで騙して」ではないが、徒らに混乱させるくらいならば、知らせない方がいいかもしれない、と思うこともあるかもしれない、と云うことである。「そんな人だと思わなかった」と言われたときに悪いのはそんな人だと思っていた方であろうか、そんな人だと思わせていた方であろうか。もっとも、今書いている日々のテキストはそんなペルソナを壊す程の力もなければ、大半の人にとっては、チェコがどうとか、国法学がどうとか、ゲシュタルト心理学がどうとか、ATGがどうとか、キュビスムがどうとか、極めて細分化されたマニアックなテキストは興味がないであろうことは、書いている私にも想像はつくわけである。そうだとすると、「来る人は拒まず、去る人は追わず」ではなく、こう書くべきかもしれない。「来る人は拒まず、ついて来ない人は置き去りに」 傲慢なようだが、それが事実かもしれない。
こんな詰らないテキスト群を読んでくれる人がいるならば、歓迎いたしますよ。

起きたら体調が優れなかったので(包み隠さず言えば眠かったということ)、素晴らしい米国政治外交史を休んでしまい、昼頃になっても矢張り体調が優れなかったので(包み隠さず言えば眠かったということ)、休もうかと思ったが、先週質問した美学の講義だったので、もしそのことの言及があったら困る、と云うことで、講義には出た。


質問に関することはなかったが、読者の存在論終わり。まとめは前期のフィクションの価値と同じだった。
以下圧巻であった、纏め部分の記憶からのおこし。今後の考察のためのメモ。


読書をすることによって人間性が変わるとか、現実に役に立つとか、そういうことこそが芸術の価値であるとか本質であるとか言う場合、その価値とは「使用価値」なわけです。しかし、何冊本を読んだところで、人間性は高まるとは限りません。恋愛小説を何十冊読んだところで、現実の恋愛の達人になるということは決してないわけです。もしそのようなことがあるならば、人生とはとても平板でつまらないものでしょう。逆に言えば、隣のオジイサンの話から人生を学ぶということもありえるわけで、それは芸術に限った価値ではないわけです。
『アンナ・カレーニナ』を読んで得られる感動は、決して『罪と罰』を読んで得られるそれらとは異なる独特のものであるし、バッハを聴いて得られる感動もまた、独特の美的経験であるわけです。それらの感動はそれらに独特のものであり、使用価値のあるなしに関わるものではない。にもかかわらず、使用価値を持ち出して芸術を計ろうとするので、無用な議論の混乱が起こっているわけです。そしてまた、言うまでもなく、それらの感動、共感、快、感興が有る人生と無い人生とでは、(豊かさと貧しさという点からは何を持って豊かさとするかという問題はあるとしても)、有る人生の方が明らかに豊かなわけで、豊かな方が好いことは明らかです。私の人生に芸術からしか得られない快楽があるということ、このことだけでも、それがない人生の貧しさに比べれば、この快楽は私にとって、一つの贈与なのではあるまいか。この豊かさを価値と考えないで、一体何を価値だと言い得るのでしょうか。


伝統的美学に対する反論。圧巻である。実際はより精緻な議論がなされているのだが。
これを踏まえて、なぜアリストテレスを発端とする有用な快、と言う概念が今でもここまでの広がりを見せているのか。そもそも17Cのキリスト教会の演劇への弾圧に対する自己弁護として用いられた概念のはずなのに、もはや有用な快、使用価値の概念はそれ自体が弾圧にも似た力を持っている。
長い期間支持されているというだけでは収まらない何かがあるのではないだろうか。
思うに、それと資本主義精神とを結びつけて考えることが出来るのではないか。レヴィナスの逃走論を踏まえて、近現代の逃走文学に対して触れるまで深入りしなくても、資本家達が現実に、学問に期待するものを考えることによってヒントが得られるように思う。このことは芸術分野に止まらず、多元主義的機能共同体としての国家像の変化にも見て取れるのではないか。公益務に対する期待の根底にある価値観の変化は、伝統的美学の使用価値の概念とどこか共通している部分があるように思える。使用価値でその機能をはかるという発想がかくも勢いがあること。そのことを手がかりに色々考えられそうだ。

だとしたらますます、明日の国法学には出なければ。

キュビスム絵画を読み解くと云う講義を受講しているのだが、余談でキュビスム建築というものが出てきた。
プラハには世界でも珍しいキュビスムによる建築があるそうだ。
キュビスム建築…想像だにつかないので、ネットで検索してみた。

http://musajin.exblog.jp/3578273/
http://www.suzfoto.com/arc/cubist.html
http://www.beams.co.jp/beams/column/suzuki/suzuki_2003_01.html

凄い。めちゃめちゃ美しいじゃないか。アール・デコ建築がキュビスムの影響を受けたのは有名だけれど、個人的にはアール・デコよりこのキュビスム建築の方が魅力的だ。こんな家に住みたいとは思わないけれど、こんなホテルには一度くらい泊まってみたい。ただ、講義で言っていたけれど、どうやら世界中でまとまったキュビスム建築が存在するのは、プラハくらいなのだそうだ。
チェコ恐るべし。
コストニツェも行きたいし、シュヴァンクマイエル美術館(だったか)も行きたいし、ピルスナー・ウルケルのドラウトはベルゴでも飲めるけれど、やっぱり本場のピルスナーも飲んでみたい。

チェコ…いいかも。

チェコ法ってどうなってるんだろう。

そういえば、ミュシャの故郷もチェコで、安部公房文学が厚く支持されたのもチェコだった。カフカもチェコ出身だ。うん、いい国だよね。

我が逃走

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ヒキコモリは楽しい。
「我らの不幸の殆どすべては、我らがその部屋に止まること能わざるによりて我らに来る」ってパスカルも言ってるしね。

最近読んだ本

木村敏  『関係としての自己』
伊藤剛  『テヅカ・イズ・デッド』
寺山修司 『私という謎 寺山修司エッセイ選』
村上宣寛 『「心理テスト」はウソでした』
安藤宏  『太宰治 弱さを演じるということ』
三浦雅士 『私という現象』
山下清美/川上善郎/川浦康至/三浦 麻子 『ウェブログの心理学』
ロラン・バルト(蓮実重彦・杉本紀子訳) 『映像の修辞学』

