That Man should Labour & sorrow, & learn & forget, & returnTo the dark valley whence he came,
人間は労役しなければならず、悲しまねばならず、そして習わねばならず、忘れねばならず、そして帰ってゆかなければならぬ
そこからやって来たくらい谷へと、
これは、大江健三郎の『新しい人よ目覚めよ』で引用されている、ウィリアム・ブレイクの詩の一節だ。
もうひとつ、大江健三郎の引用の引用。
『水死』で引用されている、エリオットの一節。
These fragments I have shored against my ruinsこんな切れっぱしでわたしはわたしの崩壊を支えてきた
私にも、私の崩壊を支えてきた/支えている切れっぱしがいくつかあって、それを一つの切れっぱしにまとめようとしたのだけれど、今日は少し体力と気力が足りない。
明日こそは。
投稿者 huggy : 23:59 | archives | comment (0) | trackback (0)
大江健三郎の新刊『水死』刊行にともなって行われた、丸善でのサイン会に行って来た。
『水死』を購入したのは1ヶ月以上前だけれど、未だ1頁も読んでいない。
今はまとまった時間がとれないので、読み始めるのはまだ数ヵ月後になるだろう。
私が購入したときの記憶では、確か整理券が100枚くらい配布されたはずなので、行列もそれぐらいだったのだろう。
行列を見てみると、20代と思しき人は、5人から10人程度だっただろうか。
サイン会に来るほど、熱心に大江健三郎を読む他の20代の人は、何を考えているのか、少し気にはなった。
大江健三郎は、書店の一角に設置された机の前に座り、太めの万年筆で丁寧にサインをしていた。
整理券に記された購入者の氏名を確認するようにゆっくりと楷書で書き、その後に自分の名前を書いて判子を押した。
その間ずっと俯き、書き終わるとちらりと購入者を見て、礼を述べていた。
見慣れた自分のフルネームが、大江健三郎の手によって、少し時間をかけて書かれるというのを見るのは、何だかとても不思議な感じがした。
私の苗字は少し紛らわしい漢字があるのだけれど、質問して確かめることもなく、正しい文字が丁寧に書かれていた。
大江健三郎が記したサインには、とても見覚えがあって、ああ、そういえば大江健三郎のサインは、こういう筆跡だった。と思って、それはどこで見たのだろう、と思ってしばらく考えて思い出した。
それは、自宅の書棚にある、『青年の汚名』の背表紙が、自筆を印刷したものだったからだ。
『青年の汚名』自体は一度読んだのみだったけれど、少し手に入れるのに手間取った作品だったので、印象に残っていたのか、もしくは、書棚の中で、手書き文字が珍しかったので、印象に残っていたのか。
長い列を少しづつ消化してい間、大江健三郎はほぼずっと俯いて書いていた。書き終わってちらりと相手を見て礼を言うときを除いて。
その様子は、何かに耐えているような感じがした。
おそらく、あまり得意ではないのだろうな、と思ったのだけれど、それでも、しかたなくいやいややっているという傲慢さは微塵も感じられない、なんだか不思議な雰囲気だった。
他の多くの人同様、握手をしてもらったが、意外に力強い握手だった。
投稿者 huggy : 20:16 | archives | comment (0) | trackback (0)
今日東京に少し雪が降った。
それを見て、雪に似合う音楽はなんだろうと考えたとmixiに書いている人がいた。
私はそのとき、昼食のベーグルを買いに出ていたところで、押しよせるさまざまのものを締め出そうとして、ipodでTMGEのアルバム"ロデオ・タンデム・ビート・スペクター"を聴いていた。trackは多分、"ターキー"だったと思う。
この曲はとても好きだけれど、雪に似合う曲というわけではない。
そこで今、ふと雪に似合う曲って何だろう、と少し考えた。
まず頭に浮かんだのは、ジャズピアノだった。なんとなく、雪のイメージとジャズピアノがつながったというだけで。
最初に浮かんだピアニストは、Bill Evansで、なんとなく"Green Dolphine Street"ぽいか、とも思ったのだけれど、あまりしっくりこない。
この動画はMiles Davisの"1958 Miles"に収録の"On Green Dolphin Street"だけれど、雪に似合うといえば、むしろBill Evans の"Green Dolphin Street"に収録の曲の方だと思う。
ただ、この曲が雪に似合うとしたら、今日のような、雪と雨の間のような雪ではなくて、もっと軽やかな雪のような。そんな気がする。少し楽しげで。
この曲もちょっと違うな、と思って、同じBill Evansなら、Miles Davisの"Kind of Blue"に収録の"Blue in Green"が思い浮かんだ。
これも、ちょっとクールすぎるような気がする。
かといって、Keith Jarrettは叙情的過ぎるような気がするし。
なんとなく、今の気分に合うのは、端整なBill Evansのピアノよりも、少し病んだ感じのするBrad Mehldauの方かもしれない。
