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いくつかの闇

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今の自分には、いくつかの意味で闇が足りない、と思った。

そのうちのひとつは、90分から180分くらいの間の闇で補給することがきっとできる、と思って、最近行きそびれていた映画館へと向かった。

5/29 シネマロサにて『グラントリノ』

私が信頼している何人かの映画評論家が、この作品を語ることに対してためらいを感じるということを書いていたことがよく理解できた。

つまり、この映画について論じるということは、俳優クリント・イーストウッドとは何なのか、監督クリント・イーストウッドとは何なのか、という問いに答えなければならないということにほかならないからだ。
そしてそれは多くの部分で、アメリカ映画とは、ひいてはアメリカとはという問いに対する答えと重なる。

これだけ大きな問いを解いて、説いてみせることこそが、映画評論家の役割であると知っている、つまり、良心的な映画評論家であれば、その困難さにためらいを感じるのはもっともだと思う。

この映画がすばらしいのは、そのようなクリント・イーストウッドとは何なのか、という問いに対する明確な答えを持っていなくても、十二分にすばらしさが理解できるということだ。

話の筋はシンプルだし、わかりやすい。難解な描写は何一つない。
言わんとしているところもシンプルだ。

けれども、恐ろしいほどに深みがある。

……やはり私もこの作品に対して語る言葉を持たないようだ。

少し思ったのは、今までの自分の作品の総まとめ的な作品でありながら、それをひとつの作品としてまとめているという意味で『さようなら、私の本よ』に似ているかもしれないと思ったのだけれど、
どうやら近年の大江健三郎作品に対しては、大江健三郎の政治的主張と一体として拒否反応を示されていることが多いようなので、このような比喩は多くの人には残念ながら伝わらないのだろう。

5/31 早稲田松竹にて『バットマン・ビギンズ』『ダークナイト』

『ダークナイト』
この作品をロードショーで見逃しているということの一点をとっても、少なくとも私には映画好きという資格はないと思っていたのだけれど、何とか映画館で観られてよかった。同じことは『グラントリノ』に対しても思っている。
ジョーカー!ヒースレジャーの、ジョーカー!!
あのパトカー箱乗りのシーン!!


少し闇を補給できた。
ほかのいくつかの意味で足りない闇については、自分で何とかしないといけない。

『ロルナの祈り』の感想を書いていて、やはり知らず知らずのうちに、過去の作品と比べて優れているかどうかを検討しようとしている自分に気が付いた。

もう、星幾つなんて発想は遠い昔にやめたはずなのに。


私が映画を観て、星幾つと表現しなくなった時期と、映画館に観にいきだした時期は重なる。
つまり、映画館でたくさん映画を観るうちに、この映画が星幾つかなんて、ばかばかしい決め方だと思ったからだ。


その理由は、星5つの映画が星1つの映画に比べて、単純に5倍素晴らしいといえるだけの共通の指標があるのか、ということだ。
おそらく、そんな基準は、無いか、基準として機能しないくらいの曖昧なものにすぎない。考えうるのは、こちらよりもこちらのほうが面白かった、というような。そうであれば、どの程度面白かったかを数値化するよりも、どのように面白かったかを言語化したほうがよほど有意義だと私は思う。
また、同じ星3つの映画であっても、映画を観る経験はまるで違うはずだ。
『ゴッド・ファーザー』と『スター・ウォーズ』はどちらも、オールタイムベストではともに上位に入っているけれど、この両者の映画体験が同じであるなんて暴論はないだろう。

何より、あなたの映画体験はその星の種類だけしかないのか、ということが疑問なのだ。

確かに、このように単純化した指標であらわしたいという欲求はわからなくもない。

ここで思い出したのが寺山修司の言葉だ。
原典も引用しないで問題だけれど、競馬好きの寺山修司に対して記者が、あなたの競馬は平均すると勝っていますか、負けていますか、と聞いたのに対して、寺山修司は、なぜ平均するんだ。あなたの人生は平均すると勝っていますか、負けていますか、と聞いたのだそうだ。

寺山修司が言いたかったのは、その個々が独特の体験であるはずの競馬を、経済的な勝ち負けという単純な指標で二分することの愚かさなのだろう。

しかし、これを端的にあらわした、「あなたの人生は平均すると勝っていますか、負けていますか」という問いも、現在においては、カウンターとして弱くなっているのかもしれない。