大して読んでないな。

「男のジュエリーかくあるべし」と云う軽薄なタイトルに惹かれて実に久々に"MONOマガジン"を買ったが、私が高校時代に読んでいた頃とは随分と方向性が変わっていた。どうやら、時代の流れからか、LEON系の層をターゲットにしているようだ。詰らない。
"散歩の達人"もまた、その特集「恵比寿・代官山・中目黒」に惹かれて買ったが、この雑誌もまた、不思議な雑誌だ。"hanako"ほど軽薄と云うわけでもないけれど、キャッチーな店を特集していたりもする。その一方で、「歩道橋特集」だったりとか、「コインロッカー探検隊がゆく!」とか、どこを向いているのか解らないストイックな企画があったりもする。もっとも、そういう記事が好きでもあるのだが。
もう少し時間をさかのぼると、「スナフキンにさよなら。」の特集に惹かれて"ダ・ヴィンチ"を買ったが、これはタイトルに些か偽りあり、で、「スナフキン主義に訣別すべきだ」と云う内容ではなかった。<スナフキン名言集>や、<もしもスナフキンが恋人だったら>読者アンケートなど、薄っぺらい企画だけだったので、落胆せざるをえなかった。"ダ・ヴィンチ"はこんなに軽薄な雑誌だったか。もっとも、"ダ・ヴィンチ"は新刊情報誌として大いに有用なので、深い読解を求めるものではないのかもしれない。そんな読者は"ユリイカ"か"大航海"でも読めということか。
あ、そういえば先月のユリイカSAC特集号買っていないな。買わねば。

そんなこんなの我が逃走、であります。

K氏のリンジン

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メガネ追記
好きなメガネ男子、という項目に以下のような記述があった。

>どこぞのカフェーで空想していそうな中世的な人

……鴨長明、とか?


いやはや、結構なアクセス数があった。さすがK氏のブログ。

眼鏡男子愛好会コミュニティを怖いもの見たさで見たら、吐きそうになりながらも、哂わせてもらった。
理系メガネ
文系メガネ
インテリメガネ
スーツメガネ
私の知らないボキャブラリーがそこには溢れかえっていた。メガネとは何かの寓意なのかしら、なんて思い始めたくらいに訳がわからなくなってきたので、ブラウザを閉じた。

メガネ男子好きに8の質問、と云うトピックがあったので、生理的限界から一部だけだが、見させてもらったところによると、どうやら彼女ら(彼もいるのかもしれないが、どうやら女性が多かったようなので、偏見とは無縁に統計的に彼女らと言わせてもらうと)がメガネ男子好きな理由は大まかに言って次のようなものらしい。
・インテリに見える
・メガネを取ったときとのギャップが良い
・不器用なところもいい
・冷たいところもいい
贔屓の引き倒しにしか見えないのだが、彼女らが「こんなメガネ男子はイヤだ」の項目に多く挙げていたのは、太っている人、メガネに脂汚れが付いている人、などだった。
…これはあくまで私自身の感想なので、彼女らがそう思っているかどうかはわからないが、私はそう思っているように感じた、ということであるが…
要はメガネをかけている人が好きなのは、メガネをかけているから無条件で好きなのじゃなくて、二枚目がメガネをかけているから好きなのだろう。こんなことは当然なのかもしれず、今更云うほどのことでもないのだろう。『ピンポン』のARATAよりもサンボマスターの方が好きだ、或いは、同程度に両者のルックスが好きだ、と云う人は少数なように思われるからだ。しかし、この当然のことのようなものの中に、ちょっと屈折したものを感じるのは私だけだろうか。
そもそも、メガネが与える印象とは何だろうか。独断に依ることを承知で言うならば、メガネとは世界との隔離の象徴なのだ。伊達メガネは別として、メガネをかけるということは視力に問題があると云うことである。それは、焦点が合っていないと云ってもいいだろう。世界に焦点を合わせることに難点があることの象徴としてのメガネ、である。そこに何を見るかは人それぞれではあるが、彼女達は単に視覚的な象徴を超えて、世界との隔絶感と、孤立しているイメエジを見ているのではないだろうか。
二枚目のメガネが無い状態よりも、メガネがある状態の方を好むと云うのは、しばしば彼女らが言う様に、「私だけが美しい素顔を知っている」という感覚なのであり、世界との距離そのものが形而下的な存在としてメガネという形を伴って現れいる中に彼女達は形を超えうる「近さ」の契機を見ているのではないだろうか。本来形而上的な概念であるはずの世界との距離が、メガネと云う形而下的な存在を借りることによって可視化される。そのことによって、捉えやすくなった距離と云う概念を超えることもまた、メガネをとると云う形而下的な行動によってなしうるのではないか、と期待しているところに、魅力を感じているのではないだろうか。そうだとすれば、「ギャップが良い」とは「私だけが素顔を知っているけれど、他の人々は知らない」ということであり、「不器用なところが良い」とは「世界との距離感を器用に埋められないところに嗜虐性、あるいは、母性をくすぐられる」ということであり、「冷たいところも良い」とは「世界との距離感を器用に埋められないことが攻撃性を伴って現れているところに被虐性、あるいは、母性がくすぐられる」ということに他ならないのではないだろうか。彼女らの多くが、「おしゃべりメガネ」や「太ったメガネ」を敬遠するのも、それらが世界とうまくやっていくことの器用さ、あるいは、その距離に対するそもそもの無神経さの現れのように見えるからではないだろうか。そしてまた、彼女らが二枚目の素顔を好むのは、そもそも「私だけが見られる」ものが美しいものであるという前提を担保してくれるからではないだろうか。本来ならば、極近しい間柄で「私だけが見られる」姿と云うものは、美しいとは限らない。寧ろ、間主体的な距離が縮まるに従って見たくないことが増える、ということはよくあることではないだろうか。しかし、このことはことメガネに限って言えば、起こりにくいことなのだ。なぜなら、矛盾するようだが、それはあくまで形而下の存在であるに過ぎないからだ。メガネがあろうとなかろうと、少なくともその当人が美形かどうかは大体判断できる。その判断の上で、メガネに形而上的な概念を見出し、メガネの上からでのそれなりの美形と云うことに担保された、「私だけが見られる」姿に魅力を感じているのではないか。メガネと云う簡便な形を伴って現れている「遠さ」の契機を見、それと同時に簡便な形そのものに越えやすいと云う「近さ」の契機を見る、ここに彼女たちが考えるメガネの魅力、つまり、「手の届く遠さ」としてのメガネということなのではないだろうか。