Brad Mehldauのどの曲、と思っても、絞りきれない。アルバムだと"Live in Tokyo"の雰囲気かなとも思う。
http://www.bradmehldau.com/media/index.html
なかなか雪に似合う曲というのは難しい。
ただ、雪を歌った曲なら、とても好きな曲がある。
Sionの"雪かもな"だ。
こんな冷え込む夜には、熱い珈琲にラムを少し。
ではまた。
投稿者 huggy : 01:40 | archives | comment (0) | trackback (0)
2ヶ月で体重が10kg以上減った。
自宅に体重計がないので、どこからどこまで減ったかとか、体脂肪率とかは解らないのだけれど、最近計ったところによると、少なくとも10kgは減ったようだ。
私は今までの人生のうちに、食餌制限による減量というものをただの一度もしたことがなくて、今回初だったのだけれど、拍子抜けするほど簡単に減るもので、驚いた。もともとの母数が大きいから、減った数も大きいということもあるのだろうけれど。
そこで、少し思うところがあったので、書き留めておこう。
そもそも、なぜ減量しようかと思ったかというと、精神的な理由が大きい。それはつまり、なぜ体重が増えたかということにつながる。
私の体重が増えたのは、端的にストレスがたまると、とにかく食べる量が増えるためだろう。そして、さらに悪いことに、私は自分で料理をするということがストレス解消にもなっている。そのために、ストレスがたまると、自分で料理を作り、そのストレスが強いほど、手の込んだ料理をしたりする。そして、出来上がった大量のそれを自分独りで食べる。
檀一雄が何かで書いていた場面でとても印象に残っている1シーンがある。それは、主人公が、キッチンつきの安宿に長期滞在していて、鬱々としている時期に、大量の材料を買い込んで、料理を作る(確かビーフシチューだったか)という場面だ。しかし彼は、作って少し食べるか食べないかでそのまま放置してしまい、食材も片付けないまま、鬱々とし続ける。やがて腐っていく料理と、蟲が這い出し始める食材の山。
このシーンが、エッセイだったか私小説だったか忘れたのだけれど、とにかく作者の檀一雄を強く連想させるものであることは確かだったと思う。実際、檀一雄はとても料理が上手で、小さい頃から自分の食べるものは自分で作る習慣というものがあったらしい。
本来、生命力の現れであるはずの、料理を作るという行為が、逆説的に陰鬱な表現となっているこの場面は、とても印象的だ。檀一雄自身が、太宰治と自分との違いは、肉体の頑強さにあるといっていたことを思い出す。そしてその頑強さは、頑強であることの皮肉さというものを書いていたように思う。
ともあれ、私自身檀一雄のように、大掛かりな料理はしないし、このような切実さで煮込み料理は作らないけれど、ストレス解消のために作っていたことは確かだ。そして、檀一雄とちがって、それを無理して自分で食べるということが多かった。
まあ、そんなことをしていれば、体調を崩すことは明らかで、元来強くない胃は荒れ、口角炎が絶えない時期もあった。
今思うと、あれだけ無茶な食生活をしていて、体重があの程度で収まっていたこと自体ちょっとおかしい。基礎代謝が多少高かったということと、消化がうまくいっていなかったということから、ある限度にとどまっていたのだろう。
そんなこんなで、体調を崩したこともあって、精神的にも良くないのだから、少し食事のあり方を変えようと思い立ったのである。厳密に言えば、食餌方法の異常は結果であって原因ではないのだけれど、これがさらに原因になるスパイラルだけは避けられるということだけれど。それが10月末くらい。
もともと料理自体は自分でしているのだから、作る量と食べる量、そして材料と調理法を変えればよかった。
具体的には、野菜メインにすること、そして、なるべく少なめの量を作ること。
レシピはマクロビ系のレシピサイトなどを参考にした。外食を除いては、ほぼ野菜ばかり食べていた。
調理法では、油を少なめにするように、煮物にするとかだろうか。
幸い、私は好き嫌いがなく、野菜も好きなので、特に苦ではなかった。
さらに、季節柄、南瓜や蓮根、白菜も美味しい時期で、これらの野菜ばかり食べていたように思う。
食事の方法としては、なるべく3食きちんと食べるということ。そして、間食をしないということ、胃で未消化のまま眠らないということ、くらいだろうか。
水もたくさん飲むようになったけれど、それはもともと多く飲んでいたから、あまり変化はなかったかもしれない。
そんなことをしていたら、体重は簡単に落ちた。
以上が体重を減らすまでの経緯だ。
そして、この過程で興味深かったのは、自分にとって、食生活で欠かせないものと、特に無くても大丈夫なものとの区別がついたということだ。
まず、欠かせないものは、珈琲とチョコレート。
珈琲は絶対に欠かせなかった。間食が減った分だけ、珈琲を飲む量が増えた。珈琲を飲むと、空腹感が収まるように思う。今後の人生においても、珈琲は不可欠だろう。
そしてチョコレート。珈琲にチョコレートは最高のマリアージュだと思う。とはいっても、できるだけ間食をしないようにしていたので、チョコレートを食べるのもかなり減った。