なぜなら、巷に溢れている「勝ち組」「負け組」という単純な二分法は、現に人生を平均して勝っているか負けているかを決めるものだからだ。

私は勝ち負けで物事を決めるのにどうも馴染めない。

ただし、このような単純な分類が、力をもつことは否定できない。
映画の星獲り評だってある程度盛り上がることは確かだし、勝ち負けのシンプルな二分法が、非常に強度を持つことは否定できないように思う。

けれど、私は、寺山修司のこの言葉に強くひきつけられてしまう。
それだけ、強度が弱いことなのだろう、と昔は思っていたし、勝ち負けに興味がないということは、人としての生存能力において劣っているように感じていたけれど、今は、別の強度を身につけたいものだと思うようになった。

まあ、そんな、こんな。

だから、序列化したい欲求にときにはかられつつも、今後も私は映画に星をつけることは無いだろう。

恵比寿ガーデンシネマで『ロルナの祈り』を観てきた。

公開から一ヶ月も経っていないのに、館内はガラガラだった。
大丈夫なのだろうか。

・感想
率直な感想としては、過去の『イゴールの約束』『ロゼッタ』『息子のまなざし』『ある子供』のどれもにあった、ナイフで心を削ぎ切りにされるような、ヒリヒリとした感覚が少し薄かった。

今までの4作(厳密には、それ以前にも劇映画を撮っているけれど、観られないのと、本人たちも確か失敗作だと語っていた気がするので割愛)と違うのは、近作もやはりカンヌ映画祭で賞を獲ったけれど、その賞が「脚本賞」だということが大きいのではないだろうか。

今までの4作は、一見荒々しいハンディの映像のようにみえても、とても緻密に作られているし、そこを否定する人はいないだろう。しかし、それらの作品は、脚本が優れているというものではなかったように思う。つまり、どれも筋自体は、とてもシンプルなのだ。もちろん、それは作品がシンプルであることは意味しない。そこが映画という面白さを伝えてくれるようで、この人たちの作品がすきなのだけれど。

しかし、近作では、脚本が賞を獲っているように、とてもよくできている。
冒頭から、薄皮を剥くように、偽装結婚を行っていること、また、次の偽装結婚が控えていること。などが徐々に明らかとなっていく。
もちろん、それだけならば、今までのダルデンヌ兄弟の作品だって、何ら説明的なものはなく、徐々に明かされていたのであって、近作だけ違うということにはならないだろう。
しかし、近作では、話がそう展開するのか、と驚かされるところがあるし、なんというか、特に「話の筋」に驚かされることが多かったように思う。

それが是か非かという点は、これだけでは判断できないだろう。話の筋に驚かされたから素晴らしいとか、あるいはそうでないとか、いうことは意味が無い。
それこそ、映画は複合芸術なのだから。

ただ、今までのダルデンヌ兄弟の作品とは違うということは確かなように思う。
ダルデンヌ兄弟は、まだまだ変わるというのだろうか。


そこで、映画自体を鑑賞した感想としては、前半部分は今までのダルデンヌ兄弟らしい雰囲気だったように思う。ただ、やたらと「鍵」と「箱」のイメージが目立った。

アルタ・ドブロシは自らの部屋に鍵をかけて、さらに、ベッドの枕元の引き出しにも厳重に鍵をかける。中に大したものは入ってなさそうに思えるのに。そして、ジェレミー・レニエがベッドの「中」に入ったときも、激怒する。ベッドの「上」には寝てもいいけれど、「中」はやめて、と。

ここから感じられるのは、アルタ・ドブロシとジェレミー・レニエとの関係だろう。つまり、彼らを隔てるのは鍵がかかった寝室のドアであり、引き出しの鍵であり、ベッドのシーツだったりする。アルタ・ドブロシはそこに一線をひくことによって、ジェレミー・レニエとの関係を断絶しているように思える。