ただ、度がそれなりに強いメガネを日常的にかけている者として少し言わせてもらおう。恐らくメガネをかけている若い人の大半は近視であろうと考えられるが、度が強いメガネというものは度が強くなればばるほどかける前とかけた後とは印象が変わる。一番印象が変わって見える理由は、おそらく目が小さく見えるからではないだろうか。メガネの形状にもよるが、近視の場合は顔の輪郭と、特に目が小さく映ってしまう。それゆえ、個人的にはメガネが似合う人、というのは、元々目が大きい人のように思える。そしてまた、上記のような理由から、神経質そう、あるいは、インテリそう、と我々が見る印象からなのかどうかは解らないが、細身の人の方がメガネは似合う。


これらを踏まえると、メガネが似合う人、かつ、メガネ男子好きの人々に人気が出るメガネ男子とは、次の様に言うことが出来る。
細身であること。
目が大きいこと。
饒舌でないこと。
ここまで考えた時、私ははっとせざるをえない。
居るではないか。極近くに。神経質そうで、細身で、目が綺麗で、指が綺麗で、それでいて正真正銘のインテリ。そう、即ちA会の目美人ことK氏である。

そうか、メガネ男子好きとは、K氏のような人物が好きだったのか。

一応の結論が出たところで、筆をおかせてもらおう。

「元気?」
と書かれた題名のメールに、私は何と返していいか解らなかった。いつだってそうだ。この種の問いには立ち尽くしてしまう。きっと、何の迷いもなく答えることは、これからもずっと出来ないのだろう。
「最近どう?」
「元気してる?」
と聞かれると、何を聞かれているのか解らなくなり、私の心に浮ぶのは、子供の問いだ。
「So what?」
「ぼくにそういうことによって、あなたは何がいいたいの?」
こんな問いは"大人"の世界では通用しないんだろう。何も子供のまま居たいなんて言ってる訳じゃない。だって、言葉のずれに無関心でいることが、大人で居るってことじゃないだろう。私はいつも、この違和感を飲み込み、阿呆のような顔して、卑屈に笑ってる。それを見てる私もまた、卑屈だ。
You see me on the street
You always act surprised
You say, "How are you?" "Good luck"
But you don't mean it
(Bob Dylan "Positively 4th Street")
ボブ・ディランはこう歌った。こういう態度ばかり好んで、厭人的に振舞ってると見られているから、いつまで経っても世界との距離が縮まらないんだろう。でも、言葉に無関心で居るくらいなら、それでもいいかも知れないと、思ったりすることもある。
そんな私でも、ずれを感じない問いを呉れる人が居る。彼、彼女らの「元気?」には、まっすぐ対処しなくてはいけないような気がして、また身動きが取れなくなる。八方塞、というやつである。心地よい塞がりである。

会いたくて 会いに行けないから
元気だよ
笑うだけ
(SION "傘")

図書館の視聴覚センターでの講義があるのだが、早く来過ぎてしまったので、観られる映画を目録で検索して遊んでいた。
すると、『丹下左善余話 百万両の壷』が観られるらしい。どうして『河内山宗峻』も観られるのに、『人情紙風船』だけが無いんだろう、とは思うが、とりあえず山中貞雄が二本も観られるとは素晴らしい。

『丹下左善余話 百万両の壷』は最近トヨエツ主演でリメイクされてたけれど、この作品をリメイクする無謀さは『七人の侍』をリメイクするのと同じくらいだと思う。それくらい素晴らしい作品なので、総合図書館で90分ほど時間を持て余したら観てみるのもいいのではないだろうか。私もまた観たい。この作品を観れば、単に骨董趣味だけで昔の映画が素晴らしいと言っていないのだと云うことが理解してもらえるだろうと思う。


ちなみに、先エントリーの「生きようとする事はとても価値があることなんです」と云うダルデンヌ兄弟の発言は、「ただ生きているだけでも価値がある」と云う風にも捉えられるし、正直なところどちらなのかは捉え切れなかったけれど、その後に「ロゼッタは彼女が思っているよりも価値があるのです。」と言っていたところを考えると、どうやら「変わろうと努力することが尊い」と言っているようだ。つまり、ヒビノセンセイが
ゲーテの『ファウスト』を引いて仰るところの、タート(行為)の重要性と云うことなのだろう。
そして、ダルデンヌ兄弟はとても優しい視線で、下北沢の若者達と語り合っていた。下北沢を歩くダルデンヌ兄弟は違和感がありすぎて面白かった。

クローズアップ現代にダルデンヌ兄弟が出演していた。
ダルデンヌ兄弟とは、リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌの二人のベルギー出身の映画監督であり、今年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを獲った。過去の作品は
1996 『イゴールの約束』
1999 『ロゼッタ』
2002 『息子のまなざし』
2005 『ある子供』
である。私は『イゴールの約束』は観ていないが、『ロゼッタ』と『息子のまなざし』は観た。ハンディの揺れがそのまま伝わる、作品世界との距離をとることを許さない、圧倒的でありながら、素朴な力に満ちた素晴らしい作品であった。
そのダルデンヌ兄弟が、彼らの映画の主題でもある若者について語っていた。

