マギー・ブイヨンを知っているだろうか。小さな立方体をした固形スープの素である。
あれピカソなどのキュビストたちと密接に結びつくものだと云うことを知って驚いた。
ピカソとマギー・ブイヨン。
私には、キュビスムと云えば20世紀最大の芸術革命と云われるように、前衛の最たるもの、伝統との隔絶という印象が強かった。ところが、同時代の人々にも、また、キュビスト達の間でも、伝統というものとキュビスムという芸術運動とは強い関わりがあるという考えは共有されていたらしい。
まずもってアングルやプッサンからセザンヌまで脈々と続くフランス伝統絵画の系譜というものがあって、それと前衛というものを融合させた、という意図でのキュビスムというものがあったそうだ。このことからして意外なのだが、マネも嘗ての巨匠に自らをなぞらえるように自画像を描くことによって自らの正統性を主張したこともあるとすれば、伝統と融合することによってマニフェストとしての自らの正統性を確保しようとするのはマネやクールベ以降の前衛たちにとっては珍しいことではなかったのかもしれない。だが、興味深いのは、マネが同時代の人々から変わり者と思われ、おおよそ伝統から乖離した異端者と思われていたのとは違って、キュビスト達は伝統を引き継ぐものだという印象がそれなりに受け取られながら、かつ、同時に全くの正統な継承者というほどでもなく全く異端者という印象でもない、という複雑さである。そこにはフランスの文化的伝統には二つの系譜があるということに密接に絡んでいるらしい。
グレコ・ローマンの伝統とケルト的な伝統の二つである。この両者の文化的背景の対立構造がフランスとドイツとの緊張関係によって顕著になってきたようで、キュビスムは自らをフランスの正統な伝統に融合させようとした自らの意図とはまた別に、このような巨視的な文化政治学的視点からも絡めとられるように、ケルト的な伝統との関わりを意識されるに至ったようだ。つまり、ドイツの文化的侵略の手先のように見られていた側面も確かに支配的にあったということだそうだ。
さて、このような文化政治学的背景を前提として、どのようにマギー・ブイヨンとキュビスムが結びつくのか。もちろん真っ先に思いつくのは、両者ともキューブと云う点で共通しているということだが、それだけでは駄洒落にすぎない。マギー・ブイヨンがフランスに入ってきたのもこの時期で、フランスの食文化を破壊するものだとして、これも文化的侵略と受け取られていたという背景があったらしい。それに加えて、キュビスムの綴りがフランス語ではCから始まるのに対して、ドイツ語ではKubから始まるということ、そして、このKubと云う言葉が立方体形をしていたマギー・ブイヨンのパッケージやポスターに記されていたという共通性があるらしい。いくつかのカリカチュアが存在していて、キュビスムをドイツからの文化的侵略と見る人々は、CではなくKubから始まるキュビスムの綴りを用いていたようだ。それらの事情を背景として、キュビスムの象徴としてマギー・ブイヨンが見られていた、ということだそうだ。面白い。
ピカソがある時期、アトリエの近くに沢山のマギー・ブイヨンのポスターが沢山貼られているので、これは自分に対する嫌がらせだと思い込んで、片っ端から剥がしていったというエピソードまであるそうだ。
キュビスムと同時代の前衛であるイタリア未来派からはキュビスムに対して次の様な批判がなされていたらしい。
「物体を動きのない、凍りついたものとして頑固に描き続けており、自然のあらゆる静的な側面をとらえている。彼らはプッサンやアングル、コローの伝統を崇拝し、過去に固執して、彼らの作品に古ぼけた感じを与え、石化させている。我々にすれば、まったく理解不能に見える。」
これは前衛性を競い合っていた相手側からなされていた批判なので無条件に同時代の印象とは重ならないのだろうが、それでも伝統に固執してそれを極端にしたもの、という印象は強かったようだ。
いやはや、面白い。
ピカソもマギー・ブイヨンを飲んだんだろうか。
益々キュビスム建築がみたくなった。
書籍部で本を沢山買った。
国書刊行会の本が割り引き期間だったので、
『シュヴァンクマイエルの世界』を購入。
以前シュヴァンクマイエル映画祭で買おうかどうか悩んでいた一冊だ。まあ、葉山のシュヴァンクマイエル展には行きそびれたし、安いし、いいよね、ということで買った。満足。チェコアニメーション作家がOLにお洒落なものとして以前から人気があるそうで、シュヴァンクマイエルもそのようなものとして捉えられることもあるらしい。個人的には、何か勘違いをなさtっちゃいませんか、と思う。シュヴァンクマイエルなんて大いなる変態芸術家だと思う(褒めている)。触覚の芸術を掲げて作った『悦楽共犯者』なんて最高に面白いけれども、「哀しい目明きさんたち、貴方達にはこの世界がわからないのね」とヒロインに言わしめたこれまた大いなる変態作家の江戸川乱歩の傑作『盲獣』と言ってる事は同じじゃないか。
でも、きっと、『盲獣』が面白いと語るのと、シュヴァンクマイエルが面白いと語るのは全く別種の行為だと捉えられてしまうのだろうな。前者が「中野系」だとしたら後者は「丸の内系」か。悲しいパッケージングの世の中だ。
他に買った本。
西村清和 『現代アートの哲学』
センセイ、買いましたよ。ちょっと読んでみたら面白い。この人の本三冊目だ。
マックス・ウェーバー 『プロテンタティズムの倫理と資本主義の精神』
必読書らしいからね。
嗚呼散財散財。
書籍部に、『知の構造化』のサイン本が平積みされていた。サイン本て。
以前巣鴨の本屋に行ったら、その日がえなりかずきのサイン会だったらしく、そのサイン入り著作がレジに平積みされていた。友人と二人で、「えなりかずきのサイン本なんて誰が買うねん」と哂っていた。そして、翌日また同じ本屋に寄ったら、綺麗さっぱり売り切れていた。その時私は巣鴨の底力を垣間見たように思った。
恐るべし巣鴨。おそるべしえなりかずき。
だから、ひょっとしたら小宮山先生のサインも明日には綺麗さっぱり掃けているのかもしれないね。
いらねー。