それに対して、ジェレミー・レニエは、この隔てているものを取り払ってほしいと哀願する。それはアルタ・ドブロシが寝室に入ってから、何度もドア越しに呼びかける声であったり、また、アルタ・ドブロシが出かける際に、この部屋ごと鍵で閉じ込めてくれと頼む姿であったりする。つまり、ジェレミー・レニエにとっては、アルタ・ドブロシとジェレミー・レニエは、「わたしたち」なのであって、隔てているものというのは、外部と「わたしたち」を隔てている、玄関のドアと鍵に過ぎないのだ。

このすれ違いは、徐々に近づき、ジェレミー・レニエが売人から再び麻薬を買おうとする場面でついに、交わることとなる。つまり、麻薬の売人を追い出したアルタ・ドブロシは、自ら部屋に鍵をかけて、その鍵を窓から捨ててしまう。これによって、アルタ・ドブロシとジェレミー・レニエは「わたしたち」となり、世界に対して、ドアと鍵によって隔てられた存在となる。
そして、それでは足りぬとばかりに、さらに、二人を隔てる衣服をも、また、肉体の壁をも、二人は無言のまま、取り払おうとする。

そして、次の場面で、彼らは、鍵屋で合鍵を作る。もはやそれらは、ジェレミー・レニエとアルタ・ドブロシとを隔てるものではなく、二人と世界を隔てるものであるということを明らかにするように、二人はその代金を折半する。

その後の、ジェレミー・レニエが自転車で軽やかに走り、その後を笑顔で追いかけるアルタ・ドブロシの場面の素晴らしさといったらどうだろう!
この場面は予告篇でも流れていたのだけれど、この映像だけでも、素晴らしさが伝わるように思う。


さて、その後衝撃的な展開が訪れる。
以下は、この作品が脚本賞を獲っていることからもわかるように、脚本上重要な展開への言及を含んでいます。
つまり、ネタばれ注意です。


衝撃的な展開とは、余りにも渾然と姿を消されたジェレミー・レニエである。あまりにも突然のジェレミー・レニエの消失に、観客が戸惑うのと同様に、アルタ・ドブロシも戸惑っているはずなのだけれど、必死に、壁を再構築しようとする。

今までは、ファブリツィオ・ロンギオーヌたちとは「わたしたち」であったアルタ・ドブロシは、ジェレミー・レニエを殺されて、一体どのように「わたしたち」を構成するのか。

この揺れと迷いを、演じるアルタ・ドブロシは素晴らしいと思った。

結局、アルタ・ドブロシは、ファブリツィオ・ロンギオーヌと「わたしたち」を構成するのではなく、自らの罪と「わたしたち」を構成するみちを選ぶ。

つまり、彼女にとってジェレミー・レニエを救えなかったという罪が、形を変えて現れた、彼女の内部にやどったものと。
ここでアルタ・ドブロシとその子との「わたしたち」の関係は、今まで、世界対「わたしたち」という関係ではなく、世界対アルタ・ドブロシ、そしてその「内部」に子供がいる、と言う関係にある。

ここで、アルタ・ドブロシは、外部と彼女の子供とを隔てる、鍵または壁になろうとしたということなのだろう。
それを示すように、アルタ・ドブロシは逃亡中に、山小屋を見つけ、必死に鍵を閉め、子供を守るように、丸まって眠る。

さて、アルタ・ドブロシが逃げる場面で、「わたしたちを殺そうとしているのよ」とか「もっと遠くに」とか説明するのが非常に違和感があった。
なぜなら、ダルデンヌ兄弟は、すべてを映像で表しているのであって、今まで説明的な台詞なんて、一つもなかったからだ。
この台詞は結局、ファブリツィオ・ロンギオーヌたちがアルタ・ドブロシを殺そうとしているという説明をするための台詞なのではなく、アルタ・ドブロシが、その子供と二人でいる、ということを示すための台詞なのだろう。つまり、会話をさせることによって、彼女の内部にもう一人、「わたしたち」がいると示す台詞なのだと思う。

それにしても、今までのダルデンヌ兄弟の作風と異なることは確かなように思う。

今思えば、『ある子供』から、少し異なった傾向はあったのかもしれない。
50歳を超えて期待させてくれるなんて。


さて、この作品が今までのダルデンヌ兄弟の作品よりも素晴らしいかどうか。それに対しては判断に戸惑ってしまう。

つまり、今までの作品のような、ナイフで心を削ぎ切りにされるような感覚は無いけれど、それでも、やはり演出は緻密だし、脚本の面白さという点も加わっている。そして何より、エンディングで音楽が流れた!!