若者はいつの時代も反逆してきた。大人の言うことに従うのが若さではないんだ。若さとは反逆なんだ。
―反逆、ですか。
そう、反逆です。不満ばかり言って自分の殻に入り込んでいてはだめなんです。ある日、通りに出て、こんな社会は駄目だ、変えなくちゃいけない、と叫ぶなくてはいけないんです。
(略)若者のことを考えていない社会は、死ぬだけなんです。

孤独な若者が他人と出会い、変わる可能性を獲得する様を描き続けているダルデンヌ兄弟。その視線はとても優しい。

私が初めて彼らの作品を見たとき、ハンディを多様したぶれの多い映像に、若い監督像を想像した。しかし、それにしてはどうしても回収できない、映像の眼差しの優しさと、静けさが感じられたもまた、不思議な魅力であった。その後、彼らの歳を知って納得した。彼らの視線は、決して大人から若者を見ているそれではなく、若者と寄り添うように、そしてまた、自らが新しく作った場所を若者に与え、そして自らは去っていく慎ましやかな優しさの視点だった。『ある子供』が早く観たい。

消しゴム頭

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もし僕がスーパーハカーなら、
ウェブ上の全ての『私の頭の中の消しゴム』という単語を
『イレイザーヘッド』という単語に換えてやるのに。


『イレイザーヘッド』を観て泣きました。
『イレイザーヘッド』は感動します。
『イレイザーヘッド』はお奨めです。


世の中フリークだらけだぜ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051112-00000018-spn-ent
最早旧聞に属する話だが、矢張り触れずにはいられないだろう。
The High-Lowsの活動休止が発表された。
それを聞いた私は、不思議なほど驚かなかった。どこか「仕方がない」と云う印象が大きかったのだ。私はライブにも行かないし、音楽雑誌も読まない。ただ出されたアルバムを少し遅れて観賞するだけの不熱心なファンだ。そんな私でも、ここ2年ほどのアルバムのトーンダウンは否めないように思えた。『バームクーヘン』のようなアルバムはもう聴けないのだろうか、と少し寂しく思いながら『Do!! The★MUSTANG』を聴いたりした。少なくとも私には、彼らの詩(こと彼らの場合、詞ではなく詩なのだ)の世界が、徐々に徐々に硬化していっているようで、とても辛かった。確かに、詩の魅力と両翼をなしている音楽のノリのよさは健在だったが、それだけに何処か空虚さが漂い、切なさすら漂っていたように思う。ブルーハーツから考えると、数え切れない名作を創り続けてきた彼らに、才能の枯渇なんて表現は使いたくないが、少なくともThe High-Lowsと云う形態での限界が来ていたのは否めないのではないだろうか。どれだけ休んでもいいから、できればまた、詩が死んでないってことを知らせてくれよ。詩が詞だけじゃないってことを教えてくれたのは、The High-Lowsだったんだから。

眠れず月を想う

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月は一つの矛盾である。故に美しい。
暑い時には涼やかに、寒い時には温かく、私を照らす。
満月は言うまでもなく美しいが、欠けつつある月の不安定さも魅力的だ。
半月も片割れを想像せざるを得ないし、三日月の鋭さもどこか寂しさに通じる。
新月も光の不在という点で強烈な存在を放つ。
月はそこに在ろうと無かろうと、常に存在している。
月は一つの矛盾である。故に美しい。

そして何より、月は決してその裏側を我々に見せない。

リアルタイムコミュニケーションがブログの売り出そうで、一日複数回更新をしてみる。
スマステーションで黒澤明特集を放送していた。
50分にしては中々充実した内容だったのではないか。パン・フォーカスを本格的に導入したことは知っていたが、まさか『椿三十郎』の茶室のシーンを望遠で撮っていたとは知らなかった。狭さを表現するための望遠。矢張り凄いな。
また黒澤作品が観たくなってきた。『酔いどれ天使』とか『用心棒』とか観たいなあ。

そういえば、シェイクスピア作品の映画化を扱う講義で、黒澤明作品も幾つか扱われた。『蜘蛛巣城』がマクベスの、『乱』がリア王の、翻案であることは日本でも広く知られているが、実は海外では『悪い奴ほどよく眠る』がハムレットの翻案であることはほぼ常識になっているのだそうだ。とても魅力的なホレイショー像だ。
その講義で、海外の論文で『蜘蛛巣城』の三船敏郎が首に矢が刺さっている場面が新宿アルタの巨大モニタに映し出されている写真が使われていて、ポスト・モダンシティの日本では街中にこのようなイメージが溢れていると書かれていたそうだ。それを評して先生は
「何か勘違いしてますね。こんなものが新宿で映し出されたら、みんなどん引きですよね。」
と言っていた。そりゃあそうだ。

スマステーションは来週は三島由紀夫特集だそうだ。50分では限度があるだろうが、その姿勢は評価すべきだと思う。


映画ついでにもう一つ。
http://movies.yahoo.co.jp/m2?ty=nd&id=20051117-00000030-sanspo-ent
『どろろ』実写化。
ツマブキとシバザキコウ。

もう…勘弁してくれ…そこはそっとしておこうよ…やってはいけないことってあると思うよ…。

話題作を続々と投下する<史上空前の“イッキミ”スペシャル!スペシャルエディションinVIRGIN TOHO CINEMAS六本木ヒルズ>

◇12月9日(金)
“ゴッドファーザーNIGHT”
上映作品:
「ゴッドファーザー」('72)
「ゴッドファーザー PART II」('74)
「ゴッドファーザー PART III」('90)


これは行かねば。デジタルリマスターバージョンだといいのだけれど。
imdbのデータによると、上演時間は
175+200+162=537min
約9時間か。まあ、ソフィアコッポラが台無しにしてくれた?は抜けてもいいとすると(そんなことは出来ないだろうけれど)、問題なく観られそうではある。
それにしても、六本木ヴァージンシネマって映画に対して愛があるのかないのかイマイチよくわからない。古い日本映画を上映したりしてくれるのは非常にありがたいのだけれど、早い時間だけだったり、上映期間が短かったり、チョイスがイマイチだったりもする。軽薄とも取れる愛は場所柄のせいなのだろうか。