以前はチョコレートは部屋に欠かさずストックがあったのだけれど、それをやめた。ストックをしたとしても、ダークチョコレート、カカオが70パーセントくらいのものに代えた。そして、それを珈琲とともに一欠けら食べるようにした。
ダークチョコレートも90パーセントカカオとかだと、苦すぎるけれど、70パーセントくらいのものは、案外美味しい。珈琲にもよく合う。
それでも、やはり甘いチョコレートも恋しくなる。そんなときには、高級チョコレートといわれる部類のチョコレートを少しだけデパ地下などで購入し、食べていた。
デメルもヴィタメールも美味しいし、オリオール・バラゲが大好きだ。
これがまあ、美味い。たまに食べるから余計に美味いということもあるのだろうけれど。
チョコレートの美味さは実際、官能的ですらあると思う。
もしチョコレートがダイヤモンド並に希少であったら、それを巡って殺し合いが起こるだろうと言った作家が誰だったか忘れたけれど、実際その通りだと思う。
脳も溶ける。
私の場合はチョコレートに顕著だったのだけれど、『刑務所の中』であれほど甘いものが渇望されていたのが、少し解った気がする。
実際、間食をやめて、甘いものを一切食べていないと、むしょうに甘いものが食べたくなる。『刑務所の中』でアルフォーとコーラがあれだけ美味しいものとして描かれていたのがとてもよくわかった。
酒は飲まなくても我慢はできるけれど、甘いものは切実に駄目なのだろうな。
まあ、そんな具合。
次に、以外に大丈夫だったものは、酒だろうか。2ヶ月間まったく酒を飲まなかった。2ヶ月全くチョコレートを食べないということはおそらく耐えられないけれど、酒は大丈夫だったというのが、自分としては意外だった。
まあ、最近はすでに飲んでいるし、その際にやはり酒は美味いと感じたので、これからも飲むだろうけれど。
以前のように痛飲することはもうやめようかと思っている。
美味しく感じられる限度にしようか。といっても、ワインだと2本ぐらい美味しく飲めるのだけれど…。
あとは、スナック菓子だろうか。確かに時折ポテトチップスが食べたくなったりはするけれど、それほど強い欲求でもなかった。
以上が食べなくても大丈夫だったものと、大丈夫でなかった不可欠なものだ。
随分と長くなった。
あと、体型の変化と美醜の問題について書こうと思ったのだけれど、これはまた次に書こうか。
投稿者 huggy : 23:19 | archives | comment (0) | trackback (0)
朝、随分と遅くなった日の出がようやく見え始めた頃、重くなりがちな足どりを少しでも軽くするために、私は音楽を聴く。
こんな朝に聴くのは、最近ずっとTMGEだ。
Thee Michelle Gun Elephant。
私がきちんとTMGEを聴いたのは、とてもとても愚かなことに、アベフトシ逝去のニュースが流れてからだった。
ラジオから流れてきた曲がものすごく格好よくて、その曲がスモーキンビリーというTMGEの曲であるということ、そして、そのバンドはもう聴けないことを知った。
『This is it』への熱狂や、忌野清志郎への追悼ムードへ感じる複雑な感じが、そのまま反射した形での後ろめたさを感じながら、TMGEを聴いている。
この朝に聴いていたアルバムは"SABRINA HEAVEN"。
その中の"メタリック"という曲を聴いていて、「詩情」ということについて考えた。
きっかけとなったのは、同曲のこの一節。
人を愛したときにはさ
人種とか国籍とか
性別とかそんなことは
ポテトチップスぐらいなもの
(Thee Michelle Gun Elephant "メタリック")
なんというか、歌詞だけだとこの曲自体から受ける印象とは随分と異なるのだけれど、それはおくとして。
この「ポテトチップスぐらいなもの」というのでしか表せないものこそが、詩情なんだろうな、と感じたのだ。
どういうことかというと、「ポテトチップスぐらいなもの」という表現を聞くと、つい「どういう意味で?」と問いたくなる。
「人種とか国籍とか性別とか」にはある性質があって、そして「ポテトチップス」にもある性質があって、その両者の性質が重なり合っていて、かつその両者においてその性質が重要な意味をもつ、という意味において、「ぐらいなもの」という表現を使っている、とか。
それは間違いではない、おそらく。
論理的といわれる思考はそのようになされるのだろう。
しかし、この部分の歌詞にはそのような思考方法では決してたどり着けないものがある。
ポテトチップスのように軽いとか、ジャンクなものだとか、何より簡単に割れてしまうこととか、そういう言葉を幾ら重ねても、決してたどり着けない余剰がこの表現にはあるように思うのだ。
つまり、「ポテトチップスぐらいなもの」という表現でしか表せないもの。
それは「つまりはこの重さなんだな。」(梶井基次郎『檸檬』)としか表現できないものであったり、「あぢさゐの花」(萩原朔太郎『こころ』)としか表現できないものであったりするのだろう。
比喩という表現がもつ豊かさとして当然のことなのだろうけれど、つい、「そのココロは?」と問うてしまう。その傾向にはある種の乏しさがあることには自覚的でありたいと、そう思った。
そんな、こんな。
投稿者 huggy : 23:35 | archives | comment (0) | trackback (0)