私は、少なくともこの作品を観ることができて、その独特の美しさを鑑賞できて、素晴らしかったと思う。それにとどめておこう。

ちなみに、この作品の原題は、"Le silence de Lorna"だ。silenceであって、祈りではない。
確かに、silenceを沈黙と訳してしまうと、ロルナが懸命に「わたしたち」を構成しようとする能動的な動きの印象をうまくとらえきれない。ロルナの、何だろう。静けさのようでありながら、弱さを含んでいつつも結構強いもの。案外、祈りという訳は適切だったのかもしれない。

恵比寿ガーデンシネマで『トウキョウソナタ』を観てぶっとんだ。

もう、何を書けばいいのかわからないくらいの傑作だった。

公開から結構経っているのに、満員の劇場内が、上映終了後明るくなってからもしばらくは、立ち上がれなかった。
ようやく劇場を出て私は、
―なんだよ、なんなんだこの作品は、すばらしいにもほどがあるってもんだろ
とつぶやいた。

少し火照った顔に、寒いぐらいの夜風が心地よかった。

もうすぐ公開が終わってしまうけれど、あなたに120分の時間があるなら、この作品を観るということは最善のすごし方のひとつだと断言しても良い。

ブログを書く。将来の自分のために。したがって、内容は観た映画のことになる。

『マイ・ブルーベリー・ナイツ』
この作品が傑作じゃないこともわかるけれど、やっぱり私は好きだ。
『恋する惑星』のアメリカ版、といった感じだけれど、クリストファー・ドイルかそうじゃないか、というのはやっぱり大きいのだと思う。
ただ、それがかえって、軽やかな、そう、たとえばブルーベリー・パイのような気安さがあっていい。
監督自身も、インタビューで、以下のように語っている。

「今朝、記者から“あなたにとって映画とはなにか?”という質問を受けました。いろいろな形で映画を語る方法があるので、とても複雑な問いです。でも、今夜はこんな答えをさせてください。映画とは“人生におけるデザートのようなもの”。映画は現実をベースにしているけども、ときに人生よりも大きなものをはらんでいます。この映画がみなさんにとってバレンタインの夜のデザートになればと思っています」
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20080218/1007199/?P=4

この、デザートのような映画。私はとても好きだ。
たとえば、
パイにミルクが流れる映像の甘いエロさ
いかにもウォン・カーウェイ作品っぽいミューズになっているレイチェル・ワイズと彼女の衣装。
「鍵」をめぐる台詞
ノラ・ジョーンズの唇の生クリームを見つめるカメラのエロさ。
そして何より、ラストのキスの美しさと温かさ。

確かにそれらは、デザートのようで、幸福な後味をひくものだった。
そういえば、TVドラマ『王様のレストラン』で、最後に食べるデザートがだめならばそれ以前のすべての料理が台無しになってしまう、っていう台詞があったような気がする。
少し解るな。

久々の感想だと、うまくかけないようなきがする。
いつだってうまくかけたようなことはないけれど。

そこで、もう高校生から常に身近にあって、折に触れて手に取っている唯一の詩集から、私がウォン・カーウェイを好きなのと、感覚的に同じ部位で好きな詩を引用しておこうと思う。
その詩集は、岩波文庫の萩原朔太郎詩集で、その詩は「夢」(『青猫』)

 夢

あかるい屏風のかげにすわつて
あなたのしづかな寢息をきく。
香爐のかなしいけむりのやうに
そこはかとたちまよふ
女性のやさしい匂ひをかんずる。
かみの毛ながきあなたのそばに
睡魔のしぜんな言葉をきく
あなたはふかい眠りにおち
わたしはあなたの夢をかんがふ
このふしぎなる情緒
影なきふかい想ひはどこへ行くのか。

薄暮のほの白いうれひのやうに
はるかに幽かな湖水をながめ
はるばるさみしい麓をたどつて
見しらぬ遠見の山の峠に
あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。