さて、私の周りにも自称映画好きは多く、そのうちの多くの人が「映画好き」と「映画に詳しい」とを同義語の様に使っているが、果たして『ゴッドファーザー』を観ても居ない人に「映画に詳しい」と言う資格があるだろうか。かく云う私も、『市民ケーン』や『カサブランカ』すら観ていない。私は控えめに、「映画は嗜む程度です」という他自らを語るすべを知らない。

蛸壺

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人は現実の誰にスヌスムムリクをみるだろうか。その質問への答えを聞いてみると、その人の中のスヌスムムリク像が反映されていて面白い。
個人的にスヌスムムリク的なイメージを強く抱いている著名人と云うのはこれはもう圧倒的に椎名誠と野田知佑なのだが、どうやらこれも人それぞれなのだろう。
そして最近、私はバルトやフーコーにもスヌスムムリク的なものを感じているようだ。
それは映像の修辞学のあとがきにある、彼らの「よるべなさ」にもあるのかもしれない。そしてまた、それは、ヒビノ先生やイシグローリー先生にも感じられる。川辺でハーモニカを吹くイメージがヒビノ先生なら、嵐に喜び、ヘムル族を嫌い、立て札を引き抜く怒りのイメージがイシグローリー先生だろうか。
「よるべなさ」を蓮実重彦はこう記したそうだ。
「<自信のなさ>とは決定的に違う、大海のまっただなかに一艘だけ漂っている小舟という印象であり、大學の教師のある人達の身辺から滲み出ている学問(知的世界)への謙虚さ」
蛸壺の狭さに辟易して大海へと漕ぎ出す人々。彼らにもスヌスムムリク的なものがあると言えるのではないだろうか。
そしてその「よるべなさ」は、ある大学新聞の記者が記したと云う、ヒビノ先生の「孤独」と同じ意味なのかもしれない。

能うことならば、私も蛸壺を出たいのであるが。
もとより、海底に居続けるつもりは毛頭ない。

文学部の講義で、少し質問してみた。
講義内容はフィクション、小説を巡る美的行為の意味。
もしフィクションを読むという行為が現実を指し示す如何なる行為でもなく、それ自体独自の美的行為で、フィクションであるということが「このテクストの全てを虚構内世界の構築に用いよ」というメタメッセージを含むものだとしたら、所謂ノンフィクション小説やルポタージュとはどのような位置にあるのだろうか、という疑問。
これは勿論今考えているブログを読むと云う行為をどのようなものとしてとらえるか、と云う問題をその侭聞いてしまってはつまらないので(何より、先生がブログなるものを知っているかどうか)、近い性質をもつノンフィクション小説について聞いてみたのである。
答えの要点だけを述べると、ノンフィクション小説は可也の幅があるにしろ、事実に基づいているという前提がある。その意味で歴史と重なる部分があり、その一方で矢張り小説とも重なる部分がある。その両者の折衷的な意味である。ノンフィクション小説が歴史と重なる部分が「事実に基づく」ということであるが、決して重ならない部分も存在する。それは、「彼は〜だと思った」と云う文であり、心理描写である。歴史が一種の物語であるということは疑いようが無いが、しかしそれでも歴史家が書けないことをノンフィクション小説家は書く。それが心理描写である。「ナポレオンは朝起きた時に清清しさを感じた」と云う文を思い浮かべれば、それが日記にでも書かれていない限りは、歴史ではなくノンフィクション小説であるということは明らかであろう。では、歴史家が記述する人物の思惑と、心理描写とを分かつものとは一体何だろうか、それは恐らく実証性があると云うことだろう。とりあえずこのような結論らしきものが一応は出たが、ノンフィクションと云うジャンルは書き手によって余りにも多様な存在形態をとる。だからこれを一まとめで考えることは困難さがつきまとうので、先生は歴史と小説との中間的存在であると言うにとどめておいたようだった。
実証性と云うことならば、ブログ日記はまさに自分が経験したことなので、明らかである。より正しく言うならば、このことは実際にあったこととして読解せよ、と云う暗黙のルールが存在する。この事を考慮にいれて、また考えを進める必要がありそうだ。
最後に先生は、歴史と云うものについて『現代アートの哲学』に書いてありますので、それを読んでみてください。とさりげなく自らの著作を宣伝しておられた。

講義自体でのこと。
法学にも解釈論(個別の条文の解釈ではなく、法解釈方法自体を問いただすと云う意味)と云うものがあるという流れで、アメリカでは美的な解釈論と法律的な解釈論を比較して、云わば解釈方法論自体の違いを問いただすと云う講義があるそうだ。その両者の解釈論は共通の学者の理論に依っている部分もあるそうで、例えばガダマーなどがそうなのだそうだ。先生は暗に「ガダマーなんて時代遅れのものを…」と言いたそうであったが、それは美学者としての自負であるのかもしれない。とは云っても、先生は法学者は個別の条文の解釈ばかりしているというイメージしかなかったと言っていたので、どうやら法学分野の解釈論には興味がないらしい。美学と元を同じくする英語の論文があり、そのような研究分野が存在するということをあるシンポジウムで隣に座った法学部の先生から聞いたので知ったのだそうだ。
そこで、講義後に質問した時についでに、その法学部の先生とは誰ですか、と聞いたのだが、名前は忘れたらしいが(隣に座って話したのに忘れるなよ)、本学の先生ではないそうだ。また、例の英語の論文についても聞いたが、タイトルも忘れたのだそうだ。ただ、あるのは確かだと。法学部の学生だということを明かしたら、そのような講義はありますか、と聞かれたので、私は履修していないが、法哲学や比較法、法解釈方法論という分野はあるようですが、解釈論自体をそこまで美学的アプローチでするものかどうかは少々疑問があるように思います、と答えて置いた。間違ってる?そして、追加で、今取っている講義では、「私」と云う概念を捉えなおすことによって、主体性と共同体という問題を考え、そこから制度としての法律を捉えなおす「非常に興味深い」講義があります、と言っておいた。それはヒビノクオリティ。先生は、「それは面白そうですね」と言いながら早く帰りたそうだった。