ああ なににあこがれもとめて
あなたはいづこへ行かうとするか
いづこへ いづこへ 行かうとするか
あなたの感傷は夢魔に饐えて
白菊の花のくさつたやうに
ほのかに神祕なにほひをたたふ。
         (とりとめもない夢の氣分とその抒情)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/card1768.html エロいなあ、トニー・レオンしか浮かんでこない。

ジャズ大名

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やっと念願の『ジャズ大名』を観た。

おもしれー。
なにせ、すべてベタな描写が続くので、冒頭の黒人奴隷が日本に着くまでは少し気恥ずかしい感じもあったけれど、日本に舞台が移ってからはもう。
ひたすらに大名をはじめ城の中でジャムセッションが繰り広げられるというだけ。

それが実にいい。
古谷一行の着流しの殿様もかっこいいし、財津一郎のいよーっ!という掛け声もいいし、監督の娘の岡本真実が実に良かった。
特に岡本真実は決して美人ではないけれど、つっこみが実に面白くて、魅力的なキャラクターだった。
同じく監督の娘が重要な役を演じている『ゴッド・ファーザー3』のソフィア・コッポラとは雲泥の差だ。

何よりすごいと思うのは、62歳でこんな作品を撮れる岡本喜八はやっぱりすごいなあ。
ふつう62歳の監督が、大名がジャズする話を映画化しようと思うかね。
すごいなあ。

岡本喜八作品は単純にわーっと楽しんでしまうので、普通の感想しかかけない。

先日、ある人と『暴力脱獄』(何度でも思うが、この邦題は作品への冒涜だ!)の話をした。

その人は一見して"Cool hand Luke"がキリストをモチーフに描かれていることに気づいたらしいけれど、実は私は初見では気がつかなかった。

そこで、改めてDVDを借りて見直したら、あまりにもキリストのモチーフの描き方が明らかであったので、私は一体何を観ていたのだろう、と恥じた。

映画の前知識がなくっても、本数を観ていなくても、感性で映画に触れることができる人がいるのだと思う。
そういう人は映画に限らず、いろいろとバランスよく出会いを果たしていて、結局のところ、「感性が豊か」ということなのだろうなあ、と感心した。

何度目かの"Cool Hand Luke"(もう邦題は言うまい)、はやっぱり感動的で、その人の言葉を借りれば、やっぱり、「あの笑顔はずるい」ほどかっこよかった。

邦題が納得がいかないけれど、レンタルビデオ店でのこの作品の扱われ方も意味がわからなかった。随分と探してもなかったこの作品があったのは、なんと、「アクション」の分類。
脱獄するのに全く暴力を使っていないこの作品の邦題が暴力脱獄で、なぜ分類がアクションなんだ。
ショーシャンクはヒューマンとかドラマ、とかなのに?

そもそも意味がわからないレンタルビデオ店の分類に文句を言っても仕方ないけれど、大好きなこの作品が冷遇されているみたいで、少し悔しい。

『めがね』の口直しに借りていた『県警対組織暴力』をみた。

わなわなとふるえるほどに傑作。
wikipediaによれば、深作欣二が笠原和夫のシナリオが完璧すぎて撮りようがない、と言ったらしい。
それも頷ける。

菅原文太は悪徳警官だし、松方弘樹は狂犬やくざなのだけれども、かっこいい。成田三樹夫もやくざだし、梅宮辰夫もキャリア警官なのだけれども、あまりかっこよくない。
結局立ち位置によってキャラクターが決まっているのではなくて、彼らの価値観がぶれていないかどうかがかっこいいかそうでないかを分けているのだろう。
正義が相対的なものだというような価値観が仁義なき戦いの根底にも流れていたようだけれど、この作品においては特にそれが顕著だ。では、正義が相対的なものだとしたら、その時々にとるべき正義を変えていてもよいかといえば、そうではなくて、自分の価値観を貫き通したかどうかが、菅原文太と梅宮辰夫、松方弘樹と成田三樹夫の明暗を分けている。どちらが明でどちらが暗なのかは人によるだろうけれど。
梅宮辰夫の「朝の体操」があんなに間抜けで脱力感に満ちているのは、今まで明でも暗でもなくて、価値観がぶれているのかどうか曖昧だった彼が、菅原文太とは別の側の人間だと判明するからだろう。

すべての場面が名場面、すべての台詞が名台詞、と言ってもいいような密度。
有名な川谷拓三の取調べのシーンは壮絶で、実際に暴行しているとしか思えない(実際に打撲で発熱したらしい)。全篇にみなぎるテンションの高さ、名優たちの鍔迫り合いの迫力。
またダンヒルのライターだとか、茶漬けのエピソードだとか、ディテールもまた上手い。

たまらない傑作だった。

『かもめ食堂』がちょっとひっかかった作品だったので、目黒シネマの荻上直子の二本立てに行ってきた。
作品は『バーバー吉野』と『めがね』

『かもめ食堂』がひっかかったというのは、所謂「スローフード」的なライフスタイルを描いたというだけではないようなひっかかり、悪意とまで言うといいすぎではあるけれど、なにか鋭いものが一枚下にあるように感じてしまったのだ。
そしてまた、ひょっとしたら、この監督は、わざとこのひっかかりを残しているのではないだろうか、だとしたらすごく意地が悪くて好みだけれど、それは私の穿った見方なのだろうか、と気になっていた。
小林聡美がプールで泳いでいて周りから拍手を受ける場面はおそらく、こういった含みをなく「良い」場面として描かれているのだろうというのはわかったけれど(私はこのシーンが何かとても怖かった)、メインの三人は結局交わることはなく、どこか突き放したような関係のように私には見えてしまったのだ。

そういう気がかりがあって、単純に「ソトコト」が好きそうな人たちが好きそうな監督、というだけの印象ではなくて、ひょっとしたらこの人、オゾンみたいな意地悪さがあるんじゃないか、みたいな期待というか、疑惑というか、そういうものが個人的にはあった。

そういう経緯で観た一本目が『バーバー吉野』
丸坊主ではなく、「吉野ガリ」というビジュアルにしたのは面白いと思うし、長篇デビューとは思えない独自のスタイルも見えるように思う。
けれど、なんだか、普通、という印象をぬぐえない。
確かに、「男子」たちの動きは生き生きとして見えるけれど、予想の範囲内でしかなく、(写真と比較するのはおかしいのかもしれないけれど)梅佳代の『男子』ほどの突き抜けた感もない。
それでもほほえましい様に仕上がってはいるけれど、都会から来た転校生に触発されて、少年たちが反抗して、伝統が少し変わる。
そういういたって当然の展開のみで、少し面白みに欠けるように思った。
もたいまさこは母親というよりは父親的役割もになっていて、少年は「父殺し」ならぬ「もたいまさこ殺し」という困難を背負うことになるのだけれど、このもたいまさこが単純に伝統に固執しているだけでしかなくて、正当性が感じられないから、結局少年のワンサイドゲームになるのはやむをえないという結果になっているようにも思えた。
悪くないし、端麗にしあがっているけれど、どこか面白みに欠けるなあ、という印象だった。

『めがね』
なんだこれは、気持ち悪い、というか、怖い。というのが第一印象だった。
冒頭で光石研が「ここに居る才能がありますよ」と小林聡美に言うのだけれど、この台詞がこの作品を物語っていると言える。
つまり、この場所に居るのには資格が必要で、その資格がある我々は素晴らしいという、「上から目線」が常にあるように感じて、安らぎや休暇という印象とは程遠い不愉快さしか私は受けなかった。
さらに、「黄昏る」才能とか、「黄昏る」ことが得意とか、そういう言い回しが頻繁に現れるけれど、これも一々ひっかかった。
「黄昏ている」というのはあくまで第三者から観た状態に過ぎなくて、「黄昏る」ことが得意と言うには、常に第三者の目を意識して「ああ、私は今黄昏ている」と思っていなければならないのではないか。そんな自意識が全面に押し出された面倒くささを私は感じて、端的に言って鼻についた。
そもそも、「黄昏」が一番得意とされているのがもたいまさこなのだけれど、「黄昏」が一番得意な人というのは、毎朝他人の枕元で、他人がおきるまで正座して待ち続けるような性格と矛盾しないものなのだろうか。
他にも、もたいまさこが喪黒福造に見えてしょうがなかったりとか、加瀬亮がわざわざドイツ語で詠む詩が、単にドイツ語で何かしゃべっている以上に意味を持たない演出であることが腹が立ったりとか、いろいろと気になることはあった。
ただ、やっぱり映像は綺麗だし、小林聡美が編む赤いマフラーの素材感は美しかったし、食事は相変わらずシズル感溢れている。
それだけに胡散臭く見えてしまったのは、結局薬師丸ひろ子の宿と光石研の宿は、小汚いキャベツと鍬が見えるか見えないかの違いでしかなくて、その裏には「選ばれた我々」という意識が感じられたからかもしれない。