ねれん。
眠れないのである。
眠れないと云う考えが頭に浮んだ時点でそれは袋小路の状況に突入してしまう。
考えれば考えるほど目が冴える。眠れないと考えているのは思い込みではないか。思い込みだとしたらその思い込みを忘れてしまえば眠れるはずだ。忘れなければいけない。眠れないということを忘れる。私は眠れないのではないのだ。その言説は眠れないと云うことを同語反復的に述べているに過ぎない。嗚呼眠れない眠れない。眠れないことが頭を埋め尽くして眠くなる。

眠れないのでバルトを読むものの、てんで歯が立たない。記号学の基礎すら知らないとどうやら難しいらしい。デノテーションとコノテーション、シニフィアンとシニフィエを知ったつもり程度では歯が立たない。さすがは「バルトの独壇場」と背表紙に書かれているだけはあった。でも読む。

ヘイ、ミスター・タンブリンマン 奏でておくれ
眠くはないし 行くところも無い

不意に空いた二時間を過ごすために、私は池のほとりのベンチに座っていた。すっかり寒くなった空気と、乾いた高い青空がとても心地よかった。何より、人が殆ど居ないということに私は久々に欠乏を忘れていた。色づいた葉が水面に落ちるのを眺めながら、私は考えていた。
黄色い葉が落ちる。ひらひらと。
ひらひらと?ちがう。
黄色い葉が落ちる。きらきらと。
きらきらと?ちがう。
黄色い葉が落ちる。さらさらと。
さらさらと?ちがう。
黄色い葉が落ちる。ぱらぱらと。
ぱらぱらと?ちがう。
黄色い葉はどう落ちる?
ひらひら。きらきら。さらさら。ぱらぱら。どれも違う。
では何か。それは何か。
落ちる様はそのままであって何物でもないのかもしれない。
しかし私は閃いた。
黄色い葉はてふてふと落ちるのだ。
てふてふと。
剽窃。サクタロウの剽窃。
言葉はいつだって剽窃だ。
私はてふてふと落ちた黄色い葉が静かに水面に吸い付き、
慎ましやかに広げる小さな同心円に見とれていた。
実に静かな、静寂のシンフォニー。
この静けさに足すものは何も無い。

私はただ欠乏を忘れていた。逃走を忘れていた。
それを満足というかはまた別の話だ。

コーヒーを淹れて飲んだら饒舌になったので、阻害されたアデノシンの効果として、また無駄に書きます。

引用始め

>>今日は結婚式だったらしい。授業中、右翼の街宣車が「神武天皇の建国の精神に帰れ」という横断幕を掲げて通った。どういう精神なんだろう?

>あ、神武天皇が東征中、浪速国から熊野に行ってそこから大和の宇陀に行ったらしいんだけど、その時に八咫烏が案内したらしい。実は「神武天皇の建国の精神」というのは八咫烏に感謝しろという事かもしれない。

>それだったら、明日アンゴラ戦見ますよ。

引用終わり

見事だ。見事だという他ない。「神武天皇の建国の精神」が現在から必要に応じて遡及的に構成されたフィクションに過ぎないことをやんわりと暴き、それを批難するのではなく、その態度を誇張させることによってより効果的に彼らの矛盾を暴きだす。いかにも大層なことを言ってそうな「神武天皇の建国の精神」も、結局「明日アンゴラ戦を見ろ」という主張となんら変わりが無いのだという身振りを見せることによってより雄弁に語る。このやんわりとしたゆるやかな態度の中にある鋭い批評的精神、そしてそれをユーモアにまで昇華させているところに彼の非凡さを見る。

・ブログを書くとはどう云うことか。
書くということによって、書かれたものと書いているものとの差異それ自身として自己が表れてくるとしたら、書くという行為は差異としての私、現象としての自己を獲得しようとする懸命な試みなのかもしれない。
それは、携帯メールがこれほどにも普及していて、文字によるコミュニケーションが著しく増大していることと密接な関わりがあるかもしれない。
そして、書くということが他者とのコミュニケーションのようにも思えるが、それ以上に自分自身との対話なのかもしれない。
つまり、自己が増大していると同時に不全化しているとしたら(考察の余地あり)、文字に起こすことにより、他者とface-to-faceの関係によって自己を表出するのではなく、云わば内的なものとして私自身の差異を発見しようとする懸命な試みなのではないか。
だとしたら、そこにはもはや、実体としての自己など存在しないのではないか。
それは、ヴァーチャルなリアリティなのなのだろうか。
そして、
・ブログを読むということ
ブログの書き手が全く見知らぬ人物である場合と、face-to-faceの対話を交わしたことがある人物の場合とでは明らかに読むと云う行為が持つ意味は異なる。その異なりを止揚しうる概念があるとしても、それ以前としてその違いを検討することは必要なことのように思われる。
見知らぬ人物の場合、むしろこれはフィクションではないのか。箇条書きにも近い日常の羅列から、ある特定の人物像を発見しようとする試み。
往々にして全く見知らぬ人物の「出来事日記」は読むに耐えないほどつまらない。
なぜか。
そこに背後の作者を発見することが困難だからではないか。
構造としての作者としてもよい。
そこには構造としての読者、観客席が用意されていない。
我々は戸惑う。
背後の作者を特定しうるような記述が多いブログは読んでいて面白い。
フィクションとして読みうるからか。
背後の作者を特定する作業。テクストを深化させていく過程。その過程に表れる動的なものこそが、これもまた、差異としての自己ではないだろうか。
この問題はナラトロジーの知識を得ることでより理解が深まるかもしれない。さしあたってはやはりバルトか。読書論が有為なように思える。
そもそも、現代の全てがフィクションなのではないか、という問いもまた、鋭さを持っているようにも思える。
では、face-to-faceの対話を交わしたことがある人物のブログはどうだろう。
出来事日記であっても読むことが出来ることがある。
その基準は明らかに見知らぬ人物の場合よりも低くなっている。
なぜか。
彼の人物像というものはあらかじめ自分自身の中に存在している。
彼と私という関係。それは彼に対峙する関係として私が現れているとも言える。つまり、ここでも関係としての自己、動的な現象としての自己で考えられそうだ。
自分自身の中にある彼の人物像。私を規定している彼という存在を、より知るということはどういうことか。
彼の人物像をアップデートすることによって、関係としての自己も新鮮さを獲得できるということだろうか。
彼と私が実際に会った場合、その日のことを記述されることを願う人々が居る。
書かれなかったことは彼によって主観的に切り捨てられたと感じる。
なぜか。
face-to-faceの対話で成立した彼と私との関係としての私が、読むという行為でも成立しなければ、そこに矛盾が生じるからではないか。
なぜ矛盾なのか。
対話による彼と作者としての彼を私は同一視したがる。現実との同一性こそがアイデンティティの確立にも繋がるからではないか。自己が静的なものではないとすれば、同一性は時間軸上の同一性で表されるのだろうか。このあたりは木村敏を再読の必要ありか。
この同一視を気持ち悪いと嫌う人々もいる。
そういった人々はブログの中に構造としての読者を組み込んでいるのではないか。同時に、構造としての自己、作者も組み込んでいる。読む人を意識しているとはこのことを指すのではないか。しかし、face-to-faceな対話を経た読者は、その構造としての読者を乗り越えてくる。云わば、観客席を越えて舞台まで上がってくる無礼な観客である。
そこに気持ち悪さが生じるのではないか。