では、結局『かもめ食堂』で感じたひっかかりは私の穿った見方だったのか否か。
『めがね』をわざとその胡散臭さを全面に押し出しているとしたら、一見「スローフード」的ライフスタイル礼賛のように見えて、それを痛烈に皮肉っている作品ということになるけれど、『かもめ食堂』の成功の二匹目のどぜうを狙ったであろうこの作品としては、そのような作品の捉え方はやはり穿った見方ということになるだろう。
けっきょく『かもめ食堂』も、そこまで意図された演出ではなかったということだろう。

ただ、言えることは『かもめ食堂』はそのひっかかりが混入している度合いが絶妙だったために、妙に印象に残ったけれど、『めがね』の胡散臭さは全面に出ているから、単なる不愉快な作品としてしか私には感じられなかった。

この二本を観て帰って知ったニュースでは、『めがね』がベルリン国際映画祭でマンフレート・ザルツゲーバー賞を受賞したのだそうだ。この賞がどういう作品に贈られるものかはわからないけれど、映像のみの評価ならわかるけれど(それだけを切り離して賞を贈ることは理解できないけれど)、作品に対する評価だったら、理解不能だなあと思った。

チョコレートが好きだ、と今の時期言うのは、時節柄不穏当な表現なのかもしれない。
昔見たテレビで、及川 光博が「もてるということと、愛し愛されることとは全く別のこと」と言っていて、なるほど、と思ったけれど、この表現にのっとって言えば、私はもてるということに全く興味がないので、よく語られるチョコレートに対する複雑なルサンチマンのような思いは全くない。

だから、ある種のメタメッセージを含まないで、チョコレートが好きだ、ということを言ってみたというだけである。

大体、チョコレートを好きな男性というのは結構多いのではないかと思う。
特に、洋酒が好きな人はチョコレートも好きなのではないだろうか。

ウィスキーによく合うつまみといえばチョコレートが真っ先に浮かぶし、ラムやブランデーの入ったチョコレート菓子もとても美味しい。

さらに、珈琲とチョコレートの相性のよさは尋常じゃないし、それはワインとチーズや緑茶と和菓子の相性のよさに匹敵するものだと思うし、たとえるなら、「 サイモンとガーファンクルのデュエット ウッチャンに対するナンチャン 高森朝雄の原作に対するちばてつやの『あしたのジョー』」って感じだ。

さらに、思うのだけれど、甘さを減らしても魅力が減らないというのも特徴のひとつのような気がする。
もちろん、100パーセントカカオのあの苦いチョコレートが美味しいかといえば、美味しくはないけれど、甘みが少ないチョコレートは、とても甘いチョコレートとでまた違った魅力があるように思う。
たとえばクッキーだとか、生クリームだとかで、砂糖が控えめなものがあって「意外と甘くなくて美味しい」なんて表現が時おりあるけれど、なんというか、それは結局甘さという同じ数直線上の表現であるのに対して、チョコレートはちょっと違うような気がするのだけれど、別段菓子に詳しいわけではないので、単なる贔屓目なのかもしれない。

ともあれ、私はチョコレートが好きで、ショコラティエの作ったチョコレートなんかもいろいろと食べてみたいと思うのだけれど、一番チョコレートが盛り上がるのが、この時期だというのがジレンマだ。いたるところで開かれているチョコレート販売に行ってみたくもあるのだけれど、なかなかあういう場所は男性が行ける場所ではない。

ホワイトデーもチョコレートを贈るという風習にしてくれていたら、抵抗なく自分のためにチョコレートを買えるのになあ、ということを思ったりした。

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