難しい。問題は山積だ。しかし、ブログという問題を考えるのは非常に興味深いことのように思える。現代を病んでいるのが、近代と同じくやはり「私」という病だとしても、その病みようは相当程度変わってきているように思える。現代を考えること。批評すること。そこに出てくる私というものも矢張り、差異としての私である。私は私を探していくための武器をもっと手に入れる必要がある。

1900年代初頭のアメリカでの演説映像を収録したビデオが教室で流され、蛍光灯は消された。不意に訪れる昼過ぎの静寂と薄暗さの中で、彼らの反応は様々だった。熱心に演説の映像を眺めるものもあれば、英語を聞き取ることを放棄して視線が中空を彷徨うものもいた。そして大半は、教授の言う通りテストに関係が無いからか、無駄を無駄として楽しむ術をしらぬためか、疲労のためかは知らぬが、腕を枕に突っ伏して眠っていた。奇妙な静寂の中で、ただ白黒の躁状態の人がヒステリックに叫ぶ声だけが、聞こえていた。私はと云えば、鈍い頭に英語は聞き取れず、ただそれを一遍のfilmの断片として観賞する他無かった。そのうち、私は、奇妙なことに気が付いた。私は今、これを「映画のようだ」と思って観ているが、「ようだ」と云う表現には「これは実際にあった場面だ」と云う前提が含まれてる。しかし、私は果たしてこの演説を白黒ではなく、カラーで想像することは可能であろうか。答えは、否。私は何度も頭の中でこの白黒、いや、灰色の映像に色彩を乗せてみようとした。ここは黒、ここは赤、と云った風に。しかし、それらの色彩を統合させようとすると、とたんに状況は一変してしまうのだ。それは、カラーによる別の映画になるに過ぎない。頭の中で統合されたイメージは「実際にあった場面」とかけ離れた、全く別のイメージ、言うなれば、リメイクに過ぎなくなってしまうのだ。再現ではなく、リメイク。この経験に突き当たった時、私はある確信を抱くに至った。そう、私にとって「実際にあった場面」など存在しないのだ。彼らの演説は白黒でのみ存在するものであって、それらの映像と、チャップリンやヴィスコンティらの映像との間に、何ら違いは存在しないのだ。彼らは、映画なのだ。そして同時に「実際にあった場面」でもあるのだ。つまり、映画が「実際にあった場面」に似せて作られたのではなく、最早、我々にとっては、「実際にあった場面」は映画によって作られているのだ。いや、こう言ってしまっても良いだろう。我々は映画的である、と。そして、冒険を恐れずもう一歩進めるならば、こうも言えるだろう。最早映画が大衆文化でありえず、都市生活者の特権となっているならば、我々はテレビ的である、と。そこには、生の事実としての過去など存在しないのだ。寺山修司は自身の監督映画で役者にこう語らせた。「書きかえられない過去なんてないんだよ。」と。過去だけではない。現在もまた、書き換えられない体験などないのだ。

逃走論を求めて

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教科書を買いに来たのに、『レヴィナスコレクション』を一緒に買ってしまっている。どうしようもない癖だが、不思議と悪い気はしない。以前の飲み代が其の侭書籍代に取って代わっただけのようにも思える。前者の出費は、後に何も残らない会話と空気を手に入れるために。後者の出費は、何か残るもののために。どちらも私にとっては等価だ。ただ、最近は後に何も残らない会話と空気を共有するには、私自身が空虚になりすぎたのだ。何かで埋めないと、捨てるものすらありはしない。
When you got nothing, you got nothing to lose
You're invisible now, you got no secret to conceal.
(Bob Dylan "Like a Rolling Stone")
と口ずさみながら、今日も夜長が更けていく。

一応溜まっていたコメントに返信しました。
時間が後ろに行くほど頭が働いていないきらいがあります。

>>@meさま
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2005/10/post_171.html
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2005/10/post_183.html

>>kameさま
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2005/11/post_186.html

>>furutaroさま
http://blog.mensura-zoili.com/archives/2005/10/post_185.html

知性とは何であろうか。私は大學に入って、高い知能を持つ人々は見たように思うが、知性を持つ人は少ないように思える。
知性と知能とのちがいはつまり、魂の有無そのものではないだろうか。
私は、魂の無い一つの知能として他者と関係していくことは、もはや不可能だ。それは健全なエポケーを失い、「私」と云う病に取り憑かれたパラノイアの叫びなのかもしれない。しかし、私は、見てしまったのだ。知によって構築された煌びやかな街がそこにあるということを。入り口があることを知ってしまった私が、一体どうしてこの街から去ることが出来ようか。

私はもう、選択式の人生を歩みたくはないのだ。記述式で人生を埋めて生きたいのだ。
若いと青いと甘えだと君は哂うだろうか。

はじめに(n)

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図書館でコピーしてきた法学教室の日比野先生の連載を読んでいた。これは非常に面白いではないか。早く続きが読みたいです……日比野先生。
確かな教養に裏打ちされた鋭い眼差し、これこそが知性であり、これこそが学問ではないだろうか。基礎学問に裏打ちされ、それを個別分野まで高める行為、今マイ・ブーム(みうらじゅん)的表現を使えば、デュオニソス的分野からアポロン的分野への方向性にこそ鋭い学問的個性が現れるということであろうか。
嗚呼、私も知性が欲しい。

小津安二郎との最初の出会いは小学校の講堂で観た「お早う」だ。久我美子の綺麗なお姉さんが子ども心に印象に残った。下校の途中に大の苦手の犬がいたので、早速映画を真似て電信柱の格好をしたところ、やはり効果がなく、却ってまとわりつかれて怖かったことを覚えている。両親に話したら、大笑いされた。(雑感より)

日比野先生もえー。

人肉ハム爪入り

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闇を補給しに新文芸坐でラスト一本だけ観てきた。一年以上見逃し続けていた『盲獣vs一寸法師』
全然"vs"では無かったけれど、それはそれでよし。中々面白いではないか。
しばらく映画を観ていないと観ていても「引っかかり」が少なくなって書くことが無い。


帰りの電車の中、飲み会帰りらしい若き男女が次のような会話をしていた。

男「髪切った時ピーターパンみたいにしたのかなって思ったよ。」
女「え、ほんと。」

げにおそろしきはアルコホルの力哉。

饗宴はいずこ

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ボブ・ディランを聴きながら歩いていたら、気が付いたら見知らぬ街に迷い込んでいた。
人生で最も幸福な瞬間は、見知らぬ街で迷子になったときだと言った映画監督が居た。
わたしは、ほの暗くなった町並みの中の優しい光に誘われて古本屋に立ち寄る。
ワゴンでは、プラトンも、大江健三郎も、三好達治も、三島由紀夫も、武者小路実篤も、バイロンも、100円。
100円じゃ愛も買えない今時、饗宴は100円で買えるようだ。
古びたわれらの時代にはわたしのわれらの時代と同じ文字が書いてあって、おれがこれがおれたちの時代だと叫んでいた。
ここに来る前、かれはだれの時代におれたちの時代と叫んでいたのだろう。
わたしはおやじに聞いた。
「おやじ、シニフィエはいくら?」

私という現象

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寝る前に少しでもと先日タイトル買いした三浦雅士『私という現象』のはじめを読んで驚いた。

なんだこりゃあ。面白SUGILL。

共同体の最小単位を実体的な諸個人に置くという考え方はいうまでもなく産業革命以降に流布された機構にすぎない。(略)この常識が、そしてこの常識にもとづく法が、いまや人間の文明にとって必ずしも有効でないことが明らかになりつつある。すなわち、主体的かつ実体的な自己という神話のもとではすべてが微妙に歪みはじめていくほかないような事態が次々に発生してきているのである。
 もともと自立的な諸個人がひとつの社会を形成するなどということはありえないのだ。自己意識にしても、まず共同体レベルでの自己意識の形成が共同体を共同体たらしめたのであり、それが個の意識にまで波及したと考えるべきなのだ。自己という現象すなわち私という現象は社会の側から来たのであって、その逆ではない。社会という網目が結節点としての自己を生んだのである。

場繋ぎ

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コメントと日記が溜まっているので一気呵成に書き上げてしまおうかと思ったけれど、
ISHI-Gloryの講義を受けて色々と考えた頭では疲れすぎていて少々難しそうなので、場つなぎ的ぺダンティックな諧謔を書いておきます。
もうちょっと待ってください。

A「君は運命を信じる?」
B「ポール・リクールによれば、偶然に起こったことが、必然的な出来事に変わる転換が生じるのは、ストーリーが終局に到達したとあとでそこから時間の全体を回顧したときの、いわば後ろ向きの必然性によるものなんだ。君は、僕らの複数一人称的なストーリーを完了したいの?」
A「私はただのロマンチストよ。」

ある人物が突然ブログにハイヒールに関する文章を書いていたので、不思議に思って聞いてみたところ、某団体で彼の周りではハイヒールで踏み付けられたいと云う嗜好を持つ人物が増えているのだそうだ。私自身は他人の性的嗜好をとやかく言わない程度には寛容であるつもりなので彼らについては何も言わないが、ハイヒールが無意味だという彼の主張には些か同意しかねる。彼はハイヒールを履くことによって体型をスリムに見せる事に成功している例を見たことが全く無いからだとしていたが、私自身は個人的には成功していようがしていまいが、女性がハイヒールを履くということは尊敬に値することだと思うのだが。と云うのも、当然私はハイヒールは履いたことがないが、女性から話を聞く限りでは、とても足がつらいものだそうで、しかも人によっては、というより多くの日本人の足型では、外反母趾などで足が変形する可能性すらあり、その痛みに耐えながら履く人も居ると聞く。それだけの努力をしながら自分自身を美しく見せようとする努力は尊敬に値することではなかろうか。私は何も冒頭に出てきた彼らのような嗜好を持つからこのようなことを言っている訳ではなく、足に関わらず美しくあろうとする姿勢全般に当てはまるように思っているからだ。少しでも美しくあろうとするその姿勢は男女問わず尊敬に値するものであるし、そのような姿勢こそが美しさに他ならないのではないだろうか。寺山修司を引用して気障に終わらせるなら、次の文を挙げておこう。
「美しい女とは、美しい女になろうとする女のことである」
これは女に関わらず男にとってもそうであろう。至言である。

蛇足
ある種の不安定さを抱える人物は、同じように不安定さを抱える人物に魅力を感じることもあるのだと云うことを私自身の狭い見聞から付け加えさせてもらおう。不安定さには不安定さ故の美しさもまた、存在するのだと。

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